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羽上帆樽

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第1章 開始早々迷子

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 山を切り開いて作られた街に、一人の少女が住んでいた。彼女は、見た目は普通だが、中身が普通ではない。と言っておきながらも、見た目も全然普通ではなかった。普通ではないというのは、おかしいという意味ではなく、平均を上回っているという意味だ。全人類の中で、こんなに可愛らしい者がほかにいるのか、と誰しもが思うようなスペシャル極まりない見た目をしていて、適度に伸びた髪は琴線のように細く、相応しい割合で穿たれた目は宝石のように輝いていた。このように、何々のように、と表現する技法を直喩と呼ぶらしい。彼女は言ってみれば直喩だ。可愛らしいという感覚を最もストレートに表わしている。

 彼女が住むその街はとても不思議な雰囲気を纏っていた。街の中に一歩足を踏み入れれば、今自分がどこから来たのか分からなくなる。同じ形をした家がいくつも建っていて、それらのほとんどが赤い屋根を持っていた。いくつかの家が階段を横にしたような配置で並んでいる一画もあり、なんというのか、これ以上ないくらいファンタジックだ。ベンチがあるだけの簡素なエリアもあり、とても静かで、住民がいるのかさえ分からないほどだった。中央に幅の広い道があり(といっても、自動車が二台横に並んで通れる程度だ)、そこから細い道が分岐している。街のすぐ傍には未開の山が残っていて、人工物と自然が適度に配合されていた。

 そして、この街にたった今足を踏み入れた少年は、ここに住む少女に会えるのをずっと楽しみに待っていた。

 彼と彼女はいわゆる幼馴染だ。といっても、少年は暫くの間この地域から離れていたから、ずっと彼女と会っていなかった。最近戻ってきて、今日ようやく再会する日が来たというわけだ。そういう理由から、彼は昨晩は全然眠れなかったし、今日になっても興奮が治まらなくてどうしようもなかった。

 街の中央を貫く道を進む。いつ来ても落ち着く所だ、と少年は思う。

 そして、少女が住む家に辿り着いた。

 彼女の家は、中央の通り(以後、メインストリートと呼ぶことにしよう)から少し奥に入った所に建っている。家と聞いて一般的にイメージされる建物を少し横に広げたようなデザインで、壁は白、そして屋根は例によって赤色だった。玄関を挟んで左右に窓がある。細い金属で作られた黒い門の横にある壁の上に、いくつかプランターが置かれていた。花はなく、置かれているのは植物だけだった。

 少年は、意を決して、壁に設置されたインターフォンを押す。

 心臓が高鳴った。

 間もなく、玄関が開いて、少女が姿を現す。

 その瞬間、少年は卒倒しそうな勢いで後退りした。

「大丈夫?」少年を見兼ねた少女が、彼に声をかける。

 少年は片手を上げて自身の無事を示し、もう片方の手を自分の胸に当てる。呼吸を落ち着かせ、鼓動が遅くなるのを待った。

 やがて彼は顔を上げて言った。

「やあ」

「もう、遅いじゃん。何していたの?」少女がハスキーな声で応答する。

「いや、ちょっと緊張しちゃってさ……。電車に乗るのを忘れてしまったんだ」

「じゃあ、歩いてきたの?」

「そうさ。凄いだろう?」

「凄い凄い」少女は笑う。「凄いなあ、そんなことができるなんて……」

「あのさ」

「何?」

「ハグしてもいい?」

 沈黙。

 風が通り抜ける。

「なんで駄目なの?」暫くして、少女は応えた。

「え、そんなに軽いものなの? なんか、もう少し、こう、躊躇いというか、そういうのを期待していたんだけど……」

「じゃんじゃんしちゃっていいよ」

「卑猥だね」

「君が言ったんじゃん」

「まあ、そうだけど……」

 門の中に入っていた少年は、そのまま足を前に進めて少女を抱き締める。彼女は嬉しそうな顔をした。嫌だ、とは思っていないらしい。本当だ。

 海外では、ハグは挨拶の一つとして扱われるが、日本ではそうではない。だから、ハグの価値が相対的に高まる。普段できないことができて、少年はもう飛びきり嬉しかった。今度こそ本当に卒倒してしまいそうになったが、なんとか踏ん張って耐えた。

「入りなよ」少女が言った。「散らかっていないから、安心して」

「では、上がらせて頂こう」

 玄関のドアが閉まる。

 少女の家の間取りは単純だ。玄関の先に洗面所があり、その左手にリビング、そして右手に応接室がある。一階にある部屋はそれだけだ。洗面所の隣のちょっとしたスペースに階段があり、二階へと続いている。二階には、一階の洗面所に当たる位置にトイレがあり、正面から見て左手、つまり一階のリビングがある位置に自室が、そして右手に寝室があった。少年は、彼女の家には何回か来たことがあったから、なんとなく間取りを覚えていた。

 洗面所で手を洗ってから、少女に促されて彼はリビングに入る。中央に巨大な木製のテーブルがあり、その向こう側にシンクがあった。あるものはそれだけだ。彼女の家は大きさの割にシンプルだ。いや、大きいからこそシンプルだ、といった方が正しいか。

 少女に椅子に座るように言われたから、少年はその通り席に着いた。テーブルの上には何も載っていない。すぐ上に照明があったが、今は昼間だから点いていなかった。左手に窓がある。

 少女はシンクがある辺りでカップにコーヒーを注いで、それを彼に提供した。

「久し振りだね」椅子に座りながら、少女が言った。彼女はシンクに背を向けて座っている。「やっと会えたよ。いやあ、長かったなあ。もうね、待ちくたびれちゃったよ。いつ会えるかなって、ずっと楽しみにしていたんだけど、全然帰ってこないから、もう、このままずっと会えないのかな、なんて思っちゃったりして……」

「そう……」少年はカップを持ち上げる。「そんなふうに思っていてくれたとは……」

「コーヒー美味しい?」

「まだ飲んでいないよ」

 少女は笑った。

「君は、全然変わらないみたいだね」少女は話す。「よかったよ。心配しちゃった。前会ったときと別人みたいになっていたら、どうしようかってずっと考えていたんだ。対応が難しいよね、ずっと昔に仲が良かった人が、急に見違えるように変わっていたら……」

「まあ、そうだろうね。僕が見たところ、君も全然変わっていないと思うよ」

「少し、大人らしくなったでしょう?」

「うん……」少年は彼女から顔を背ける。「まあね……」

 二人が黙ると、途端に部屋は静かになる。

 この部屋の床には絨毯が敷いてある。赤とも茶色ともいえないような、そんな微妙な色彩だった。柄はなく単色だ。やはり、彼女はシンプルなものが好きなのだろうな、と少年は勝手に想像する。

 考えてみれば、彼は彼女が好きなものをあまり知らなかった。自分がどう思われているのかということについても、確認したことはほとんどない。好意を寄せてもらっているのは確かだが、それがどのような種類の好意なのか、彼はまったくといって良いほど知らなかった。ちなみに、彼は少女を心の底から愛している。どのくらい愛しているかというと、彼女のためなら死ねるくらいだ、とでも表現すれば良いだろうか。

 コーヒーは苦かった。

「今日さ、私の家に泊まっていきなよ」少女が言った。

「いいの?」少年は多少驚く。

「いいよ、全然。何も問題ないし。あ、でもね、ちょっと夜ご飯を作れるだけの材料がないから、あとで買い出しに行かなくちゃいけないんだけど……。……一緒に行ってくれない?」

「いいよ」

「よかった」少女は笑った。「そう言ってくれると思った」

「君は最近何をしていたの?」

「何って?」

「うーん、だから、趣味というか、嵌っているものというか……」

「何も嵌っていないなあ……」少女は顎に人差し指を当てる。「ああ、でもね、やっぱり本を読むのは好きだよ。なんていうのかなあ……。本に書かれている内容を、頭の中で展開する、といったマシンライクな作業も好きなんだけど、どっちかって言うと、あの、本のページを捲るときの、紙の感触が堪らなく好きなんだよね……。あのさ、薄くも厚くもない紙を人差し指と親指で挟んで、左側から右側へと捲る感じ……。紙の音も好きだよ。あの音を聞いていると、癒やされるなあ……」

「へえ……。君にそんな趣味があったとはね……。僕は、せいぜいエビフライを食べるくらいしかできないけど」

「エビフライを食べるのが趣味なの?」

「いや、間食」

「何のこと?」

「いやいや、なんでもないんだ。どうぞ、続けて」

「何を続けるの? もう、話は終わったんだけど」

「生きる作業を続けて下さい」

 少女は椅子から立ち上がり、再びシンクがある付近まで移動する。その辺りには様々な戸棚があって、その中に色々な物品が仕舞われていた。お菓子の類もそこに入っている。食器が入っている棚もあって、食事に関連するものはすべてそこに仕舞われているみたいだった。

 彼女はビスケットを持って戻ってきた。

「ねえ、あのさ」椅子を引いて、少女はそこに座る。

「何?」

「私ね、今、ちょっと迷っていることがあるんだ」

「マヨッているって、どんな食品にもついついマヨネーズを使っちゃう、みたいな?」

「最近、生きるのが辛くて……」少女は話す。「何をしてもあまり面白くなくってさ……。この前も、そこのメインストリートでスケートボードに乗ってみたんだけど、あんなの、乗れるの当たり前じゃん、と思っちゃって……」

 少年はビスケットを手に取る。チョコレートやアーモンドの類は含まれていない、酷く単純な茶色いビスケットだった。

「うん」少年は頷く。

「なんていうのかなあ……。ありとあらゆるものが、もう、すべて同じ法則に則って動いているように見える、というか、そんな感じがしちゃってさ、新しい発見とか、新鮮な発想とか、そういうものが手に入らなくなってきているような気がするんだよね……」

「それは僕もそう感じるよ」

「無責任な発言だな」

「そう?」少年はビスケットを食べた。口を動かしながら、少女との会話を続ける。「でも、そういう感覚って、大人に近づくほど人を支配するものだろう?」

「もちろん、そうだけど……」

 少女は横を向いて黙ってしまう。少年がビスケットを食べる音だけが、リビング全体を支配するようになった。

「どうして、そんなことを考えるわけ?」少年は尋ねる。

「え? ああ、うん……」少女は彼を見る。「なんとなくとしか言いようがないけど、でも、なんか、それを解決できれば、何かが変わるような気がする、というか……」

「そりゃあ、何かは変わるだろうね。考え方が変わったのに、ほかに何も変わらないなんてことはありえないだろうから」

「どうしたらいいかな?」

「気楽に身構えていればいいんじゃないの?」

「好い加減だなあ」少女は笑う。「まあ、でも、それでいいか」

「いいよ、全然」

「うーん、でも、なんだかなあ……」

「なんだか、何?」

「落ち着かないなあ……」

「へえ……」

 少女は右を向いたり左を向いたりする。目まぐるしい速度で顔の向きが変わり、少年は彼女の頭が少し心配になった。脳みそがぐちゃぐちゃになってしまうのではないか、と思う。

 それにしても、この辺りは本当に静かだ。今は窓は開いているが、そこからは涼しい風が吹き込んでくるだけで、ほかには如何なる音も聞こえてこない。耳を澄ませば少女の心音が聞こえるかもしれないと思って、少年は実際に聴覚に意識を集中させてみたが、残念ながら彼女の心音は聞こえなかった。彼は少しだけ落ち込む。

 誰かの心音を聞いていると、安らかな気持ちになることがある。自分の心音では効果は認められない。おそらく、生まれる前に、母親の胎内で聞いていた音だから、というのが理由の一つだろう。この世に生を受けて初めて耳にした音なのだ。そんな聖なる音を聞いて落ち着かないわけがない。

「そんなことを考えている割には、君は元気そうだね」特に話すことがなかったから、少年はたった今思いついたどうでも良い感想を述べた。「いや、元気、というよりは、うーん、なんていうのかなあ……。そういうことを考えていながら、ほかのことは割り切って行える能力があるというか、そんな感じがするね」

「そう? ありがとう」少女は笑う。「君にそういうことを言われると、なんだか嬉しいなあ」

「へええ……。それは意外だね。もっと言ってあげようか?」

「うん、言って」

「そういうことを考えていながら、ほかのことは割り切って行える能力があるというか、そんな感じがするね」

「うん、いいね、やっぱり。なんかもうどきどきしちゃう」

「そういうことを考えていながら、ほかのことは割り切って行える能力があるというか、そんな感じがするね」

「嬉しいなあ……。なんだか照れちゃいそうだよ」少女は頬を赤らめる。

「そういうことを考えていながら、ほかのことは割り切って行える能力があるというか、そんな感じがするね」

「もういい」

 突然真顔になって、少女は少年を制する。

「あ、そう?」

 少女にそう言われたから、少年は黙った。

 死ぬほどビスケットを食べられる、と思って、少年はとにかく小麦粉の塊に手を出し続けた。こんなに美味しいものがこの世にあるなんて、信じられない、といった意味の分からない感想が頭に浮かぶ。

 サンバのリズムで踊り出したくなった。

「あああ、疲れたなあ……」そう言いながら、少女は思いきり伸びをした。服の裾が持ち上がって、お腹が見えそうになったから、少年は顔を背ける。彼は、そういう光景をあまり見たいと思わない。見たい人もいるらしいが……。

「何か疲れるようなことをしたの?」少年は質問する。

「うん? いやあ、別にしていないけど……。なんかさあ、何もしないのって、けっこう疲れるよね。やっぱり、それなりに動いていないと駄目なのかな、生き物としてさ。運動に限った話じゃなくて、勉強とか、頭で考えることもそうだけど、そういうふうに活動をしていないと、生きていても楽しくないんだね」

「そうなの? 僕は、そうしていていいなら、ずっとソファでごろごろしていたいけど……」

「そんなのつまらないよ……」

「そうかな……。とびっきり幸せだと思うけどな……」

「そんなの君だけだって」

「え、そうなの? 君は?」

「だから、私は適度に動いていないと駄目だから……。……ああ、そうだ。じゃあ、今からちょっと運動しようかな」

「今から?」

「そうそう、今から」

 そう言って、少女は一度リビングから出ていく。再び部屋に戻ってきたとき、彼女はラケットとシャトルを持っていた。

「何それ。バドミントン?」

「そうそう。いいねえ!」そう言って、少女は部屋の中でシャトルを打ち始める。「もうね、最高だよ! 君もやろうよ!」

「いやいや、ちょっと、落ち着きなって」少年は少女を制する。「部屋の中でやるのは無理があるよ」

「そんな細かいことはどうでもいいじゃん」

「いや、細かいことって……」

 少女が打ったシャトルが少年の顔の前を横切り、テーブルを越えて向こうまで飛んでいった。

 少年は驚いて声が出ない。

 暫くの間、少女は一人でバドミントンをし続けた。一人で、という点が驚異的だ。バドミントンは一人で行うスポーツではない。彼女が楽しそうに燥ぐ様子を見て、少年も一緒にシャトルを打ちたくなったが、生憎彼女は一つしかラケットを持っていないみたいだった。彼女が使っているのは競技用のラケットだから、セットになっていなくてもおかしくはない。

 三十分くらい経過して、疲れたのか、少女は椅子に座って深く息を吐いた。

「あああ、疲れたなあ……」少女はテーブルに突っ伏す。「久し振りに運動したから、息が切れちゃった」

「そうなの? もうね、僕なんて、三年くらい運動していないよ」

「へえ、じゃあ心臓も止まっているんだ」

「そうそう。心臓だけなら良いものを、頭まで完全に機能停止しちゃったから、学校の成績が全然良くならなくて困っているんだ」

「心臓が止まったら、必然的に頭も回らなくなるんじゃないの?」

「ああ、そうだね、たしかに……」

「ほら、やっぱり頭回っていないじゃん」

「だから、そう言っているじゃないか」少年は笑った。「人の話を聞いていないなあ……」

「そろそろ、買い物に行く」少女は立ち上がる。

「僕も一緒に行くよ」少年も少女に続いてリビングを出た。

 玄関の鍵を閉めて門の外に出る。門にも鍵があって、少女はそれもかけた。

 細い道を通ってメインストリートに至り、そのまま真っ直ぐ進んで街を出る。街の入り口にアーケードらしきものは建っていない。ちょっとした縁石のようなものが存在するだけで、明確にどこからが街の中になるのか示すものはなかった。それなのに、この街の中に入る、またはこの街の外に出ると、一瞬の内に空気感が変わるから不思議だ。何か目に見えない結界のようなものが張られているのかもしれない。

 もしそんな結界が存在するのなら、それを張ったのはきっと彼女だろうと、少年は訳もなく考えた。

 この街は、もともと山があった場所に存在しているから、入り口の付近からは眼下に広がる都市を一望することができる。遥か遠くの方まで人工物が連なっていて、大地が限りなく続いているのが分かった。都市といっても、それほど過密に建物が建てられているわけではない。所々に緑がある箇所も見られて、田舎と都市の中間といった表現が最も当て嵌まりそうな一帯だ。

 二車線の下り坂が左手に伸びており、それを降りれば眼下に広がる都市に辿り着く。二人は手を繋いでその坂道を歩いた。

「空が綺麗だよ」軽くスキップをしながら、少女が嬉しそうな声で言った。「いいなあ」

「人生における辛いイベントも、こんなふうにスキップできたらいいね」

「そう? 私は、少しくらい辛いことがあった方がいいと思うよ。楽しいことばかりじゃ、生きるのもつまらないだろうし」

「へえ……」

「あ、そうだ。今日の夜ご飯何がいい?」少女は少年に尋ねる。

「うーん、何でもいいけど……」

「それ、困るなあ」

「困るの? 困っている人の表情っていいよね。不謹慎かもしれないけど、これからどんなふうにその困難を解決するのかな、なんて考えると、不思議とわくわくしてくるものだよ」

「それ、分かる」少女は頷く。「分かるよ、それ」

「前後関係を入れ替えただけじゃん」少年は笑った。

「私ね、最近、この坂をスケートボードで滑り降りられないかな、と考えているんだけど、思った以上に車と遭遇することが多くて、なかなか挑戦できないんだよね……」

「危ないよ。やめておいた方がいいって」

「今さら私の心配? もうさ、そんなの分かりきっているでしょう? 私は危ない女なのです」

「女じゃなくても、君は危ないと思うよ」

「何か言った?」

「何も」

「スケートボードって楽しいんだよ。君、やったことある?」

「スケートボードじゃなくて、ターザンロープならやったことあるけど……。あれってさ、よくよく考えてみるとおかしいよね。何が楽しいの? 最も単純な物理の法則に従って、若干傾斜のあるロープを前方に向かって滑るだけじゃないか。……なんていうかさ、そんなに面白いことじゃないじゃん。それよりも、かけられたロープの上を歩く方が面白いんじゃないかな、と思うんだけど、どう思う?」

「ターザンロープ?」少女は首を傾げる。「何それ」

「ロープウェイみたいなやつだよ。ロープウェイには乗ったことある?」

「うーん、どうかな……。雑誌に載ったことはあるんだけど……」

「運転できるの?」

「うんうん」

「凄いなあ……。さすがじゃん」

「そうだよ。知らなかったの? 圧力鍋みたいに煮えたぎらないと駄目だって」

「圧力鍋?」

「というわけで、今日の夜ご飯はビーフシチューです」

 坂を最後まで下りきる。急に自動車の走行音が聞こえるようになった。街の入り口と同じように、この坂の入り口にも何らかの結界が張られているのかもしれない。

 目的地のスーパーマーケットまではすぐだった。横断歩道を渡って反対側の歩道を進み、五分くらいで到着する。自動車は絶えず両車線を走っている。この道路は全部で四車線あった。排気ガスが酷くて呼吸もできない、ということはない。どちらかというとクリーンな空気が維持されている方だろう。

 円柱型のスーパーマーケットに入る。

「さてさて……。えっと、ビーフシチューを作るんだから、材料は、ルーと、ニンジンと、ジャガイモと、タマネギ、くらいでいいかな」

「肝心な牛肉を忘れているよ」カートを押しながら少年は言った。「ビーフシチューを作るって、自分で言っているのにさ」

「ふうん」

 店内はそれなりに混み合っていた。混み合っているの、合っているとは、何を表わしているのだろう、と少年はふと思いつく。わざわざ「混み合っている」と「合っている」をつけると、来店している客が意図的にそうした状況を作り出しているようにも聞こえる。しかし、「混む」というのは状態を表す動詞だから、意図的に混む、もっと言えば混ませるというのは考えにくい。自動販売機に「故障中」と書かれているのを見ると、違和感を覚えるのと同だ。ちなみに、ときどき「違和感を感じる」と表現する人がいるが、このように、前の単語にすでに含まれている意味を繰り返してはいけないらしい。個人的には、そんなのどうでも良いではないかというのが、少年の意見だった。両者とも言っていることに変わりはないからだ。

 店の中をぐるぐると周りながら、ルーと、ニンジンと、ジャガイモと、タマネギと、それから牛肉を難なくゲットして、二人は夕食の材料を揃えるのに成功した。

 少年は荷物を持ち、もう片方の手で少女の小さな掌を握った。

「ふわあああ」歩きながら、少女は何の躊躇いもなく欠伸をする。「なんだか眠くなってきちゃった。……家に帰ったらお昼寝でもしようかなあ……」

「いいね」少年は喜ぶ。「僕、そろそろ、昼寝くらいしてみたいと思っていたんだ」

「したことないの?」

「そうなんだよ。どうだい、驚異的だろう?」

「うん、もうすっごく驚異的」少女は言った。「あ、でもね、私はもっと驚異的なんだよ。なんといっても、未だにハイヒールを履いたことがないんだから。ね、凄いでしょう?」

「ハイヒールって食べられるの?」

「そっちの吐くじゃないよ。足に履くの」

「ああ、そういうこと……。……いやいや、僕なんて、ほら、もう、日本語さえ上手く話せないんだよ。こっちの方が驚異的じゃない? こんなとんちんかんだったら、将来安心して生きていけるかも分からないよ。ま、安心して、しかも生きる必要なんてまったくないんだけど」

「美しいなあ」

「え、何が?」

 行きに通ったルートを逆に辿り、二人は少女の家に戻ってくる。街は相変わらず静かだった。風が吹いて、電線が微かに揺れている。日はもう陰り始めていた。辺りは森に囲まれているから、この街はほかの場所と比べて少し早く夜を迎える。

「じゃあ、私、寝るから、おやすみ……」

 リビングに入るなり、少女は椅子に座って、テーブルに突っ伏して眠ろうとした。

「え、ちょっと、この食材はどうするの?」

「ああ、適当にそこら辺にほっぽっといていいよ」

「いいの?」

「いいよ。それじゃあ……」

 一瞬の内に、少女はすうすうと寝息を立て始めた。

 少年は手に持っているビニール袋を見つめる。

 軽く勢いをつけて、少女に言われた通りそれを適当に放った。

 たちまち中身が床に散らばる。

 仕方がないから、彼は、それを一つずつ丁寧に拾って、再びビニール袋の中に仕舞った。
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