舞台装置は闇の中

羽上帆樽

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第7章 炎

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 月夜は、その日、家に帰った。

 普段なら学校に残る彼女が、家に帰ろう、と思ったのは、学校に残る必要がなかったからだ。彼女は、基本的に、必要のないことはしない。必要があるというのは、やらなくてはならない、ということだから、それを決めるのは自分であるわけで、したがって、彼女が「やらなくて良い」と決めた瞬間に、それは必要ではなくなる。けれど、自分という存在は、決して必要のないものにはならない。自分で「存在しなくて良い」と決めても、それで解決する話ではなく、自分と関わりのある人間や、組織が、必ず自分の必要性を見出してくる。自分とは、そういう存在だ。それだけで完結しているわけではない。人は、一人では生きられない、と言われることがあるが、そういう言い方よりも、人は二人以上で人である、といった方が正しいだろうな、と月夜はぼんやりと考えた。

 彼女は、自宅のベランダに座っている。二階ではない。一階のリビングを抜けた先にあるスペースで、正しくは、それは、ベランダ、とは呼ばないかもしれなかった。むしろ、ウッドデッキと呼んだ方が近い。これは、この家にもともと設置されていたもので、彼女が自分で制作したものではなかった。それでも、月夜はこの空間をとても気に入っている。どれくらい気に入っているかというと、彼女が最も親しい知り合いである、真昼、という少年と同じくらい、気に入っている。しかしながら、これを言ってしまうと、本人に察知された際に面倒なことになるかもしれない、と思って、月夜は、たった今自分が考えたことを、丁寧な思考の檻で完全に封印してしまった。一度考えてしまったことは、百パーセント削除することはできないが、考えなかったことにする、ということはできる。そうやって、いくつも偽物を作り上げていくことで、終いには、自分でも、何が本当なのか分からなくなって、取り返しのつかないことになる。もしかすると、自分は、取り返しがつかなくなることを望んでいるのかもしれない、と月夜は思った。それは、自分に最も相応しい、とも思う。取り返しがつかない、といったくらいのスリルがないと、きっと、人生はやっていけない。人生は、きっとこれからも続いていく。それなら、それくらいのスリルがあった方が、死ぬときにそれなりに納得できるというものだろう。

 手に持っていたカップを持ち上げて、ホットコーヒーを体内に取り入れる。おそらく、今吸収した水分の大半は、明日になれば自分の身体の中にはない。そう思うと、飲食という行為が、如何に無駄であるか分かる気がする。もちろん、それらの行為をしなければ、生き物は生きていけないのだから、完全には無駄ではない。そうではなく、無駄が多い、という意味だ。月夜は、どちらかというと、無駄なことを嫌う傾向がある。無駄は、無駄だ、と認識した瞬間に無駄になる。その無駄が存在することを認識して、認めなければ、これまた、人は生きていくことができない。生きる、という行為自体が地球にとっては無駄だから、自分は、無駄な生き物なんだ、と思ってしまうこともある。一度そう思ってしまえば、もう、生きていくのが大変で仕方がない。だから、月夜は、その思考を、なるべく行わないように心がけていた。

 ポケットに入れていた携帯電話が震えて、着信を知らせる。月夜はそれを取り出し、ボタンを押して耳に当てた。

「もしもし」

 相手は答えない。

 これで、相手が誰だか分かる。

「真昼?」月夜は、電話の向こうにいるだろう相手に尋ねる。

〈やあ、月夜〉少年の高い声が返ってきた。〈こんばんは。こんなに夜遅くにかけてしまって、ごめんね〉

「いつも、夜に会っているから、電話での会話が、それと同じだ、と思えば、プラスマイナスゼロになって、無駄がない、と思うよ」

〈うん、そうだね〉

「何か、用事?」

〈君と、話す、という用事だよ〉

「私と? 何を、話したいの?」

〈うん、正直に言うとね、君の声が聞きたかったんだ〉真昼は言った。〈そういうことって、ときどきあるだろう? 一度経験したことがあるのに、それを、もう一度経験したい、と思うんだ。これで最後、と思いながらも、結局また次も同じことを求めてしまって、永遠にその繰り返しになる。そして、他人からそれを指摘されて、やっと、少しは、自分にけじめがつくようになるんだ〉

「私も、君の声は、定期的に聞きたい、と思うよ」

〈本当に? いやあ、それは嬉しいなあ〉

「よかった」

〈え、何が?〉

「君が、嬉しそうで」

〈うん〉

「うん」

〈いやいや、同じことを言わないでよ〉携帯のスピーカーを通して、真昼が笑う気配が伝達される。こちら側に来るのが、電子の流れであっても、彼がすぐ近くにいる、と錯覚することは可能だ。人生は、錯覚を応用することで豊かになる。ストーリーというものも、現実だと思い込むことで、心の底から楽しめるようになる。

「ごめんね」

〈君は、今、何をしているところ?〉

「何、の範囲について教えて」

〈君が今行っている、定常的ではなく、今現在に特徴的な、記述する価値のある行為について教えよ、と言っているんだよ〉

「コーヒーを飲んで、風に当たっている」

〈どこで? いや、コーヒー? 君がそんなものを飲むなんて、珍しいね〉

「場所は、家の、ウッドデッキ。コーヒーが、家にあったから、それを飲んだ」

 真昼は再び笑った。

 今は冬だから、夜に外に出ているとかなり寒い。けれど、月夜はこういった雰囲気が好きだった。彼女の家の周囲には、小規模ながらも山があって、ときどき、鳥の鳴き声が聞こえてくる。空は満天の星空で、今日は月は見えなかった。だから、月夜ではない。山の向こう側には都市があるから、なんとなく、気配だけは、そちらの方から伝わってくる。それでも、この一帯は限りなく静かで、月夜はこの土地を愛していた。

〈電話で話すのは、なかなか、楽しいね〉携帯の向こうで真昼が言った。〈僕は、やっぱり、話す、という行為が好きだよ。単なる情報交換だけど、なんていうのか、どうしても、それ以上の価値を感じてしまうんだ。語調によるリズムを感じる、というか、聞いているだけで心地よくなる、というかさ……。君は、どう?〉

「どう、というのは、何が、どう、なの?」

〈僕の話を聞いてなかったの?〉

「聞いていたよ」

〈じゃあ、分かるはずだ〉

「えっと、どんなふうに、答えればいいかな?」

〈答えたいように答えるんだ〉

「会話は、無駄が多いから、好きか、嫌いか、と訊かれれば、嫌い」

〈へえ、そうなの? それは、意外だなあ……。僕と話しているときは、いつも、楽しそうに見えるけど〉

「君との場合は、例外」

〈あ、そうなんだ〉

「うん、そう」

〈そっちだと、星が綺麗だろうね。いいなあ。僕も、そこに住みたいよ〉

「今日は、ご両親は、いるの?」

〈いないよ。最近ずっと帰ってきていない。きっと、息子よりも大切なものがあるんだろうね。あ、これは、もちろんジョークだけど〉

「今、働いてくれている分が、君に還元されるから、やっぱり、君が大切だ、といえると思う」

〈まあ、たしかにそうだね。うん、それは分かっているよ。僕は、幸せだよ〉

「よかった」

〈ところで、ちょっと相談したいことがあるんだけど、いいかな?〉

「何?」

〈明日、一緒に学校を休んでくれないかな、と思って〉

 月夜は、真昼が言おうとしている内容を推察した。明日は水曜日で、平日だからいつも通り学校がある。それを休むということは、つまり、無断欠席する、ということだ(内容が重複しているが、特に気にする必要はない)。本来なら、欠席するならそれなりの理由が必要になる。それは、たとえば、風邪を引いたとか、親戚が亡くなったとか、そういう理由でなくてはならない。おそらく、真昼には、そういった重大な理由があるのではない。一緒に休んでくれ、と言っているのだから、大方、月夜とともに出かけようとしている、くらいの内容だろう。

「それは、容認したくても、できない」

〈とても重要なことなんだ〉

「えっと……、内容を、教えてくれない?」

〈ごめん。それは、今は教えられないんだ〉

「どうして?」

〈理由はあるけど、今は言えない。そのときになったら、教えるから、よろしく、ということでいいかな〉

 月夜は黙って考える。

 彼女は、基本的に真昼から頼まれたことには協力する。今までも、極力そうするようにしてきた。けれど、積極的にルールを破ろう、としたことは本当に少ない。たしかに、彼女は、本当ならいてはいけない時間帯に、学校に残って遊んでいるのだから、それは大きな規則違反ではある。しかし、その規則違反が発覚する可能性は極めて低い。なぜなら、今のところ、彼女の姿が補足される手段も、彼女という人間性から、そのような行為を暴かれるルートも、存在していないからだ。だから、そういった安全面を考慮して、見つからない程度でルールを破っているにすぎない。それが、真昼とともに学校を休むとなると、少し話は違ってくる。この違いは、おそらく彼女以外の人間には理解できないだろう。そういった、彼女特有のルールに則って、月夜は行動しているのだ。

「理由を、聞かせてほしい」

 数秒の間考えた結果、月夜は先ほどと同じことを繰り返した。

〈月夜、君が、学校でのことを心配しているなら、その必要はないよ〉真昼が話す声が聞こえる。〈学校にいる生徒は、誰も、僕たちのことなんて見ていない。休んでも、ふーん、で済む話だよ。それは、きっと教師も同じだ。僕たちに興味はない。大丈夫だ。だから、僕と一緒に、行動をともにしてくれないかな?〉

 手の中にあるマグカップは、すでに暖かくなくなっていた。その中に注がれたコーヒーも、今は渋味が増して、人間をリラックスさせる効果を有していないに違いない。月夜は、それを一口飲んだ。想像した通り、それはとてつもなく苦くて、苦しかった。

「分かった」月夜は言った。「君に、従う」

 電話の向こうで、真昼が微笑むのが分かる。

〈よかった。そう言ってくれるって、信じていたよ〉

「うん……」

〈じゃあ、明日の午前十時に、いつもの駅に集合、ということで〉

「遠出をするの?」

〈遠出はしないけど、近場の人間に見られたくないから、そこそこ距離の離れた場所に向かう、と考えてもらえればいいよ〉

「分かった」

〈じゃあ、そういうことで〉

「そういうことって、どういうこと?」

〈それは、君が自由に決めていいんだ、月夜〉

 沈黙。

「もう少し、話したい、と思う」

〈急になんの話?〉真昼は言った。〈僕はいいよ。でも、君は、そんな所にいたら、寒いんじゃない?〉

「寒くても、平気」

〈今は平気かもしれないけど、あとで風邪を引くかもしれない〉

「そっか。じゃあ、部屋に戻る」

〈うん、そうしなよ〉

 通信を繋いだまま、月夜は室内に戻った。シャッターは完全に下ろさないで、外の明かりを部屋に取り入れられるようにする。網戸を閉めて、ガラス戸も閉めると、やはり室内に暖かかった。暖房は点いていないが、四方を壁で囲まれているだけで暖かく感じる。

 ソファに座ってから、月夜は真昼との会話を再開した。

「そういえば、今日は、私の家には来ないの?」

〈君の家? いつも、行っていないけど〉

「来たら?」

〈うーん、なかなか魅力的な誘いだけど、今から外に出るのは、ちょっと面倒だし、君も、色々と準備したりで大変そうだから、遠慮しておくよ〉

「分かった」

〈何か、話すべきトピックスがある?〉

「私はない。だから、君が自由に話していいよ」

〈それは、愚痴を聞いてくれる、ということ?〉

「うん」

〈じゃあ、そうさせてもらうよ〉真昼は話す。〈言葉を発するだけでは、何も解決しないのに、他人に聞いてもらいたい、と思うのは、とても不思議だよね〉

「そうかな?」

〈僕は、そう思うよ〉

「私でよければ、いつでも聞くよ」

〈その台詞は、本当は僕が言いたかったなあ〉

「言っていいよ」

〈いや、そうじゃないんだ。君と、僕の関係が、そういうものだったらよかったな、という意味なんだ〉

「それは、今から変えるのは難しい」

〈いいよ。変える必要はない、と思う。むしろ、この方が、一般的じゃなくて面白いよ〉

「誰が面白いの?」

〈僕が〉

「そっか」

〈君も面白く感じる?〉

「うん、なんとなく」

〈肯定したあとに、擁護するのは、ちょっとずるいと思うよ〉

「ちょっと、というのはどれくらい?」

〈たとえば、大型の冷蔵庫があるとするだろう?〉真昼の声は弾んでいる。〈それを開けて、牛乳を飲もうとするんだけど、予備がなくて、仕方なく、コンビニまで買いに行った。そうしたら、今度は、コンビニにも牛乳がなくて、店員に、どういうことだ、と問い詰める。それでも、結局、牛乳を飲めないことに変わりはない。だから、牛乳を飲むのを諦める、という選択をするしかないんだ。で、僕も、そうすることにしたわけ。その方が賢い選択だから、まあ、仕方がないよね〉

「うん……。……えっと、それで、ちょっと、というのは、どれくらいなの?」

〈あれ? まだ、その質問をしたこと、覚えていたの?〉

「覚えていた」

〈てっきり、もう忘れたかと思ったよ〉

「どれくらいなの?」

〈その質問は、重要?〉

「後々、重要になる、と思う」

〈僕の愚痴を聞いてもらってもいい?〉

「いいよ」

〈なんか、最近、生きるのが辛くてさ〉真昼の説明が始まった。〈これといった理由があるわけではないんだけど、毎日やるべきことが多すぎて、もう、いっそのこと、充分生きたから、死んでしまってもいいかな、と思うんだ。自殺したいとか、そういうことじゃなくて、僕が余命を消費して、自然と死んでいく、というシチュエーションに憧れるというか、そんな感じ。でも、やっぱり、そんな都合のいいことは起こらないから、死ねないで、次の日の朝を迎えることになる。その繰り返しを経て、僕は今日もこうして君と話しているわけだけど、こんなことを考えられるのは、僕が生きているからだから、結局、生きていくしかないのかな、なんて思ってしまったりして……〉

「君は、生きたいの? それとも、死にたいの?」

〈僕には、分からないんだ〉

「少なくとも、私は、君には、生きてほしい、と思うよ」

〈僕は、本当に君の役に立てているかな?〉

「役に立とうとして、役に立つ必要はないよ」

〈うん、そうだけど……〉

「君は、私の傍にいてくれるだけでいい。それ以上は、望まない。私と、ときどき会って、話をしてくれれば、それでいい。だから、死なないでほしい、というのが私の願望」

〈しかし、それを僕が了承する義務はない〉

「そう……。だから、最後には、君が自分で決めるしかない」

〈僕が、君に、僕のことを殺してくれ、とお願いしたら、君は僕を殺してくれる?〉

「君が、心からそれを望んでいるのなら、いいよ」

〈本当に?〉

「うん、本当」

〈そのあとで、君はどうするの?〉

「たぶん、声を上げて泣く」

〈ま、そうだろうね〉

「それくらいしか、できないから」

〈僕が望んだら、君は、その望みを叶えてくれる?〉

「心から望んでいるなら、という条件が必要」

〈分かった。うん、少しは気持ちが軽くなったよ〉

「どうして?」

〈死にたくなったら、自殺以外の方法で、いつでも死ねる、と分かったから〉

「うん……」

〈君の優しさには、いつも感謝しているよ〉

「感謝される必要は、ない」

〈でも、ありがとう〉

「どういたしまして」

 彼女の言葉を聞いて、真昼は暫くの間黙った。

 月夜は、今自分が言ったことは本当か、と少しだけ自分を疑った。本心から話していたのか、それとも、真昼に合わせて適当に言葉を連ねていただけなのか、それが自分でも分からない。おそらく、分かりたくない、という意思が先にあるからだろう。しかし、それにしても、境界が非常に曖昧で、彼に対して申し訳ないことをしたかもしれない、といった念が急速に彼女の胸に押し寄せてきた。

 基本的に、月夜は論理的な思考をする傾向があるから、そのような疑いが生じることはない。しかし、今、実際に、自分で自分を疑ったということは、彼女の中に何か引っかかるものがある、ということだ。それが何なのか探ろうとしても、まったく分かる気がしなくて、月夜は急に怖くなった。恐怖という感情は、解決方法が示されていても、無条件に発動する性質を持つ。だから、その出現を抑制することは難しい。したがって、恐怖を感じたら、とりあえず、その感情が示す通りに、不安要因が何であるかを確かめる必要がある。けれど、その不安要因が何であるか分からないと、余計に不安になる、といったサイクルに突入する場合も多々ある。これが、自分が何に恐怖しているのか分からない、といった種類の恐怖で、この種の恐怖を解消するのは困難を極める。今回の場合も、月夜は、自分が何に不安を感じているのか分からなくて、ただ震えることしかできなかった。

 その震えが治まるのに、一分ほどかかった。

 その間、真昼は一言も言葉を発さなかった。

「もう、終わり?」やっと落ち着いて、月夜は真昼に尋ねる。

〈え? ああ、うん……〉真昼の声を聞いて、月夜の安心は確実なものになった。〈なんか、随分とわけの分からないことを言ったと思うけど、それでも、君のコメントをもらえて、よかったよ〉

「君がよかった、と、思うのなら、私も、よかった、と思う」

〈そのスタンス、なかなか素晴らしいね〉

「そうかな」

〈うん……。少なくとも、僕にはそんなことはできないよ。君は、もう少し、自分に自信を持った方がいいんじゃないかな〉

「自信は、どうやったら得られるの?」

〈それは、難しい質問だなあ……。普通は、どうやったら自信を得られるか、なんて、考えないからね。僕にも分からない。でも、たとえば、同じことを何度も繰り返して、一定の結果が出るようになれば、それなりに、自信を持つこともできるんじゃないかな、とは思うよ〉

「君は、自分の言動に自信がある?」

〈いや、ない〉

「そうなの?」

〈そうだよ〉

「それは、意外かもしれない、と思った」

〈意外? どうして?〉

「うーん、どうしてだろう……」

〈僕には自信なんてないよ。それに、自信を持ちたい、とも思わない。自信がないように見える方が、ほかの人に援助してもらえる可能性が高くなるから、生物としてはプラスの方向に傾く、と僕は考える。自信がないように見えることで、マイナスになる部分もあるけど、それを上回るプラスを得られる、ということだね〉

「よく、分からなかった」

〈分かる必要はないんだよ、月夜〉

「最後に、私の名前を付け足すのは、どうして?」

〈君の名前を呼びたかったからだよ〉

「呼びたかったの?」

〈言葉を発することで、活性化するものもある、ということ〉真昼は説明する。〈僕にとっては、君の名前はある種のキーなんだ。そのキーを使うと、どういうわけか、自然と、僕の中に活力のようなものが漲ってくる。不思議だよね。そして、実際に君に会うと、もう、ありとあらゆることがどうでもよくなって、ただ、君の姿を瞳の中に収めたい、と思うようになる。君を目にした途端に、ああ、もう、死んでしまってもいいかもしれないな、と思えてしまうんだ〉

「そんなこと、思わないでほしい」

〈どうして?〉

「私には、君が言うほど、魅力はないよ」

〈それを決めるのは僕だ〉

「うん……。でも、あまり、嬉しくはない、かな」

〈そう?〉

「うん」

〈そうか。分かった。じゃあ、今後から、あまりそういうことは言わないようにするよ〉

「気を遣う必要はないよ」

〈別に、気を遣っているわけではない。そうした方が、僕のもとに返ってくる利益が大きくなる、と判断しただけだよ〉

「そっか」

〈うん、そうだ〉

「もう、眠る?」

〈そうしようかな〉

「明日は、十時に、駅、でいいんだっけ?」

〈そうそう。よく覚えていたね。やる気満々じゃないか、助かるよ〉

「やる気満々、ではないよ」

〈うん、分かってる〉真昼は別れの挨拶をした。〈じゃあね、月夜。いい夢を見られるように、祈っているよ〉

 糸が断裂するような音がして、電話が切れた。

 携帯電話を上着のポケットに仕舞って、月夜はぼんやりと前方を見る。何も映していないテレビが鎮座していた。電源を入れれば、テレビは自動的に彼女を幻想の世界へと連れていってくれる。それがどんなに簡単でも、それは、やはり、幻想でしかない。だから彼女はテレビの電源を入れなかった。現実には、今、真昼との会話を終えて、閑散としているこの空間しか存在しない。月夜は孤独を感じていた。しかし、そんなものも、もしかすると無駄なものかもしれない。どちらでも良かった。彼と話をしたことで、多少は、現実で生きていく活力を取り戻せた、ような気がしないでもない。それも、また、どちらでも良かった。現実がどうであれ、彼女は、今後も、今までと同じように、生き続けなくてはならない。そう考えると少し苦しかったが、苦しいのは生きているからだ、と思うことにして、勢いをつけてソファから立ち上がった。

 視点が高くなる。

 そう……。

 どんなことも、視点を変えて見てみれば、それなりに面白く感じられる。現実も、幻想も、どちらも合わせて「現実」だから、角度を変えて観察をすれば、どちらも彼女にとって有益なものになる。それが、月夜には嬉しく感じられた。真昼という存在は、彼女が錯覚している幻想かもしれないし、本当に存在しているかもしれない。しかし、それでも、彼女が、自分で、彼、という存在と対話できることに変わりはない。それなら、それで良い。それ以上を望んでも仕方がない。そして、仕方がないことは、文字通り、仕方が、ない。だから、何もできないし、何もする必要はない。

 月夜は、リビングで一人立ったまま、もう少し思考を続けた。

 それでは、真昼にとって、自分はどのように認識されているのだろう、と彼女は考える。自分は主体だから、それについて考えるには、客観的に自分と真昼の関係を見つめ直さなくてはならない。このとき、自分は自分でありながら、同時に「世界」でもあることに気がつく。すなわち、自分が真昼を観察している、という状況は、「世界」が自分を観察している、という状況と等しい。この関係性を数字で表すと、そこに黄金数が出現する。それは、以前真昼が言っていたことで、月夜はその関係性を知っていた。黄金数は、人間に「綺麗」という感情を引き起こさせる。つまり、自分が他者を観察することは、論理的にも「綺麗」な行為なのだ。そして、一時的に自分を切り捨てて、客観的に自分と相手との関係を見つめようとすることも、行為として「綺麗」であることになる。

 それでは、そんな「綺麗」な行為をする自分は、そもそも「綺麗」なのか?

 それは、分からない。

 行為は「綺麗」だが、その行為を実践する者が、必ずしも「綺麗」であるとはいえない。

 そういうことになる。

 月夜は真昼を愛している。

 愛を向ける、という行為は「綺麗」だが、その行為を実践する自分は、本当に「綺麗」なのか?

 ……。

 シャッターの隙間から、室内に風が吹き込んでくる。

 真昼は、明日、何をするつもりだろう?

 候補はいくつもある。

 その量は、月夜が、今まで彼と行動をともにした量と比例する。

 つまり、データ。

 しかし、そのどの候補も不適当とする結論が、月夜の思考回路の中から導出された。

 それは、エラー。

 エラーは、恋だ。

 では、恋はエラーか?

 気を失うようにソファに倒れ込んで、月夜はそのまま眠ってしまった。
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