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第9章 前途多難
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次の日を迎え、月夜は日中は家で過ごした。いつも通り春休みの宿題を進め、その日にすべてを終わらせることができた。
あと数日もすれば、月夜は三年生になる。だからといって何かが変わるような気はしなかった。ピックアップすべきことといえば、受験生という扱いを受けることだが、その点についても、彼女は何の感情も抱いていなかった。入学してから丸二年が経過したことになるが、それも、二年経ったんだなと思うだけで、あっという間に過ぎたような気はしないでもないが、完全に過去の出来事とは思えなかったし、単純に連続した時間が今も継続しているように思えるだけだった。
洗濯物を干していると、フィルが泥だらけになって帰ってきた。彼は朝からいなかった。散歩に行っているのだろうと思っていたが、壮絶な冒険に出かけていたようだ。
「どうしたの?」
ウッドデッキに立ったまま、月夜は庭までやって来た彼に訊いた。
「少し、はしゃぎすぎてしまった」フィルは説明する。「公園で、泥団子を作っていたんだ」
彼に限ってそんなことはしないだろうと思ったが、確実にないとはいえないので、月夜はそれ以上詮索するのはやめておいた。
彼を風呂場へと連れていき、シャワーでお湯を流して身体を洗う。泥は比較的さらさらしたものだったから、すぐに彼の身体は綺麗になった。一応、石鹸でも洗っておく。どちらにしろ、彼は素足で内と外を行き来するから、家がまったく汚れないことはない。
昼頃に、月夜は久し振りに食事をとった。別に、何の感動もなかった。普通に美味しかったので、美味しいという感想を口にしたところ、傍にいたフィルに笑われた。
そして、夜。
靴を履いて玄関の外に出ると、今日は曇っていた。
「たまには、曇り空も悪くないな」フィルが呟く。
「どうして?」
「いちいち理由を尋ねるのは、あまり良いとはいえない」
電車に乗って学校の最寄り駅に到着する。そのまま大通りを進み、途中で脇道に逸れて、普段と同じ時間に海水浴場に到着した。遊園地の敷地に入った頃には、午後十一時を迎えていた。
メリーゴーラウンドの脇を通って管理棟へと向かうと、火花の姿が見当たらなかった。いつもなら、それぞれの作業に移る前に、ここで落ち合うことになっている。
思い当たる場所は一つしかなかったから、月夜は管理棟を出てそちらに向かった。
三角形のモニュメントの前に立ち、扉が自動で開くのを待つ。
扉が開くまで、いつもより少し時間がかかった。
階段を下り、開けたスペースに出る。火花は正面の椅子に座り、いつもと同じようにキーを叩いていた。
「こんばんは」彼女は一瞬だけこちらを見て言った。
月夜は火花の傍に近づく。
「どうかしたの?」
「えっと……」火花は前を向いたまま呟く。
「いつもの場所に、いなかったから」
「ああ、ええ……」彼女は話した。「実は、プログラムに不備が見つかって、作業が押してしまったんです」
月夜は火花の手もとを覗き込む。彼女がタイプする速度はプロ並みに速い。事実として、彼女はプロだ。そうでなければ、遊園地を管理するプログラムなど組めるはずがない。
キーボードの正面にあるスクリーンには、絶えず文字列がスクロールしている。そこには、火花が指示した内容と、それに対するコンピューターからの応答が、ほぼ同時に表示されている。火花はそれを瞬時に読み取り、次のプロセスへと移行していく。
「間に合いそう?」月夜は尋ねた。
「うーん……、ちょっと、分かりません」火花は答える。「不備が見つかったのは、初期の段階で組んだ部分なので……」
「……本当に、大丈夫?」
「分かりません」火花は少し笑った。「間に合うように、なんとか頑張ってみようとは思いますけど……」
火花がやっているのは、彼女に与えられた唯一の仕事であり、期限は彼女の寿命そのものだ。まるで課題の提出期限に間に合わない学生のようなものの言い方だが、問題はそんな軽度なものではないはずだ。それなのに、彼女はなんともない様子で作業を進めている。
普通なら、もう諦めてしまっても良いような問題なのかもしれない。しかしながら、火花は何も迷うことなく、いつも通り目の前の仕事に集中していた。
「何か、できることは、ない?」
月夜が質問しても、火花はすぐには答えなかった。やはり、目の前の作業にワーキングメモリを多く費やしているようだ。重要度の低い問題は、自動的に処理が後回しにされる。
「月夜さんには……」火花は考えながら話した。「遊園地内のシステムを再起動する準備をしてもらいたいです」
「……再起動? どうやって?」
「水族館に行って、そこにいる管理人さんにお願いしてきてもらえませんか?」
「水族館で、いいの?」
「ええ……」火花は説明する。「遊園地の施設のほとんどは、水族館側のシステムと纏めて管理されています。ですから、その方に頼めばすぐに対応してくれるはずです」
火花は、水族館の管理人がいる場所を月夜に伝えた。正確な位置は把握できなかったが、おおよそは分かったので、月夜は火花の要求を引き受けることにした。
三角形のモニュメントの外に出て、左に道を進むと水族館に至る。入り口のメインゲートは閉鎖されていたが、月夜が傍に来ると自動で開いた。火花が連絡を入れておいてくれたのかもしれない。
メインゲートを抜けた先には、館内へと至る道が続いている。今はそちらには向かわずに、月夜は左手の壁に向かった。壁には一枚のドアがあり、暗証番号を入力することで開かれる。番号は、先ほど火花に教えてもらっていた。
ドアを開けると、上り階段が正面に続いている。背後でドアが閉まると同時に、天井に設置されている細長い照明の電源が入った。踊り場を経由して途中で方向転換し、その先に現れたドアを開けてさらに奥へと進んでいく。
左右に続く道を右に進む。すると、ドアを起点として右側の道だけ明るくなった。後ろを振り返っても、そちらは暗いままだ。靴が床と接触する度に、こつこつと硬質な音が響いた。
「間に合わなかったら、どうなるんだろうな」
月夜のテンポに合わせて忙しなく足を動かしながら、フィルが誰にともなく呟いた。
「何もできないまま、火花は死んでしまう」
「何もできないというのは、少し違わないか?」
「ごめん、今は急いでいるから」月夜は会話を放棄する決断を下した。「話は、またあとでね」
行き止まりに至り、今度は道を左に曲がる。すぐに両開きの扉が現れ、月夜はその前で立ち止まった。
軽い電子音が響き、扉の横の壁に灯っていた赤色のランプが緑色へと変色する。
軽快な音を立てながら、扉が左右にスライドして開いた。
室内は真っ暗だったが、月夜は戸惑わずにその中に足を踏み入れる。
背後でゆっくりと扉が閉まっていく。廊下から差し込む明かりは徐々に細くなり、やがて完全に消失した。
部屋は暗いままだ。
何も見えない。
足もとにフィルがじゃれついてくる感覚があった。
月夜は一度しゃがみ、彼を抱き上げて立ち上がる。
突然、前方に青白い光が出現した。
それは球形をしており、周囲に淡い空気の層のようなものが漂っている。
その層はドライアイスの冷気のように、光の周囲を循環していた。
〈火花の知り合いですね?〉
突然、無感情な女性の声が聞こえた。
月夜は一瞬身構えたが、自分には何も危害は及ばないと判断して、ゆっくりと前方の光の方へと近づいていった。
「そう」月夜は答える。「貴女は?」
〈この水族館の管理人をしている者です。要件をお話し下さい〉
唐突に現実離れした光景を目の当たりにして、月夜は多少困惑したが、気になることは後回しにして、まずは火花に頼まれたことを達成しようと考えた。
「火花に、遊園地のシステムを再起動をするための準備を、貴女にしてほしいと言われたから、それを伝えに来た」
〈理由をご説明下さい〉
「火花が、今組んでいるプログラムに、不備が見つかって……」火花の話を思い出しながら、月夜は話す。「見つかったのは初期段階の部分で、期限に間に合うか分からない。間に合わせるためには、再起動が必要だから、その旨を貴女に伝えてほしいと言われた。再起動する必要がある具体的な理由については、聞いていない」
月夜の説明を聞いて、目の前の光の球体は暫くの間黙った。
球体の上層を漂う靄のようなものが、高速で巡回する。
〈要求の意味を理解しました。ご苦労様です。貴女はお帰りになられて結構です。再起動の準備はこちらで進めておきます。私からの返答を、火花に伝えて頂くようにお願いします〉
「分かった」
月夜が答えると、彼女の背後で自動的に扉が開かれた。
廊下の明かりが室内に入り、光の球体の姿が霞む。
月夜は、そのまま、その場所に立ち尽くした。
〈どうかなさいましたか?〉
光の球体が質問する。
「貴女は、誰?」
月夜の質問を受けても、球体は表情を変えなかった。
〈私は、この水族館の管理人をしている者です。先ほどそのように説明したと思いますが、この回答では問題がありますか?〉
靄の向こう側を見るように、月夜は球体の表面をじっと見つめる。
その向こう側から、誰かに見つめられているような気がした。
けれど、何も見えない。
「どうも、ありがとう」そう言って、月夜は後ろ向きに数歩足を進めた。「火花に、伝えておく」
〈よろしくお願いします〉
一歩廊下の地面に足をついた瞬間、月夜の目の前で扉は勢い良く閉ざされた。隣の壁にあるランプが緑から赤色を示すようになり、鍵がかかるような重たい音が扉の向こう側から聞こえてくる。
暫くの間、月夜はその前で佇んでいた。
腕の中のフィルに手首を甘噛みされて、ようやく現実に引き戻された。
「戻ろう」フィルが言った。
「今のは、何だったのかな?」
「さあ」彼は呟く。「とにかく、今は火花を助けることが最優先だ」
その通りだと思ったので、月夜は頷いた。
来た道を戻り、水族館の外に出る。先ほどと同様に、ゲートは自動で開かれ、そして再び閉ざされた。
三角形のモニュメントまで戻って来て、月夜はその中に入る。室内では火花が作業を進めていた。
「ありがとうございます」月夜が帰ってきたのを見て、火花は言った。
「大丈夫そう?」傍にある椅子に座り、月夜は尋ねる。
「なんとか……」火花は話した。「でも、今日の分の時間を使ってしまったので、本来やるべき作業が何一つとしてできていません」
「何か、手伝える?」
「いえ、これ以上は……。……もしかすると、最後の日まで、時間に余裕はないかもしれません」
タイプをする火花の横顔を眺めながら、月夜は応える。
「火花が気にしないのなら、私も気にしないから、大丈夫」
火花は頷いた。
「とりあえず、今はこれを解決することに専念しますね」
「分かった」
月夜の今日の仕事は、水族館の裏側のエリアの清掃作業だった。
箒と塵取りを管理棟から持ち出し、目的地に向かって掃除を始める。昨日に比べて、今日は風が強かった。もしかすると、これから雨が降るのかもしれない。空は相変わらず曇っていて、冷たい風が海の方から吹いてくる。
防波堤に上がり、その上も確認した。塵は落ちていなかったが、砂が堆積している所が何ヶ所か見受けられたので、それを塵取りで集めてビニール袋に入れた。
防波堤の最端までやって来る。
そこで立ち止まり、月夜は海の向こう側を眺めた。
「二週間は、あっという間だったな」フィルが呟いた。
月夜は頷く。
「でも、二週間だった」
「それはそうさ。正真正銘、二週間だったんだから」
「去年の春休みよりは、楽しかった、かもしれない」
「楽しかった?」フィルは訊き返す。「お前がそんなことを言うはずはないから、それは嘘だな」
「私は、できる限り、嘘は吐かないようにしている」
「今は、できる限りの範囲ではないんだろう?」
「本心」
後ろを振り返る。
コンクリートの塊が向こうまで続いている。
柵は低く、その気になれば簡単に越えられそうだ。
防波堤が途中で断裂して、真っ暗な海に放り出される光景を想像した。
自分でも、それなりに面白い発想だと思った。
もしそうなったら、火花はどうするだろう?
彼女なら……。
彼女なら、自分が突然いなくなっても、最後まで自分のやるべきことをやるに違いない。
火花はそれくらい強い。
それだけしか見ていない。
自分自身のことも、他者のことも、二の次だ。
その仕事が自分の恋人でもあるかのように、彼女は毎晩ここでキーボートに向かって、ひたすらタイプを続ける。
そうするように、彼女がプログラムされているみたいだった。
彼女ほど適した管理人が、ほかにいるだろうか?
自分は、その一端を手伝わせてもらった。
少しは、彼女の一部として相応しい行動ができただろうか……。
「火花なら、きっと感謝しているさ」欠伸をしながら、フィルがなんともないような口調で呟いた。「一緒にいてくれる人がずっといなかったって、言っていたただろう? お前は、この二週間、毎日彼女の傍にいた。彼女にとっては、それだけで充分だったはずだ」
「どうして、フィルにそんなことが分かるの?」
「お前よりは、女心が分かるからさ」
「火花は、喜んでくれているかな?」
「彼女に直接訊いてみればいい」
「どうやって、訊けばいいかな?」
「訊きたいことを、そのまま口にするんだ」フィルは言った。「練習の相手なら、いくらでもしてやるぜ」
防波堤を引き返し、管理棟へと戻る。今日の作業はそれだけだったから、三十分ほどで終了した。
再び火花がいる三角形のモニュメントへと向かった。ドアを抜け、階段を下りる。
月夜は、何も言わずに、火花の後方に腰を下ろした。
火花は、月夜が戻ってきたのに気づいていないのか、それとも、気づいたうえで何も言わないのか、無言のまま指を動かし続けている。
そんな彼女が、月夜には魅力的に見えた。
生きているとは、そういうことなのだと実感させられるような、そんな靭やかさが火花の指の動きからは感じられる。
火花という存在は、月夜にとって不思議だった。彼女の挙動や言葉遣いは、相手を思いやっているように受け取れることが多いが、それと同時に、何かが欠けているような印も受ける。その欠けている部分というのが、おそらくこれなのだろう。彼女が最大の誠意を持って対面するのが、この仕事なのだ。
「月夜さん」唐突に火花が口を開いた。「すみませんが、外に行って確認してもらいたいことがあるんです」
月夜は立ち上がり、火花の傍に向かう。
「何?」
火花は、今から塔型のアトラクションの照明を二度点滅させるから、それが適切に作動しているか見てきてほしいと話した。月夜は了承し、建物の外に出る。
青色の塔は、三角形のモニュメントからでも充分視認できる。三十秒くらい経過した頃、塔はその周囲に付けられた照明を瞬間的に点灯させると、すぐに明かりを消し、さらにもう一度点灯と消灯を繰り返した。月夜は建物の中に戻り、火花にきちんと二度点滅したことを伝える。火花は月夜に礼を述べ、そのままタイプを続けた。
火花は、その晩、ずっとその作業をしていた。月夜も火花の後ろに座ったまま、彼女の姿を眺めて夜を過ごした。
太陽が昇り始めた頃、火花は手を止めてこちらを振り返った。
「……月夜さん、ずっとそこにいたんですか?」
数時間振りに火花に声をかけられて、月夜は応答した。
「うん、そう」
「……申し訳ありませんでした。帰ってもらってもよかったのに……」
「私が、自分で決めてここにいたんだから、火花は何も悪くない」
火花はにっこりと笑う。こういうやり取りは初めてではないから、彼女も微笑ましく感じたのかもしれない。
「少し、散歩しませんか?」
月夜は頷き、火花と一緒に建物の外に出た。
遊園地の敷地を出る前に、管理棟に向かって、今日(この時点では、すでに昨日になっていたが)の分の作業を、チェックシートに記録しておいた。この確認作業も、もう何回も経験してきたことだ。毎日同じ場所に通っていても、日ごとの出来事は必ず異なるから、昨日と同じことをしているとは感じにくい。しかしながら、こうした形式的なことをすると、一日が経過したと実感する。一般的にルーチンワークと呼ばれるものだが、このような習慣的な行いが、今の人間社会を管理しているように思える。
管理棟を出ると、すでに東の空に昇った太陽が、海洋に光を注いでいるのが見えた。
階段を裏手に下り、今日は緑色の橋を渡った。四方を壁に囲まれた、完全に室内として扱える直方体の橋だ。
橋の先には、海水浴場へと繋がる道が続いている。右手には松の林が広がり、正面方向には駐車場、そして左手には釣りを行える簡易なスペースがあった。
道を左に進み、海に沿って歩く。
暫く無言だったが、いつものようにやがて火花が口を開いた。
「月夜さんの通っている学校では、どんなことを勉強しているんですか?」
月夜は顔を横に向けて、尋ねる。
「どんなこと、というのは、教科のこと?」
「ええ……」
「英語と、数学と、国語の三教科と、あとは、理科と社会の二教科」月夜は説明した。「私は、文系だから、地学と、世界史を専攻している」
「英語で、何か話せますか?」
「話せるけど、発音が、まだまだ」
火花に催促されて、月夜は片言の英語で簡単な自己紹介をした。月夜は、一つの単語を片仮名の発音で読むのが精一杯で、単語と単語の繋がりを意識したり、lとrの発音を区別したりすることは、あまり得意ではなかった。
「火花が、プログラミングに使っているのは、英語?」
火花は考える素振りをする。
「うーん、どうでしょう……。英語といえば英語ですが、英語本来の文法はあまり関係がありません。英単語を使っていても、特殊な配列をすることがほとんどです」
「数学は、得意?」
「実は、あまり得意ではありません」火花は話した。「プログラミングには必須だと思われることもありますが、全然そんなことはないんです。一番必要なのは……、そうですね、言語の類型に関する理解といったところでしょうか」
月夜も、文系だが、国語や歴史の類は、あまり得意ではなかった。テストで点をとることはできるが、それは理解しているからではない。いや、理解はしているが、根幹の部分を理解するところまでは至っていない。きっと、自分がそこまで理解できるようになるには、まだまだ時間がかかるだろうし、そもそも、そこまでやろうとするかどうか、怪しいところがあると月夜は考えていた。
「学校は、楽しいですか?」
火花の質問に対して、月夜は首を傾げることしかできなかった。
「楽しいというのとは、違うかもしれない」
「勉強は、どうですか?」
「勉強も、あまり、楽しくはない」
「じゃあ、月夜さんにとって一番楽しいことって、何ですか?」
火花に問われ、月夜は暫くの間沈黙する。それについて考えることは、彼女にとっては難しかった。
「……自分でも、未だに分からない」
「楽しいことが、見つからないんですか?」
「楽しいかな、と思うことはあっても、それが、本当に楽しいのか、それとも、楽しい振りをしているだけなのか、自分でも分からない、という意味」月夜は説明した。「ご飯を食べて、美味しいと感じるのは、皆が美味しいと言っているから、美味しいと感じるだけなのかなと思ってしまうような、そんな感じ」
「うーん……。美味しいという言葉は同じでも、意味が異なる可能性を考えてしまう、ということですか?」
「うん、どうだろう……」月夜は考える。「美味しくも、何ともないのに、美味しいと言っている、ということかな……」
「……なんとなくは、分かります。私も、同じような感覚を抱くことがあります」
「どんなときに?」月夜は尋ねる。
「そうですね……」火花は答えた。「一人でいるから孤独だと感じるのが、本当に正しい感覚なのか疑問に思うことが、今まで何度かありました」
道は終わりを迎えたが、壁に沿って細い段差が形成されていた。三人はそのまま先へと進む。すぐ下には起伏の多い岩の地面が広がっていて、波がそこに当たって細かい飛沫を上げていた。
途中で段差から下り、月夜と火花は岩の上を歩く。フィルは軽快なステップでどんどん進んでいき、二人からあっという間に離れてしまった。
波飛沫が上がる岩の縁へと向かい、火花はその場にしゃがみ込む。そのまま腕を伸ばして指先を海水に浸し、感触を確かめるように何度か手首を往復させた。
「海の水は、綺麗ですね」
月夜は火花の傍に行き、彼女の隣に座る。
「うん……」
「私は……」
水の表面を見つめたまま、火花は呟く。
「……私は、何?」
月夜は尋ねる。
火花は月夜を見た。
火花は笑っている。
風が吹き、彼女の白い髪を靡かせた。
「いえ……」火花は言った。「やっぱり、聞かなかったことにして下さい」
首を少し傾け、月夜は問い質す。
「言いたいことがあるのなら、聞くよ」
「本当に、何でもないんです。間違えてしまっただけだから、気にしないで下さい」
「何を間違えたの?」
「本当はできないことを、できると思い込んでしまったんです」
「……どういうこと?」
「いつか、分かると思います」
月夜は火花を見つめる。
「何が、分かるの?」
「私と、月夜さんのことです」
「……火花と、私のこと?」
遠くの方でフィルが二人を眺めている。彼は岩の上に大人しく座り、時折自分の両腕を舐めながら、二人が来るのを待っていた。
「月夜さん、ごめんなさい」唐突に火花が言った。「私、本当は貴女に伝えなくてはいけないこと、いえ……、貴女に伝えたいことがあるんです。でも……、そうすることが、私にはできないんです。自分がしたいことなのに、自分ではできない……。そんな制限が、私にはかかっているんです」
「どういう意味?」
「言葉の意味はそのままです」火花は話す。「私の真意は、私には口にできません」
月夜は必死に頭を回した。言葉だけでなく、彼女の表情や仕草からもできるだけ多く情報を読み取ろうとした。
火花は笑っている。
いや……。
彼女は、ずっと笑っていた。
寂しいと言いながら、彼女はいつも笑っていた。
波の飛沫。
朝の冷たい風を受けながら、火花は一粒の涙を零す。
雫は彼女の頰を伝い、顎に至ると、やがて海水の中へと沈んでいく。
一瞬だけ波紋が広がり、それはすぐに月の引力によって掻き消された。
「ごめんなさい。今言ったことも、全部忘れて下さい」
月夜は首を振る。
「それは、できない」
火花は微笑む。
「それでは、私と一緒にいる間だけでも、忘れたことにしてくれませんか?」
月夜は、すぐには了承できなかった。
火花が何を伝えようとしているのか、ずっと考えていた。
「月夜さんには、色々と我儘を聞いてもらいました。仕事を手伝ってもらったのも、散歩に付き合ってもらったのも、そして、最初にメリーゴーラウンドに乗ってもらったのも、すべてそうです。だから、もう一つだけ、私の我儘を聞いてもらえませんか?」
火花の背後から太陽が昇り、逆光になって彼女の表情は見えなくなる。
「最後まで、私と一緒にいて下さい」
そう言って、火花は僅かに首を傾げる。
「分かった」
精一杯の力を込めて、月夜は首を上下に動かした。
あと数日もすれば、月夜は三年生になる。だからといって何かが変わるような気はしなかった。ピックアップすべきことといえば、受験生という扱いを受けることだが、その点についても、彼女は何の感情も抱いていなかった。入学してから丸二年が経過したことになるが、それも、二年経ったんだなと思うだけで、あっという間に過ぎたような気はしないでもないが、完全に過去の出来事とは思えなかったし、単純に連続した時間が今も継続しているように思えるだけだった。
洗濯物を干していると、フィルが泥だらけになって帰ってきた。彼は朝からいなかった。散歩に行っているのだろうと思っていたが、壮絶な冒険に出かけていたようだ。
「どうしたの?」
ウッドデッキに立ったまま、月夜は庭までやって来た彼に訊いた。
「少し、はしゃぎすぎてしまった」フィルは説明する。「公園で、泥団子を作っていたんだ」
彼に限ってそんなことはしないだろうと思ったが、確実にないとはいえないので、月夜はそれ以上詮索するのはやめておいた。
彼を風呂場へと連れていき、シャワーでお湯を流して身体を洗う。泥は比較的さらさらしたものだったから、すぐに彼の身体は綺麗になった。一応、石鹸でも洗っておく。どちらにしろ、彼は素足で内と外を行き来するから、家がまったく汚れないことはない。
昼頃に、月夜は久し振りに食事をとった。別に、何の感動もなかった。普通に美味しかったので、美味しいという感想を口にしたところ、傍にいたフィルに笑われた。
そして、夜。
靴を履いて玄関の外に出ると、今日は曇っていた。
「たまには、曇り空も悪くないな」フィルが呟く。
「どうして?」
「いちいち理由を尋ねるのは、あまり良いとはいえない」
電車に乗って学校の最寄り駅に到着する。そのまま大通りを進み、途中で脇道に逸れて、普段と同じ時間に海水浴場に到着した。遊園地の敷地に入った頃には、午後十一時を迎えていた。
メリーゴーラウンドの脇を通って管理棟へと向かうと、火花の姿が見当たらなかった。いつもなら、それぞれの作業に移る前に、ここで落ち合うことになっている。
思い当たる場所は一つしかなかったから、月夜は管理棟を出てそちらに向かった。
三角形のモニュメントの前に立ち、扉が自動で開くのを待つ。
扉が開くまで、いつもより少し時間がかかった。
階段を下り、開けたスペースに出る。火花は正面の椅子に座り、いつもと同じようにキーを叩いていた。
「こんばんは」彼女は一瞬だけこちらを見て言った。
月夜は火花の傍に近づく。
「どうかしたの?」
「えっと……」火花は前を向いたまま呟く。
「いつもの場所に、いなかったから」
「ああ、ええ……」彼女は話した。「実は、プログラムに不備が見つかって、作業が押してしまったんです」
月夜は火花の手もとを覗き込む。彼女がタイプする速度はプロ並みに速い。事実として、彼女はプロだ。そうでなければ、遊園地を管理するプログラムなど組めるはずがない。
キーボードの正面にあるスクリーンには、絶えず文字列がスクロールしている。そこには、火花が指示した内容と、それに対するコンピューターからの応答が、ほぼ同時に表示されている。火花はそれを瞬時に読み取り、次のプロセスへと移行していく。
「間に合いそう?」月夜は尋ねた。
「うーん……、ちょっと、分かりません」火花は答える。「不備が見つかったのは、初期の段階で組んだ部分なので……」
「……本当に、大丈夫?」
「分かりません」火花は少し笑った。「間に合うように、なんとか頑張ってみようとは思いますけど……」
火花がやっているのは、彼女に与えられた唯一の仕事であり、期限は彼女の寿命そのものだ。まるで課題の提出期限に間に合わない学生のようなものの言い方だが、問題はそんな軽度なものではないはずだ。それなのに、彼女はなんともない様子で作業を進めている。
普通なら、もう諦めてしまっても良いような問題なのかもしれない。しかしながら、火花は何も迷うことなく、いつも通り目の前の仕事に集中していた。
「何か、できることは、ない?」
月夜が質問しても、火花はすぐには答えなかった。やはり、目の前の作業にワーキングメモリを多く費やしているようだ。重要度の低い問題は、自動的に処理が後回しにされる。
「月夜さんには……」火花は考えながら話した。「遊園地内のシステムを再起動する準備をしてもらいたいです」
「……再起動? どうやって?」
「水族館に行って、そこにいる管理人さんにお願いしてきてもらえませんか?」
「水族館で、いいの?」
「ええ……」火花は説明する。「遊園地の施設のほとんどは、水族館側のシステムと纏めて管理されています。ですから、その方に頼めばすぐに対応してくれるはずです」
火花は、水族館の管理人がいる場所を月夜に伝えた。正確な位置は把握できなかったが、おおよそは分かったので、月夜は火花の要求を引き受けることにした。
三角形のモニュメントの外に出て、左に道を進むと水族館に至る。入り口のメインゲートは閉鎖されていたが、月夜が傍に来ると自動で開いた。火花が連絡を入れておいてくれたのかもしれない。
メインゲートを抜けた先には、館内へと至る道が続いている。今はそちらには向かわずに、月夜は左手の壁に向かった。壁には一枚のドアがあり、暗証番号を入力することで開かれる。番号は、先ほど火花に教えてもらっていた。
ドアを開けると、上り階段が正面に続いている。背後でドアが閉まると同時に、天井に設置されている細長い照明の電源が入った。踊り場を経由して途中で方向転換し、その先に現れたドアを開けてさらに奥へと進んでいく。
左右に続く道を右に進む。すると、ドアを起点として右側の道だけ明るくなった。後ろを振り返っても、そちらは暗いままだ。靴が床と接触する度に、こつこつと硬質な音が響いた。
「間に合わなかったら、どうなるんだろうな」
月夜のテンポに合わせて忙しなく足を動かしながら、フィルが誰にともなく呟いた。
「何もできないまま、火花は死んでしまう」
「何もできないというのは、少し違わないか?」
「ごめん、今は急いでいるから」月夜は会話を放棄する決断を下した。「話は、またあとでね」
行き止まりに至り、今度は道を左に曲がる。すぐに両開きの扉が現れ、月夜はその前で立ち止まった。
軽い電子音が響き、扉の横の壁に灯っていた赤色のランプが緑色へと変色する。
軽快な音を立てながら、扉が左右にスライドして開いた。
室内は真っ暗だったが、月夜は戸惑わずにその中に足を踏み入れる。
背後でゆっくりと扉が閉まっていく。廊下から差し込む明かりは徐々に細くなり、やがて完全に消失した。
部屋は暗いままだ。
何も見えない。
足もとにフィルがじゃれついてくる感覚があった。
月夜は一度しゃがみ、彼を抱き上げて立ち上がる。
突然、前方に青白い光が出現した。
それは球形をしており、周囲に淡い空気の層のようなものが漂っている。
その層はドライアイスの冷気のように、光の周囲を循環していた。
〈火花の知り合いですね?〉
突然、無感情な女性の声が聞こえた。
月夜は一瞬身構えたが、自分には何も危害は及ばないと判断して、ゆっくりと前方の光の方へと近づいていった。
「そう」月夜は答える。「貴女は?」
〈この水族館の管理人をしている者です。要件をお話し下さい〉
唐突に現実離れした光景を目の当たりにして、月夜は多少困惑したが、気になることは後回しにして、まずは火花に頼まれたことを達成しようと考えた。
「火花に、遊園地のシステムを再起動をするための準備を、貴女にしてほしいと言われたから、それを伝えに来た」
〈理由をご説明下さい〉
「火花が、今組んでいるプログラムに、不備が見つかって……」火花の話を思い出しながら、月夜は話す。「見つかったのは初期段階の部分で、期限に間に合うか分からない。間に合わせるためには、再起動が必要だから、その旨を貴女に伝えてほしいと言われた。再起動する必要がある具体的な理由については、聞いていない」
月夜の説明を聞いて、目の前の光の球体は暫くの間黙った。
球体の上層を漂う靄のようなものが、高速で巡回する。
〈要求の意味を理解しました。ご苦労様です。貴女はお帰りになられて結構です。再起動の準備はこちらで進めておきます。私からの返答を、火花に伝えて頂くようにお願いします〉
「分かった」
月夜が答えると、彼女の背後で自動的に扉が開かれた。
廊下の明かりが室内に入り、光の球体の姿が霞む。
月夜は、そのまま、その場所に立ち尽くした。
〈どうかなさいましたか?〉
光の球体が質問する。
「貴女は、誰?」
月夜の質問を受けても、球体は表情を変えなかった。
〈私は、この水族館の管理人をしている者です。先ほどそのように説明したと思いますが、この回答では問題がありますか?〉
靄の向こう側を見るように、月夜は球体の表面をじっと見つめる。
その向こう側から、誰かに見つめられているような気がした。
けれど、何も見えない。
「どうも、ありがとう」そう言って、月夜は後ろ向きに数歩足を進めた。「火花に、伝えておく」
〈よろしくお願いします〉
一歩廊下の地面に足をついた瞬間、月夜の目の前で扉は勢い良く閉ざされた。隣の壁にあるランプが緑から赤色を示すようになり、鍵がかかるような重たい音が扉の向こう側から聞こえてくる。
暫くの間、月夜はその前で佇んでいた。
腕の中のフィルに手首を甘噛みされて、ようやく現実に引き戻された。
「戻ろう」フィルが言った。
「今のは、何だったのかな?」
「さあ」彼は呟く。「とにかく、今は火花を助けることが最優先だ」
その通りだと思ったので、月夜は頷いた。
来た道を戻り、水族館の外に出る。先ほどと同様に、ゲートは自動で開かれ、そして再び閉ざされた。
三角形のモニュメントまで戻って来て、月夜はその中に入る。室内では火花が作業を進めていた。
「ありがとうございます」月夜が帰ってきたのを見て、火花は言った。
「大丈夫そう?」傍にある椅子に座り、月夜は尋ねる。
「なんとか……」火花は話した。「でも、今日の分の時間を使ってしまったので、本来やるべき作業が何一つとしてできていません」
「何か、手伝える?」
「いえ、これ以上は……。……もしかすると、最後の日まで、時間に余裕はないかもしれません」
タイプをする火花の横顔を眺めながら、月夜は応える。
「火花が気にしないのなら、私も気にしないから、大丈夫」
火花は頷いた。
「とりあえず、今はこれを解決することに専念しますね」
「分かった」
月夜の今日の仕事は、水族館の裏側のエリアの清掃作業だった。
箒と塵取りを管理棟から持ち出し、目的地に向かって掃除を始める。昨日に比べて、今日は風が強かった。もしかすると、これから雨が降るのかもしれない。空は相変わらず曇っていて、冷たい風が海の方から吹いてくる。
防波堤に上がり、その上も確認した。塵は落ちていなかったが、砂が堆積している所が何ヶ所か見受けられたので、それを塵取りで集めてビニール袋に入れた。
防波堤の最端までやって来る。
そこで立ち止まり、月夜は海の向こう側を眺めた。
「二週間は、あっという間だったな」フィルが呟いた。
月夜は頷く。
「でも、二週間だった」
「それはそうさ。正真正銘、二週間だったんだから」
「去年の春休みよりは、楽しかった、かもしれない」
「楽しかった?」フィルは訊き返す。「お前がそんなことを言うはずはないから、それは嘘だな」
「私は、できる限り、嘘は吐かないようにしている」
「今は、できる限りの範囲ではないんだろう?」
「本心」
後ろを振り返る。
コンクリートの塊が向こうまで続いている。
柵は低く、その気になれば簡単に越えられそうだ。
防波堤が途中で断裂して、真っ暗な海に放り出される光景を想像した。
自分でも、それなりに面白い発想だと思った。
もしそうなったら、火花はどうするだろう?
彼女なら……。
彼女なら、自分が突然いなくなっても、最後まで自分のやるべきことをやるに違いない。
火花はそれくらい強い。
それだけしか見ていない。
自分自身のことも、他者のことも、二の次だ。
その仕事が自分の恋人でもあるかのように、彼女は毎晩ここでキーボートに向かって、ひたすらタイプを続ける。
そうするように、彼女がプログラムされているみたいだった。
彼女ほど適した管理人が、ほかにいるだろうか?
自分は、その一端を手伝わせてもらった。
少しは、彼女の一部として相応しい行動ができただろうか……。
「火花なら、きっと感謝しているさ」欠伸をしながら、フィルがなんともないような口調で呟いた。「一緒にいてくれる人がずっといなかったって、言っていたただろう? お前は、この二週間、毎日彼女の傍にいた。彼女にとっては、それだけで充分だったはずだ」
「どうして、フィルにそんなことが分かるの?」
「お前よりは、女心が分かるからさ」
「火花は、喜んでくれているかな?」
「彼女に直接訊いてみればいい」
「どうやって、訊けばいいかな?」
「訊きたいことを、そのまま口にするんだ」フィルは言った。「練習の相手なら、いくらでもしてやるぜ」
防波堤を引き返し、管理棟へと戻る。今日の作業はそれだけだったから、三十分ほどで終了した。
再び火花がいる三角形のモニュメントへと向かった。ドアを抜け、階段を下りる。
月夜は、何も言わずに、火花の後方に腰を下ろした。
火花は、月夜が戻ってきたのに気づいていないのか、それとも、気づいたうえで何も言わないのか、無言のまま指を動かし続けている。
そんな彼女が、月夜には魅力的に見えた。
生きているとは、そういうことなのだと実感させられるような、そんな靭やかさが火花の指の動きからは感じられる。
火花という存在は、月夜にとって不思議だった。彼女の挙動や言葉遣いは、相手を思いやっているように受け取れることが多いが、それと同時に、何かが欠けているような印も受ける。その欠けている部分というのが、おそらくこれなのだろう。彼女が最大の誠意を持って対面するのが、この仕事なのだ。
「月夜さん」唐突に火花が口を開いた。「すみませんが、外に行って確認してもらいたいことがあるんです」
月夜は立ち上がり、火花の傍に向かう。
「何?」
火花は、今から塔型のアトラクションの照明を二度点滅させるから、それが適切に作動しているか見てきてほしいと話した。月夜は了承し、建物の外に出る。
青色の塔は、三角形のモニュメントからでも充分視認できる。三十秒くらい経過した頃、塔はその周囲に付けられた照明を瞬間的に点灯させると、すぐに明かりを消し、さらにもう一度点灯と消灯を繰り返した。月夜は建物の中に戻り、火花にきちんと二度点滅したことを伝える。火花は月夜に礼を述べ、そのままタイプを続けた。
火花は、その晩、ずっとその作業をしていた。月夜も火花の後ろに座ったまま、彼女の姿を眺めて夜を過ごした。
太陽が昇り始めた頃、火花は手を止めてこちらを振り返った。
「……月夜さん、ずっとそこにいたんですか?」
数時間振りに火花に声をかけられて、月夜は応答した。
「うん、そう」
「……申し訳ありませんでした。帰ってもらってもよかったのに……」
「私が、自分で決めてここにいたんだから、火花は何も悪くない」
火花はにっこりと笑う。こういうやり取りは初めてではないから、彼女も微笑ましく感じたのかもしれない。
「少し、散歩しませんか?」
月夜は頷き、火花と一緒に建物の外に出た。
遊園地の敷地を出る前に、管理棟に向かって、今日(この時点では、すでに昨日になっていたが)の分の作業を、チェックシートに記録しておいた。この確認作業も、もう何回も経験してきたことだ。毎日同じ場所に通っていても、日ごとの出来事は必ず異なるから、昨日と同じことをしているとは感じにくい。しかしながら、こうした形式的なことをすると、一日が経過したと実感する。一般的にルーチンワークと呼ばれるものだが、このような習慣的な行いが、今の人間社会を管理しているように思える。
管理棟を出ると、すでに東の空に昇った太陽が、海洋に光を注いでいるのが見えた。
階段を裏手に下り、今日は緑色の橋を渡った。四方を壁に囲まれた、完全に室内として扱える直方体の橋だ。
橋の先には、海水浴場へと繋がる道が続いている。右手には松の林が広がり、正面方向には駐車場、そして左手には釣りを行える簡易なスペースがあった。
道を左に進み、海に沿って歩く。
暫く無言だったが、いつものようにやがて火花が口を開いた。
「月夜さんの通っている学校では、どんなことを勉強しているんですか?」
月夜は顔を横に向けて、尋ねる。
「どんなこと、というのは、教科のこと?」
「ええ……」
「英語と、数学と、国語の三教科と、あとは、理科と社会の二教科」月夜は説明した。「私は、文系だから、地学と、世界史を専攻している」
「英語で、何か話せますか?」
「話せるけど、発音が、まだまだ」
火花に催促されて、月夜は片言の英語で簡単な自己紹介をした。月夜は、一つの単語を片仮名の発音で読むのが精一杯で、単語と単語の繋がりを意識したり、lとrの発音を区別したりすることは、あまり得意ではなかった。
「火花が、プログラミングに使っているのは、英語?」
火花は考える素振りをする。
「うーん、どうでしょう……。英語といえば英語ですが、英語本来の文法はあまり関係がありません。英単語を使っていても、特殊な配列をすることがほとんどです」
「数学は、得意?」
「実は、あまり得意ではありません」火花は話した。「プログラミングには必須だと思われることもありますが、全然そんなことはないんです。一番必要なのは……、そうですね、言語の類型に関する理解といったところでしょうか」
月夜も、文系だが、国語や歴史の類は、あまり得意ではなかった。テストで点をとることはできるが、それは理解しているからではない。いや、理解はしているが、根幹の部分を理解するところまでは至っていない。きっと、自分がそこまで理解できるようになるには、まだまだ時間がかかるだろうし、そもそも、そこまでやろうとするかどうか、怪しいところがあると月夜は考えていた。
「学校は、楽しいですか?」
火花の質問に対して、月夜は首を傾げることしかできなかった。
「楽しいというのとは、違うかもしれない」
「勉強は、どうですか?」
「勉強も、あまり、楽しくはない」
「じゃあ、月夜さんにとって一番楽しいことって、何ですか?」
火花に問われ、月夜は暫くの間沈黙する。それについて考えることは、彼女にとっては難しかった。
「……自分でも、未だに分からない」
「楽しいことが、見つからないんですか?」
「楽しいかな、と思うことはあっても、それが、本当に楽しいのか、それとも、楽しい振りをしているだけなのか、自分でも分からない、という意味」月夜は説明した。「ご飯を食べて、美味しいと感じるのは、皆が美味しいと言っているから、美味しいと感じるだけなのかなと思ってしまうような、そんな感じ」
「うーん……。美味しいという言葉は同じでも、意味が異なる可能性を考えてしまう、ということですか?」
「うん、どうだろう……」月夜は考える。「美味しくも、何ともないのに、美味しいと言っている、ということかな……」
「……なんとなくは、分かります。私も、同じような感覚を抱くことがあります」
「どんなときに?」月夜は尋ねる。
「そうですね……」火花は答えた。「一人でいるから孤独だと感じるのが、本当に正しい感覚なのか疑問に思うことが、今まで何度かありました」
道は終わりを迎えたが、壁に沿って細い段差が形成されていた。三人はそのまま先へと進む。すぐ下には起伏の多い岩の地面が広がっていて、波がそこに当たって細かい飛沫を上げていた。
途中で段差から下り、月夜と火花は岩の上を歩く。フィルは軽快なステップでどんどん進んでいき、二人からあっという間に離れてしまった。
波飛沫が上がる岩の縁へと向かい、火花はその場にしゃがみ込む。そのまま腕を伸ばして指先を海水に浸し、感触を確かめるように何度か手首を往復させた。
「海の水は、綺麗ですね」
月夜は火花の傍に行き、彼女の隣に座る。
「うん……」
「私は……」
水の表面を見つめたまま、火花は呟く。
「……私は、何?」
月夜は尋ねる。
火花は月夜を見た。
火花は笑っている。
風が吹き、彼女の白い髪を靡かせた。
「いえ……」火花は言った。「やっぱり、聞かなかったことにして下さい」
首を少し傾け、月夜は問い質す。
「言いたいことがあるのなら、聞くよ」
「本当に、何でもないんです。間違えてしまっただけだから、気にしないで下さい」
「何を間違えたの?」
「本当はできないことを、できると思い込んでしまったんです」
「……どういうこと?」
「いつか、分かると思います」
月夜は火花を見つめる。
「何が、分かるの?」
「私と、月夜さんのことです」
「……火花と、私のこと?」
遠くの方でフィルが二人を眺めている。彼は岩の上に大人しく座り、時折自分の両腕を舐めながら、二人が来るのを待っていた。
「月夜さん、ごめんなさい」唐突に火花が言った。「私、本当は貴女に伝えなくてはいけないこと、いえ……、貴女に伝えたいことがあるんです。でも……、そうすることが、私にはできないんです。自分がしたいことなのに、自分ではできない……。そんな制限が、私にはかかっているんです」
「どういう意味?」
「言葉の意味はそのままです」火花は話す。「私の真意は、私には口にできません」
月夜は必死に頭を回した。言葉だけでなく、彼女の表情や仕草からもできるだけ多く情報を読み取ろうとした。
火花は笑っている。
いや……。
彼女は、ずっと笑っていた。
寂しいと言いながら、彼女はいつも笑っていた。
波の飛沫。
朝の冷たい風を受けながら、火花は一粒の涙を零す。
雫は彼女の頰を伝い、顎に至ると、やがて海水の中へと沈んでいく。
一瞬だけ波紋が広がり、それはすぐに月の引力によって掻き消された。
「ごめんなさい。今言ったことも、全部忘れて下さい」
月夜は首を振る。
「それは、できない」
火花は微笑む。
「それでは、私と一緒にいる間だけでも、忘れたことにしてくれませんか?」
月夜は、すぐには了承できなかった。
火花が何を伝えようとしているのか、ずっと考えていた。
「月夜さんには、色々と我儘を聞いてもらいました。仕事を手伝ってもらったのも、散歩に付き合ってもらったのも、そして、最初にメリーゴーラウンドに乗ってもらったのも、すべてそうです。だから、もう一つだけ、私の我儘を聞いてもらえませんか?」
火花の背後から太陽が昇り、逆光になって彼女の表情は見えなくなる。
「最後まで、私と一緒にいて下さい」
そう言って、火花は僅かに首を傾げる。
「分かった」
精一杯の力を込めて、月夜は首を上下に動かした。
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