舞台装置は闇の中

羽上帆樽

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第8章 閃

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 午前六時に目を覚まして、月夜はいつも通り勉強した。学校を休むから、その分、家で勉強しなくてはならない。学校の授業と、家庭での個人的な勉強では、内容がまったくといって良いほど違うが、だからといって、方法まで異なるわけではない。勉強は、もうやり方が決まっている。人間が使う言語の論理体系を変えない限り、その方法が変わることはないだろう。

 数学と、世界史を進めて、気がつくと、八時になっていた。

 今日は、真昼との約束がある。彼に呼び出されて、学校を休むことになった。最初は、無断で欠席しても良いかな、と思っていたが、さすがにそれはまずいと思い直して、月夜は学校に電話を入れた。担任に繋がって、要件を伝えても、彼はまったく驚かなかった。月夜も、真昼も、教師や友人からあまり見られていない。もちろん、物質としては認識されているだろうが、月夜と真昼という個々の存在には、彼らはまったく目を向けようとしない。月夜にはそれが分かっていた。電話を切って、平日の朝なのに、私服に着替える。なぜだか分からないが、洋服を選ぶのに多少時間がかかった。真昼のことを意識しているせいかもしれない。別に、一方的に好意を寄せているわけではないし、もう、充分気に入られているのだから、今さらそんな気遣いをしても、と思う。それなのに、ちょっと気合いを入れて、「自分」という存在を加工しようとしていることに気づいて、月夜は、もう少しで笑ってしまいそうになった。でも、彼女は笑わない。どうしてなのか、自分でも分からなかったが、一人で笑うことに抵抗があった。

 濃い色をしたジーンズと、少し大きめのシャツを着て、玄関を出る前にその上から黒いジャケットを羽織った。帽子を被っても良かったが、それでは、かなり怪しく見えてしまいそうだから、今日は控えておいた。

 待ち合わせは十時だから、まだ一時間近くある。それでも、電車が遅れないとは限らないし、待っている時間に本を読んでいれば良い話だから、月夜は余裕を持って家を出た。駅で本を読んでも、家で本を読んでも、やっていることに変わりはない。彼女は、周囲の環境から多大な影響を受ける方ではないから、多少騒がしくても、いつもと同じように本の内容に集中できた。

 真昼が言っていた駅というのは、二人が、毎日、学校に行く際に降りる駅のことではない。待ち合わせをする駅というのが、二人の間で予め定められていて、そこまで行くのに、学校の最寄り駅を通過する必要がある。平日だが、通学や通勤の時間帯とは多少ずれているから、車内は混んでいない。駅でも同じ学校の生徒に遭遇することはなかった。

 いつもより少しだけ長い間電車に乗って、真昼と待ち合わせをしている駅に到着する。電車を降り、改札を抜けると、月夜は構内の隅で本を読み始めた。

 月夜は、駅という場所が好きだった。彼女は、好き、嫌い、という判断を、真昼に思われているほどしない。それは、言葉の問題で、本当は、その二項だけで表せる感情ではない。しかし、どういうわけか、駅の構造に関しては、彼女を強く引き寄せるものがあった。

 たとえば、月夜は、駅の地下構内を支える巨大な柱が好きだ。微妙な曲率というか、円形だから正面がなくても、ある一定の方向から眺めたときに、見えない部分があるのが良い。これは、このサイズの円柱でないと実感できない。真昼という人間も、少し会話をするだけでは普通に見えるが、もう少し深入りすると、まったく見えない部分があるから、そういった点では、彼に対する好意と似通っているかもしれない。

 そんなことを考えながら、彼女は本を読む。

 本に書かれている内容は、間違いなく彼女の頭に入っているが、それ以外の情報も同時に認識されている。本を読むのも、周囲の状況を把握するのも、どちらもインプットだから、処理として大きな差はない。違うのは、本の場合、ただ読むだけではなく、読むのと同時に個人的な思索を行っている、ということだ。これは、人の話を聞きながら、同時にその内容を吟味している、ということと似ている。人間の頭はそういうふうにできているらしい。だからといって、それが特別だとか、そういう話ではない。もっと良い処理の仕方があるかもしれないし、実際に、コンピューターは、人間とは違う方法で情報の処理を行っている。

 真昼はなかなか現れない。

 それもそのはずで、まだ、約束の時間まで三十分以上ある。

 真昼は、多くの場合、時間にルーズだ。ルーズというのは、約束の時間を破るという意味ではなく、守るのも、破るのも、気にしない、ということを示す。そもそも、時間というものは、ある単位を基本として人間が定めたものだから、それに従わない、という選択をすることもできる。もしかすると、真昼には彼に固有な独立した単位が存在するのかもしれない。そう考えると、なんだかわくわくして、月夜の本を読む速度は速くなった。

 時間が過ぎる。そもそも、過ぎない時間はない。

 改札の向こうから真昼が現れた。

 驚くことではないが、彼は制服を着ていた。

 ほとんどの場合、真昼は制服を着て生活している。私服を持っていないわけではないらしいが、いまいち自信がない、とのことらしい。学校をずる休みしているのに、堂々と制服を着てくる神経が、月夜には理解できない。けれど、理解できなくても面白いとは感じたから、彼の服装について彼女は特に指摘しなかった。

「やあ、待った?」近くまで来て、真昼が言った。

「待った」

「え、本当に? どれくらい?」

「たぶん、二十分くらい」

「それは、君が早く来すぎなんじゃないかな」

「うん、そうだよ」

「じゃあ、僕のせいじゃないね。よかったよ」

「よかった」

 月夜が先ほど乗ってきたのとは別の路線に切り替えて、二人は再び電車に乗った。席は沢山空いているから、自由に選んで座れる。しかし、どこに座っても大して変わりはないので、二人は、適当に、座席の中央に腰かけた。こういう座り方をする人間は珍しい。普通、電車の座席の場合、端の方から座っていく。最初に端が埋まり、次に、それらから一つ飛ばして、奇数個目の席が埋まる。それを繰り返し、混雑してくると、ついに隣同士の席に座る人が出てくる。月夜と真昼は知り合いだから、初めから隣り合って座った。反対に、そうしなければ、人間の距離感として大分おかしい。二人の場合、これでもまだ遠いくらいだった。

 月夜は、真昼に、今日の目的について尋ねるのは控えた。その内彼の方から話してくるだろう、と予想したからだ。彼は自由人だから、自分が決めたタイミングで物事を進めるのを好む。月夜が彼の行動に干渉することはないが、ときどき、タイミングを見誤って、真昼の機嫌を損ねることがあった。機嫌を損ねるといっても、彼は露骨に不満を零すような人間ではないから、その変化を読み取るのは難しい。経験がものを言う、といって良い。どちらかというと、真昼は不機嫌でも笑顔だ。というよりも、彼は常に笑顔だから、より一層彼の感情を推し量るのは難しくなる。しかし、それは月夜もお互い様だったから、彼女にとって一方的に不利な状況ではなかった。

「今日の朝、起きたら、いつの間にか宿題が終わっていたんだ」対面にある窓の向こうを見ながら、真昼が言った。辺りに人はいないから、他人に会話が聞かれる心配はない。「どうしてか分からないけど、与えられた課題が、すべて終わっていた。きっと、自分でも知らない内に、問題を解いていたんだろうね。いつだろう……。寝る前にそんなことはしないし、だからといって、家に帰ってすぐ勉強する、ということもないから、それこそ、本当に、眠っている間に布団から這い上がって、無意識の内に解いたのかもしれない。そうでなければ、幽体離脱した、とかね」

 真昼は楽しそうだ。楽しそうだから、月夜も楽しくなった。

「君が眠っている間に、私が、君の部屋に忍び込んで、解いたかもしれない」

「それ、本当?」真昼は笑う。「そうだったらいいなあ……。でも、窓は鍵をかけておいたから、ちょっとありえないよ。魔法を使ったというなら、話は別だけど……」

「ごめんなさい。よく考えないで、話した」

「謝らなくていいよ」

「でも、その宿題は、今日提出するものだったんじゃないの?」

「うん、そうなんだ。だから、はっきりいって、終わらせた意味がない。提出期限を破ってしまったら、もう、価値はないんだ。ああいうのは、時間を守って終わらせないと、駄目だよね。ときどき、一週間前の宿題を出している人がいるけど、そんなことするくらいなら、僕なら、たぶん、二度とやらないだろうな。……君なら、どうする?」

「どう、というのは、何を訊いているの?」

「もし、一週間前に提出すべき宿題を、やっていないことに気づいたら、やって出すか、それとも出さないか、ということ」

「出す」

「へえ……。それは、どうして?」

「出した、という事実が、残るから」

「でも、遅れた、という事実が、それより先に存在するよ」

「そっか」

「うん、そうだ」

「それなら、出さない、かもしれない」

「出すかもしれないし、出さないかもしれないから、断定的な答えじゃないと、駄目だよ」

「じゃあ、出さない」

「本当に?」

「うん」

「どうして?」

「遅れた、という事実が、先にある、という君の意見を聞いて、なるほど、と、思ったから」

「思ったの?」

「思ったよ」

「思う、というのは、意識的か、それとも、無意識か、どっちだと思う?」

「どっちだと思う、という質問の、思うは、意識的か、無意識か、どっちだと、思う?」

 真昼は月夜を見る。

「それ、おかしなことになるよ」

「うん。仕方がない、と思う」

「その、思うというのは……」

「うん」

「いや」

「何?」

「なんでもないよ」

「分かった」

 二十分ほど電車に乗り続けて、二人はホームに降り立った。そのとき、真昼になんの躊躇いもなく手を握られて、月夜はびっくりした。けれど、それが表情として顔に出ることはない。彼女の感情や感覚は、すべて一律で無表情で処理される。もちろん、その許容範囲を越えれば、感情が顔に出ることもある。それにしても、自分は、今までの人生で、心の底から笑ったことも、泣いたことも、怒ったこともないのではないか、と月夜は思った。そう思いたいだけかもしれない。いずれにせよ、彼女が感情を表に出すのに消極的なことに変わりはない。それでも、真昼に笑ってほしいと言われれば、躊躇せずに笑うことくらいはできた。

 改札を出ると都市が広がっていて、二人が住んでいる地域に比べれば、恒常的に活気があるように見える。日中でも街を人が歩いていて、自動車が走る音もあちこちから聞こえてきた。ただし、動物の鳴き声は聞こえない。人間も動物だが、そこに人間は含まれない。それは、どうしてだろう? 多くの場合、人間は、自分たちとほかの動物を区別したがる。そうしないと生きていけないのかもしれない。月夜は、あまり食事をしないが、それには、ほかの動物を食べなくてはならない、ということも関係していた。できるなら、彼女は動物の肉を食べたくない。そこに合理的な理由があるわけではないが、だからといって、ただの「嫌だ」という感情に起因して、そのように考えているわけでもない。そう、「考えている」のだから、少なくともそれは意識的だ。その点については、月夜はまだ自分のことを理解できていない、といえる。残された人生は、限りあるものだが、それまでに、少しずつでも、自分に関することが明らかになれば良いな、と彼女は考えていた。

 都市の裏通りに、小さな公園があった。

 真昼は、その中へ、迷わず足を踏み入れていく。

 月夜は黙って彼のあとをついていった。

 背の高いビルが周囲に建っているが、この公園は、そんな環境から孤立しているように感じられた。ブランコの塗装は剥げかけ、至る所から雑草が顔を出している。そして、何より、誰も遊んでいなかった。時間帯も関係しているかもしれないが、もし、普段から利用者がいるのなら、こんな閑散とした雰囲気にはならない。それに、地面から雑草が生えているということは、長い間、その地面が誰にも踏まれていない、ということを示している。

 真昼がベンチに座ったから、月夜も彼の隣に腰かけた。というよりも、手を繋いでいるから、そうするしかない。

 とても静かだ。

 音は聞こえるのに、静かだ、と感じる。

「少し、休憩しよう」真昼が言った。「慣れない旅だから、もしかすると、これから、もっとエネルギーを消費するかもしれない。君は、不必要にエネルギーを消費するのは嫌いだろう?」

 月夜は頷く。

「うん」

「お腹、空いた?」

「いや、空いてない」

「そう……。……風が心地いいね」

「風は、今は吹いていない」

 月夜に言われて、真昼は初めてそれに気がついた。彼は苦い表情をして、月夜の瞳を見つめる。

 いつも通り、そこには、彼女に特有な冷徹さがあった。

「うん、そうか……。僕は、今、ちょっと、頭が回っていないみたいだ」

「ちょっと、というのは、どれくらいのことを、言っているの?」

「君は回っているみたいだね」

「歩くのをやめても、地球は回っている」

「それは、生きている間に、できる限り活動した方がいい、ということ?」

「うーん……。活動しなくても、幸せは、掴めるかもしれない」

「やけに面白いことを言うね」

「そうかな」

「うん、そんな感じがするよ」

「ここに、私を連れてきたのは、どうして?」

 月夜はいきなり質問した。

 如何なる前兆も示さずに、突然質問することで、自分の本気度を伝えられる、と月夜は考えている。相手のことを気遣って前振りを設けるのも良いが、比較的親しい間柄では、それは却って逆効果になる可能性が高い。

「今、それを訊くんだね」案の定、真昼にそう言われた。

「タイミング、間違えた?」

「いや、僕も、君なら、そろそろ訊いてくるかな、と思っていたんだ」真昼は薄く笑う。「今まで訊かないでくれて、ありがとう」

 月夜は首を傾げてそれに応じる。

 真昼は、愛おしそうに彼女の顔を見つめた。

「僕が今から話すことを、信じなくても、いい、とだけ伝えておくよ」真昼は話す。「でも、君なら、きっと信じてくれるんだろうな……。……君は、疑う必要がなければ、疑わない。そして、僕は、君に疑われるような人間ではない、と自負している」

「うん。そうだよ」

「僕は、もう、あの学校には行かない」

 風が吹いて、ブランコがきいきいと音を立てた。

「どうして?」

「どうしてだと思う?」

 真昼に尋ねられたから、月夜は黙って考える。訊かれた質問には、きちんと考えてから答えなくてはならない。それが、月夜が掲げるポリシーだった。しかし、彼女は自分ではそのポリシーを認識していない。処世術みたいなもので、後天的に会得されたものだった。

「どこかに、引っ越す、ということ?」

 やがて、月夜は、導出された最も合理的な考えを口にする。

「うん、そう」真昼は頷いた。「その通り、正解だよ」

「本当に?」

「うん、本当」

「そっか」

「もしかして、予想していた?」

「予想は、していなかった」月夜は話す。「でも、それなら、また会えるんだね」

 月夜がそう言った瞬間、真昼は、身を乗り出して、彼女の手を握ったまま、月夜を抱きしめた。

 時間が停止する。

 呼吸と、拍動。

 その二つしか、この空間に存在していない。

「……何?」

「なんでもない。少し、いいかな?」

「……うん……」

 髪の香り。

 身体の温かみ。

 それらは、物質が存在することで生じる幻想だ。

 でも、二人とも、その幻想を、綺麗だ、と思った。

 綺麗だから、それで良い。

 それ以上である必要はない。

 ただただ、綺麗。

 何もかも、綺麗。

 綺麗、綺麗、綺麗。

 言葉を発さず、抱きしめるだけで良いから、無駄なエネルギーを消費しなくて、綺麗だった。

「どうして、私を、ここに連れてきたの?」

 抱きしめられたまま、月夜はニュアンスを変えて質問した。

 真昼は月夜を離し、ベンチから立ち上がる。

「ここが、僕が次に住む街だからだよ」真昼は辺りを見渡した。「けっこう都会だけど、まあ、悪くはないね。田舎も、都会も、それぞれいいところがあるから、どっちがいいか、なんて決められないよ」

「じゃあ、本当に、そんなに離れるわけではないから、よかった」

「うん、まあね」

「それで、どうして、私をここに連れてきたの?」

「どう、というのは、どういう意味?」

「口頭で伝えるだけじゃ駄目だったの?」

「うーん、そうだけど、なんていうのか、ほら、やっぱり、現物を見てもらった方がいいかな、と思って……」

「いい、というのは?」

「その方が、臨場感があるだろう?」

「ごめん、よく分からない」

「分かる必要はないよ。とにかく、それで僕は満足したから、よかったね、と思ってくれればいいよ」

「分かった。よかったね」

「うん、よかった」

 暫くその公園に滞在した。

 真昼の話によると、彼は、もう、引っ越し先で、どの学校に通うか決まっているみたいだった。高等学校だから、どのような手続きを踏めば入学できるのか、月夜は知らなかったが、その点については真昼も説明しなかった。とりあえず、入学できるのだから、それで良い、と月夜は思う。高校は義務教育ではないが、はっきりいって中学校とあまり変わらない。やっていることもほとんど同じだし、むしろ、違うところを述べよ、と言われた方が困る。そうすると、やはり、義務教育か否か、あるいは、高等か中等か、というのが答えになるが、それでは名称が違うだけで、答えになっていないに等しい。やっていることが変わらないのだから、やはり何も変わらない。

「さて……。じゃあ、僕の要件は終えたから、少し、辺りを散策しよう」

 月夜は真昼を見る。

「散策、というのは、具体的に、どういう行為なの?」

「え? うーん、なんだろう……。特に目的を持っているわけではないけど、何かしら面白いものを見つけたい、という意思を念頭に、気の赴くまま歩くこと、じゃないかな」

「散歩、との違いは?」

「散歩は、歩くことがメインだけど、散策は、歩くことではなく、新しい発見をすることがメインじゃないかな、と僕は思うよ」

「君以外には、思えないよ」

「それ、どういう意味?」

「意味は、ない」

「歩ける?」

「うん」月夜は立ち上がる。「でも、疲れる」

「それはそうだよ。生きているんだから」

「君は、疲れても、平気?」

「平気じゃないけど、ある程度なら耐えられるよ。君は、疲れるのは、嫌いなの?」

「嫌いだよ」

「随分とストレートな答えだね」

「ストレートではない答え、とは?」

「婉曲表現を使う、とかじゃないかな」

「具体的には?」

「歩きながら話すよ」

 真昼が歩き始めたから、月夜も彼に続いた。もう一度、手を繋ぐ。熱の変換が行われた。

「たとえば、考えておこう、というのが、代表的な婉曲表現だね」真昼は言った。「考えておこう、というのは、言葉としては、まだ結論が出ていないから、後々答える、という意味だけど、個人的には、そんなことって、ほとんどないと思うんだ。何かを尋ねられたら、もう、その瞬間に、だいたいの答えは決まっている。だから、考えておこう、と答えるのは、答えが出ているけど、それを今は口にしたくない、という意思の表れなんだ。問題を今解決しないで、先延ばしにしている。それが、いいことなのか、よくないことなのかは、僕には分からない。ときどき、先延ばしにしたくなることもあるから、それなら、それでも、いいと思う。でも、中には、そういうことを認めてくれない人もいるから、困ったものだよね」

「困るの?」

「困る」

「どう困るの?」

「うーん、あまり困らないけど」

「困るんじゃないの?」

「うん、困る」

「困るの?」

「困らない」

 これ以上は無駄なやり取りになると判断して、月夜は口を閉じた。

 裏通りから大通りに出ると、大勢の車と人に遭遇する。ビルも高層のものが多くて、二人が通っている学校がある辺りとは、様子がまるで違っていた。でも、空気が汚いとは思わない。空気が汚いというのは、人間にとって必要のない物質が多く含まれている、ということだが、それでは、そもそも、空気には窒素が最も多く含まれているのだから、どこに行っても汚いじゃないか、ともいえる。当然、これは、言葉遊びだ。あまり面白くないかもしれない。

 駅前の広場に戻って、近くにあった移動式のクレープ屋で、クレープを買った。しかし、買ったのは真昼一人だけだ。月夜は、やはり、必要以上に食事をしない。飲み物も飲まないから、燃費が非常に良い。それでいて、学校の勉強はよくできるし、瞬時に合理的な判断をすることもできるから、いったい、そんなことを可能にする燃焼機関と演算装置が、本当に存在するのか、と真昼はいつも不思議に思う。彼は、バナナとカスタードクリームが入ったクレープを買った。生地も含めて、すべて炭水化物、つまり糖類だから、これ以上ないくらいエネルギーで溢れている。

 花壇の淵に座って、真昼は糖分を補給する。月夜もその隣に座った。

「ときどき、遊びに来てよ。僕も、暇があれば行くから」真昼が話す。

「うん」月夜は頷いた。

「ときどきとは、どれくらいか、と訊かないの?」

「今は、訊かないことにした」

「どうして?」

「君が、クレープを食べているから」

「食べていると、どうして、訊かないの?」

「話すのが大変で、食べる速度が落ちるから、かな」

「なるほど。でもね、僕は、ものを食べながら、話ができるんだ」

「どうやって?」

「それに答えるには、人の会話とは、どこまでを会話と呼ぶのか、を定義する必要があるね」

「必要は、ない、と思う」

「そう? まあ、そうかな……」

「クレープ、美味しい?」

「美味しいよ。一口食べる?」

「いらない」

「そう言うと思ったよ」

「じゃあ、どうして尋ねたの?」

「その方が、いいかな、と思って」真昼は呟く。「キスもできるし」

「キスが、したいの?」

「いや、あまり」

「そう」

「それは、落ち込んでいるのかな?」

「どうして、落ち込む必要があるの?」

「必要は、ないかもしれないね」

「うん。ないと思う」

「空が綺麗だ」

「空は、どんなときも、綺麗だよ」

「曇っていても?」

「太陽光線を、地球に必要な分だけ届けてくれるから、無駄がなくて、綺麗」

「その、綺麗、の定義だけど、いい加減、やめた方がいいんじゃない?」

「どうして?」

「いや、僕は大変気に入っているんだけど、ほかの人に言うと、あまりよく思われないんじゃないかな、と思ってさ」

「ほかの人に、よく思われる必要は、ある?」

「きっと、ある」

「いつ?」

「いつでも」

「どうして?」

「理由はない」

「そっか」

「でも、関係は、悪いよりは、いい方がいいだろう?」

「そんな、気が、するだけ」

「そうかな……」

「関係に、いいも、悪いも、ないよ」

「そう?」

「うん……」

「僕と、君の関係は?」

「良好」

「なんだ。じゃあ、いいんじゃないか」

「そんな気がするだけ」

「悲観的だね、君って」

「君は、楽観的?」

「比較的、そうだと思うよ。ああ、比較的、というのは、君に比べたら、という意味だけど」

「たしかに、そうかも」

「でも、悲観的でも、楽観的でも、事実は変わらないね」

 二人がどのように捉えても、暫くの間、互いに会いにくくなることに変わりはない。

 月夜は真昼の肩に自分の頭を預けた。

 そのまま、魂も預けて良い気がする。

 いや、良いだろう。

 彼になら、殺されても良い。

 まだ昼を迎えたばかりだった。

 一日がまだ半分も残っている。

「何をしたい?」真昼が質問する。

「何も、したくないことを、したい」月夜は答えた。「ずっと、このまま」

 真昼は答えない。

 それは、声に出す必要がないから、綺麗だった。
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