The Color of The Fruit Is Red of Blood

羽上帆樽

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第2章 誘導は安定的に

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 階段を上って美術館の正面玄関に到着すると、硝子扉が自動で開いた。特に内側から誰かが操作しているわけではなさそうだ。センサーが搭載された完全自動の機構なのだろう。

 室内に一歩足を踏み入れると、空気感が変わったのが分かった。こういう建物に特徴的な包まれるような暖かさを感じる。太陽の光から生じる暖かさとは異なり、人工的な暖かさは人を安心させてくれるような気がするのは、僕だけだろうか。太陽の光も悪くはないが、そちらはどちらかというと、身体を活性化させる効果の方が大きいように思える。

 外から見た通りに、中央の広間を中心として、四方にブロックが続いていた。僕たちが今通ってきた正面玄関は手前側のブロックに属し、広間を挟んで反対側に一つ、左右にそれぞれ一つずつブロックは存在している。この正面玄関のもの以外には、それぞれドアで空間が隔てられていた。広間の中心に螺旋状の階段があり、それを上ると上階へと至れるようだ。

 正面玄関のあるブロックを抜けると、すぐ左手に受け付けがあった。僕たちはそちらに向かい、来訪の目的と担当者の名前を告げた。係の者はすぐに応じてくれて、僕たちに広間のラウンジで待つように指示した。

 真っ直ぐ進み、階段の傍を通って、奥に設けられたラウンジへと至る。天井は吹き抜けになっていて、上階の様子がここからでも窺えた。周囲には所々に芸術的な意匠が飾られている。これも誰かの作品なのかもしれない。金や銀色に輝く金属が使われており、室内の照明を反射してきらきらと輝いていた。

 僕とリィルは並んでソファに腰を下ろす。良質な素材が使われているみたいで、身体を預けると負荷が一気に下がるのが分かった。

「やっと座れた」リィルが言った。

「さっき、ベンチに座ったじゃないか」

 好奇心旺盛なリィルは、すぐに辺りをきょろきょろと観察し始める。こういう一風変わった建物には、僕もそれなりに興味を惹かれる。やはり建物は素晴らしい。人間が作るものは何でも素晴らしいが、これほど大きなものまで作れるのは、緻密な計算と的確な計画があってこそだ。

 一通り周囲を観察し終えると、リィルは僕の方に身体を預けて目を閉じてしまった。

「うん、ここは、そういうことをしていい場所じゃないと思うんだけど」リィルの頭をもとの位置に戻そうとしながら、僕は諭す。

「いいじゃん、別に。もともと寛ぐ場所なんだし」

「誰かに見られたら恥ずかしい」

「恥ずかしくて、何が問題なの?」

「君にとっては問題じゃなくても、僕にとっては問題なんだよ」僕は言った。「仕事の依頼を受けてここに来たんだから……。あまり、変な印象は持たれなくないってこと」

「そんなの、勝手にそういう印象を持つ人が悪いんじゃん」

「どうやって、印象を持つのを阻止するの?」

「なんか、こう、特殊なバリアを張るとか、サイコキネシスを駆使するとか」

「いいから、離れて」

「離れない」

 僕はリィルの両肩を掴み、無理矢理直立の姿勢に戻させる。

 足音が聞こえ、顔を上げると、担当者らしき人物がこちらに近づいてくるのが見えた。それに気づいてリィルも姿勢を但し、わざとらしく何度か瞬きをする。

「ようこそ、お出で下さいました」

 シャツにジーンズという簡素な格好をした男性が、僕たちの前で立ち止まって挨拶をした。僕とリィルも立ち上がり、彼の挨拶に応じる。この男性が今回僕たちに依頼をした人物に違いない。サイトでこの美術館のことを調べたときに、顔写真が掲載されていたのを覚えていたのだ。美術館が開館されてからずっとここの館長を務めている人物で、ガザラスという名前のはずだった。

 彼は僕たちに座るように促し、自分も対面のソファに腰をかける。

「遠い所を、どうも……」彼はフランクな口調で言った。「コーヒーでもお出ししようと思ったんですが、生憎豆を切らしていてね……。まあ、その内お出しします。ああ、お部屋には完備してありますから、よかったらそれをどうぞ……」

「お気遣い、ありがとうございます」僕は礼を述べる。

「山の中は、大変だったでしょう? こんな所に建っている美術館なんて、そうそうあるものじゃないから……。まあ、でも、それがうちの売りでもあるんです。とはいっても、ほかに何のうりもないわけじゃありません。うーん、何か一つ挙げてみろと言われたら困りますが……、まあ、いずれ……」

 そう言って、彼は僕たちに微笑みかける。

 彼の第一印象は、渋い、という感じだった。ただし、単純な渋さではない。彼はおそらく僕よりも年上だろうが、生やした髭の中に子どもの無邪気な笑みを隠したような、そんな若々しさを秘めた渋さを持っている。格好もかなりラフだが、身のこなしはなかなか洗練されており、美術館の館長を務める者としては、適任であるようにも、また少し違うようにも思えた。いずれにせよ、一言でいってしまえば変わっているということになるのだが……。

 脚を組んで座ったままガザラスは沈黙してしまったので、僕は彼に質問した。

「えっと、今回の依頼について、説明して頂けますか?」

 僕がそう尋ねると、ガザラスはゆっくりと顔を上げてこちらを見る。笑っているのか怒っているのかよく分からない表情で、彼は口を開いた。

「すでにお伝えしている通りですよ。私からお話しすることは、何も……」

「美術品の説明の、翻訳、ですね?」

「ええ、そう、その通り……」彼は脚を組み直した。「ここにやって来る作品は、どれも自国のものではない。反対にいえば、海外から輸入したものだけを扱っているということです。……つい先日、ほかの美術館と展示する作品を交換するという話になりましてね……。その序に、今まで一般には公開されていなかった作品を集めて、新しく展示しようという話になったわけです。うちはあまり資金がないから、そこまでの数を集めることはできなかったけど……。……とはいっても、我々だけで準備するのは大変だ。そこで、あなた方の力を貸してもらうことにしたというわけです」

 簡単な話じゃないかとでも言うように、ガザラスは片方の眉を持ち上げる。わざとらしい仕草だったが、その仕草をもう何年も意図的に使ってきたような、そんな微妙な馴染み具合が窺えた。

「……ちなみに、どれくらいの数が翻訳の対象になるんですか?」

 ガザラスは顎に手をやり、考える素振りをする。

「……まあ、ざっと二百といったところでしょうか」

「二百?」僕は少し身を乗り出す。「……えっと、依頼された日数は……」

「一週間ですね」ガザラスは何ともないような口調で言った。「……長すぎましたか?」

 僕は隣のリィルに視線を向ける。彼女は少しだけ肩を竦めただけで、特に何のコメントもしなかった。

「できないことはないと思いますが……」言葉を選びながら、僕は答える。「多少、厳しい作業になると思います」

 何の返答もしないまま、ガザラスは再び沈黙する。それから首を一度二度と捻り、突然声を出して笑い出した。

「冗談ですよ。……今回依頼したのは、あなた方だけではありませんから……。ほかの所からも、来てもらいます」

「……同業者ということですか?」

「ええ……。あなた方は、その手のプロでしょう? もしかしたら、顔見知りだったりするかもしれない」

 僕たちにネームバリューはないので、その可能性は限りなくゼロに近いと思ったが、僕は黙っておいた。

 ガザラスの話によると、今回の依頼では、僕たちを含めてほかに二人の翻訳家がここに来るらしい。ニ人とも今日中に到着するとのことだったが、たまたま最初に来たのが僕たちだったというわけだ。あれほど山の中で迷子になったのに、それでも最初に到着するというのは、計らずとも自分が真面目な人間だと思われてしまうような気がして、僕は若干よろしくない心持ちになった。

「まあ、それだけです、あなた方にやってもらいたいことは……」ガザラスは言った。「説明の内容そのものは変えずに、言語を置き換えるだけだから、我々でもやろうと思えばできますがね……。……中途半端な仕上がりになって、客に笑われでもしたら宜しくない。……上々のやつを、一つ頼みますよ……」

 その後ガザラスと二つ三つと確認をしてから、僕たちは自分たちの部屋に案内されることになった。

 立ち上がり、ガザラスのあとについて館内を歩く。

「格好いいじゃん、あの人」

 歩いていると、リィルが小声でそんなことを言った。

「ガザラス?」僕は訊き返す。

「そう……。私、気に入っちゃった。結婚してもいいかも」

「うん、まあ、たしかに、ダンディな感じがして、女性には受けるかもね」

「君は?」

「僕?」僕は考える。「そうね……。まあ、あれで酒に酔い潰れないタイプなら、パーフェクトかな」

 部屋といっても、美術館には宿泊施設などない。ガザラスは一階のフロアを奥に進んでいく。そのままブロックのドアを開いて、その中に入った。

 ブロックの中は絵画の展示室になっていたが、今は何の作品も展示されていなかった。このブロックは絵画専門のエリアみたいだが、壁にそれらしいマークがあるだけで、実物の作品は一つもなかった。おそらく、僕たちが説明を一通り翻訳し終えたあと、それらとともにすべてを展示するのだろう。

 ブロックは立方体の形をしているが、その最奥にさらにドアがあり、ガザラスは鍵を解錠してそれを開けた。どうやらその先が僕たちが使う部屋になっているようだ。

 ドアが開き、ガザラスが先行して室内を進む。

 ドアの先には、まるでアトリエのような空間が広がっていた。

「ここが、あなた方に提供する部屋になります」ガザラスは説明した。「一応掃除はしておきましたが……。……まあ、多少汚れているのは、仕方がないと思ってご容赦下さい」

 僕とリィルも部屋を中央付近まで進む。

 部屋には窓が一つしかなかった。ドアに対面する形で正方形の窓があるだけで、光だけでなく、ほかに外の空気を取り入れる機構は一つもない。右手には木造のベッドがあり、左手には書棚とデスクがそれぞれ一つずつ、そしてデスクの前に椅子が一脚配置されている。この部屋に存在するものは、部屋そのものを含めてすべて木でできている。歩くと床の柔らかさが足の裏に伝わってきた。

 夕飯の時刻になったらお呼びしますと言って、ガザラスは部屋から出ていった。必要があればいつでも部屋や建物の外に出て良いとのことだ。今は準備期間中だから一般客は来ないとのことだった。

 部屋のドアが閉まる。

 リィルは真っ先にベッドに腰を下ろし、そのまま後ろに身体を倒した。

「ああ、なんか、いいかも」

 僕はベッドの対面にある椅子に座る。彼女の発言が意外だったので、何が良いのかを尋ねることにした。

「こういう雰囲気が、好きなの?」

「うーん、いや、本当は好きじゃないけど、なんか、窮屈な感じとか、汚れている感じが、歴史を感じさせてくれるみたいで、いい感じ」

「感じって言いすぎだよ」

 この部屋は手前にあるブロックよりも空間としては狭い。本当に作業をするためだけに作られた部屋のようで、料理をしたりすることはできそうになかった。

 左手にある書棚には何も入っていない。備品と呼べるものはほとんどなかったが、先ほどガザラスが言っていたように、僕の前にあるデスクにはインスタントコーヒーのセットがあった。お湯を沸かすための電気ポットも置いてある。この部屋に水道はないので、どこかで水を買ってくるか、汲んでくる必要がありそうだった。

 ベッドに横になったまま、リィルは目を閉じている。

「そのまま、眠るつもり?」

「うーん……」

 沈黙。 

 僕は立ち上がって窓を開ける。眼下には、館内に入る前に立ち寄った公園が見えた。展望スペースは一段高い所にあるから、ここから遠景を眺めることはできない。

「私たちのほかにも、誰か来るんだね……」

 リィルの呟きを聞いて、僕はそれを思い出した。

「ああ、そうだったね……。うん……。……なんか、足手まといにならないといいけど……」

「私たちよりも、絶対優れているじゃん、その人たち」

「え、どうして?」

「別に、理由なんかないけど……」リィルは話す。「しいて言えば、私たちがかなり優れていないから、かな」

「酷い言いようだね。君は何もしないんだから、僕だけ責められていることになる」

「何もしないわけじゃないじゃん」

「うーん、まあ……」僕は窓を半分だけ開けておいて、また椅子に座った。「今回は、何を手伝ってもらおうかな……」

「何でもいいよ、私は。……せっかく美術館に来たんだから、色々と作品も見てみたいなあ……」

 この美術館には、様々な種類の美術品が展示されている、もしくはこれから展示される予定らしい。それは美術館と称する所ならどこにでもいえることだ。絵画だけでなく、彫刻なども展示されるのかもしれない。

 時刻は間もなく午後四時を迎えようとしている。窓の外は橙色に染まり、太陽の勢力は大分弱まりかけていた。

「お風呂って、あるのかな?」

 話題を持ち出したリィルの方を見て、僕は応える。

「さあ、どうだろう……」

「まさか、一週間入らないなんてことは、ないよね?」

「ないとは思うけど……。……どっちにしろ、ずっと室内にいるんだから、あまり関係ないよね」

「関係あるでしょ」

「気にするかしないかの問題だよ。少なくとも、僕は気にならない」

「私は気になる」目を閉じていても、リィルは威勢良く話す。「常に綺麗な自分でいないと、気が済まない」

「君はいつも綺麗だから……、そのままで、いいんじゃないの?」

 リィルは勢い良くベッドから身体を起こす。

「何それ。皮肉?」

「いや、違うけど……」

 僕がそう答えると、リィルは再び身体を布団に預けた。

「いきなりそういうこと言うんだもんなあ……。……油断大敵って感じ」

「そんなに酷いこと言った?」

 リィルはなかなか答えない。

「……もう、いいよ。……いや、なんか……、嬉しくなかったわけじゃないけど、素直に喜べなかった」

「何の話?」

「インドのカレー屋さん」

 部屋にいても仕方がないので、僕は外に行くことにした。リィルは一眠りすると言って、ついてこなかった。疲れているわけではないが、とりあえず昼寝をしたいらしい。

 ドアの傍にある靴棚の上に、ガザラスが置いていった鍵があったが、今はリィルが室内にいるので、僕は鍵をかけずに部屋の外に出た。

 ドアを開けた先には絵画の展示エリアがある。閑散としていて、何の見どころもない。しかしそれが却って哀愁感を漂わせているようで、僕としては自分の好みに近いように思えた。

 ブロックを突っ切り、ドアを開けて広間に出る。

 ちらほらと制服を着ている職員らしき人の姿が見えたが、広間も閑散としていて、今が準備段階にあることがよく分かった。ガザエルの姿も今は見えない。きっと彼には彼なりの仕事があるのだろう。

 広間をゆっくりと一周したあと、僕は正面玄関から見て右と左にあるブロックに向かった。一番奥のブロック、つまり自分たちの部屋があるブロックと何か違うのかもしれないと思ったが、両者ともほとんど違いはなく、どちらも絵画の展示場所として使われているみたいだった。もちろん、両方とも作品は展示されていない。一階にあるブロックはすべて絵画の展示場所となっているみたいだから、フロアごとに異なる種類の作品が展示されているのではないかと僕は予想した。

 右と左のブロックの中にも、その最奥に木製のドアがあった。あとから来る翻訳業の人たちも、きっとその中で生活をすることになるのだろう。

 広間まで戻ってきて正面玄関を抜け、僕は建物の外に出た。日はまだ完全には陰っていないが、徐々に高度を落として光量を低下させつつある。

 特に宛もなく、美術館周辺の敷地をぶらぶらと散策した。美術館の裏側に公園があるのは知っているから、ほかの場所に向かってみようと思ったが、広場にはほかに目立つものはなく、ただただ歩くだけの時間になってしまった。

 木製の舞台の前まで来て、そこでぼうっと佇んでいると、背後から声をかけられた。

「今晩、演奏をなさるおつもりですか?」

 声に反応して後ろを振り返ると、小さな少女が一人立っていた。黒いコートに全身を包み、無表情のまま僕のことをじっと見つめている。適度に伸びた髪は服の色に呼応するように黒く、瞳もまた綺麗に黒光りしていた。

「楽器はやったことがないから、できませんね」僕は少女の質問に答える。「ああ、でも、鍵盤ハーモニカとリコーダーくらいなら演奏できますよ。昔、授業で習ったことがあるから……」

「私は、ヴァイオリンが弾けます」

「へえ、そう……。それは凄いですね」

「いえ、事実を言ったまでです」

 少女はじっとこちらを見つめたまま動かない。もともと声に抑揚がないわけではないが、どこか一貫した力強さのようなものが感じられた。

「では……」そう言って、少女はここから立ち去ろうとする。「私、用事があるので……」

「どうして、僕に声をかけたんですか?」後ろを向きかけた少女に向かって、僕は尋ねた。

「特に深い意味はありません」彼女はこちらを向き、澄んだ声で答える。「演奏なさるなら、ご一緒した方が良いかと思いましたから」

「貴女は、何か演奏するつもりなんですか?」

「今晩、ここでヴァイオリンを弾きます」

 僕は彼女の背後に視線を向ける。

「ヴァイオリンなんて、どこにあるんですか?」

 僕がそう尋ねると、彼女はコートの裾を少し持ち上げて、身体を九十度捻った。見ると、コートの下、黒いセーターの上に、何やら黒いケースを背負っているのが見える。それがヴァイオリンだと言いたいのだろう。ギターを背負う人は珍しくないが、ヴァイオリンを背負う人に僕は初めて会った。

「楽しみにしています」

 僕がそう言うと、少女は少しだけ笑った。

「お楽しみに」

 少女の後ろ姿を眺めながら、僕は相変わらず途方に暮れていた。いや、別に途方に暮れるような理由はなかったが、自分と同じくらい、もしくはそれ以下の少女に軽くあしらわれたような気がして、僕もまだまだだなと思ったのだ(何がまだまだなのかは分からないが)。

 その後もぶらぶらとあっちに行ったりこっちに行ったりしていたが、特に珍しいものは見つからなかったので、僕は大人しく部屋に戻ることにした。

 ドアを開けて室内に入ると、リィルが窓際に立っていた。

「おかえりなさい」彼女が声をかけてくる。

 僕は軽く頷き、先ほどと同じように椅子に腰を下ろした。

「ご飯、まだかな」

 リィルの呟きを聞いて、僕は少し笑ってしまった。

「いや、だからさ、君にはそんなこと関係ないじゃないか」

 僕の言葉を聞いて、リィルはこちらを振り返る。

「関係ないっていうのは違うじゃん。楽しみにしていちゃ、駄目なの?」

「何が楽しみなの?」僕は尋ねる。

「色々な場所で、その場所に特有なご飯を見るのが楽しみなの」リィルは力説した。「家庭や土地によって、出てくるメニューが違ったり、なんとなく色彩が変わっているように見えるでしょう? そういうのを見るのが楽しみっていうかさ、出かけるときの私の一つの拠り所であって……」

「芸術的なことを言うね」

「芸術的? ……まあ、そうかな……」

「どちらにしろ、また、君がご飯を食べられない理由を考えておかなくちゃいけないね」僕は脚を組み、インスタントコーヒーが入った瓶に手を伸ばした。無意識の内に飲もうとしていたが、あとで気持ち悪くなりそうなのでやめておいた。「まあ、いいか……。いつも通り、病気ということにしておけば……」

「不信がられているよね、いつも」

「え、そう?」

「たぶん……。……だって、食事ができない病気なんて、ある?」

「あると思うよ、沢山」

「こんなにぴんぴんしているのに?」

「うん、まあ……」僕は欠伸をする。「思う存分食べているのに、全然ぴんぴんしていない人もいるし」

 リュックから本を取り出し、僕はそれを読み始める。読書については、僕とリィルではそれなりに趣味が合う。ただし、それも「本を読む」という行為が共通しているだけで、書物の種類まで合うわけではない。

「そういえば……」本のページを捲りながら、僕はなんともないような口調で呟いた。「さっき、女の子に会った」

 僕が言ったことを問題発言として受け取ったのか、リィルは勢い良く僕の方を振り返った。

「女の子? 誰? どこで?」

「興味があるの?」顔を少しだけ上げて、僕は目だけでリィルを見る。

 リィルは頷く。

「さっき美術館の外に行ったら、あの……、舞台の所で遭遇したんだ。彼女はヴァイオリン奏者だって言っていたよ。今日の夜に演奏するために、ここに来たのかもしれない」

「ヴァイオリン?」リィルは表情を変え、首を傾げる。「じゃあ、今晩はコンサートがあるってこと?」

「それは分からないけど……。ヴァイオリン奏者が来たんだから、少なくとも、何かしらの催しものはあるんだろうね……」

「ヴァイオリンか……」そう言って、リィルは腕を組んだ。「私も、何か演奏できるようになりたいなあ……」

「うん、やめておいた方がいいと思う」

 ふらふらと脚を動かした末に、リィルは半分くらい重力に身を任せてベッドに腰を下ろす。

 そして今度は脚を組み、正面に座る僕をじっと見つめてきた。

「その子、可愛かった?」

 リィルに問われ、僕は手もとのページに視線を向けたまま答える。

「うん、まあ」

「最低」

 僕は顔を上げ、リィルの顔を確認した。

「何が?」

「ヴァイオリンが可愛いって言うのならまだしも、その子が可愛いだなんて……」

「思ったことを素直に口にしただけじゃないか」僕は抗議する。「それに、君がそういう質問をしたんだから、可愛くないなんて言えないだろう? 誘導尋問みたいなものだよ、それじゃあ」

「もう、いいから。黙って」

「どうして、そんなに怒っているわけ?」

「シュークリームに入れるなら、ホイップクリームよりも、カスタードクリームの方がいいに決まっているんだから」

 僕は会話を中断して、読書に集中する。

 暫くすると、リィルも自分の本を読み始めた。こんなふうに、傍に自分と同じことをしている人がいると、それだけで親近感を抱くという人がいるらしいが、僕にはその感覚は理解できなかった。本を読んでいるというだけで、同じ本を、しかも二人で読んでいるわけではないし、幻想にもほどがあるとさえ思ってしまう(のは過剰か)。

 本を読んでいると、あっという間に時間が過ぎる。僕の場合、それは仕事をしているときにもいえる。それなりに集中しているからかもしれないが、特に集中しようと思わなくても時間はすぐに過ぎるから、集中力とは関係のない何かが関わっているのかもしれない。

 午後六時を迎えた頃、部屋のドアがノックされたので、僕は立ち上がって応じた。

 ドアの向こうにはガザエルが立っていた。

「お寛ぎ中のところ申し訳ないですが、夕飯についての質問がありましてね」彼は話した。「会食の形式にするか、個食の形式にするか、どちらがいいかをお訊ききしたいんです。会食といっても、特別なことをするわけではありませんが……。どっちにしろ、明日になれば互いのことは知れるわけだし、個食でも全然構いません。どちらがいいですか?」

 要領の得ない説明だったが、情報は伝わったので、僕は考える。

 後ろを振り返ってリィルに尋ねてみたが、気のない答えが返ってくるだけだったので、僕は無難な方を選択することにした。

「じゃあ、会食でお願いします」

「承知しました」 僕の答えを聞いて、ガザエルは頷いた。「では……、八時頃になったら、ご案内します。それまでに、そう……、広間のどこかにいて下さい」

 それだけ言うと、ガザエルは部屋から去っていった。

 ドアを閉めて椅子に座り、僕は本を開いて読書を再開する。

「私のこと、よく分かっているじゃん」

 暫くすると、リィルが突然にそんなことを言ってきた。

 僕は顔を上げて彼女を見る。

「何が?」

「会食の方がいいって、私が答えること、分かっていたんでしょう?」

 そんなつもりはなかったが、結果オーライということにしておいた。
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