舞台装置は闇の中

羽上帆樽

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第4章 灯

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 その日、珍しく、月夜は学校をあとにした。

 といっても、下校時刻はとっくに過ぎている。今は夜の十時で、本来なら、生徒が学校に残っているのはおかしい。けれど、月夜という少女に限っては、それはおかしなことではなく、もはや彼女にとっては当たり前だった。夜の学校は、暗くて、静かで、楽しい。何が自分を楽しく感じさせるのか、それは彼女にも分からなかったが、理由が分からなくても、楽しければそれで良い、というのが彼女の考え方だった。

 そうはいっても、楽しくても、やってはいけないこともある。それは、たとえば、殺人とか、窃盗とか、テロとか、そういったいわゆる犯罪の類だ。それらのことをすれば、自分は楽しくても、他人に迷惑がかかることになる。迷惑は、自分が被ったら嫌だから、人にもかけるべきではない。つまり、ルールを守る、ということだ。しかし、それを言ってしまえば、彼女は、すでに、校則というルールを破っている。けれど、まあ、別に、他人に迷惑をかけているわけではないから、ぎりぎり大丈夫だろう、くらいに月夜は考えていた。厳密には、まったく迷惑をかけていない、とはいえない。彼女の行為がばれれば、誰かに迷惑がかかるリスクがある。そのリスクを背負って、彼女は、こうして、夜の学校を闊歩している。いつばれてもおかしくはないから、いつでも、もしもの場合に備えて身構えていなければならない。それは辛いことだったが、同時に、スリリングでもあり、また楽しくもあった。

 そして、今日は、彼女は学校には残らなかった。学校ではなく、近所の公園に移動して、そこで逢瀬を迎えることにした、というわけだ。逢瀬というからには、もちろん相手がいる。そして、逢瀬といっても、全然大したものではなく、ただ人と会って話す、という程度でしかない。艷やかな行為や、陰気な所業は、彼女にはまったく必要ない。そんなことをしても、束の間の満足で終わってしまうだけだし、それなら、これからも続くであろう関係に備えて、もう一段階レベルの高い行いをしよう、と考えるのが、彼女の人間性というものだ。だから、今日も、月夜は何の警戒もしないで、公園のベンチに座って、逢瀬の相手が来るのを待っていた。

 そして、その相手がやって来た。

 彼は、真昼という人間だ。人間だ、というのは、文字通り、彼が、生き物の中の、動物の中の、人間という種だ、ということを意味している。それ以上でもそれ以下でもない、といったありきたりな表現を使うのも良いが、しかし、そうはいっても、ほかに適した表現は見つからないので、この表現に関しても、それ以上でもそれ以下でもない。一方、月夜はというと、彼女もまた人間だから、それ以上でもそれ以下でもない、と表現できそうだった。

 真昼という少年は、今日はコートを羽織っていた。たしかに、気温はかなり低い。しかし、月夜はいつも通りブレザーを着ているだけだった。下はスカートだから、脚が冷気に晒される。けれど、寒さを感じるのも、言ってみれば自分が生きているからだから、本当なら、この状況に感謝しないといけない、と月夜は思った。そして、自分は、そんな状況にいつも感謝している、ということにも彼女は気がつく。真昼がどう考えているか、それは月夜には分からなかった。

「寒いね」挨拶を省略して、真昼が月夜の隣に腰かけた。「実はね、このコートは、君のために、わざわざ持ってきたんだ。だから、ほら、着ていいよ。きっと、暖かいと思うから」

 そう言って、真昼は自分が身につけていたコートを脱ぎ、それを月夜の肩にかける。

「今の内容は、たぶん、嘘」月夜は冷たい声で呟いた。しかし、その声は彼女のデフォルトだから、別に負の感情が込められているわけではない。彼女の行いは、いつも、決まって、冷徹、冷酷、冷涼、だが、だからといって、彼女が冷たい人間であるとか、そういうわけではなかった。

「うん、そうだよ」真昼は肯定する。

「嘘でも、嬉しいから、嬉しい」

「嬉しい、を、二回繰り返す理由は?」

「どのくらい嬉しいか、表現したつもりだった」

「なるほど。それはいいね。僕もさ、たまに、お腹が空いていると、おかわり、おかわりって、二回言ってしまうことがあるんだ。まあ、そうは言っても、おかわりは一回まで、というルールがあるから、二倍の量のご飯が食べられる、というわけではないんだけど」

「今は、お腹は空いてるの?」

「え? ああ、うん、まあね。いつもに比べたら、だけど」

 月夜は鞄の中を漁り、そこからサンドウィッチを取り出した。水色のプラスチック製のケースに入っていて、如何にもな感じで、三角形をしている。具はハムとレタスとマヨネーズだった。マヨネーズは具の内に入るのかな、と彼女は一瞬だけ考えたが、どうでも良いことだと思って、すぐにその思考を中断した。

「これを、食べるといいよ」

「何が、いいの?」そう言いながら、真昼はサンドウィッチを受け取る。「うわあ、凄いなあ。もしかして、これ、君の手作り?」

「うん、そう」

「美味しそうだね」

「美味しいよ」

 真昼は月夜の顔を見つめる。

「自信があるの?」

「自信は、いつも、ない」

「それにしても、君が料理をするなんて、珍しいこともあるものだね」

「そうかな」

「うん……。だって、君さ、いつもご飯を食べないじゃないか」

 真昼が言った通り、月夜は、基本的に食事をしない。しかし、まったくしないというわけではない。どういう体質なのか分からないが、ある程度の期間、食事を抜いても彼女は普通に活動できるのだ。ある程度の期間、というのは、一日の内での時間を示しているのではなく、何日にも渡って食事を抜いても、それなりに活動できる、ということを意味している。といっても、さすがに一週間は持たない。長くて三日くらいで、それくらいの期間なら、月夜は何も食べなくても生活することができた。

 こんなふうに、人間には様々なタイプが存在する。その事実を知っている者は、自分と異なる性質を帯びた人間に遭遇しても、あまり驚かない。真昼は、月夜が傍にいるから、変わった人間の対処には慣れていた。もっとも、月夜はかなり変わっている。体質だけでなく、彼女のような性格の持ち主も、なかなかお目にかかれるものではない。

「でも、今日は、お腹が空いたな、と思ったから、作ってきた」月夜は、真昼の目を見て答える。「私は、さっき、学校で食べた」

「美味しいのを知っているのは、それが理由?」

「そうだよ」

「なるほど。ま、君の言うことだから、何かしら根拠があるんだろうな、とは思ったけど」

「どういう意味?」

「そのままの意味だよ」真昼は言った。「君は、簡単に言えば、計算高い。色々なことを、色々な角度から観察して、的確な判断をする能力に長けている、と僕は思う」

「自分では、そうは思わない」

「まあ、そうだろうね」

「そう感じるのは、君が、そういう能力に欠けているから、じゃない?」

「面と向かって、そんなこと、言わないでほしいな」真昼は笑う。

「うん……。……ごめんね」

「ジョークだよ」

 プラスチックのケースの蓋を開けて、真昼はサンドウィッチを食べる。調理した本人が言っていた通り、美味しくて、美味しかった。というよりも、真昼は、今まで、不味いご飯を食べたことがない。それは彼が恵まれている証拠かもしれないが、美味しいものを食べるより、不味いものを食べる方が、作業としては難しい、と彼は感じる。たとえば、料理をするときに、美味しいものを作ろうと思って、美味しいものを作るのは簡単だが、不味いものを作ろうと思って、不味いものを作るのは難しい。こういう傾向を、マイナス不利の法則、と彼は勝手に名づけていた(本当にたった今考えたことで、だから、名づけていた、という言い方はおかしい)。マイナスの感情や、マイナスの行動は、プラスのそれらに対して、意図的に起こすのが難しい。積極的に時間を無駄にしたり、意識的に忘れ物をすることができない、というのが、その例になる。人間はプラスの方向に考える生き物だ、と考えれば、それなりに人生は豊かになるかもしれない。

「うん、美味しいね、君が言った通りに」真昼は言った。「でも、三角に切る必要は、なかったかもしれないな」

「どうして?」

「どうして、わざわざ三角に切ろうと思ったの?」

「君なら、どうやって切るの?」

「四角」

「それは、正方形? それとも、長方形? あるいは、菱形?」

「長方形に決まってるじゃないか。食パンは、正方形なんだから、どうやったら、正方形や、菱形になるの?」

「では、どうして、長方形になるの?」

「君にとっては普通じゃない、という意味だね」

「そう」

「なるほど。君は、将来、理系の方に進むといいよ」

「君が、決めることではないと思うよ」

 月夜の台詞を聞いて、たしかに、と真昼は思った。だから、そのまま、思ったことを素直に口にした。

「たしかに」

 月夜のそういった指摘には、感情的な判断が一切含まれていない。したがって、真昼に文句を言われたから、それに苛立って、君にそんなことを言われたくない、と言っているのではない。彼女は、感情的には人と接しない。まったくというわけではないが、できる限り、論理的かつ合理的な態度で、人間と対話をしようと努める傾向がある。それは、その方が遥かに楽だからであり、楽をすることは、論理的かつ合理的だからだ。

 真昼は、そんな月夜の態度が、好きだった。

 彼は、どちらかというと、感情で行動する方だから、自分にもそんな態度で人と接することができたら良いな、と常々思っている。

 けれど、それは実現しそうにない。 

 どうしてそんなことを思うのか、彼には自分の思考が分からなかった。

「今日は、曇っているなあ」話すことがなくなったから、真昼はなんとなく呟いた。本当は、話すことがないなら、何も話さない、というのが最も合理的な選択だ。

「うん」

「月夜は、曇り空と、星空だったら、どっちが好き?」

「君が、私の名前を口に出すのは、久し振りな気がする」

「え、そうかな」

「うん、そうだよ」

「気がする、ということは、本当は違う可能性もある、ということ?」

「そう」

「なるほど。君は、自分の発言を、よく分かっているね。感心するよ」

「自分の発言なんだから、自分が一番よく分かっている、と思う」

「そうだけど、残念ながら、僕は、自分の発言に責任を持てない質なんだ」

「何が残念なの?」

「ほら、今のそれだって、そうだよ」真昼は笑った。「こんなふうに、自分で言ったことを、すぐに自分でも忘れてしまうんだ。そうやって、他人から指摘されて、始めて気がつく。自分の頭で考えているはずなのに、考えついた瞬間に、もう、別のことを考えているんだ。これは、もしかすると、ある意味才能かもしれない、と思っているんだけど、どうかな?」

「どう、というのは、何を訊いているの?」

「それについての、君の見解を訊いている、と言えば伝わるかな」

「うん、伝わる」

「やっと、伝わった」

「それだけじゃなくて、私は、君には、沢山の才能がある、と思う」

「へえ。なかなか嬉しいことを言ってくれるね」

「誰が嬉しいの?」

「僕がだよ」

「それなら、私も嬉しい」

「前にも、そんなことを言っていたね」

「そうだっけ?」

「あれ? 君も、自分で何を言っているのか、分からなくなることがあるの?」

「あるよ」

「じゃあ、そんなに深く考えているわけではないんだね」

「うん、そうかもしれない」

「で、もとの話に戻るけど、君は、曇り空と、星空なら、どちらが好き?」

「星空」

「どうして?」

「綺麗だから」

「たしかに、その通りだね。けれど、曇り空だって、見方によれば綺麗だよ。風流、という感じかな。月の前に雲がかかっていたら、とても綺麗だと、僕は思う。近くに松の木なんかがあったら最高だね」

「曇り空、というのは、どれくらいの許容範囲なの? あと、最高、ということは、予め基準が設けられている、ということ?」

「違うよ」

「何が、どう、違うの?」

「君は、本当に、そんなことが気になるの?」

「私が、気にするのをやめてしまえば、きっと、君とは会話ができなくなる」その瞬間、月夜は顔を下に向けて、儚い表情になった。「できるなら、そんな状態にはなりたくない、と思う。君と、こうやって、話すことができなければ、私は、何を、どうしたらいいのか、分からなくなって……」

 月夜の表情が曇っても、真昼はさほど慌てない。こういうことは今までにも何度かあったし、月夜も長い間引きずるような性格ではないから、まあ、大丈夫だろう、くらいに真昼は思っている。

 月夜は、ときどき、勝手に思い込んで、勝手に思い悩むことがある。多くの場合、彼女をそんな状態に陥れる原因には、真昼自身が関わっている。けれど、だからといって、それで彼が責任を感じることはない。人間のコミュニケーションというものは、必然的にそういう要素を伴うものだ。だから、仕方がない、というふうに考えるしかない。問題は、そういったちょっとした擦れ違いが生じた場合に、どちらかが相手を受け入れることができるか、ということだ。それができないと、長期的な関係を築くのは難しくなる。月夜と真昼の関係は、それなりに長く続いているから、こんな感じで大丈夫だろう、というのが真昼の素直な感想だった。

 真昼は、月夜の肩を抱いて、軽く自分の方に引き寄せる。

 月夜は抵抗しなかった。

 特に抵抗する必要がないからだ。

「何を考えているの?」真昼は彼女に質問する。

「明日と、明後日の、勉強の予定」

「人って、不思議な生き物だね。本当に考えたいことがあっても、どうしても、別のことも一緒に考えてしまうんだ」

「うん、だから、それは綺麗」

「綺麗? どうして?」

 月夜は下を向いたまま答えた。

「別の作業を同時に行うことで、エネルギーの消費が抑えられるから、綺麗」

「なるほど」

 空に月は昇っていない。だから、真昼の言った「綺麗」とは違っている。しかし、それでも、なんとなく綺麗に見えないわけでもなかったから、真昼は、適当に、もう一度、綺麗だ、と呟いた。

 街灯の明かりが二人を照らしている。

 多くの場合、月夜は学校が終わっても家に帰らないが、真昼は一度帰宅して、それから彼女と合流する。今日もそうだった。一度家に帰るのに、真昼は絶対に制服を着替えてこない。彼曰く、それは、自分に私服のセンスがないから、らしい。月夜は、学校がない日は私服を着るから、別に、それほどセンスが優れているわけではないが、一般的な感覚は持ち合わせている。だから、今度、彼と一緒に洋服を買いに出かけようかな、と月夜は考えた。そんなことを考えると、たちまち元気になるから、人間とは、これまた不思議な生き物だ。といっても、月夜は、未だに、元気、というのが具体的にどういうものなのか、理解できていなかった。

 真昼は立ち上がり、月夜に手を差し出す。

「少し、散歩しようよ。ここは、あまり来たことがないから、きっと、面白い発見が沢山あるよ」

「君は、散歩をしたいの?」

「したいから、誘っているんじゃないか」

「私に気を遣っているのかと思った」月夜は立ち上がる。「君は、面倒見がいいから」

「そんなこと言われたの、初めてだよ」

「もう一度言おうか?」

「じゃあ、お願いしようかな」

「君は、面倒見がいいから」

 二度目は、あまり嬉しくなかった。

 この公園は、二人がいつも下校するのと、反対側の道を進んだ先にある。だから、二人ともこちらには来たことがなかった。もしかすると、覚えていないだけで、来たことがあるかもしれないが、それでも、記憶にないのであれば、それなりに面白い発見をすることができるだろう、と真昼は考える。映画だって、過去に見たことがあるものを、時間を空けてもう一度見ると、それなりに面白い。面白いものは、潜在的に面白い、ということかもしれない。

 公園を出て、左右に別れる道を右に進む。左に行くと学校だから、あえて反対方向を選んだ。

 真昼と、月夜は、手を繋いでいる。

 月夜の体温は比較的低い。それは、その瞳が宿す冷徹に相応しく、彼女の存在感を引き立たせる要素の一つだった。

 真昼は、どちらかというと、体温は高い。だから、二人が手を繋ぐと、それぞれの温度が中和されて、ほど良い着地点に到達する。掌は、人間の部位の中でも比較的敏感だから、その温度の変化を、二人とも明確に察知することができた。

 街灯がぽつりぽつりと立っている。二人が住む地域には街灯がほとんどないから、もしかすると、ここは、治安が悪いのかもしれない、変な人間に会わなければ良いが、と真昼は考えたが、それ以前に、自分たちの方が変な人間だから、まあ、大丈夫だろうな、とは思った。

 きっと、月夜も同じことを考えている。

「それにしても、今日は寒いなあ」真昼が言った。「君は、そのコートだけで、大丈夫?」

「うん、大丈夫だよ」

「僕は、ちょっと寒い」

「じゃあ、返そうか?」

「うん、じゃあ、返してよ」

「分かった」

 そう言って、月夜は本当にコートを脱ごうとする。

「嘘だよ」真昼は、月夜の行動を見て、笑いながら諭した。「そんなこと、要求するわけないじゃないか」

「うん……。でも、寒いのは、身体によくないよ」

「どうよくないの?」

「風邪を引く可能性が高くなる」

「それは、いいことだよ。風邪を引けば、学校を休めるからね。君も、熱が出たら、さすがに学校を休むだろう?」

「たぶん」

「たぶん、というのはどれくらいなの?」真昼はつい笑ってしまった。

「七割五分」

「今日はパーセントじゃないんだね」

「言っていることは同じだから、同じだよ、と思う、のも同じ」

「ごめん、意味が分からなかった。君さ、もしかして、夜の街を散歩できて、嬉しく感じているの?」

「そうだよ」しかし、月夜は表情を変えない。

「そう。でも、たしかに、夜ってさ、自分が万能になったみたいで、テンションが上がるよね」

「そうなの?」

「君は、そんなふうに感じない?」

「あまり、感じない」

「あまり、というのは、どれくらい、と、訊いてもいいかな?」

「いいよ」

「あまり、というのは、どれくらい?」

「六割三分」

「それってさ、計算して答えているの?」

「何を計算するの?」

「その、程度」

「計算はしてないけど、予想はしている」

「予想? どんな?」

「私がそれを言ったら、君がどんな反応をするか、という予想」

「人間の行動って、何もかもすべて予想できると思う?」

「どんなことでも、予想することは、可能」

「まあ、たしかにね。じゃあ、そうじゃなくて、精度の高い予想、という意味では、どう思う?」

「できると思うよ」

「僕の行動パターンで、できる?」

「君は、例外」

「へえ、どうして?」

「まだまだ、知らないことが沢山あるから。つまり、データ不足」

「それは、致命的だなあ」真昼は言った。「致命的なものは、致命的だから、やっぱり、致命的だね」

「それ、何?」

「うん? 致命的?」

「どうして、三度も繰り返すの?」

「繰り返したい気分だったからだよ」

「そっか。分かった」

「何が分かったの?」

「君が、今、三度も繰り返したい気分だった、ということ」

「それは、真実だと思う?」

「思うことは、いつでもできる」

「それが現実?」

「現実は、思うことから始まる」

「サンドウィッチ、美味しかったよ。どうもありがとう。また、作ってね」

「作る」

「今度は、マスタードを入れてよ」

「入れる」

 沈黙。

 住宅街はまだまだ続いている。道の先は真っ暗で、どこまで続いているのか分からなかった。

「ところでさ、君は、僕の家に来たいと思ったことはない?」

 真昼の問いを受けて、月夜は黙って彼の顔を見る。

「あるよ」

「じゃあ、今度、来てみない?」

「それは、来てほしい、ということ?」

「そうだよ」

「うん、分かった。じゃあ、行く」

「よかった。いやあ、これで、楽しみがまた一つ増えたなあ」

「また一つ、ということは、ほかにも何か楽しみがあるの?」

「あるよ、沢山ね」

「たとえば、どんなこと?」

「興味があるの?」

「訊いてほしいのかな、と思って」

「そうだ。訊いてほしい」真昼は頷く。「たとえば、君と会ったり、君と話したり、君と歩いたり、といったことが、楽しみ、の例かな」

「全部、私が関わっているんだね」

「そうさ。僕は、君とともにあるんだ」

「なんだか、どこかで、聞いたことがあるような台詞だけど」

「そう? 僕は知らないな」

「知る、というのは、どういう意味だと思う?」

「君さ、今日はやけに喋るね。何かあったの?」

「何か、というのは?」

「いいこととか、ハッピーなこととか」

「いいと、ハッピーの違いは、何?」

「漠然としているか、それなりに確固としているか、じゃないかな」

「いいことは、あった。君に、サンドウィッチを食べてもらったこと。ハッピーなことは、なかった」

「知るというのは、情報を得る、ということだよね、たぶん」真昼は、先ほどの月夜の質問に答える。「でも、この動詞が示す範囲を考えるのは、ちょっと難しい。知る、じゃなくて、知っている、だとさらに難しいね。たとえば、知らない英単語を初めて見て、意味を理解しても、それだけでは、知っている、とはいえない。たった今目にして理解したから、たしかに、さっきと比べて、今は知っている、とはいえるかもしれないけど、でも、それでは、知っていることにはならない。その情報が頭に定着して、恒常的に意味も理解できていなければ、知っている、とはいえないんじゃないかな、と僕は思うよ」

「うん、私も、そう思う」

「よかった、意見が一致して」

「どうして、よかったの?」

「意見が一致すると、それなりに嬉しいものだよ、人って」

「そうかな」

「君は嬉しくないの?」

「嬉しいよ」

「じゃあ、それでいいじゃないか」

「うん、いいよ」

「君は、けっこう、素直というか、純粋というか、単純だよね」

「単純が、いくつも合わさって、複雑になるから、その言い方は、間違えではないと思う」

「では、君は、自分は複雑だ、と認識しているの?」

「うん、そうかも」

「それは、いいことかもしれないね」

「どうして?」

「さあ、どうしてだろう」

「でも、君が、いい、と感じたのなら、それは、私にとっても、いい、と思う」

「うん、如何にも君が言いそうな台詞だ」

「私が言ったんだから、私らしくて、当たり前だと思うよ」

「本当に、そう思うの?」

「ううん、違う」月夜は首を振った。「ごめんね。適当に言った」

「謝らなくていいよ」

「でも、失礼だな、と思って」

「失礼でも、いいんだよ」真昼は話す。「親しき中には、礼儀なし、だから」

「それって、本当に、そんな諺があるの?」

「いや、たぶんないと思う」

「たぶん、というのは、どれくらい?」

「それ、言うと思ったよ」

 道が急に開けて、目の前に広場が出現した。巨大な噴水が中心にあって、今も水を吐き出している。月夜も、真昼も、その場で同時に足を止めて、流れ続ける水を観察した。いや、どちらかが足を止めたから、それに伴って、もう一方も歩くのをやめたのかもしれない。

 夜空を映す水面は、綺麗だった。

 それは、エネルギーの消費が抑えられているから、ではない。

 月夜は、直感的に、そう思った。

「ねえ、月夜。僕と一緒に、人生を攻略しない?」

 彼女が黙っていると、真昼が唐突にそんなことを言った。

「えっと、それは、どういう意味?」

「うん、つまりね」真昼は人差し指を立てる。「僕と結婚してくれないかな、という意味なんだ」

 月夜は、彼の目を見て、それから、一度、瞬きをする。

「私は、結婚できる年だけど、君は、まだ、結婚できる年ではない」月夜は、真顔で答えた。「だから、できません」

「君さ、僕が、今、どれくらいの度胸が必要だったか、分かる?」

「表現する単位が不明で、私は君じゃないから、分からない」

 真昼は月夜を抱きしめた。

「……何?」月夜は尋ねる。

「コート、返して」真昼は言った。
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