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第1章 光
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暗闇月夜は、その日家に帰らなかった。
閑散とした学校の教室で、彼女は自分の席に座り、黙って本を読んでいる。黒板が生み出す暗黒が室内に充満し、窓の外から差し込む月明かりはスポットライト、規則正しく整列した机は生物を形作る細胞を連想させ、この空間を独立した場所として際立たせている。音がなければ空気もない。いや、もちろん空気は存在するが、彼女が呼吸をしても、取り込まれる酸素と、吐き出される二酸化炭素の量が均一である限り、存在しないのと同じことになる。とにかく、広がりゆく暗黒の世界で、彼女は長い間一人だった。
彼女が家に帰らない理由は特にない。家に帰っても誰もいないから、このまま学校に残っていよう、といった至極簡単な決定を行ったにすぎない。そんな簡単な決定をするのにも、しかし、やはり、最初の内はそれなりの度胸を必要とする。彼女が家に帰らないのは初めてではなかったが、それでも、こんな時間に学校に一人でいる、といった状況は、想像以上にスリリング、そして、想像していた通りにエキサイティングだった。
窓は開いている。できた隙間から夜の冷たい風が室内に吹き込んで、押さえている本のページをぱらぱらと靡かせた。本を読むとき、彼女は栞を使わない。たとえどこまで読んだか忘れてしまっても、それなら、過去に読んだ部分を、一度も読んだことがないと思い込んで、もう一度読み返すだけだ。こういうことができる人間は、しかし以外と少ないらしい。そういった意味では、彼女は特異な存在だったし、言い方を変えれば、通常ではないという意味で異常だった。
読んでいた本を閉じ、彼女は軽く伸びをする。澄んだ瞳は月明かりを反射し、今は半透明に輝いていた。青白い光を宿すその瞳は、見るものに冷徹な印象を植えつける。その内側に微かながら確かな暖かさを見出だせる者は、今のところ、彼女以外には一人しかいなかった。
その一人が、教室の扉を明けて、彼女のもとへやって来る。
月夜は顔をそちらに向けて、彼と同じタイミングで挨拶をした。
「やあ」
「うん」
挨拶というものは、しなくても良いと言えば、たしかにする必要はない。してもしなくても意思の疎通はできる。そもそも、何が挨拶か、というのは人によって違っている。片手を上げたり、ちょっとした声を発したり、頷いたり、そうした行為が挨拶として通る人間も存在する。彼女の場合、それは「うん」という簡単な言葉で、これ以上ないくらい簡略化された情報発信だった。
月夜のもとにやって来た少年は、彼女の隣の席に腰を下ろす。
「今日も一人?」彼が尋ねた。
「うん」月夜はそれに応じる。顔は彼の方を向いて、冷徹さを帯びた瞳が彼の目を射抜いた。
「君は、一人が好き? それとも、誰かといる方が良い?」
「どちらかというと、一人」月夜は説明する。「でも、一緒にいるのが君なら、いい」
少年は彼女が読んでいた本を手に取り、表紙を眺める。本は新品同様に綺麗で、事実その通り新品だった。けれど、彼女が本を購入した時点で、それは新品ではなくなる。この理屈は、ほかの事象にも通ることが多い。境界線ははっきりとは存在しない。数学の授業で境界条件の示し方を習ったから、月夜は、数学と、ありとあらゆる事象が、根本的な部分で繋がっていることを理解した。
「へえ、古典か」少年が呟く。「君は、古典、という柄には見えないけど」
「そう?」
「うん、そう。どちらかというと、ミステリー、あるいは、SFという感じだね、僕の中では」
「ミステリーは、筆者本人が楽しめる作品で、SFは、誰もが楽しめる作品だと思う」
「どういう意味?」
「そのままの意味」
「じゃあ、古典は?」
「古典は、時代を超えて楽しめる作品」
「まあ、そうだね」少年は何かを思いついたような顔をし、人差し指を立てる。「あ、じゃあ、君は、もし過去に戻れるとしたら、どの時代に戻りたい?」
「どうして、そんなことを訊くの?」
「なんとなく、思いついたからだよ」
「私は、小学生の頃に戻りたい」
「それは、時代とは言わない気がするけど」
「うん……。……時代なら、奈良時代、かな」
「どうして、その時代がいいの?」
「ごめんなさい、適当に言った」月夜は本当に申し訳なさそうな顔をする。「もう少し、考えてから答えればよかった」
「いや、もとの質問が適当だったから、適当に答えるのは、適当だよ」
「そうかな?」
「うん、そう」少年は笑う。「君さ、今の冗談、通じてる?」
「うん」
「面白かった?」
「うん、面白かったよ」
「じゃあ、少しは笑ったら?」
「……私、今、笑っていなかった?」
「笑っていない」少年は言った。「でも、それでいいよ」
月夜は、余程のことがない限り笑わない。面白いことがあっても、楽しいことがあっても、すべて一律で無表情で処理される。だから、彼女の冷徹さはより一層引き立てられることになる。その中に暖かさを見つけるには、それ相応の技術が必要になる。技術も、技能も、練習すればすべて身につく。問題は、練習する覚悟が自分にあるか、ということだ。
学校という場所は、夜になると化物の巣窟になる。そんな怪談話を聞いて、友達と一緒に夜の学校に忍び込んだことがあったな、と月夜は昔のことを思い出した。確か小学生のときのことだった。彼女の方から言い出したのではない。多くの場合、月夜は自ら提案をしない。そのときも友達に誘われて、断る理由がなかったから付き合った、というだけだった。無責任といえばそうかもしれないが、彼女が友達についていっても、それで迷惑を被る人間は誰もいない。そのときから彼女は一人だったし、両親の代わりになる人間は誰もいなかったから、もしかすると、そんな寂しさを紛らわすために、友達の誘いに乗ったのかもしれない。
「とても静かだ」
少年は椅子から立ち上がり、教室の中を歩き回る。自主的な行動が少ない月夜とは対象的に、彼は割とひっきりなしに動く。それが自分の使命だとでもいうように活動するから、月夜は彼が不思議だった。そんな彼の行動を見ても、彼女がそれを止めようと思うことはない。そもそも、止める必要がない。余程危ないことをしない限りは、自分が彼に干渉する必要はない、というのが彼女の基本的なスタンスだった。
「君は、明日はどうするつもり?」窓の傍に置いてある花瓶を手に取って、少年が質問した。
「どうって、どういう意味?」
「今日は家に帰らないで、明日はどうやって、学校で生活をするの?」
「まだ、零時を迎えていないから、なんとかなると思うよ」
「じゃあ、やっぱり一度家に帰るの?」
「うん」
「そう……。それなら、どうやって校門の外に出るか、考えておかないとね」
「たしか、裏口が開いているから、大丈夫」
「裏口? どうして、開いているの? もともと、鍵がかかっていない、とか?」
「分からないけど、いつも開いている」
「心当たりは?」
「心当たりは、ない」月夜は答える。「何か分かったら、君に教えるね」
「いや、いいよ、別に」
「……どうして?」
「気になるわけではないんだ。ちょっと、話がそういう流れだったから、訊いてみようかな、と思っただけで」
「そういう流れって、どういう流れ?」
「君に尋ねた方がいいかなと思った、ということ」
「うん」
「それでよかった?」
「うーん、分からない」
「分かる必要はないよ」
「うん」
「君は、花は好き?」少年は花瓶から水仙を一本引き抜く。
「どちらかといえば、好きだと思う」
「具体的に、どんなところが?」
「花は、どれも綺麗だから、綺麗なものは、好き」
「君の、綺麗、の基準は?」
「基準って?」
「どういう条件が揃ったら、綺麗と感じるか、というデータ」
「それは、考えたことがないから、分からない」
「じゃあ、ちょっと考えてみてよ」
「どうして?」
「気になるから」
少年がそう言うと、月夜は冷徹な視線を彼に向けて、一度頷いた。
「分かった」
彼は満足そうに笑い、窓の外に顔を向ける。
当然、今、この学校には彼らしかいない。反対にいえば、二人がいるだけで充分だった。この世界に存在するものは、過密にも、過疎にも、そのどちらの状態にもならない。自然と淘汰され、必然的な量としてそこに存在する。だから、彼も、彼女も、今この場所に存在するべく存在する、と考えることもできる。ただし、どのように考えても、それで事実が変わるわけではない、ということを留意しておく必要がある。考えるのは人間の特権だが、どのように考えても、世界そのものが変わることはない。
窓の外に街の明かりは見えなかった。近くに人が住んでいないからだ。ここから歩いて帰るとなれば、多少なりとも時間がかかる。月夜は、毎日電車に乗ってここに来ていた。けれど、歩いて帰ることもできなくはない。少年は、いつも月夜を送ったあと、そのままどこかへと消えていく。だから、もしかすると、彼はどこにも住んでいないのかもしれない。宇宙は広いから、彼が地球に住んでいる確証はない。そんなふうに考えられるのも、このファンタジックな空気感があってこそだ、と月夜は考える。
「うん、分かった」
暫くして、月夜は彼の質問に対する答えが出たから、呟いた。
「私に利益を与える可能性があるものは、すべて、綺麗だと感じる」
少年は彼女を見る。
「じゃあ、君にとってプラスになるものは、全部綺麗なんだね?」
「うん、そう」
「僕は、綺麗?」
「うん、綺麗だよ」
「君にとって、利益になる?」
「うん、なる」
「どんな?」
「一緒にいると、楽しい」
「本当に?」
「本当」
「どれくらい楽しいの?」
「どれくらいというのは、どんな単位を使って表現したらいい?」
「うーん、色々あるけど、ノット、が一番適切かな」
「一ノットは、どれくらい?」
「さあね、僕には分からない」
「それじゃあ、上手く説明できないよ」
「うん、それでも、やってみるから、面白くなるんじゃないか」
「君は面白いの?」
「面白いね、とても。君は?」
「面白いよ。そして、楽しい」
「で、僕の価値は何ノットくらい?」
「たぶん、五・二ノットくらいだと思う」
「へえ、どうして?」
「なんとなく、そう思った」
「なるほど」
「面白かった?」
「うん、まあ」
「まあというのは、どれくらい?」
「三ノットくらいかな」
「そう、分かった」
「分からないよ、全然」
二人が口を閉じると、途端に静寂が辺りを支配するようになる。静寂とは、何も聞こえないという意味ではない。音は確かに存在する。それらの音は確固とした意味を持たないから、意味を認識する人間にとっては、何も聞こえないのと同等になる。
月夜は再び本を手に取り、ページを捲って読書を再開した。自分がどこまで読んだのか覚えていなくても、物語はどこを読んでも面白い。自分ではない誰かの人生を謎る行為は、時空を超えるみたいで、自分がどこにいるのかさえ分からなくなる。もしかすると、自分はどこにもいないのかもしれない。それでも、少年が彼女を認識してくれるから、そうやって他人から把握されて、初めて自分が存在するのが分かる。人間は一人では生きていけないというのは、おそらくはそういう意味だろう。人間は、自分一人しか存在しないのなら、自分を把握することすらできない脆弱な思考力しか持っていない。
「もう少し、君のことが知りたいな」教室の後方に移動していた少年が、沈黙を破って彼女に質問した。
月夜は本を持ったまま、顔だけを後ろに向けて、彼の姿を捉える。
「私?」
「うん、そう」
「具体的に、どんなことが知りたいの? それと、もう少し、というのはどれくらい?」
「最初に具体的な内容を決めないで、ランダムに物事を知りたいんだ。それから、もう少しというのは謙遜だから、あまり気にしなくていいよ」
「あまり、というのは、どれくらい?」
「それも気にしなくていい」少年は笑う。「僕が量的な言葉を使っても、君が気にする必要はない、と伝えておくよ」
「分かった」
「じゃあ、まずは……。君は、どんなタイプの人が好みなの?」
月夜は読んでいた本をまた閉じて、それを机の上に置く。
「それは、どういう意味?」
「うん、つまりね」少年は手近な席に座った。「君の恋愛感覚について尋ねているんだ」
「恋愛と、親交は、何が違うの?」
「恋愛は、生物学的にいえば、よりよい個体を残せそうだ、と遺伝子が判断した者に向けられる感情と、それに基づく関係。そして、親交は、自分に楽しみを与えてくれる者に対して向けられる感情と、その関係のこと」
「じゃあ、恋愛も、親交も、綺麗?」
「たしかに、そうかもしれない」
「君はどんな人が好きなの?」
「僕? 実は、僕は、なかなか他人を好きになれないんだ」
「どうして?」
「自分が嫌いだから」
「自分が嫌いだと、どうして他人を好きになれないの?」
「物事は、すべて、まず自分に起こり、次に他人へと向かうからだよ」少年は言った。「たとえば、自分でルールを守れなければ、他人にそれを強要することはできない。それと同じ。まずは自分を攻略し、次に他人の攻略に挑戦する。自分を攻略できなければ、他人に挑戦することはできない。だから、自分を好きになれない僕は、そこで足止めを食らって、次の段階に進めないんだ」
「それは、理屈? それとも、言い訳?」
「なかなか鋭い質問だね」
「どっち?」
「うん、たぶん、言い訳」
「うん、私もそう思う」
「君ってさ、裏表がないよね」
「裏と、表?」
「そう……。つまり、人を選ばない、ということ。それはいいことかもしれないけど、自分を危険に晒すこともあるから、気をつけた方がいいよ」
「うん」
「で、君は、どんなタイプの人が好きなの?」
「私は、とりあえず、君が好き」
「とりあえず、というのは?」予想外の答えで、少年は思わず笑ってしまった。
「君がしてくれた説明と照らし合わせて、自分にとって相応しい回答を考えたら、そうなった」
「今のところ、僕は好きだ、ということ?」
「そう」
「それは、なんていうのか、まあ、嬉しいよ」
「誰が?」
「僕が」
「私も、嬉しい」
「へえ、どうして?」
「君が、嬉しいから」
「その感情は、綺麗?」
「結果的に私も嬉しくなって、それは私の利益になるから、綺麗」
「その台詞、ほかの人には言わない方がいいよ」
「……どうして?」
「僕以外の人間には、通用しないと思うから」
「それは、何を根拠に言っているの?」
「根拠はない。けれど、なんとなくそんな気がする。僕は、心が狭いから、すぐに諦める癖がある。君がそういう性格をしていても、ふーん、と思うだけで終わってしまう。気に食わなかったり、気に入らなかったりしても、なんとなく受け流せる、ということ」
「うん」
「だから、君のその言葉にも、ちゃんと好意が含まれているんだな、と勝手に解釈した」
「そう……」
「……もしかして、傷つけてしまった?」
「え、なんで?」
「いや、寂しそうな顔をしているな、と思ってさ」
「そう?」月夜は自分の頬に触れる。
「いや、それは違うか」彼は言った。「君は、いつもそんな顔だったね」
天井のどこかで回る換気扇が、この部屋の空気を撹拌している。プロペラが回転する度に過去が消去されて、数秒先の未来が作り出される。そんな奇妙な連想をしている間にも、時間は確実に過ぎ去り、気づいたときには自分はすでにそこにいない。月夜は、そんな訳の分からない連想をすることがあった。自分で考えたいと思っているわけではなくても、自然とそういったことを考えてしまう。だから、無意識の内に、彼女の中の誰かが、そんな思考を望んでいるのかもしれない。
それでは、その発想は何のためにするのだろう?
彼女には分からなかった。
月夜は椅子から立ち上がり、背凭れにかけてあったリュックを背負う。
「もう、帰るの?」彼女の様子を見て、少年が質問した。
「うん、帰る」
「じゃあ、送っていくよ」
「うん」
「忘れ物はない?」
「たぶん、忘れて困るようなものは、ない」
少年は笑った。
教室の扉を開けて、リノリウムの廊下を歩く。細かい穴がいくつも開いた天井がずっと向こうまで続いていて、非常灯が二人をその先へと誘った。消火栓の赤いランプと、水道から漏れ出る水の音を頼りに、二人は昇降口へと向かっていく。廊下にある窓はすべて鍵がかかっていたが、その向こう側に広がる空は、すぐにそこにあるように感じられた。
昇降口で外靴に履き替えて、裏口を目指す。ビオトープに棲む蛙が、何かを呼ぶように鳴いていた。
月夜が言った通り、裏口に鍵はかかっていない。監視カメラもないから、誰も二人の姿を捕捉することはできない。
それでも、木菟だけは、きっと彼らを捉えている。
街灯もない夜道を、二人は並んで歩いた。
「君は、どうして学校に来ているの?」
歩き始めて数分してから、少年が月夜に尋ねた。
「学校で勉強するのは、権利だから」彼女は話す。「権利は、正しく使う必要がある、と聞いたことがある」
「うん、それはそうだね」
「君は、どうして?」
「え?」
「どうして、学校に来ているの?」
「さあ、どうしてかな」
「理由もないのに、来ているの?」
「そうかもしれない」
「学校は楽しい?」
「うん、まあね」
「どこが、一番楽しい?」
「それは、場所を訊いているの? それとも、何が楽しいか、という質問?」
「どっちも」
「場所は教室で、楽しいのは、下校しているときかな」
「下校は、今してるよ」
「そう。君と帰るのは、それなりに面白いんだ」彼は言った。「でも、それは、日中に学校に通っているからだよ。もし下校だけ独立して取り出すことができても、きっとそこに面白さはない。過程が大事だということだね。何事もそうかもしれない。人生だって、ただ死ぬだけではつまらない。ずっと生きてきたから、死ぬときにそれなりに納得することができるんだ」
「君は、いつかは死にたい?」
「うん、いつかはね」
「どんなふうに死にたい?」
「君は?」
「私は、一人で死にたい」
少年は黙った。
自動車が通らないから、二人が黙れば辺りは静かになる。
月が二人を見下ろしていた。
「……どうして、一人で死にたいの?」彼は尋ねる。
「一人の方が、寂しくないから、だと思う」
「どういう意味?」
「周りに誰かがいたら、その人が、悲しい思いをするかもしれない、と気を遣わなくてはならなくなる、という意味」
「それが、寂しいの?」
「うん、寂しい」
「人が寂しさを感じるのは、どうしてだろう?」
月夜は黙って考える。
涼しい風が二人の間を通り抜けた。
「自分にとって損失になるから、感覚的に辛い思いをすることで、死を未然に防ぐためだと思う」彼女は言った。「自分にとって不利益だから、綺麗じゃない、ということ」
「でも、寂しいのは、綺麗だよ」
「そう?」
「そうさ」
「君は、寂しいは、綺麗、と感じるの?」
「うん、感じるよ」
「そっか」
「君は感じないの?」
「うん、感じる」
「それじゃあ、君が言った『綺麗』の定義は、もう一度考え直さないといけないね」
「そうかも」
「がっかりした?」
「何が?」
「自分の定義が、批判されて」
「いや、あまり」
「じゃあ、少しはしたんだね」
「がっかりはしてないけど、不利益でもないから、それでよかった」
「それって、どれのこと?」
「うーん、分からない。もう、眠くて、あまり頭が回らない」
「そう。じゃあ、すぐに寝るといいよ。歩きながらでも、眠れないことはないから」
「君は、歩きながら眠れるの?」
「眠ろうと思えば、いつでも眠れる」
「私は、眠ろうと思ったことがないよ」
「いつも、自然と眠ってしまう、ということ?」
「そんな感じ」
「いいね。眠る努力をしないでも眠れるのは、エネルギーの消費が最小限で、綺麗だ」
「綺麗?」
「うん」
「私と、睡眠は、どっちが綺麗?」
「どっちも」
「どちらかだったら、どっち?」
「睡眠」
いつも電車で帰る道を歩いて通るから、普段とは違う発見がある。けれど、それほど長い旅程というわけでもないから、家にはすぐに到着する。電車を使った方が便利だというだけで、決して歩けない距離ではなかった。それに、新しい発見があるといっても、電車で移動するときと視点が違うだけで、歩いて帰ったことも何度かあるから、完全に新鮮な気持ちにはなれない。今日みたいに夜に下校することもあったから、どちらかというと、久し振り、といった方が正しかった。
少年が歩く速度も、月夜が歩く速度も、もともと大して変わらない。だから、お互いに余計な労力をかけなくて済む。愛情は、自分を殺して相手に尽くすことで生まれるが、できるなら、自分を殺す度合いが小さくて、相手に尽くす度合いが大きい方が良い。マイナスが少なくて、プラスが多いなら、それ以上のものはない。しかしながら、実際にはそう上手くいくことは少ない。適度にバランスをとろうとしても、必ず多少はどちらかに傾く。二人の場合、少年はどちらかというと自分勝手で、月夜は彼に対して従順だったから、少年から見ればプラス、月夜から見ればマイナスだった。
その差は、大々的に示すべきものではない。誤差の範囲内として処理できる。月夜も、彼も、自分のことが大切だったが、それと同じくらい相手のことも大切だった。少年は、自分で自分を好きになれないと言ったが、それは彼の理想が高すぎるせいかもしれない。月夜にはそれが分かっていたから、彼の説明を黙って受け入れることにした。
左右には住宅街が広がっている。街灯はすべて消えていて、不審者がいても気づかない可能性が高い。照明が機能を果たしていないのは、そういった人物が少ないからかもしれないが、それ以上に、エネルギーの消費を押さえたい、といった誰かの意思がはたらいていると考えた方が自然だ。光があれば、自然と人が集まってくる。だから、光を消せば、人はあまり集まらない。輝いているスターがいれば、誰だってその人のもとに集まりたくなるし、コンサート会場の照明が消えれば、人々は自然と駅の方へと流れる。人も、結局のところ蛾と変わらない。それが悪いという話ではなく、むしろ月夜はそんな哀れさが好きだった。
結果的に、家に着くまで一時間ほど歩き続けた。
少し疲れて、息が上がってしまった。
玄関の前で月夜が振り返り、少年に小さく挨拶をする。
「さようなら」
少年は軽く手を上げ、それに応じた。
「うん、またね」
彼が暗闇の中に消えるまで、月夜はその背中を見続ける。少年は途中で振り返り、彼女だけに聞こえる声で言った。
「そういえば、僕には名前がないから、君につけてもらおう、と思ったんだけど」
「名前?」月夜は首を傾げる。「私は、名前をつけたことがないから、ほかの人に頼んだ方がいいと思う」
「でも、君につけてもらいたいんだ」
少年の要望を聞いて、月夜は頷いた。
「分かった」
「すぐに考えられそう?」
「すぐというのは、どれくらいの時間?」
「寒いから、五分くらいでお願いできる?」
「うん、できる」
「じゃあ、少し待つよ」
「うん……」
あと五時間もすれば、二人とも再び学校に向かう。すぐに再会できるから、それまでに考えるという方法もあったが、月夜は、彼に頼まれたことは基本的に断らなかった。
二分と三十秒が経過して、月夜は答えを出すに至った。
「できた」
少年は顔を上げる。
「どんな名前になった?」
「私が月夜だから、君は真昼」
彼女の返答を聞いて、少年は笑った。
「随分と単純な名前だね」
「そう?」
「うん、そうだよ」
「じゃあ、変える?」
「いや、いいよ、そのままで」少年は頷く。「僕は、これから、真昼、でいくよ」
「変な名前で、ごめんなさい」
「大丈夫だよ、これで」
「うん」
「じゃあ、またね、月夜」
「おやすみなさい」
前を向いて、真昼は夜の街へと消えていく。
月夜は玄関を開けて、家の中に入った。
ドアが閉まる。
日の光が、地平線の下で待っていても、彼女の夜は終わらない。
閑散とした学校の教室で、彼女は自分の席に座り、黙って本を読んでいる。黒板が生み出す暗黒が室内に充満し、窓の外から差し込む月明かりはスポットライト、規則正しく整列した机は生物を形作る細胞を連想させ、この空間を独立した場所として際立たせている。音がなければ空気もない。いや、もちろん空気は存在するが、彼女が呼吸をしても、取り込まれる酸素と、吐き出される二酸化炭素の量が均一である限り、存在しないのと同じことになる。とにかく、広がりゆく暗黒の世界で、彼女は長い間一人だった。
彼女が家に帰らない理由は特にない。家に帰っても誰もいないから、このまま学校に残っていよう、といった至極簡単な決定を行ったにすぎない。そんな簡単な決定をするのにも、しかし、やはり、最初の内はそれなりの度胸を必要とする。彼女が家に帰らないのは初めてではなかったが、それでも、こんな時間に学校に一人でいる、といった状況は、想像以上にスリリング、そして、想像していた通りにエキサイティングだった。
窓は開いている。できた隙間から夜の冷たい風が室内に吹き込んで、押さえている本のページをぱらぱらと靡かせた。本を読むとき、彼女は栞を使わない。たとえどこまで読んだか忘れてしまっても、それなら、過去に読んだ部分を、一度も読んだことがないと思い込んで、もう一度読み返すだけだ。こういうことができる人間は、しかし以外と少ないらしい。そういった意味では、彼女は特異な存在だったし、言い方を変えれば、通常ではないという意味で異常だった。
読んでいた本を閉じ、彼女は軽く伸びをする。澄んだ瞳は月明かりを反射し、今は半透明に輝いていた。青白い光を宿すその瞳は、見るものに冷徹な印象を植えつける。その内側に微かながら確かな暖かさを見出だせる者は、今のところ、彼女以外には一人しかいなかった。
その一人が、教室の扉を明けて、彼女のもとへやって来る。
月夜は顔をそちらに向けて、彼と同じタイミングで挨拶をした。
「やあ」
「うん」
挨拶というものは、しなくても良いと言えば、たしかにする必要はない。してもしなくても意思の疎通はできる。そもそも、何が挨拶か、というのは人によって違っている。片手を上げたり、ちょっとした声を発したり、頷いたり、そうした行為が挨拶として通る人間も存在する。彼女の場合、それは「うん」という簡単な言葉で、これ以上ないくらい簡略化された情報発信だった。
月夜のもとにやって来た少年は、彼女の隣の席に腰を下ろす。
「今日も一人?」彼が尋ねた。
「うん」月夜はそれに応じる。顔は彼の方を向いて、冷徹さを帯びた瞳が彼の目を射抜いた。
「君は、一人が好き? それとも、誰かといる方が良い?」
「どちらかというと、一人」月夜は説明する。「でも、一緒にいるのが君なら、いい」
少年は彼女が読んでいた本を手に取り、表紙を眺める。本は新品同様に綺麗で、事実その通り新品だった。けれど、彼女が本を購入した時点で、それは新品ではなくなる。この理屈は、ほかの事象にも通ることが多い。境界線ははっきりとは存在しない。数学の授業で境界条件の示し方を習ったから、月夜は、数学と、ありとあらゆる事象が、根本的な部分で繋がっていることを理解した。
「へえ、古典か」少年が呟く。「君は、古典、という柄には見えないけど」
「そう?」
「うん、そう。どちらかというと、ミステリー、あるいは、SFという感じだね、僕の中では」
「ミステリーは、筆者本人が楽しめる作品で、SFは、誰もが楽しめる作品だと思う」
「どういう意味?」
「そのままの意味」
「じゃあ、古典は?」
「古典は、時代を超えて楽しめる作品」
「まあ、そうだね」少年は何かを思いついたような顔をし、人差し指を立てる。「あ、じゃあ、君は、もし過去に戻れるとしたら、どの時代に戻りたい?」
「どうして、そんなことを訊くの?」
「なんとなく、思いついたからだよ」
「私は、小学生の頃に戻りたい」
「それは、時代とは言わない気がするけど」
「うん……。……時代なら、奈良時代、かな」
「どうして、その時代がいいの?」
「ごめんなさい、適当に言った」月夜は本当に申し訳なさそうな顔をする。「もう少し、考えてから答えればよかった」
「いや、もとの質問が適当だったから、適当に答えるのは、適当だよ」
「そうかな?」
「うん、そう」少年は笑う。「君さ、今の冗談、通じてる?」
「うん」
「面白かった?」
「うん、面白かったよ」
「じゃあ、少しは笑ったら?」
「……私、今、笑っていなかった?」
「笑っていない」少年は言った。「でも、それでいいよ」
月夜は、余程のことがない限り笑わない。面白いことがあっても、楽しいことがあっても、すべて一律で無表情で処理される。だから、彼女の冷徹さはより一層引き立てられることになる。その中に暖かさを見つけるには、それ相応の技術が必要になる。技術も、技能も、練習すればすべて身につく。問題は、練習する覚悟が自分にあるか、ということだ。
学校という場所は、夜になると化物の巣窟になる。そんな怪談話を聞いて、友達と一緒に夜の学校に忍び込んだことがあったな、と月夜は昔のことを思い出した。確か小学生のときのことだった。彼女の方から言い出したのではない。多くの場合、月夜は自ら提案をしない。そのときも友達に誘われて、断る理由がなかったから付き合った、というだけだった。無責任といえばそうかもしれないが、彼女が友達についていっても、それで迷惑を被る人間は誰もいない。そのときから彼女は一人だったし、両親の代わりになる人間は誰もいなかったから、もしかすると、そんな寂しさを紛らわすために、友達の誘いに乗ったのかもしれない。
「とても静かだ」
少年は椅子から立ち上がり、教室の中を歩き回る。自主的な行動が少ない月夜とは対象的に、彼は割とひっきりなしに動く。それが自分の使命だとでもいうように活動するから、月夜は彼が不思議だった。そんな彼の行動を見ても、彼女がそれを止めようと思うことはない。そもそも、止める必要がない。余程危ないことをしない限りは、自分が彼に干渉する必要はない、というのが彼女の基本的なスタンスだった。
「君は、明日はどうするつもり?」窓の傍に置いてある花瓶を手に取って、少年が質問した。
「どうって、どういう意味?」
「今日は家に帰らないで、明日はどうやって、学校で生活をするの?」
「まだ、零時を迎えていないから、なんとかなると思うよ」
「じゃあ、やっぱり一度家に帰るの?」
「うん」
「そう……。それなら、どうやって校門の外に出るか、考えておかないとね」
「たしか、裏口が開いているから、大丈夫」
「裏口? どうして、開いているの? もともと、鍵がかかっていない、とか?」
「分からないけど、いつも開いている」
「心当たりは?」
「心当たりは、ない」月夜は答える。「何か分かったら、君に教えるね」
「いや、いいよ、別に」
「……どうして?」
「気になるわけではないんだ。ちょっと、話がそういう流れだったから、訊いてみようかな、と思っただけで」
「そういう流れって、どういう流れ?」
「君に尋ねた方がいいかなと思った、ということ」
「うん」
「それでよかった?」
「うーん、分からない」
「分かる必要はないよ」
「うん」
「君は、花は好き?」少年は花瓶から水仙を一本引き抜く。
「どちらかといえば、好きだと思う」
「具体的に、どんなところが?」
「花は、どれも綺麗だから、綺麗なものは、好き」
「君の、綺麗、の基準は?」
「基準って?」
「どういう条件が揃ったら、綺麗と感じるか、というデータ」
「それは、考えたことがないから、分からない」
「じゃあ、ちょっと考えてみてよ」
「どうして?」
「気になるから」
少年がそう言うと、月夜は冷徹な視線を彼に向けて、一度頷いた。
「分かった」
彼は満足そうに笑い、窓の外に顔を向ける。
当然、今、この学校には彼らしかいない。反対にいえば、二人がいるだけで充分だった。この世界に存在するものは、過密にも、過疎にも、そのどちらの状態にもならない。自然と淘汰され、必然的な量としてそこに存在する。だから、彼も、彼女も、今この場所に存在するべく存在する、と考えることもできる。ただし、どのように考えても、それで事実が変わるわけではない、ということを留意しておく必要がある。考えるのは人間の特権だが、どのように考えても、世界そのものが変わることはない。
窓の外に街の明かりは見えなかった。近くに人が住んでいないからだ。ここから歩いて帰るとなれば、多少なりとも時間がかかる。月夜は、毎日電車に乗ってここに来ていた。けれど、歩いて帰ることもできなくはない。少年は、いつも月夜を送ったあと、そのままどこかへと消えていく。だから、もしかすると、彼はどこにも住んでいないのかもしれない。宇宙は広いから、彼が地球に住んでいる確証はない。そんなふうに考えられるのも、このファンタジックな空気感があってこそだ、と月夜は考える。
「うん、分かった」
暫くして、月夜は彼の質問に対する答えが出たから、呟いた。
「私に利益を与える可能性があるものは、すべて、綺麗だと感じる」
少年は彼女を見る。
「じゃあ、君にとってプラスになるものは、全部綺麗なんだね?」
「うん、そう」
「僕は、綺麗?」
「うん、綺麗だよ」
「君にとって、利益になる?」
「うん、なる」
「どんな?」
「一緒にいると、楽しい」
「本当に?」
「本当」
「どれくらい楽しいの?」
「どれくらいというのは、どんな単位を使って表現したらいい?」
「うーん、色々あるけど、ノット、が一番適切かな」
「一ノットは、どれくらい?」
「さあね、僕には分からない」
「それじゃあ、上手く説明できないよ」
「うん、それでも、やってみるから、面白くなるんじゃないか」
「君は面白いの?」
「面白いね、とても。君は?」
「面白いよ。そして、楽しい」
「で、僕の価値は何ノットくらい?」
「たぶん、五・二ノットくらいだと思う」
「へえ、どうして?」
「なんとなく、そう思った」
「なるほど」
「面白かった?」
「うん、まあ」
「まあというのは、どれくらい?」
「三ノットくらいかな」
「そう、分かった」
「分からないよ、全然」
二人が口を閉じると、途端に静寂が辺りを支配するようになる。静寂とは、何も聞こえないという意味ではない。音は確かに存在する。それらの音は確固とした意味を持たないから、意味を認識する人間にとっては、何も聞こえないのと同等になる。
月夜は再び本を手に取り、ページを捲って読書を再開した。自分がどこまで読んだのか覚えていなくても、物語はどこを読んでも面白い。自分ではない誰かの人生を謎る行為は、時空を超えるみたいで、自分がどこにいるのかさえ分からなくなる。もしかすると、自分はどこにもいないのかもしれない。それでも、少年が彼女を認識してくれるから、そうやって他人から把握されて、初めて自分が存在するのが分かる。人間は一人では生きていけないというのは、おそらくはそういう意味だろう。人間は、自分一人しか存在しないのなら、自分を把握することすらできない脆弱な思考力しか持っていない。
「もう少し、君のことが知りたいな」教室の後方に移動していた少年が、沈黙を破って彼女に質問した。
月夜は本を持ったまま、顔だけを後ろに向けて、彼の姿を捉える。
「私?」
「うん、そう」
「具体的に、どんなことが知りたいの? それと、もう少し、というのはどれくらい?」
「最初に具体的な内容を決めないで、ランダムに物事を知りたいんだ。それから、もう少しというのは謙遜だから、あまり気にしなくていいよ」
「あまり、というのは、どれくらい?」
「それも気にしなくていい」少年は笑う。「僕が量的な言葉を使っても、君が気にする必要はない、と伝えておくよ」
「分かった」
「じゃあ、まずは……。君は、どんなタイプの人が好みなの?」
月夜は読んでいた本をまた閉じて、それを机の上に置く。
「それは、どういう意味?」
「うん、つまりね」少年は手近な席に座った。「君の恋愛感覚について尋ねているんだ」
「恋愛と、親交は、何が違うの?」
「恋愛は、生物学的にいえば、よりよい個体を残せそうだ、と遺伝子が判断した者に向けられる感情と、それに基づく関係。そして、親交は、自分に楽しみを与えてくれる者に対して向けられる感情と、その関係のこと」
「じゃあ、恋愛も、親交も、綺麗?」
「たしかに、そうかもしれない」
「君はどんな人が好きなの?」
「僕? 実は、僕は、なかなか他人を好きになれないんだ」
「どうして?」
「自分が嫌いだから」
「自分が嫌いだと、どうして他人を好きになれないの?」
「物事は、すべて、まず自分に起こり、次に他人へと向かうからだよ」少年は言った。「たとえば、自分でルールを守れなければ、他人にそれを強要することはできない。それと同じ。まずは自分を攻略し、次に他人の攻略に挑戦する。自分を攻略できなければ、他人に挑戦することはできない。だから、自分を好きになれない僕は、そこで足止めを食らって、次の段階に進めないんだ」
「それは、理屈? それとも、言い訳?」
「なかなか鋭い質問だね」
「どっち?」
「うん、たぶん、言い訳」
「うん、私もそう思う」
「君ってさ、裏表がないよね」
「裏と、表?」
「そう……。つまり、人を選ばない、ということ。それはいいことかもしれないけど、自分を危険に晒すこともあるから、気をつけた方がいいよ」
「うん」
「で、君は、どんなタイプの人が好きなの?」
「私は、とりあえず、君が好き」
「とりあえず、というのは?」予想外の答えで、少年は思わず笑ってしまった。
「君がしてくれた説明と照らし合わせて、自分にとって相応しい回答を考えたら、そうなった」
「今のところ、僕は好きだ、ということ?」
「そう」
「それは、なんていうのか、まあ、嬉しいよ」
「誰が?」
「僕が」
「私も、嬉しい」
「へえ、どうして?」
「君が、嬉しいから」
「その感情は、綺麗?」
「結果的に私も嬉しくなって、それは私の利益になるから、綺麗」
「その台詞、ほかの人には言わない方がいいよ」
「……どうして?」
「僕以外の人間には、通用しないと思うから」
「それは、何を根拠に言っているの?」
「根拠はない。けれど、なんとなくそんな気がする。僕は、心が狭いから、すぐに諦める癖がある。君がそういう性格をしていても、ふーん、と思うだけで終わってしまう。気に食わなかったり、気に入らなかったりしても、なんとなく受け流せる、ということ」
「うん」
「だから、君のその言葉にも、ちゃんと好意が含まれているんだな、と勝手に解釈した」
「そう……」
「……もしかして、傷つけてしまった?」
「え、なんで?」
「いや、寂しそうな顔をしているな、と思ってさ」
「そう?」月夜は自分の頬に触れる。
「いや、それは違うか」彼は言った。「君は、いつもそんな顔だったね」
天井のどこかで回る換気扇が、この部屋の空気を撹拌している。プロペラが回転する度に過去が消去されて、数秒先の未来が作り出される。そんな奇妙な連想をしている間にも、時間は確実に過ぎ去り、気づいたときには自分はすでにそこにいない。月夜は、そんな訳の分からない連想をすることがあった。自分で考えたいと思っているわけではなくても、自然とそういったことを考えてしまう。だから、無意識の内に、彼女の中の誰かが、そんな思考を望んでいるのかもしれない。
それでは、その発想は何のためにするのだろう?
彼女には分からなかった。
月夜は椅子から立ち上がり、背凭れにかけてあったリュックを背負う。
「もう、帰るの?」彼女の様子を見て、少年が質問した。
「うん、帰る」
「じゃあ、送っていくよ」
「うん」
「忘れ物はない?」
「たぶん、忘れて困るようなものは、ない」
少年は笑った。
教室の扉を開けて、リノリウムの廊下を歩く。細かい穴がいくつも開いた天井がずっと向こうまで続いていて、非常灯が二人をその先へと誘った。消火栓の赤いランプと、水道から漏れ出る水の音を頼りに、二人は昇降口へと向かっていく。廊下にある窓はすべて鍵がかかっていたが、その向こう側に広がる空は、すぐにそこにあるように感じられた。
昇降口で外靴に履き替えて、裏口を目指す。ビオトープに棲む蛙が、何かを呼ぶように鳴いていた。
月夜が言った通り、裏口に鍵はかかっていない。監視カメラもないから、誰も二人の姿を捕捉することはできない。
それでも、木菟だけは、きっと彼らを捉えている。
街灯もない夜道を、二人は並んで歩いた。
「君は、どうして学校に来ているの?」
歩き始めて数分してから、少年が月夜に尋ねた。
「学校で勉強するのは、権利だから」彼女は話す。「権利は、正しく使う必要がある、と聞いたことがある」
「うん、それはそうだね」
「君は、どうして?」
「え?」
「どうして、学校に来ているの?」
「さあ、どうしてかな」
「理由もないのに、来ているの?」
「そうかもしれない」
「学校は楽しい?」
「うん、まあね」
「どこが、一番楽しい?」
「それは、場所を訊いているの? それとも、何が楽しいか、という質問?」
「どっちも」
「場所は教室で、楽しいのは、下校しているときかな」
「下校は、今してるよ」
「そう。君と帰るのは、それなりに面白いんだ」彼は言った。「でも、それは、日中に学校に通っているからだよ。もし下校だけ独立して取り出すことができても、きっとそこに面白さはない。過程が大事だということだね。何事もそうかもしれない。人生だって、ただ死ぬだけではつまらない。ずっと生きてきたから、死ぬときにそれなりに納得することができるんだ」
「君は、いつかは死にたい?」
「うん、いつかはね」
「どんなふうに死にたい?」
「君は?」
「私は、一人で死にたい」
少年は黙った。
自動車が通らないから、二人が黙れば辺りは静かになる。
月が二人を見下ろしていた。
「……どうして、一人で死にたいの?」彼は尋ねる。
「一人の方が、寂しくないから、だと思う」
「どういう意味?」
「周りに誰かがいたら、その人が、悲しい思いをするかもしれない、と気を遣わなくてはならなくなる、という意味」
「それが、寂しいの?」
「うん、寂しい」
「人が寂しさを感じるのは、どうしてだろう?」
月夜は黙って考える。
涼しい風が二人の間を通り抜けた。
「自分にとって損失になるから、感覚的に辛い思いをすることで、死を未然に防ぐためだと思う」彼女は言った。「自分にとって不利益だから、綺麗じゃない、ということ」
「でも、寂しいのは、綺麗だよ」
「そう?」
「そうさ」
「君は、寂しいは、綺麗、と感じるの?」
「うん、感じるよ」
「そっか」
「君は感じないの?」
「うん、感じる」
「それじゃあ、君が言った『綺麗』の定義は、もう一度考え直さないといけないね」
「そうかも」
「がっかりした?」
「何が?」
「自分の定義が、批判されて」
「いや、あまり」
「じゃあ、少しはしたんだね」
「がっかりはしてないけど、不利益でもないから、それでよかった」
「それって、どれのこと?」
「うーん、分からない。もう、眠くて、あまり頭が回らない」
「そう。じゃあ、すぐに寝るといいよ。歩きながらでも、眠れないことはないから」
「君は、歩きながら眠れるの?」
「眠ろうと思えば、いつでも眠れる」
「私は、眠ろうと思ったことがないよ」
「いつも、自然と眠ってしまう、ということ?」
「そんな感じ」
「いいね。眠る努力をしないでも眠れるのは、エネルギーの消費が最小限で、綺麗だ」
「綺麗?」
「うん」
「私と、睡眠は、どっちが綺麗?」
「どっちも」
「どちらかだったら、どっち?」
「睡眠」
いつも電車で帰る道を歩いて通るから、普段とは違う発見がある。けれど、それほど長い旅程というわけでもないから、家にはすぐに到着する。電車を使った方が便利だというだけで、決して歩けない距離ではなかった。それに、新しい発見があるといっても、電車で移動するときと視点が違うだけで、歩いて帰ったことも何度かあるから、完全に新鮮な気持ちにはなれない。今日みたいに夜に下校することもあったから、どちらかというと、久し振り、といった方が正しかった。
少年が歩く速度も、月夜が歩く速度も、もともと大して変わらない。だから、お互いに余計な労力をかけなくて済む。愛情は、自分を殺して相手に尽くすことで生まれるが、できるなら、自分を殺す度合いが小さくて、相手に尽くす度合いが大きい方が良い。マイナスが少なくて、プラスが多いなら、それ以上のものはない。しかしながら、実際にはそう上手くいくことは少ない。適度にバランスをとろうとしても、必ず多少はどちらかに傾く。二人の場合、少年はどちらかというと自分勝手で、月夜は彼に対して従順だったから、少年から見ればプラス、月夜から見ればマイナスだった。
その差は、大々的に示すべきものではない。誤差の範囲内として処理できる。月夜も、彼も、自分のことが大切だったが、それと同じくらい相手のことも大切だった。少年は、自分で自分を好きになれないと言ったが、それは彼の理想が高すぎるせいかもしれない。月夜にはそれが分かっていたから、彼の説明を黙って受け入れることにした。
左右には住宅街が広がっている。街灯はすべて消えていて、不審者がいても気づかない可能性が高い。照明が機能を果たしていないのは、そういった人物が少ないからかもしれないが、それ以上に、エネルギーの消費を押さえたい、といった誰かの意思がはたらいていると考えた方が自然だ。光があれば、自然と人が集まってくる。だから、光を消せば、人はあまり集まらない。輝いているスターがいれば、誰だってその人のもとに集まりたくなるし、コンサート会場の照明が消えれば、人々は自然と駅の方へと流れる。人も、結局のところ蛾と変わらない。それが悪いという話ではなく、むしろ月夜はそんな哀れさが好きだった。
結果的に、家に着くまで一時間ほど歩き続けた。
少し疲れて、息が上がってしまった。
玄関の前で月夜が振り返り、少年に小さく挨拶をする。
「さようなら」
少年は軽く手を上げ、それに応じた。
「うん、またね」
彼が暗闇の中に消えるまで、月夜はその背中を見続ける。少年は途中で振り返り、彼女だけに聞こえる声で言った。
「そういえば、僕には名前がないから、君につけてもらおう、と思ったんだけど」
「名前?」月夜は首を傾げる。「私は、名前をつけたことがないから、ほかの人に頼んだ方がいいと思う」
「でも、君につけてもらいたいんだ」
少年の要望を聞いて、月夜は頷いた。
「分かった」
「すぐに考えられそう?」
「すぐというのは、どれくらいの時間?」
「寒いから、五分くらいでお願いできる?」
「うん、できる」
「じゃあ、少し待つよ」
「うん……」
あと五時間もすれば、二人とも再び学校に向かう。すぐに再会できるから、それまでに考えるという方法もあったが、月夜は、彼に頼まれたことは基本的に断らなかった。
二分と三十秒が経過して、月夜は答えを出すに至った。
「できた」
少年は顔を上げる。
「どんな名前になった?」
「私が月夜だから、君は真昼」
彼女の返答を聞いて、少年は笑った。
「随分と単純な名前だね」
「そう?」
「うん、そうだよ」
「じゃあ、変える?」
「いや、いいよ、そのままで」少年は頷く。「僕は、これから、真昼、でいくよ」
「変な名前で、ごめんなさい」
「大丈夫だよ、これで」
「うん」
「じゃあ、またね、月夜」
「おやすみなさい」
前を向いて、真昼は夜の街へと消えていく。
月夜は玄関を開けて、家の中に入った。
ドアが閉まる。
日の光が、地平線の下で待っていても、彼女の夜は終わらない。
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