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第5章 解読は段階的に
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翌日からいよいよ仕事が始まった。
午前八時に昨夜と同様に食堂で食事をとり、九時から勤務時間が始まった。明確に九時からと定められているわけではないが、一応その時間から仕事をすることになっている。
リィルは朝早く起きて風呂に行ったようだ。朝風呂のせいでぼんやりとしていたが、なんとか意識を保って仕事の場には出てきていた(というよりも、僕が引っ張ってきたのだが)。
僕たちの仕事は翻訳だから、作業はそれぞれの部屋で行うことになる。そのため、展示ブロックの奥に部屋があることが、このときに大いに役に立った。
担当する絵画が梱包された状態でそれぞれのブロックに運び込まれ、僕たちは手袋をつけてそれを一つずつ開封していった。額縁に収まった絵画は油を含んだ薄い紙で包まれており、厳重に扱われているのがよく分かる。絵画の説明文を翻訳するのだから、絵画そのものは必要ないと思われるかもしれないが、説明の内容を母語に逐語訳するわけではなく、場合によって臨機応変に翻訳しなくてはならないから、そのときのイメージを得るためにも実物の絵画は必要だった。そういう意味では、僕たちはそれぞれの美的センスを問われることになる。
もっとも、機械翻訳が主流になりつつある現代では、翻訳業の人々にはもとより芸術的な技能が求められる。単純にある言語からある言語へと翻訳するだけなら、文字通り機械的な作業だけで問題ないが、機械翻訳に頼らない、もしくは頼れない場合に僕たちが作業を担当するのだから、その際には人間的なセンスが求められることになる。こうした傾向が表れたのはつい最近のことではなく、実際にはもう少し前からだった。最近になって特に顕著になったというだけにすぎない。
翻訳のやり方は個人によって異なるが、僕は大抵の場合専用のデバイスを用いている。説明の完成形、つまり実際に絵画に添える装飾が施されたものについては、この美術館で用意することになっているから、今回も僕はデバイスを使って翻訳を進めることにした。完成したテキストデータをあとでガザエルに送信するのだ。
部屋の中で椅子に座り、僕は一枚目の絵画の説明の翻訳に取りかかっていた。絵画は全部で十数枚あるから、遅くても三日以内にすべてを完成させなくてはならない。今回僕たちが担当するのは絵画だけではなく、ほかにも様々な種類の芸術作品があった。
僕が最初に担当することになった絵画は、何やら印象的なものだった。はっきりいって、何が描かれているのか分からない。奇抜な色彩が使われており、画の中心から端に向かって同心円状に絵の具の飛沫が広がっているような感じだ。英語で書かれたもとの説明にもこの絵そのものの説明はほとんどなく、主にこれを描いた筆者の生い立ちについて説明されていた。
僕にはリィルという心強いパートナーがいるが、彼女には肝心の翻訳作業ができない。まったくできないわけではないが、特定の言語に絞られているため、効率を重視して、彼女には絵画そのものの研究をしてもらうことにした。
部屋の中には僕一人しかいない。絵画を部屋に持ち込むことは禁止されている。あくまで展示ブロックの作業机に置いた状態で、リィルには観察をしてもらっていた。
ほかの二人がどのような手順で作業を進めているのか分からないが、僕の場合、まずは原文から読み取った内容を直感的に一度すべて母語へと翻訳し、それから一つ一つの区切りごとに再検討していくという方法をとっている。この方が効率的だと考えているからだ。また、言葉を組み合わせて書かれる、もしくは話される内容は、その一纏まりで一貫した内容を述べているからというのもある。初めから一つずつ翻訳してしまうと、その文章全体で何を言いたいのか分からなくなってしまうことがしばしばある。それを避けるために、なるべく作者が言いたいことが残るようにしたいと考えていた(まあ、それはどんな翻訳家でも同じなのだろうが……)。
今担当しているものは、全部で五つの文で構成されている。そこまで長いものではないし、使われている単語も難解なものではないから、最初の工程にはあまり時間がかからないと予想できた。この種のものは、確認作業に多くの時間を費やした方が良い。パーツごとの製造工程ではなく、組み合わせ作業に時間をかけるということだ。
ドアを開けてリィルが戻ってくる。
「どう? 何か分かった?」
リィルは僕の所まで来て、そのままベッドに腰を下ろす。
「うーん……。……なんていうか、汚い絵ばかり」
リィルの問題発言を訊いて、僕は思わず笑ってしまった。
「いや……。あまりにも失礼すぎるんじゃないかな」
「だってさ、そうじゃん」彼女は腕と脚を同時に組み、こちらを見る。「なんか、適当に絵の具を撒き散らしたような絵ばかりだし……。あんなのが芸術だって言われても、私には理解できない」
「理解できないことを、理解できるように努力してほしい、というお願いなんだけど」
「うん……。ちょっと、私には無理かな」
こういうことを言うのはいつものことなので、僕はあまり重く受け留めないことにした。
「そっちは上手くいってる?」
リィルに問われ、僕は作業を進めながら頷く。
「まあ……。いつも通りってところかな」
「じゃあ、もう私なんて必要ないじゃん」
「この作品についてはという意味だよ。後々君の助力が必要になるかもしれない」
「絵画なんか鑑賞したことがないんだから、無理だって」
「別に専門的な知識なんていらないよ」僕は顔を上げて一瞬だけ彼女の顔を見た。「君がどう感じたかを聞きたいんだから……。そもそも、専門的な知識を持っている人しか楽しめいないのなら、そんなの芸術でもなんでもないじゃないか」
「そういうのね、屁理屈っていうんだよ」
「絶対に違うと思う。きちんと筋は通っているし」
「ああ、カニ食べたい……」
「カニだろうが、ウニだろうが、君には関係ないだろう?」
ドアがノックされ、僕は座ったまま返事をした。鍵は開いていないのでどうぞという意味で言ったつもりだが、なかなか開かないので、代わりにリィルに開けてもらった。
ドアの向こうにはウルスが立っていた。
「どうかしましたか?」
一度作業を中断して、部屋の奥から僕は彼女に質問する。
「いえ、特には」美術館の制服に身を包んで、ウルスは今日も優美に振る舞っていた。「進捗はどうかと思いまして」
「まずまずといったところです」僕は素直に答える。「始まったばかりで調子を訊きに来るというのは、どういうことですか?」
「お話ししたいことがあります」
そう言うと、ウルスは僕たちの部屋に入ってきた。彼女はそのまま後ろ手にドアを閉める。
ウルスは僕とリィルの顔を交互に見ると、僅かに首を傾げて、小さな声で話し始めた。
「私が担当することになった絵画の中に、一つだけ奇妙な作品がありました。それについてご意見を頂きたいのです」
「奇妙な作品?」
「ええ……」ウルスはゆっくりと僕の方に近づいてくる。「その絵には、テーブルの上に林檎が一つ載せられた様子が描かれていました。それが絵の中心に据えられていたので、林檎そのものが主役の作品なのでしょう。タイトルもそれを裏づけていると思われます。描かれた年代は不明、そして、作者も不詳。原文で示された説明すら存在しないために、なぜここに運び込まれたのか分かりません」
「なんという絵ですか?」僕は気になって質問する。
ウルスは僕の目の前で立ち止まると、顔を近づけて流暢な発音で言った。
「The color of the fruit is red of blood」
彼女が言ったことの意味を理解するのに、僕は数秒を要した。英語には比較的慣れているが、やはり母語の意味に変換するのに少し時間がかかる。
「それが、どうかしたんですか?」
「気がつきませんか?」ウルスは姿勢を戻し、今度は隣に立つリィルの方を見て話す。「昨晩、私はある果物を拾いました。それをお二人にもお見せしたはずです」
僕は記憶を辿る。彼女に言われるまで思いつかなかったのだ。どうやら、睡眠不足でまだ記憶領域が活性化していないらしい。
「そういえば、貴女は青林檎を……」
「ええ、そうです」ウルスは頷き、また僕の方を向いた。「何か、関係があると思いませんか?」
彼女に問われて、僕は瞬時にある可能性を思いついた。それについて確認した方が良いか迷ったが、自分たちに危害が及ぶことはないと判断して、気になったことをそのまま質問することにした。
「貴女自身が、何かを画策しているというおちではありませんか?」
僕の質問を受けても、ウルスはまったく笑わなかった。僕は半分くらい冗談のつもりで言ったので、彼女の反応はまったくの拍子抜けだった。
「私が、そんなことをすると思いますか?」
彼女に問われ、僕は笑みを浮かべて首を振る。
「私が昨晩拾った青林檎は、まだ私の部屋にあります。あれは、風呂場に向かったあと、美術館の入り口付近で拾ったものです。状況から判断するに、疑われるのは私ではなく、むしろ貴方の方だと思いますが、如何ですか?」
どうやら、少し怒らせてしまったようだ。出会ったばかりで、まだウルスへの対応方法が確立されていないせいだ。
僕は、昨晩僕とボォダがここに戻ってきたときには、その辺りには何も落ちていなかったこと、少なくとも僕たちは何も気づかなかったことを説明した。僕が嘘を吐いていないとなれば、同時にボォダの無罪も証明される(無罪という言い方はおかしいか)。
「あとで、私の部屋に来て頂けませんか?」僕が話し終えると、ウルスは踵を返した。「実際に、その絵をご覧になって頂きたいのです」
ウルスの要求を聞いて、僕は少し戸惑う。
「なぜ、僕なんですか?」
ウルスは振り返り、今度こそ笑顔になって言った。
「貴方のことが気に入ったからです」
それだけ言うと、ウルスは足早に部屋から去っていった。
「どういうつもりなのかな、あの人」
ウルスが部屋からいなくなるなり、リィルは心境を吐露する。
「どうって、そのまんまだと思うけど」
「なんで私たちに突っかかってくるわけ?」
「突っかかってくるっていうのはおかしいんじゃないかな。ただ、気になることがあったから協力を求めてきただけで」
一分ほどリィルはその場に立ち尽くしていたが、間もなくドアを開けて外に出ていった。自分の仕事を全うするつもりなのか、内に起こった業火を落ち着けるためなのかは分からない。
ウルスはおそらく、絵と実物の関連性に自分で気がついたのだろう。状況を理解していれば誰でも思いつくようなことだが、僕は思いつかなかった。たぶん、ウルス本人が偽りの状況を作っていることはない。問題の絵を発見してすぐに、僕たちのところにやって来たのだ。
面白そうな話ではあったが、面倒なことにならないと良いなというのが、僕の素直な思いだった。前回の依頼のときもそうだったが、僕たちは何かと面倒事に巻き込まれる傾向がある。それは本当に傾向と呼ぶべきもので、僕たち自身が積極的に首を突っ込んでいるわけではない。あとになって考えてみると、そうした予期しない事態に自分たちが関わっていることが分かるのだ。
青林檎が美術館の入り口付近に落ちていたというのが気になった。ウルスは絵画と何らかの関連性があると考えたみたいだが、僕はそうは考えていなかった。そうした共通の項目を抽出可能な事象を目の当たりにすると、人間はついついそこに何らかの関連性を見出してしまう。しかし、大半の場合それは偶然だ。共通項から関連性を見出すというのは、人間に与えられた有益な能力ではあるが、使いどころを間違えると誤った結論に至りかねない。
いずれにしろ、作業が一段落したらウルスのところに行ってみようとは思った。そう約束したのだし、好奇心がまったく唆られないわけでもない。
とりあえず、四十分ほどかけて最初の絵画の説明の翻訳を終えた。完成度は自分ではなんともいえないが、後々全体で再検討する機会を設けるから、今のところはだいたいの仕上がりになっていれば良い。
スタートは好調だったが、間もなく一つ目の関門に挑むことになった。というのも、二つ目に選んだ絵画には、説明は施されているものの、それがたったの一文しかなかったのだ。文の構造や使われている単語については、いたって簡単なものだから良いが、展示する際に説明が一文だけではどうしようもない。
僕は一度自分の部屋を出て、ガザエルのもとに向かった。絵画には制作年と作者名が付随していたので、それをもとに絵画の詳細について調べてもらおうと思ったのだ。本当ならこれは僕がするべき作業ではない。そういう作品があった場合には、予めガザエルがピックアップしておくはずだが、何かの手違いで対象から外れてしまったのかもしれないと思った。
受け付けで所在を尋ねてみたところ、ガザエルが今はいないことが分かった。用があって出かけているらしい。出かけるとなると山の麓まで行くことになるから、彼がいつ帰ってくるのかは分からなかった。
仕方がないので自分の部屋に引き返すことにする。展示ブロックに入ると、リィルが熱心に一枚の絵画を眺めていた。
「何か、面白い発見はあった?」
僕が声をかけても、リィルは顔を上げようとしない。じっと絵の表面に視線を注いで、腕組みをしてその向こう側を見るように目つきを鋭くしている。
「うーん……」
手もとを覗き込むと、彼女が見ている絵はどこかの城を描いたものだった。中央に巨大な噴水があり、その向こう側に真っ白な建造物が壮大に描かれている。輪郭は割とはっきりしている方で、塗料には油性の絵の具が使われているみたいだった。キャンバスに直接描き込まれたもので、ある一定の距離から眺めた際に解像度がちょうど良くなるように設計されている。
「それが、君のお気に入り?」
僕が尋ねてもリィルはなかなか反応しない。
「……やっぱり、住むならこういう所が……」
「え?」
「二階よりも、三階の方がいいかな……。聴衆に向かって話しかけるわけだから、ある程度の高さがないと声が届かないし……」
不吉な予感がしたので、僕はすぐにその場をあとにした。自分から地雷を踏むようなことはしたくないと思ったのだ。
ガザエルに確認をとらなくてはならないものは後回しにして、僕は三枚目の絵画に移った。こちらは先ほどと反してかなり長い説明が施されていて、今度は逆にもう少しコンパクトにしなくてはならなかった。
作品自体はいたってシンプルなもので、机の上にナイフとフォークが並べられており、その隣に皿に載った魚のムニエルが置かれた様子が描かれている。タイトルは”My Best Morning”。如何にもな感じだったので、僕はこの作品に好感を抱いた。
リィルが再び部屋に戻ってきた。作業中に何度もドアが開け閉めされても、僕が集中力を切らすことはない。いや、本当はその言い方は間違えている。集中力を切らさないのではなく、そもそも切らすような集中力がないのだ。それは以前からそうだった。僕が何か一つのことに集中することはまったくといって良いほどない。今のところ集中している対象といえば、それこそリィルくらいしかなかった。
「私ね、思うんだ」
何の前触れもなく、リィルは突然話を始める。僕が作業をしていようがお構いなしだ。けれど、それはいつも通りのリィルの姿であり、僕はそんな彼女が好きだったから、なんとなく、ああ、良いな、と思った。
「やっぱりさ、絵画といったらお城なんだよ」
リィルの個人的見解とはいえないような意見を耳にして、僕は彼女に質問してみることにする。
「お城といったら絵画とはいえそう?」
「絵画って言われて真っ先に思いつくのって、お城でしょう?」僕の質問を完全に無視して、リィルは話を続けた。「ほかのものを思い浮かべる人なんて、いないと思うんだよね。うん、お城、お城。どの角度から描くかによって、見る人の印象も変わるけど、やっぱり正面から捉えたものが一番だよ。横とかだとさ、ぱっと見てお城だって分かりにくいじゃない? 家の絵を描けって言われたら、誰だって正方形に二等辺三角形を組み合わせた図を描くわけだけど、それと同じ。つまり、お城としての記号がすでに出来上がっているってことだよ。それを見たらお城だと認識できるためには、正面から描かないと駄目だってこと」
リィルの無駄に長い発言を聞き、僕は尋ねる。
「それが、絵画といったらお城という話と、どういうふうに繋がってくるの?」
「うん、つまりね」リィルは大袈裟に頷いた。「今度は、絵画と認識されるための条件を考えるわけ。それはね、もう言わなくても分かると思うけど、お城が描かれていることななんだよ。だから、絵画といったらお城なの。お城が描かれていて、初めて、絵画だっていえるってこと」
タイピングを続けながら、僕は顔を上げてリィルを見る。
「君さ、何を言っているの?」
「うーん、我ながら、素晴らしいアイデア」彼女は含み笑いをする。「瞬時に思いついた文言とは思えない出来」
「意味が分からないんだけど」
スキップするような足取りで、リィルはベッドへと近づいていく。そしてそのままそこに座ると、大きく伸びをしてから後ろに倒れた。
「終わり?」
「何が?」
いちいち尋ねるのも馬鹿馬鹿しくなって、僕は彼女との会話を放棄した。
「……あああ。……やっぱり、私、もう駄目だあ……」
「やりたくないなら、やらなくていいよ」僕は呟くように話す。「いや、皮肉とかじゃないんだ。本当に……。……もしかしたら、僕が要求したことが間違えていたのかもしれない。ほかに時間を有効に使う方法があるなら、そっちに削った方がいいよ」
「ほかって、何があるの?」
「さあ、知らないけど」
沈黙。
リィルは再び立ち上がり、僕の傍に来る。よくそう頻繁に寝たり立ったりできるものだ、と僕は感心する。超個人的省エネルギー推進運動に携わっている身としては、彼女の行動には擁護できないものがある。
リィルは少し背を屈め、そのまま僕の頭に片手を置いた。
「何?」
ディスプレイに目を向けたまま僕は尋ねる。
「そんなに頑張って、偉いね。感心感心」
「その手を、どけてくれないかな」
リィルはまったく動じない。何度か手を払ったが、彼女はその度に僕の頭にそれを起き直した。
「何のつもり?」
「今、どこを訳しているの?」
手もとに置かれた原文を指差して、僕は進捗状況を彼女に伝える。リィルはディスプレイに目をやり、ふーんと言いながら打ち込まれる単語を目で追っていった。
こんなふうに、リィルがすぐ傍にいても、僕の作業量が変わることはない。傍から見たら彼女に興味がないのだと思われるかもしれないが、それは違う。僕は彼女のことを意識しているし、彼女だって、きっとそういうつもりでこんな距離感を作っているのだろう。
……まだ、僕と彼女の関係は浅い。出会った頃よりは親密になったが、それでも、まだ経験していないことは沢山ある。
あとどれくらい経てば、僕は彼女のことを理解できるようになるのだろう?
そして、どこまで理解すれば、彼女を理解したことになるのだろう?
考えても分からないことだらけだった。こんな結論に至ったのは初めてではない。最早結論とさえ呼べないようなものだが、きっとこれからも同様の過程を経て、同様の結論に至るに違いない。
保留、保留と繰り返し自分に言い聞かせて……。
「私の話、聞いてる?」
リィルの呼びかけを聞いて僕は我に返る。想像していたよりもすぐ傍に彼女の顔があって、僕は少しだけ戸惑ってしまった。
「ああ、うん……」
「絶対、聞いてなかったでしょ」
「いや、聞こえてはいたよ。頭で処理していなかっただけで……」
「それじゃあ意味がないじゃん」
「うん」僕は素直に頷いた。「そうだね」
どういうわけか、リィルはその後もずっと僕の傍にいた。ずっと傍に……。これだけ聞くとアニメの台詞みたいだが、何も狙ってこんな言い回しをしたわけではない。
絵画を眺めているだけではつまらないとのことだったから、時々リィルにも意見を聞きながら、僕は彼女と二人で翻訳作業を進めていった。意見といっても彼女の知識は僕よりは劣るが、だからこそ参考になる部分もある。専門家の意見より素人の意見を聞いた方が、現状の打開には大きく役に立つということだ。
昼過ぎになった頃、僕たちは一度作業をやめた。一時間ほど前にガザエルが来て、昼食は好きな時間にとって良いと話していたからだ。バイキング形式で食堂に料理を並べてあるから、その場で食べるなり、部屋に持ち込むなりして良いとのことだった。
リィルを部屋に残し、僕は一人で食堂に向かった。広大な食堂で一人で食事をするのは気が引けたから、料理を皿によそって部屋に持ち込むことにした。
食堂で料理を選んでいると、入り口からボォダが姿を現した。彼も美術館の制服姿だったが、それがどことなく似合っているように見えた。ぼさぼさの髪がよくマッチしていて、まるで警備員に紛れた怪盗のような雰囲気を纏っている。
「やあ」
彼は片手を軽く上げて、僕の方に近づいてきた。
「作業の進み具合はどうですか?」僕は当たり障りのない質問をする。
「うん、まあ、順調」ボォダは答えた。「今のところ、困ったことはない」
先ほど見つけた説明の量が足りない作品について、僕はボォダに質問した。ガザエルに尋ねようと思ったが見つからず、どうしたら良いのか考えていたことを説明する。そうした作品については、ボォダは自分なりに説明に捕捉内容を加えていると答えた。
「そんなことをして、いいんですか?」
作品の詳細を調べてから付け足した方が良いと考えていた僕は、彼の話を聞いて少しだけ驚いた。
「いいと思うよ、全然」トングを使ってフライドポテトをよそりながら、ボォダは答える。「調べたって、どうせろくな情報は出てこないよ。それなら、こっちの感性で好きに書いた方がましさ」
「以前も、そうされたんですか?」
「いや、どうだったかな……。僕ね、記憶力がよくないんだ。小さい頃から……」
ボォダの意見も参考にしつつ、僕はやはり一度ガザエルに確認をとろうと思った。ボォダのやり方も間違えてはいないのだろう。むしろ彼の方が職歴は長いのだから、単に僕に能力が足りないだけと考えることもできる。
「そういえば、ウルスから、何か聞きましたか?」
一通り料理を取り終えてから、僕はボォダに尋ねた。
「何かって、何を?」
「いえ……。いや、何も聞いていないのなら、いいんです」
「気になる言い方をするね」ボォダはナポリタンを巻き取る。「どんなことか、教えてよ」
「いずれ、分かると思います」
ボォダは一度料理を取る手を止め、僕の顔をじっと見た。彼の目は鋭く、そんな引き締まった表情を見たのは初めてだった。
「なかなか面白いことを言うね」
「そうですか?」僕は首を傾げておく。「なんか、気に障ったのならすみません」
「いや、全然」もとの表情に戻って、ボォダは再び料理の選定に戻った。「皮肉じゃないよ。素直な感想のつもり」
ボォダとはそこで別れ、僕は自分の部屋に戻った。戻る前に受け付けに立ち寄って、ガザエルが帰ってきたかを訊いてみたが、彼はまだいないとのことだった。
自分の部屋の前にあるブロックに入ると、そこにリィルがいた。
「おかえり」
彼女は笑顔で僕にそう言い、手もとの絵画に目を戻す。
「見ていても、何も分からないんじゃなかったの?」
僕がそう言うと、リィルは顔を上げて笑みを深めた。
「でも、見ているだけなら、面白いよ」
午前八時に昨夜と同様に食堂で食事をとり、九時から勤務時間が始まった。明確に九時からと定められているわけではないが、一応その時間から仕事をすることになっている。
リィルは朝早く起きて風呂に行ったようだ。朝風呂のせいでぼんやりとしていたが、なんとか意識を保って仕事の場には出てきていた(というよりも、僕が引っ張ってきたのだが)。
僕たちの仕事は翻訳だから、作業はそれぞれの部屋で行うことになる。そのため、展示ブロックの奥に部屋があることが、このときに大いに役に立った。
担当する絵画が梱包された状態でそれぞれのブロックに運び込まれ、僕たちは手袋をつけてそれを一つずつ開封していった。額縁に収まった絵画は油を含んだ薄い紙で包まれており、厳重に扱われているのがよく分かる。絵画の説明文を翻訳するのだから、絵画そのものは必要ないと思われるかもしれないが、説明の内容を母語に逐語訳するわけではなく、場合によって臨機応変に翻訳しなくてはならないから、そのときのイメージを得るためにも実物の絵画は必要だった。そういう意味では、僕たちはそれぞれの美的センスを問われることになる。
もっとも、機械翻訳が主流になりつつある現代では、翻訳業の人々にはもとより芸術的な技能が求められる。単純にある言語からある言語へと翻訳するだけなら、文字通り機械的な作業だけで問題ないが、機械翻訳に頼らない、もしくは頼れない場合に僕たちが作業を担当するのだから、その際には人間的なセンスが求められることになる。こうした傾向が表れたのはつい最近のことではなく、実際にはもう少し前からだった。最近になって特に顕著になったというだけにすぎない。
翻訳のやり方は個人によって異なるが、僕は大抵の場合専用のデバイスを用いている。説明の完成形、つまり実際に絵画に添える装飾が施されたものについては、この美術館で用意することになっているから、今回も僕はデバイスを使って翻訳を進めることにした。完成したテキストデータをあとでガザエルに送信するのだ。
部屋の中で椅子に座り、僕は一枚目の絵画の説明の翻訳に取りかかっていた。絵画は全部で十数枚あるから、遅くても三日以内にすべてを完成させなくてはならない。今回僕たちが担当するのは絵画だけではなく、ほかにも様々な種類の芸術作品があった。
僕が最初に担当することになった絵画は、何やら印象的なものだった。はっきりいって、何が描かれているのか分からない。奇抜な色彩が使われており、画の中心から端に向かって同心円状に絵の具の飛沫が広がっているような感じだ。英語で書かれたもとの説明にもこの絵そのものの説明はほとんどなく、主にこれを描いた筆者の生い立ちについて説明されていた。
僕にはリィルという心強いパートナーがいるが、彼女には肝心の翻訳作業ができない。まったくできないわけではないが、特定の言語に絞られているため、効率を重視して、彼女には絵画そのものの研究をしてもらうことにした。
部屋の中には僕一人しかいない。絵画を部屋に持ち込むことは禁止されている。あくまで展示ブロックの作業机に置いた状態で、リィルには観察をしてもらっていた。
ほかの二人がどのような手順で作業を進めているのか分からないが、僕の場合、まずは原文から読み取った内容を直感的に一度すべて母語へと翻訳し、それから一つ一つの区切りごとに再検討していくという方法をとっている。この方が効率的だと考えているからだ。また、言葉を組み合わせて書かれる、もしくは話される内容は、その一纏まりで一貫した内容を述べているからというのもある。初めから一つずつ翻訳してしまうと、その文章全体で何を言いたいのか分からなくなってしまうことがしばしばある。それを避けるために、なるべく作者が言いたいことが残るようにしたいと考えていた(まあ、それはどんな翻訳家でも同じなのだろうが……)。
今担当しているものは、全部で五つの文で構成されている。そこまで長いものではないし、使われている単語も難解なものではないから、最初の工程にはあまり時間がかからないと予想できた。この種のものは、確認作業に多くの時間を費やした方が良い。パーツごとの製造工程ではなく、組み合わせ作業に時間をかけるということだ。
ドアを開けてリィルが戻ってくる。
「どう? 何か分かった?」
リィルは僕の所まで来て、そのままベッドに腰を下ろす。
「うーん……。……なんていうか、汚い絵ばかり」
リィルの問題発言を訊いて、僕は思わず笑ってしまった。
「いや……。あまりにも失礼すぎるんじゃないかな」
「だってさ、そうじゃん」彼女は腕と脚を同時に組み、こちらを見る。「なんか、適当に絵の具を撒き散らしたような絵ばかりだし……。あんなのが芸術だって言われても、私には理解できない」
「理解できないことを、理解できるように努力してほしい、というお願いなんだけど」
「うん……。ちょっと、私には無理かな」
こういうことを言うのはいつものことなので、僕はあまり重く受け留めないことにした。
「そっちは上手くいってる?」
リィルに問われ、僕は作業を進めながら頷く。
「まあ……。いつも通りってところかな」
「じゃあ、もう私なんて必要ないじゃん」
「この作品についてはという意味だよ。後々君の助力が必要になるかもしれない」
「絵画なんか鑑賞したことがないんだから、無理だって」
「別に専門的な知識なんていらないよ」僕は顔を上げて一瞬だけ彼女の顔を見た。「君がどう感じたかを聞きたいんだから……。そもそも、専門的な知識を持っている人しか楽しめいないのなら、そんなの芸術でもなんでもないじゃないか」
「そういうのね、屁理屈っていうんだよ」
「絶対に違うと思う。きちんと筋は通っているし」
「ああ、カニ食べたい……」
「カニだろうが、ウニだろうが、君には関係ないだろう?」
ドアがノックされ、僕は座ったまま返事をした。鍵は開いていないのでどうぞという意味で言ったつもりだが、なかなか開かないので、代わりにリィルに開けてもらった。
ドアの向こうにはウルスが立っていた。
「どうかしましたか?」
一度作業を中断して、部屋の奥から僕は彼女に質問する。
「いえ、特には」美術館の制服に身を包んで、ウルスは今日も優美に振る舞っていた。「進捗はどうかと思いまして」
「まずまずといったところです」僕は素直に答える。「始まったばかりで調子を訊きに来るというのは、どういうことですか?」
「お話ししたいことがあります」
そう言うと、ウルスは僕たちの部屋に入ってきた。彼女はそのまま後ろ手にドアを閉める。
ウルスは僕とリィルの顔を交互に見ると、僅かに首を傾げて、小さな声で話し始めた。
「私が担当することになった絵画の中に、一つだけ奇妙な作品がありました。それについてご意見を頂きたいのです」
「奇妙な作品?」
「ええ……」ウルスはゆっくりと僕の方に近づいてくる。「その絵には、テーブルの上に林檎が一つ載せられた様子が描かれていました。それが絵の中心に据えられていたので、林檎そのものが主役の作品なのでしょう。タイトルもそれを裏づけていると思われます。描かれた年代は不明、そして、作者も不詳。原文で示された説明すら存在しないために、なぜここに運び込まれたのか分かりません」
「なんという絵ですか?」僕は気になって質問する。
ウルスは僕の目の前で立ち止まると、顔を近づけて流暢な発音で言った。
「The color of the fruit is red of blood」
彼女が言ったことの意味を理解するのに、僕は数秒を要した。英語には比較的慣れているが、やはり母語の意味に変換するのに少し時間がかかる。
「それが、どうかしたんですか?」
「気がつきませんか?」ウルスは姿勢を戻し、今度は隣に立つリィルの方を見て話す。「昨晩、私はある果物を拾いました。それをお二人にもお見せしたはずです」
僕は記憶を辿る。彼女に言われるまで思いつかなかったのだ。どうやら、睡眠不足でまだ記憶領域が活性化していないらしい。
「そういえば、貴女は青林檎を……」
「ええ、そうです」ウルスは頷き、また僕の方を向いた。「何か、関係があると思いませんか?」
彼女に問われて、僕は瞬時にある可能性を思いついた。それについて確認した方が良いか迷ったが、自分たちに危害が及ぶことはないと判断して、気になったことをそのまま質問することにした。
「貴女自身が、何かを画策しているというおちではありませんか?」
僕の質問を受けても、ウルスはまったく笑わなかった。僕は半分くらい冗談のつもりで言ったので、彼女の反応はまったくの拍子抜けだった。
「私が、そんなことをすると思いますか?」
彼女に問われ、僕は笑みを浮かべて首を振る。
「私が昨晩拾った青林檎は、まだ私の部屋にあります。あれは、風呂場に向かったあと、美術館の入り口付近で拾ったものです。状況から判断するに、疑われるのは私ではなく、むしろ貴方の方だと思いますが、如何ですか?」
どうやら、少し怒らせてしまったようだ。出会ったばかりで、まだウルスへの対応方法が確立されていないせいだ。
僕は、昨晩僕とボォダがここに戻ってきたときには、その辺りには何も落ちていなかったこと、少なくとも僕たちは何も気づかなかったことを説明した。僕が嘘を吐いていないとなれば、同時にボォダの無罪も証明される(無罪という言い方はおかしいか)。
「あとで、私の部屋に来て頂けませんか?」僕が話し終えると、ウルスは踵を返した。「実際に、その絵をご覧になって頂きたいのです」
ウルスの要求を聞いて、僕は少し戸惑う。
「なぜ、僕なんですか?」
ウルスは振り返り、今度こそ笑顔になって言った。
「貴方のことが気に入ったからです」
それだけ言うと、ウルスは足早に部屋から去っていった。
「どういうつもりなのかな、あの人」
ウルスが部屋からいなくなるなり、リィルは心境を吐露する。
「どうって、そのまんまだと思うけど」
「なんで私たちに突っかかってくるわけ?」
「突っかかってくるっていうのはおかしいんじゃないかな。ただ、気になることがあったから協力を求めてきただけで」
一分ほどリィルはその場に立ち尽くしていたが、間もなくドアを開けて外に出ていった。自分の仕事を全うするつもりなのか、内に起こった業火を落ち着けるためなのかは分からない。
ウルスはおそらく、絵と実物の関連性に自分で気がついたのだろう。状況を理解していれば誰でも思いつくようなことだが、僕は思いつかなかった。たぶん、ウルス本人が偽りの状況を作っていることはない。問題の絵を発見してすぐに、僕たちのところにやって来たのだ。
面白そうな話ではあったが、面倒なことにならないと良いなというのが、僕の素直な思いだった。前回の依頼のときもそうだったが、僕たちは何かと面倒事に巻き込まれる傾向がある。それは本当に傾向と呼ぶべきもので、僕たち自身が積極的に首を突っ込んでいるわけではない。あとになって考えてみると、そうした予期しない事態に自分たちが関わっていることが分かるのだ。
青林檎が美術館の入り口付近に落ちていたというのが気になった。ウルスは絵画と何らかの関連性があると考えたみたいだが、僕はそうは考えていなかった。そうした共通の項目を抽出可能な事象を目の当たりにすると、人間はついついそこに何らかの関連性を見出してしまう。しかし、大半の場合それは偶然だ。共通項から関連性を見出すというのは、人間に与えられた有益な能力ではあるが、使いどころを間違えると誤った結論に至りかねない。
いずれにしろ、作業が一段落したらウルスのところに行ってみようとは思った。そう約束したのだし、好奇心がまったく唆られないわけでもない。
とりあえず、四十分ほどかけて最初の絵画の説明の翻訳を終えた。完成度は自分ではなんともいえないが、後々全体で再検討する機会を設けるから、今のところはだいたいの仕上がりになっていれば良い。
スタートは好調だったが、間もなく一つ目の関門に挑むことになった。というのも、二つ目に選んだ絵画には、説明は施されているものの、それがたったの一文しかなかったのだ。文の構造や使われている単語については、いたって簡単なものだから良いが、展示する際に説明が一文だけではどうしようもない。
僕は一度自分の部屋を出て、ガザエルのもとに向かった。絵画には制作年と作者名が付随していたので、それをもとに絵画の詳細について調べてもらおうと思ったのだ。本当ならこれは僕がするべき作業ではない。そういう作品があった場合には、予めガザエルがピックアップしておくはずだが、何かの手違いで対象から外れてしまったのかもしれないと思った。
受け付けで所在を尋ねてみたところ、ガザエルが今はいないことが分かった。用があって出かけているらしい。出かけるとなると山の麓まで行くことになるから、彼がいつ帰ってくるのかは分からなかった。
仕方がないので自分の部屋に引き返すことにする。展示ブロックに入ると、リィルが熱心に一枚の絵画を眺めていた。
「何か、面白い発見はあった?」
僕が声をかけても、リィルは顔を上げようとしない。じっと絵の表面に視線を注いで、腕組みをしてその向こう側を見るように目つきを鋭くしている。
「うーん……」
手もとを覗き込むと、彼女が見ている絵はどこかの城を描いたものだった。中央に巨大な噴水があり、その向こう側に真っ白な建造物が壮大に描かれている。輪郭は割とはっきりしている方で、塗料には油性の絵の具が使われているみたいだった。キャンバスに直接描き込まれたもので、ある一定の距離から眺めた際に解像度がちょうど良くなるように設計されている。
「それが、君のお気に入り?」
僕が尋ねてもリィルはなかなか反応しない。
「……やっぱり、住むならこういう所が……」
「え?」
「二階よりも、三階の方がいいかな……。聴衆に向かって話しかけるわけだから、ある程度の高さがないと声が届かないし……」
不吉な予感がしたので、僕はすぐにその場をあとにした。自分から地雷を踏むようなことはしたくないと思ったのだ。
ガザエルに確認をとらなくてはならないものは後回しにして、僕は三枚目の絵画に移った。こちらは先ほどと反してかなり長い説明が施されていて、今度は逆にもう少しコンパクトにしなくてはならなかった。
作品自体はいたってシンプルなもので、机の上にナイフとフォークが並べられており、その隣に皿に載った魚のムニエルが置かれた様子が描かれている。タイトルは”My Best Morning”。如何にもな感じだったので、僕はこの作品に好感を抱いた。
リィルが再び部屋に戻ってきた。作業中に何度もドアが開け閉めされても、僕が集中力を切らすことはない。いや、本当はその言い方は間違えている。集中力を切らさないのではなく、そもそも切らすような集中力がないのだ。それは以前からそうだった。僕が何か一つのことに集中することはまったくといって良いほどない。今のところ集中している対象といえば、それこそリィルくらいしかなかった。
「私ね、思うんだ」
何の前触れもなく、リィルは突然話を始める。僕が作業をしていようがお構いなしだ。けれど、それはいつも通りのリィルの姿であり、僕はそんな彼女が好きだったから、なんとなく、ああ、良いな、と思った。
「やっぱりさ、絵画といったらお城なんだよ」
リィルの個人的見解とはいえないような意見を耳にして、僕は彼女に質問してみることにする。
「お城といったら絵画とはいえそう?」
「絵画って言われて真っ先に思いつくのって、お城でしょう?」僕の質問を完全に無視して、リィルは話を続けた。「ほかのものを思い浮かべる人なんて、いないと思うんだよね。うん、お城、お城。どの角度から描くかによって、見る人の印象も変わるけど、やっぱり正面から捉えたものが一番だよ。横とかだとさ、ぱっと見てお城だって分かりにくいじゃない? 家の絵を描けって言われたら、誰だって正方形に二等辺三角形を組み合わせた図を描くわけだけど、それと同じ。つまり、お城としての記号がすでに出来上がっているってことだよ。それを見たらお城だと認識できるためには、正面から描かないと駄目だってこと」
リィルの無駄に長い発言を聞き、僕は尋ねる。
「それが、絵画といったらお城という話と、どういうふうに繋がってくるの?」
「うん、つまりね」リィルは大袈裟に頷いた。「今度は、絵画と認識されるための条件を考えるわけ。それはね、もう言わなくても分かると思うけど、お城が描かれていることななんだよ。だから、絵画といったらお城なの。お城が描かれていて、初めて、絵画だっていえるってこと」
タイピングを続けながら、僕は顔を上げてリィルを見る。
「君さ、何を言っているの?」
「うーん、我ながら、素晴らしいアイデア」彼女は含み笑いをする。「瞬時に思いついた文言とは思えない出来」
「意味が分からないんだけど」
スキップするような足取りで、リィルはベッドへと近づいていく。そしてそのままそこに座ると、大きく伸びをしてから後ろに倒れた。
「終わり?」
「何が?」
いちいち尋ねるのも馬鹿馬鹿しくなって、僕は彼女との会話を放棄した。
「……あああ。……やっぱり、私、もう駄目だあ……」
「やりたくないなら、やらなくていいよ」僕は呟くように話す。「いや、皮肉とかじゃないんだ。本当に……。……もしかしたら、僕が要求したことが間違えていたのかもしれない。ほかに時間を有効に使う方法があるなら、そっちに削った方がいいよ」
「ほかって、何があるの?」
「さあ、知らないけど」
沈黙。
リィルは再び立ち上がり、僕の傍に来る。よくそう頻繁に寝たり立ったりできるものだ、と僕は感心する。超個人的省エネルギー推進運動に携わっている身としては、彼女の行動には擁護できないものがある。
リィルは少し背を屈め、そのまま僕の頭に片手を置いた。
「何?」
ディスプレイに目を向けたまま僕は尋ねる。
「そんなに頑張って、偉いね。感心感心」
「その手を、どけてくれないかな」
リィルはまったく動じない。何度か手を払ったが、彼女はその度に僕の頭にそれを起き直した。
「何のつもり?」
「今、どこを訳しているの?」
手もとに置かれた原文を指差して、僕は進捗状況を彼女に伝える。リィルはディスプレイに目をやり、ふーんと言いながら打ち込まれる単語を目で追っていった。
こんなふうに、リィルがすぐ傍にいても、僕の作業量が変わることはない。傍から見たら彼女に興味がないのだと思われるかもしれないが、それは違う。僕は彼女のことを意識しているし、彼女だって、きっとそういうつもりでこんな距離感を作っているのだろう。
……まだ、僕と彼女の関係は浅い。出会った頃よりは親密になったが、それでも、まだ経験していないことは沢山ある。
あとどれくらい経てば、僕は彼女のことを理解できるようになるのだろう?
そして、どこまで理解すれば、彼女を理解したことになるのだろう?
考えても分からないことだらけだった。こんな結論に至ったのは初めてではない。最早結論とさえ呼べないようなものだが、きっとこれからも同様の過程を経て、同様の結論に至るに違いない。
保留、保留と繰り返し自分に言い聞かせて……。
「私の話、聞いてる?」
リィルの呼びかけを聞いて僕は我に返る。想像していたよりもすぐ傍に彼女の顔があって、僕は少しだけ戸惑ってしまった。
「ああ、うん……」
「絶対、聞いてなかったでしょ」
「いや、聞こえてはいたよ。頭で処理していなかっただけで……」
「それじゃあ意味がないじゃん」
「うん」僕は素直に頷いた。「そうだね」
どういうわけか、リィルはその後もずっと僕の傍にいた。ずっと傍に……。これだけ聞くとアニメの台詞みたいだが、何も狙ってこんな言い回しをしたわけではない。
絵画を眺めているだけではつまらないとのことだったから、時々リィルにも意見を聞きながら、僕は彼女と二人で翻訳作業を進めていった。意見といっても彼女の知識は僕よりは劣るが、だからこそ参考になる部分もある。専門家の意見より素人の意見を聞いた方が、現状の打開には大きく役に立つということだ。
昼過ぎになった頃、僕たちは一度作業をやめた。一時間ほど前にガザエルが来て、昼食は好きな時間にとって良いと話していたからだ。バイキング形式で食堂に料理を並べてあるから、その場で食べるなり、部屋に持ち込むなりして良いとのことだった。
リィルを部屋に残し、僕は一人で食堂に向かった。広大な食堂で一人で食事をするのは気が引けたから、料理を皿によそって部屋に持ち込むことにした。
食堂で料理を選んでいると、入り口からボォダが姿を現した。彼も美術館の制服姿だったが、それがどことなく似合っているように見えた。ぼさぼさの髪がよくマッチしていて、まるで警備員に紛れた怪盗のような雰囲気を纏っている。
「やあ」
彼は片手を軽く上げて、僕の方に近づいてきた。
「作業の進み具合はどうですか?」僕は当たり障りのない質問をする。
「うん、まあ、順調」ボォダは答えた。「今のところ、困ったことはない」
先ほど見つけた説明の量が足りない作品について、僕はボォダに質問した。ガザエルに尋ねようと思ったが見つからず、どうしたら良いのか考えていたことを説明する。そうした作品については、ボォダは自分なりに説明に捕捉内容を加えていると答えた。
「そんなことをして、いいんですか?」
作品の詳細を調べてから付け足した方が良いと考えていた僕は、彼の話を聞いて少しだけ驚いた。
「いいと思うよ、全然」トングを使ってフライドポテトをよそりながら、ボォダは答える。「調べたって、どうせろくな情報は出てこないよ。それなら、こっちの感性で好きに書いた方がましさ」
「以前も、そうされたんですか?」
「いや、どうだったかな……。僕ね、記憶力がよくないんだ。小さい頃から……」
ボォダの意見も参考にしつつ、僕はやはり一度ガザエルに確認をとろうと思った。ボォダのやり方も間違えてはいないのだろう。むしろ彼の方が職歴は長いのだから、単に僕に能力が足りないだけと考えることもできる。
「そういえば、ウルスから、何か聞きましたか?」
一通り料理を取り終えてから、僕はボォダに尋ねた。
「何かって、何を?」
「いえ……。いや、何も聞いていないのなら、いいんです」
「気になる言い方をするね」ボォダはナポリタンを巻き取る。「どんなことか、教えてよ」
「いずれ、分かると思います」
ボォダは一度料理を取る手を止め、僕の顔をじっと見た。彼の目は鋭く、そんな引き締まった表情を見たのは初めてだった。
「なかなか面白いことを言うね」
「そうですか?」僕は首を傾げておく。「なんか、気に障ったのならすみません」
「いや、全然」もとの表情に戻って、ボォダは再び料理の選定に戻った。「皮肉じゃないよ。素直な感想のつもり」
ボォダとはそこで別れ、僕は自分の部屋に戻った。戻る前に受け付けに立ち寄って、ガザエルが帰ってきたかを訊いてみたが、彼はまだいないとのことだった。
自分の部屋の前にあるブロックに入ると、そこにリィルがいた。
「おかえり」
彼女は笑顔で僕にそう言い、手もとの絵画に目を戻す。
「見ていても、何も分からないんじゃなかったの?」
僕がそう言うと、リィルは顔を上げて笑みを深めた。
「でも、見ているだけなら、面白いよ」
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