舞台装置は闇の中

羽上帆樽

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第10章 陽

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 テストは三日間続いたが、結局、月夜は一日目の一時限目を受けただけで、そのほかはすべて欠席してしまった。してしまった、とそれが悪いように語るのは、事実として、彼女が意図的に欠席したからだ。けれど、それは、自分にとっての利益を最優先に考えた結果だから、彼女には特に悪びれるような気持ちはなかったし、どちらかというと、清々している、といった方が近かった。価値は自分で作るものだから、その考えは間違っていない。そもそも、テストなんて、する必要はまったくない、と月夜は思う。教科が違っても、やっていることは変わらない。それは、テストだけでなく、あらゆることに共通していえる。小説も、映画も、演劇も、話の内容が違っても、抽象化してしまえば、言っていることに違いはない。どれも、人間の愛について、長々と語っているだけだ。そう考えると、あまり面白いものではない。それでも、どうしてか、創作物には、また違うものを観たい、と思わせる力がある。きっと、人間の動物的な本能に理由があるのだろう。快楽からは逃れられない、ということだ。

 真昼も、テストの三日間をすべて欠席して、次の週から学校に来たから、月夜とやっていることは変わらなかった。理由があろうと、なかろうと、二人の行動に違いはない。人間は、出力された形を見て判断をするから、結局のところ、心や気持ちがどのようなものであっても、それは他者にとっては関係がない。いずれにせよ、二人が学校を休んだ事実は変わらないから、もう、これ以上考えても仕方がないだろう、というのが、真昼と月夜の共通認識だった。

 そして、そんなことは、月夜にとってどうでも良かった。

 もっと考えなくてはならないことがある。

 時間は有限だから、少しでも、それを有効に使いたい。

 だから、月夜は、その日、朝六時に起きて、真昼の家を訪れた。

 土曜日だった。

 彼がこの街から去る日だ。

 玄関から彼の家の中を覗くと、あちこちに段ボール箱が積まれているのが分かった。家具の類は、もう引っ越し先に移動させてあるようで、あとは、これらの箱をトラックに乗せて、運ぶだけで良い。準備はほとんど終わっていて、真昼は、暇だ、と話していた。けれど、家の中にいても、何もできないから、二人で少し出かけることにした。別に、引っ越すといっても、業者にすべて頼むのだから、彼がすることは何もない。両親も今日は家にいて、業者の作業を多少手伝うようだった。

 月夜と真昼は、歩いて、いつか来たことがある広場にやって来た。学校とは反対側にあるから、一時間以上歩くことになったが、冬の早朝は空気が澄んでいて、歩くのはそれほど苦痛ではなかった。

 二人は噴水の淵に腰をかけた。

「いやあ、なかなか、散歩も素晴らしいね」真昼が話す。「息が凍りそうだけど、雪女になったみたいで、愉快だなあ」

「君は、女ではない」

「じゃあ、雪男かな。でも、そうすると、意味が変わってしまうね」

「うん」

「雪女、というニュアンスを含みながら、男にするには、どうしたらいいかな?」

「どう、というのは、どういう意味?」

「言葉を変えて、僕にぴったりな表現にしてほしい、ということ」

「雪真昼」

「それ、冗談のつもり?」真昼は笑った。「そんなの、幼稚園児でも思いつくよ」

「幼稚園児を、馬鹿にしてはいけない」

「別に、馬鹿にしているわけではないけどさ、なんていうのか、ちょっと、単純すぎるよ。雪真昼って……。ただ単に、雪が降っている日中、みたいじゃないか。雪月夜、なら、まだ少し風情があると思うけど、雪真昼はね、ちょっと……」

「もう、新しい家には、慣れた?」月夜は別の話をする。

「うん、まあね、慣れてはいないけど」

「慣れていないのに、まあね、と言うのは、どうして?」

「言葉の綾」

「綾、とは?」

「さあ、なんだろう……。僕は、ほとんど、辞書で言葉を調べないから、知らないね。自分勝手なイメージに従って、言葉を使っているんだ。凄いだろう? こんなこと、できる人なんて、なかなかいないものだよ」

「そんな、人材を失ってしまうのは、痛い」

「そう?」

「うん、そう」

 沈黙。

 なんだか、急にシリアスな感じになったから、真昼は慌てた。

 たぶん、月夜は、シリアスな雰囲気にしてやろう、と思って、そんなことを言ったのではない。というよりも、彼女が何を言っても、そのほとんどが、どうしてもシリアスに聞こえてしまう。それは、月夜がそういった容姿をしているからだ。視線は冷徹で、口数も少ないから、彼女の一つ一つの言動が重みを増す。

 背後で水が流れる音がする。噴水の水は、いつまで巡回しているのだろう、と真昼は考えた。自分が、次に月夜に会うときまで、同じ水が流れているのか、それとも、あるタイミングで入れ替わるのか……。

「ねえ、月夜。一つ、約束してほしいことがあるんだけど」

 月夜が黙っていると、真昼が唐突に言った。

「うん。何?」

「僕が、君の傍にいない間、君に日記を書いてほしいんだ」

「傍にいない間、ということは、暫くしたら、帰ってくるの?」

「そう、三年で帰ってくる」

 月夜は、その情報は知らなかった。三年といえば、二人とも大学生になっている(大学生、になっているかは分からないが、年齢的にはそうだ)。

「どうして、日記を書いてほしいの? 誰の日記を書くの? 日記は、どうやって書くの?」

「一度に、いくつも質問しないでよ」

「では、どうして、日記を書いてほしいの?」

「なんとなく、面白そうだな、と思ったから」

「誰の日記を書くの?」

「それは、もちろん、君が君の日記を書くんだよ。僕は、君の日記が読みたいんだ。なんだか、帰ってきたときにそういう楽しみがあると思うと、救われるような気がするじゃないか。一度に沢山の本を買ってきて、部屋の隅に積み上げておくのと同じだよ。これを読み終わっても、まだ次の分がある、という安心感があるというか、そんな感じ」

「君は、読む本は、読まないんじゃないの?」

「そう……。でも、たまに読む」

「日記は、どうやって書くの?」

「それは、僕は知らない。君のやり方で、書いてくれれば、それでいいよ」

「どのくらいの、量を、書いたら、君は、嬉しい?」

「うーん、あまり多くても大変だから……。……一日に、ノートの片面一ページ、くらいでいいかな」

「片面一ページ、というのは、意味が分からない」

「それも、言葉の綾だから、気にしなくていいよ。リズムを作るために言っただけだから」

「綾、とは?」

「君さ、綾取りってやったことある?」

「小さい頃に、少し」

「今もできる?」

「今は、毛糸を持っていないから、できない」

「そうじゃないよ」真昼は楽しそうに笑う。「今も、君にその能力があるか、と訊いているんだ」

「たぶん、ある」

「じゃあ、僕が毛糸を渡せば、できる?」

「できる」

「凄いなあ……。僕は、せいぜい、箒を作れるくらいだから、色々作れる人は、格好いいよね」

「私は、箒は作れないけど、デッキブラシ、なら、作れる」

「その方が、意味が分からないと思うけど」

「綾取りができる人は、格好いいの?」

「どんなことでも、自分にできないことをできる人は、格好よく見えるものだよ」

「そっか」

「だから、君も、格好いい」

「それは、ますます、意味が分からない」

「そう……。君は、可愛いというよりは、格好いい、の方が近いと思うな。そもそも、格好いいの中に、可愛いが入っている、と僕は思うんだけど、君はどう思う?」

「今は、何も、思わない」

「あそう。では、考えてみてよ」

「何を?」

「可愛いと、格好いいの、違いについて」

「違いは、大きくはない。どちらも、心揺さぶられる、と表現すれば、同じ」

「たしかに、その通りだね」

「君は、日記を書いたことがあるの?」

「いや、ないね。小学生のときに、毎日宿題で出されていたんだけど、僕は、さぼって、一度も書かなかった。今考えると、ちょっと酷かったかもね」

「今も、あまり変わらないと思う」

「うん、まあ、たしかに」真昼は真剣な表情で頷く。「でも、それが、今では僕のチャームポイントになっているわけだから、過去の自分に感謝しないといけない」

「チャームポイント、とは?」

「その人の、最も魅力的な特徴、という意味じゃないかな、たぶん」

「たぶん、というのは、十分の八くらい?」

「うーん、僕の場合、もう少し値は小さい」

「十分の、六、くらい?」

「まあ、そんなところだね。君は?」

「何?」

「君の中で、たぶん、という言葉は、どれくらいの割合を表わしているの?」

「たぶん、十分の九、くらい」

「くらい、というのは?」

「十分の七」

「じゃあ、今の君の台詞は、十分の九、十分の九、十分の七、ということになるね。途中の空白には、どんな記号を入れるの?」

「プラス、マイナス」

「なるほど。そうすると、十分の十一、かな」

「うん」

「あまり、綺麗な数字じゃないな」

「綺麗、というのは、君の中では、どういう意味?」

「直感的に、綺麗だ、と感じたものが、綺麗」

「そっか」

「君は、綺麗だよ」

「そう?」

「うん……。どうしてそう感じるのかは、分からないけど……」

「私は、君は、あまり、綺麗じゃないと思う」

「そうだろうね」

「でも、綺麗だ、とも思う」

「どっち?」

「少なくとも、普通」

「それは、少なくなくても、普通じゃないと、困るよ」

「困るの?」

「いや、特別困らないけど」

「私は、君がいなくなったら、困る」

 真昼は話すのをやめて、月夜の顔を覗き込んだ。何か、月夜が、意図的に話をそういう方向に向けようとしているのではないか、という気がしたからだ。しかも、わざと分かりやすい方法で、シリアスな空気を作ろうとしている気がする。

 月夜は下を向いたまま動かない。

「何か、不安があるの、月夜」

 真昼は質問した。

 月夜はこくりと一度頷く。

「話してよ、その、不安を」

「原因は、不明。でも、たしかに、そんな不安が、私の中にある」月夜は下を向いたまま言った。「君が、いなくなっても、私は、大丈夫かな、という不安が、ある、ような、気がする、と思う」

「曖昧だね」

「だから、余計に不安になる」

 沈黙。

「その不安の、原因は、何?」

「何、とは、何?」

「どうして、そんな不安を感じるのかな?」

「分からない」

「分からないのは、どうしてだろう?」

「どういう意味?」

「君は、不安が、好き?」

「好き、ではない」

「じゃあ、嫌い?」

「嫌い、でもない」

「どうして?」

「不安を感じなければ、死ぬかもしれないから」

「なるほど。つまり、動物として、不安を抱くのは、合理的だ、ということだね」

「そう」

「じゃあ、それでいいじゃないか」

「うん……」月夜は呟く。「でも、それで、大丈夫かな?」

「さあね。僕には分からない」

「誰なら、分かる?」

「君なら」

「私には、分からない」

「君とは、誰のこと?」

 広場の入り口から、大きな犬を連れた老人が入ってきた。散歩をしているようだ。散歩をしている、の主語は、犬か、それとも老人か、と月夜は考える。またしても、今の会話とは関係のないことを考えているな、と彼女は思った。そう……。どれだけ、真昼のことばかり考えたくても、実際にはそれはできない。だから、きっと、彼が傍にいない日が続けば、自分は彼のことを忘れてしまうに違いない、だから怖いのだ、だから不安なのだ、と月夜は思索した。それは、たしかに、その通りかもしれない。やはり、人間には、物理的な距離が大きな障害となる。なぜなら、人間が物理的な存在だからだ。思考は自由でも、その思考を現実に反映するには、身体を動かすしかない。思考だけで充分なら良いが、月夜は、そう言えるほど、合理的な思考力を持っていなかった。

 それが、自分の限界か……。

 やはり、真昼が、物理的に近くにいてくれないと、駄目なのだ、と月夜は思う。

 試験を受けずに、彼の家に向かった。

 その行動が、距離を脅威だと感じている証拠だ。

「私も、君と一緒に、そちらに行きたい」

 犬の動向を観察していた真昼が、その様子を見たまま薄く笑った。

「それは、無理だよ。無理ではないけど、やっぱり、無理だ」

「どっち?」

「無理」

「どうして?」

「君と、僕だけの問題じゃないから」

「じゃあ、誰の問題なの?」

「全体の問題」

「どの全体?」

「人間という社会」

「うん……」

「僕についていきたいから、ついていく、というのは、理由としては正しいけど、それは、きっと、合理的な答えではないよ」真昼は言った。「君なら、そのくらい分かるだろう? 僕も、そう言ってもらえて嬉しいけど、でも、それだけ。嬉しいよ、どうもありがとう、とだけ伝えておくよ」

 月夜は答えない。

 そう言われるのは当然だった。

 今回は、自分と彼の関係が、いつもと逆転しているようだ、と彼女は思う。

 たまには、そういうのも悪くなかった。

 むしろ新鮮で面白い。

「今日は、何時に行くの?」

 自分の中で、話が完結したと思ったから、月夜は話題を変えた。

「お昼には、出ると思う。一時くらいじゃないかな」

「それまで、一緒にいても、いい?」

「それは、君の自由だよ。人間に許された、身体の自由、というやつだ」

「なるほど」

「何が、なるほどなの?」真昼は月夜を見る。「なんか、変だなあ」

「何が、変なの?」

「返事の仕方が」

「よく、分からない」

「一時まで、何をする?」

「何もしないで、このまま、ずっと、座っている」

「ずっと座り続けるのって、ずっと立ち続けるよりも、疲れるよね」

「そうなの?」

「あれ、そう思わない?」

「思わない」

「電車に乗って、席が空いていたら、まずそこに座るだろう?」真昼は話した。「でも、一時間くらいすると、だんだん、立ち上がりたくなってくる。もしかしたら、立っている方が楽なんじゃないか、と思ってね。そして、ついに立ち上がる。吊り革に掴まって、窓の外を見ながら、物思いに耽るんだ。電車って、そういうふうに、立って外の景色を眺めるためにあるんじゃないかな、と思うこともあるよ」

「それで、立ち上がって暫くすると、今度は、また、座りたくなるの?」

「そうなんだ。だから、再び椅子に座る」

「その繰り返し?」

「いや、だんだんとその繰り返しにも飽きてくる」

「飽きたら、どうするの?」

「飽きた頃に、ちょうど駅に着くんだ」真昼は言った。「ああ、でも、車内で、端から端まで歩く、みたいなことはしたことがあるよ。あれは、なかなか面白い。バランスをとるのが大変だけどね。面白そうだろう?」

「ごめん、分からない」

「まあ、そうだろうね」

 散歩をしている老人が近くまで来た。犬が彼らに興味を示したから、二人は彼の身体に触れる。温かくて、生きているのが分かった。とても生命力に溢れている。それに比べて、自分はどれだけ衰弱しているだろう、と月夜は思った。それは彼女に限った話ではない。きっと、真昼も同じことを思っている。だからこそ、二人の気は合ったのかもしれない。しかし、ここまで似通った人間がパートナーになって、いったいどのような利点があるのだろう、と月夜は考える。通常、相手が自分と異なる性質を持っていなければ、自分に齎される情報量が少なくなるから、一緒にいる価値は低くなる(価値、という言葉に嫌悪感を示す人間がいるが、そのほかに、このような概念を端的に表す言葉は存在しない)。だから、その考え方に従えば、彼らは、自分たちも知らないところで、相手に何らかの価値を見出していた、ということになる。

 それは、いったい、どんなものだろう?

 けれど、そう考えた瞬間に、月夜は、それを、どうでも良いことだ、と思った。

 その思考が、最も価値がない。

 月夜も、真昼も、結局何もしなかった。何もしなかった、というのは、目立ったことは何もしなかった、という意味で、呼吸や拍動さえ停止させて、噴水の前で仏像になっていた、という意味ではない。月夜は本を持ってきていたから、それを開いて読み始めたし、真昼は、ときどき口笛を吹きながら、冬の冷たい風に当たっていた。きっと、彼も引っ越しの準備で疲れたのだろう。

 月夜は、真昼と過ごす時間が好きだった。とてものんびりしていて、これ以上ないくらい幸せな気持ちになれる。しかし、それが、暫くの間失われる。だから、彼とは別に、心の拠り所を見つけなくてはならない。心の拠り所なんて、自分には必要ないだろう、と彼女は思ったが、それはただの強がりでしかない。彼と過ごしていた時間を、別のことをして過ごすとなると、何をしたら良いのか分からなくなる。彼女は、試験の有無に関わらず毎日勉強するが、だからといって、勉強を趣味にするつもりはなかった。そんな趣味に没頭するくらいなら、布団で眠っていた方が良い、とさえ感じる。

 家にあるウッドデッキに出て、風に当たりながら読書をするのも、なかなか良いかもしれない。けれど、今は冬だから、外はかなり寒い。やはり、室内でできることを探すしかない。

 真昼がいなくても、自分は夜まで学校に残るだろうか、と月夜は考える。

 彼女がそうするようになったのは、真昼に出会う前からだった。なんとなく、夜の学校、というシチュエーションに憧れて、適当に始めたことだったが、今では、もはや生活の一部になっている、といっても過言ではない。夜の学校は、静寂に包まれていて、とても落ち着く。彼女は、もともと、心に波風が立たない方だが、それでも、夜の教室で読書をする行為が、自分にはなくてはならないと感じていた。

 真昼が、いなくなっても、自分は、夜まで、学校に、残るだろうか、と月夜はもう一度自分に問いかける。

 しかし、答えはすでに出ていた。

 時間が経過して、あっという間に午後一時になった。

「さて、じゃあ、僕は、そろそろ行くよ」そう言って、真昼はゆっくりと立ち上がる。「とても楽しかったよ、月夜。また、いつでも会えるから、気が向いたら、僕の新しい家においで」

 月夜は顔を上げて、彼を見つめる。

「うん」

「少しは、不安は解消された?」

「たぶん、少しは、解消された」

「よかった。僕のおかげだね。感謝するといいよ」

「何がいいの?」

「いや、深い意味はない」

 真昼は、その場で膝立ちになって、月夜と目を合わせる。

「あのさ、月夜」

「ん? 何?」月夜は首を少し傾げる。

「いや、やめておこう」

「何が?」

「次に会うときまで、保留しておくよ」

「何を?」

「言わなくても、分かるだろう?」

「うん……」

「じゃあ、そういうことで」

「分かった」

 真昼は、いつも通りの歩調で、広場から出ていく。

 月夜は彼の背中を見つめていた。

 不思議と、寂しい気持ちにはならなかった。それどころか、とても清々しく感じる。今日は空も晴れていて、空気はいつも以上に澄んでいた。

 涙は出ない。

 再会したとき、彼は自分に何をするつもりだろう、と月夜は考える。

 答えは分かっていたが、それでも、彼女には、まだいくつか候補があった。

 そう……。

 自分は、彼を全然理解できていない。

 次会うときまでに、予習を済ませておこう。

 冷たい風が吹いてきて、葉のない木々を静かに揺らす。

 誰もいない広場にただ一人。

 吐き出す息が、白く染まって、一瞬の内に消えていった。





 真昼が去った一軒家を、月夜はその夜見に行った。酷く閑散とした雰囲気が漂っていて、事実として、その家には、今は何もない。それでも、玄関のドアを開けたら、そこに真昼が立っているような気がして、月夜はとても不思議な気持ちになった。近づいて、試しにノブを引いてみたが、ドアは開かない。もう、誰も住んでいないのだから、開かなくて当たり前だ。ドアは、内と外を区切るものだが、果たして、本当に、この空間は存在しているのか、と月夜は考える。ドアを作って、内と外を区切ったことで、空間というものが認識されるようになった、と考えることもできる。そんなことを考える自分が、今、この空間に存在しないような気がして、月夜はわけの分からない恐怖に襲われた。その恐怖に打ち勝つには、移動して、空間が存在するのを確かめなくてはならない。そう思って、月夜は、逃げるように彼の家から立ち去った。

 自宅に帰って、風呂に入ると、月夜はすぐに布団の中に潜り込んだ。いつもなら、まだ眠る時間ではない。けれど、今日は起きていたくなかった。どうしてかは分からない。仕方がないから、人間は、ときどき、意味もなく眠りたくなるものだから、たまたま、今日がそういう日だったのだろう、と自分に言い聞かせることで、説明のつかない状況に説明をつけようとした。

 真昼が傍から離れたことで、自分にどんな変化が起きるだろう?

 月夜は、天井を眺めながら、ぼんやりと考える。

 おそらく、真昼は、自分にとって、ただの話相手ではなかった。けれど、本当は、ただの話相手だったのではないか、という気がしないわけではない。自分が彼に向けていた好意は、彼が近くにいることで生じる、ある種の錯覚だった、とも考えられる。そもそも、錯覚とはそういうものだ。だから、やはり、彼との距離が離れることで、それが錯覚だったのか、そうではなかったのか、分かるようになる。彼と離れて、彼に対する好意が消えたのなら、それは錯覚だったのだろうし、彼と離れても、彼に対する好意があり続けるのなら、それは錯覚ではなかった、ということになる。したがって、この命題に対する答えを出すには、ある程度の時間を置くしかない。テストと同じだ。普通は、空間よりも、時間の方が存在が曖昧になりがちだが、今は、時間の方が、自分のすぐ傍にあるように月夜には感じられた。

 寝つけない、ということもなく、月夜はすぐに眠った。夢も見ない。金縛りに遭うこともなかった。いたって普通の休養だったといえる。真昼がいなくなっても、睡眠の質は変わらない。彼と一緒に眠れば、たしかに温かさが増すが、一人で眠っても、全然温かくないわけではない。二人で眠ると、本当に僅かに、温かさ指数がプラスになる、というだけでしかない。

 だから……。

 真昼の価値は、それだけのものだった、ともいえる。

 けれど……。

 月夜は、どうしてか、そんなふうには思いたくなかった。

 朝になって、布団から起き上がったとき、そう思った。

 制服に着替えて、学校に向かう。

 真昼には会わなかったが、彼女の生活はいつも通りだった。

 そう、いつも通り。

 三年経てば、彼も、いつも通りの笑顔で、またここに戻ってくるだろう。





 夜。

 真っ暗な教室の片隅で、月夜は本のページを捲る。

 自分が、どうして、そんなふうに、規則を破ってまで夜の学校に残るのか、彼女には分からない。

 けれど……。

 真昼と再会したとき、自分は何も変わっていない、と自信を持って言えるように、彼女はそれを続けようと思った。

 彼も、自分も、いったい何に操られて、そんなことをするのだろう?

 冬の夜は長い。

 窓の外で雪が降り始めた。

 彼女は立ち上がって外を見る。

 闇夜を彩る舞台装置が、空の彼方に浮かんでいた。
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