The Color of The Fruit Is Red of Blood

羽上帆樽

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第10章 終焉は意図的に

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 翌日の午前中に最終確認を済ませて、僕たちは美術館を去ることになった。ガザエルにお礼を言い、仲間たちと別れを告げた(こんな言い方をすると、まるで大仕事をしたみたいだが、全然大したことはしていない)。

 ウルスとボォダは先に美術館を出たが、僕とリィルは少しだけ残った。ガザエルに言って、ある絵を見せてもらおうと思ったからだ。ある絵とは、もちろん例の青い林檎が描かれた絵だ。

 その絵は今はガザエルの手もとにある。説明がなかったために、色々と情報を仕入れようとしたみたいだが、彼の努力は失敗に終わった。絵の詳細は不明のままで、何一つとして手がかりは掴めなかったみたいだ。ここに置いておいても意味がないので、後日絵を輸送してきた業者に返還し、その後送り主に届けてもらうとのことだった。

「不思議な絵ですな、まったく」最初に会ったときと同じように(というか、彼はずっとそうだったが)、ラフな格好および仕草で、彼は言った。「この手の作品は色々と見てきたが……。……これほどストレートなものは、見たことがありません」

「ストレート?」僕は尋ねる。

「ええ、そうです。皆さん、おっしゃっていたじゃないですか。赤と青の対比が、シニカルだと。そういうことです。シニカルな表現をするにも、これほど明確な対比をする人は、そうはいませんよ」

 ガザエルの話を聞いて、僕はその通りだと思った。そう、ストレート……。この絵には、遠回しな表現は使われていないのだ。気になるのは、やはり”The Fruit”と表現されているところか……。……それさえなければ、完全な対比として成立していた。

 ガザエルにもう一度お礼を言って、僕たちは彼のもとを去った。カウンターの外に出て、見送りをしてくれた彼に頭を下げて、建物の外に出る。

 扉が開くと、眼前に広がる緑の広場が眩しかった。

 少し目が眩む。

「お待ちしていました」

 右隣から声をかけれて、僕はそちらを見た。予想通り、そこにはウルスが立っていた。
「やっぱり、待っていたんですね」僕は笑顔で言った。「ボォダさんに一人で行かせて、いいんですか?」

「彼は既婚者です。家で家族が待っているから、早く帰りたいとおっしゃっていました」

「僕たちに、何か用ですか?」

 僕の問いを受けて、ウルスは笑った。

「ええ、もちろん」彼女は首を傾げる。「いえ……。用があるのは、貴方の方ではありませんか?」

 僕は頷く。

 リィルが隣で僕とウルスのことを交互に見ていたが、僕は構わなかった。

 リィルとウルスと一緒に、僕は美術館の裏にある公園へと向かった。上を見ると、先ほどまで僕たちがいた部屋が見える。昨晩ここにウルスが立っていたのを思い出して、彼女の視点を擬似的に再現できたような気がした。けれど、それもやはりただの幻想だ。僕は彼女にはなれない。

 公園を奥へと進み、展望スペースで足を止める。ウルスはベンチに腰をかけた。僕は彼女の前に立ち、柵に身体を預けて前方を見る。今日は曇っていたが、それほど寒くはなかった。リィルは居場所に困って、最終的にウルスの背後に立った。

「昨日は嘘を吐いたので、まずはそれを謝らなくてはなりませんね」どう始めようかと迷ったが、僕はまず謝罪をした。

「嘘とは?」ウルスが問い質す。

「もちろん、あの絵に関する考察です」僕は素直に言った。「あれは全部、いや、全部とは言いませんが……、まあ、その大半は場を盛り上げるために考えた嘘です。……大変だったんですよ、何も思いつかなくて……。ずっと、つまらない奴だと思われないか、心配だったんです。それを回避することばかり考えていた……。……自分では、あまり人の目を気にしないタイプだと思っていますが、うん、どうやら、そんなことはないようです」

 目だけで後方を見て、ウルスの表情を確認する。彼女は首を傾げたまま固まり、楽しそうに笑みを浮かべていた。そんな表情をしている彼女は、本当にただの少女のように見えた。

 悠長に話しているように思われるかもしれないが、僕の手脚は僅かに震えている。それは、僕が人に向かって何かを話すときに見られる、昔からの症状だ。対人恐怖症と呼ぶのかもしれない。

「昨日は、定冠詞と無冠詞という観点から、あの絵に関する考察を述べましたけど……。……うん、あれは、自分では精一杯のつもりで作った嘘でした。あれ以上の説明は思いつかなかった。……もちろん、本命を除いてですけどね」

「……本命?」背後からリィルの声が聞こえる。

 僕は彼女を無視し、今は説明することに神経を集中させる。そうしないと頭が途中で回らなくなってしまいそうな気がしたからだ。

「ウルスさんの説明を聞いたとき、”The Fruit”をそのままの形で残したのではないかという話題が出て、少しびっくりしました。貴女がそれをあの場で言うのかと思って、驚いたんです。でも、貴女はそんなことはしなかった。それどころか、まったく別の説明を始めたんです。……あそこで”The Fruit”に関する説明を別の方向へと導いたのは、僕へのヒントのつもりだったんですか?」

 僕が後ろを向くと、ウルスは愉快そうな口調で言った。

「解釈はお任せします。そこはそれほど重要ではないでしょう」

 僕は頷き、彼女の方を向いたまま話を再開する。

「これから僕が話すことは、一つの解釈です。だから、これは事実ではないかもしれないし、別の解釈の仕方も沢山あります。その中で、僕が選んだ最も納得のいく考え方はこれだったというだけです。……僕たちは、あの絵とタイトルをもとに、様々な考察を巡らせた。それこそが芸術の在り方なのだと、僕はそう信じています」

 ウルスは笑顔のまま僕を真っ直ぐに見つめる。

 数秒間彼女と視線を合わせたあと、僕は目を逸らして説明を始めた。

「色の三原色をご存知ですか?」僕はゆっくりと歩き出す。「様々な色を作り出すもととなる、マゼンタ、シアン、イエローの三色のことです。まあ、要するに赤青黄色のことですね。光の三原色とは別ですけど、それらの三色が世界を様々に彩っているといって良いでしょう」

 リィルはじっと僕のことを見ている。僕は一瞬だけ彼女に目を向けて、それからまた下を向いた。

「三原色は、赤、青、黄の三種類です。それ故に、混合の方法は全部で四つある。赤と青、赤と黄、青と黄の二色ずつ、そして赤と青と黄の三色すべて……。さて、まずは赤と青の二色ですが、これを混ぜ合わせると紫になります。……僕たちがここに来て、紫色をしていて目にしたものがあるとしたら、何があるでしょう?」

 ウルスは答えを知っていそうだったが、何も答えなかった。

「そう、グレープジュースですね」僕は自分で答えた。「最初の夕食の際に、アルコールが飲めない僕は、それを飲みました。そして、それはウルスさんのヴァイオリンの演奏会場でも配られた……。紫は、グレープジュースの紫です。ここまで来れば、あとの内の一つも同じだと分かるでしょう。赤と黄を混ぜ合わせると、それはオレンジになる。ウルスさんが考察を述べる晩、僕はオレンジジュースを飲みました。そして……、青と黄を混ぜ合わせると、今度は緑色になりますが……。こちらは前者の二つとは違います。これはジュースの色を指しているのではない。……緑色のものは、ジュースのほかに一つだけありました。それは僕たちとウルスさんしか知りません。……そうです、ウルスさんが拾った、青林檎です」

 ウルスとリィルの表情は対称的だった。二人とも無邪気なのに、同じ状況を目の当たりにしても示す反応が違うから、僕は笑ってしまいそうになった。これも状況に対する解釈の違いから生まれる差といえるかもしれない。

「もう一度訊きたいんですが……。ウルスさん、貴女は、本当にあのときあの場所で、青林檎を拾ったんですか?」

 僕が質問すると、ウルスは同じ表情のまま僕に訊き返してきた。

「どう思いますか?」

 僕は踵を返し、反対方向に向かって歩く。

「僕の解釈では、おそらく違うと思います。……誰かから渡されたのでしょう。……その誰かについても、見当はついていますが、今はまだ触れないでおこうと思います」

 そのとき、ウルスは可笑しそうに声を上げて笑った。恥ずかし気に、でも楽しそうに、着ている黒いコートの袖で口もとを押さえた。

「さて、では、それらの色の混ぜ合わせがどう関係してくるのかという話になりますが、実はここには何の関係もない、……いや、色同士の関係は大して強くはないと思います。問題はそこじゃない。……僕は、昨日の晩もう一種類ジュースを飲みました。それが何か、覚えていますか?」

 ウルスに尋ねたつもりだったが、答えたのはリィルだった。

「……アップルジュース」

「その通り」僕は頷いた。「伊達に食事に興味があったわけじゃないみたいだね」

 リィルは眉を顰めたが、彼女の反応には付き合わずに僕は話を進めた。

「そうです。僕たちはアップルジュースを飲みました。……あのアップルジュースを飲んだとき、僕は少し変だなと思ったんです。舌触りがほかのものとは明らかに違っていた。まるで実がそのまま残っているように、完全な液体とはいえないような、そんな流動性を感じたのです」

 僕はウルスを見る。

「ウルスさん、昨晩貴女は、なぜあんなに早く食堂に行ったんですか?」

 ウルスは笑顔で答える。

「もちろん、アップルジュースを作るためです」

「この質問には、答えてくれるんですね」

「面白そうだったから、ついつい口が動いてしまったんです」

 僕は頷く。

「そう……。あのアップルジュースは、あのときあの場所でウルスさんが作ったものだった。だから完全な液体にはなっていなかったんです。おそらく、ミキサーにかけるか、手で擦り潰したかしたんでしょう」

 風が吹き、少しだけ寒さを感じる。空は相変わらず曇っていたが、雨が降りそうな感じではなかった。

「さて、では、ここでもう一度あの絵のタイトルを思い出しましょう。あの絵のタイトルは”The Color of The Fruit Is Red of Blood”。これが何を示しているのか、もうお分かりでしょう。ウルスさん、如何ですか?」

 ウルスは笑顔のまま答えない。どうやら、天邪鬼のようだ。

「……どういうこと?」代わりにリィルが声を発する。

「単純な説明なんだよ」僕は言った。「ブドウから作ったグレープジュースは紫になり、オレンジから作ったオレンジジュースはオレンジになる。じゃあ、リンゴから作ったアップルジュースは、何色になる? リンゴと同じように、赤になるかい?」

 リィルは一度顔を下に向け、それからすぐに答える。

「……黄色?」

「まあ、そうだよね。……その黄色は、あまり関係がないけどね」僕は答えた。「そう、リンゴから作ったリンゴジュースは、赤色にはならない。あの絵のタイトルが述べていたのは、そのことだったんです。”The Fruit”が指していたものは、絵の中の林檎ではなく、ウルスさんがジュースを作るのに使った林檎だった。だから、”The Color of The Fruit Is Red of Blood”……。……ウルスさん、貴女がジュースを作るのに使った林檎は、何色でしたか?」

 ウルスは笑顔のまま答えた。

「赤でした」

 僕は二度頷く。

「……これが、あの絵の真相のすべてです。いや、これは僕の解釈だから、真相とはいえないかな……。まあ、とにかく、僕の解釈では、あの絵のタイトルは、ただウルスさんが使った林檎について説明しているだけだった、ということになります。ジュースに使われている果物は、黄色ではなく赤だ、というメッセージ……。ただそれだけのことだったのです」

 リィルは僕のことをじっと見つめている。ウルスは相変わらず笑っていたが、何か言いたそうな様子が感じ取れた。

「……どうして、絵の中の林檎は青く塗られているの?」

 リィルが僕に尋ねる。彼女の声は震えていた。

「そう、それが問題だ」

 僕はウルスの前で立ち止まり、彼女を正面から見据える。こんなふうに彼女と真っ直ぐに相対するのは初めてだった。

「”The Color of The Fruit Is Red of Blood”というタイトルの”Blood”とは、おそらく単なる比喩でしょう。その点では、この絵の作者はこのメッセージに芸術的な要素を持ち込んだといえます。赤を血に例えることで、硬派な印象を与えようとした……。……しかしながら、実際にはそれだけではなかったはずです。なぜその例えが血でなくてはならなかったのか……。まあ、例えなんだから、そのとき直感的に思いついたものを使っても問題はないはずです。でも……。僕にはそれが、単なる偶然とは思えない。この絵の作者は、あえて血を持ち出した、つまりは、血の話がしたかったんです」

 リィルはもう気づいているはずだった。僕がこれだけキーワードを口にしているのだから、気づかないはずがない。血に最も関係しているのは彼女だ。その次に僕。そして……。

「ウルスさん」僕は彼女に問い質す。「貴女に青林檎を渡したのは、誰ですか?」

 ウルスは答えようとしない。首を傾げたまま笑っているだけだ。

「ルルですか?」

 僕がその名前を口に出しても、彼女は反応しなかった。

 一方で、リィルは少しだけ後ずさりし、そして、ウルスを見て、次に僕に目を向けた。

「それって……」

「そうだよ」僕は頷いた。「絵の中の林檎が青かったのは、この日のためだったんだ。……僕たちを作った彼女……、ルルは、この日のことを分かっていたんだ。……僕も、君も、すべて彼女の手中にあった。……いや、それが本当かは分からない。でも……」

 ウルスはベンチから立ち上がった。

「私だけは、その中に含まれていないと言いたいのね?」

「ええ、そうです」

 リィルは動かない。

「ルルが使いたかったのは、青い林檎だったんだ。……現実に、青い林檎は存在しない。だから青林檎で代用した。それをここまで持ってきて、貴女に使わせようとした。違いますか? それでも貴女は、青くはない、普通の林檎を使った。それが、彼女に対するアイデンティティの表現だからですか?」

 ウルスは僕の傍を通り過ぎ、先ほどの僕と同じように柵に寄りかかる。

「言いませんでしたか? 私は、あなた方の敵ではないと」

「それについて、詳しく教えてもらえませんか?」僕は彼女の方を向いて話す。「ルルは、何をしようとしているんですか?」

 ウルスは目を閉じ、息を吐き出した。初めから計画されているような完璧な挙動だった。

「お教えすることはできません。それは、お二人の力で成されるべきことだからです」

「でも……。……僕とリィルは、貴女とは違うのではありませんか?」

「ルルの支配下に置かれていると言いたいの?」

「ええ」

 リィルが傍に近寄ってくる。それから僕の手に触れ、少しそちらに引っ張った。

 僕は彼女を見る。

「……どういうこと? ウルスは……」

 僕は再びウルスを見る。

「色の三原色をすべて混ぜ合わせれば、黒になるんだ」僕は言った。「赤と青と黄をすべて混ぜ合わせる……。さっき言った混ぜ合わせの、一番最後のパターン」

 リィルもウルスを見ている。ウルスはこちらを振り返り、笑顔のまま首を傾げた。

「彼女は、黒なんだ」

 ウルスが身につけているコートの裾が、風で少し持ち上がる。黒い布地は音を立ててはためき、その下に隠れていた黒いセーターを一瞬だけ覗かせた。

 彼女は、その漆黒の瞳で僕を見つめる。艶を持った綺麗な黒髪が、彼女自身の頰を優しく撫でた。

「でも、それはすべて貴方の解釈なのでしょう?」

 ウルスの表情は変わらない。ずっと笑顔のまま。今までそれほど長い間彼女の笑顔が継続したことはなかった。

「ええ、そうです」僕は頷く。

 立場を変えたように、今度はウルスがゆっくりと歩き始める。

「何度も言いますが……。……私は、お二人の敵ではありません」彼女は歩きながら人差し指を立てた。「彼女もそうでしょう。あの人には、何か考えがあるのです。でも、私には彼女の指示に従うことはできませんでした。きっとこれからもそうするはずです。……いえ、もしかすると、それすらも彼女の手中にあるのかもしれない。それは誰にも分かりません。しかしながら、分からなくても、私はできるだけ自分の意思で行動しようと思います」

「それが、貴女のアイデンティティだからですか?」

「その通り」ウルスは僕に笑顔を向けた。「そう思うことができれば、人生は少しは楽しいものになるでしょう?」

「僕は、今のままでも、充分楽しいです」僕は真顔で話す。「貴女が望んでいることは、何ですか?」

 ウルスは僕の前で立ち止まり、こちらに背を向ける。それから数秒間硬直したあと、後ろを振り返って僕に言った。

「ヴァイオリンを弾くことです」彼女は端的に答えた。「自由に、演奏したいんです」

 そう答えたときも、ウルスは笑っていたが、今まで見たことにないくらい、それは心からの笑顔に見えた。心からの笑顔というとチープだが、なんというのか、子どもが見せるような、そんな無邪気な笑顔に見えたのだ。それもとびきりの無邪気さだった。事実として、彼女はまだ子どもと呼んでも差し支えない年齢だ。彼女の望みも、そんな無邪気さから生じたのかもしれない。

「分かりました。……僕も少し、考えてみようと思います」

 ウルスは首を傾げる。

「また、会えますか?」

「さあ、どうでしょう……」彼女は呟く。「貴方にその気があれば、あるいは……」

 ウルスは僕たちに礼をして、やがてその場から去っていった。僕たちの前には、展望スペースから見える景色だけが残された。彼女がいなくなったことで、遠くの方まで見えるようになった。

 混乱していたリィルに、僕はもう一度説明をした。すべてを話すのは疲れそうだったから、重要なところだけ、理解しやすいように話した。

 おそらく、リィルは理解できなかったのではなく、理解したくなかったのだろう。彼女にはその傾向がある。僕にもないとはいえないが、その度合いは彼女の方が大きい。しかし、それは必ずしも欠点とはいえない。そんなふうに抗うことが、重要なときもあるのだ。

 二人で並んでベンチに腰をかけて、眼下に広がる森とその先の町並みを眺めた。

 最初にここへ着たときと同じシチュエーションだった。

 そして、それはもちろん、あのときとも同じ……。

「また一人、友達が増えちゃったね」徐にリィルが呟いた。

「友達?」遠くを見たまま、僕は彼女に問い質す。

「うん……。……私、なんであんなふうに、彼女に敵対心を抱いていたんだろう……」

「敵対心なんて抱いていたの?」僕は面白くて笑ってしまった。「凄いなあ……」

「もっと、話しておけばよかった」

「また会えるって、言っていたじゃないか。そのときに話せばいいよ」

 コートのポケットで携帯端末が震え、僕はそれを取り出して応答する。相手はメッセージを送っておいた企業の職員で、僕たちにこの仕事の依頼を持ち出した本人だった。

 仕事が完了したことを再度報告し、これから帰宅する旨を相手に告げる。向こうからは報酬の確認があり、何も問題はなかったので、僕は了承し、端末の電源を切った。

「じゃあ、帰ろうか」

 僕はベンチから立ち上がり、リィルを見下ろす。

「うん……」彼女は僕の顔を見上げた。「……ウルスに、ヴァイオリンの弾き方、教えてもらえばよかった」

「え、ヴァイオリン?」僕は少し後ずさりする。「君が弾いたら、三日で弦を交換することになるよ」

「うん、酷いと思う、それ」

「それよりも、ボォダにキャンプの仕方でも教えてもらえば?」

「……キャンプ?」リィルは不思議そうな顔をする。

「うん、そう。彼の趣味、キャンプなんだってさ」

 リィルは暫くの間黙考していたが、やがて何度もうんうんと首を上下に動かした。

「……え、まさか、本気でやろうとしているの?」

「火の起こし方とか、魚の釣り方とか、知りたいかも」

「やめておいた方がいいよ、帰ってこられなくなるから」

 リィルはベンチから立ち上がり、腕を組んだまま歩き始めた。僕は彼女を追う。

「でも……。誰に教えてもらおうかな……」

「だから、ボォダに……」

「駄目だよ、そんなの」リィルは振り返り、僕に言った。「彼は、まだ友達じゃないんだから」





 帰宅してから数日後、僕の家にある荷物が届いた。送り主はあの美術館ということになっていたが、開封してみるとそれがウルスからのものであることが分かった。箱の中に入っていたメモにそう書いてあったからだ。

 中には青色のインクが入っていた。漢字の凸の字のような形をした瓶に入れられており、この国で作られたものではない。ラベルに書かれていたのは英語だったが、どこの国で作られたものなのかは定かではなかった。

 メモにはこう書かれていた。


「いつかその日が来たら」


 メモに書かれていたのはそれだけだったから、僕には意味が分からなかった。けれど、ウルスがそれを伝えてきたということは、何らかの意味があるはずだ。その日が来たらということは、きっと、その日になったらこのインクを使えということだろう。

 リィルにそのインクを見せると、彼女はそれを手に取って、不思議そうに観察し始めた。絵画や彫刻の鑑賞をしたことで、彼女の観察眼は鍛えられたのかもしれない。

「これ、何に使うんだろう……」リィルは呟いた。

「さあ……。ウルスなりの、お土産のつもりなのかも」

「お土産? こんなもの貰っても、どうしようもないと思うけど……」

「絵を描く練習でもしろってことじゃないかな」僕は無責任な発言をした。「ほら、君さ、趣味を探していたじゃないか。絵を描くなんて、君にぴったりだと思うよ」

「いや、別に趣味を探していたわけじゃないけど……。……それより、私にぴったりってどういう意味?」

「特に深い意味はない」

「そういうこと、安々と言わないでほしいな」リィルは僕にインクを返し、腕を組んだ。「私はさ、高級な人材なんから」

「高級? 何が?」

「レアなの」

「何がレアなの?」

 僕は尋ねたが、リィルは答えなかった。

 インクは僕が管理することにした。それに、このインクの使い道について、まったく思い当たる節がないわけではなかった。

 仕事の報酬はすでに貰っていて、僕たちの生活は当面の間は維持できそうだった。もっとも、もともとそれほど危ない状況だったわけではない。普通に生活する分には申し分ないくらいの貯蓄はあったし、僕が望んでいるのは普通の生活でしかない。ただ、リィルは少し違うみたいだった。いつか言っていたように、彼女はメルヘンチックかつエキセントリックな生活をお望みのようだ。

 僕が部屋でデスクワークをしていると、リィルがコーヒーを持ってきてくれた。

「ありがとう」

 僕は礼を述べ、すぐにカップに口をつける。

 以前は分からなかったことだが、一口コーヒーを飲んだ瞬間に、僕はそれがいつもと違うことに気がついた。

「うん、そう、インスタントコーヒー」僕がその点について尋ねると、リィルは悪戯っぽい笑顔を浮かべて答えた。「美術館で作業しているとき、けっこう飲んでいたでしょう? だから、好きなのかな、と思って」

「違うよ」僕は首を振る。「インスタントしかなかったから、仕方なく飲んでいたんだ」

「私は、インスタントじゃないからね」リィルは僕の話を無視する。「そこのところ、忘れないでね」

「インスタントじゃないって、どういう意味?」

「別に」彼女は首を傾げる。「深い意味はない」

 深い意味はともかくとして、彼女が淹れてくれたインスタントコーヒーの味は、どこか深く、そして何より温もりに溢れていた。
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