皿かナイフか

羽上帆樽

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第10章 放課後解散

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 学校の授業はいつも通りだった。そして、それ故に、だからこそ、学校での生活もいつも通りだった。

 自分が受験生だと認識している生徒は、どれくらいいるのだろうか、と月夜はときどき考える。それは彼女にそうした認識がないからであり、それなのに、世間からはそういう扱いを受けるからだった。もっとも、彼女は塾にも通っていないので、「受験生」というワードを耳にする機会は比較的少ない。ただ、学校では度々耳にするワードだから、まったく意識しないかと言われれば、そうではないというのが実際のところだった。

 大抵の場合、月夜は朝早く起きて、早く学校に行く。特別することがあるわけではなく、ただ余裕をもって登校したいだけだった。家から距離があるわけではないが、電車で通学している以上、何が起こるか分からない。(彼女が自分でどう思っているかは別として)世間離れしている月夜だが、遅刻をするのがいけないという意識は、ないわけではなかった。

 授業が終わって、放課後になっても、月夜は学校に残り続ける。最近は図書室に行って勉強することが大半だった。勉強というのは、例の通り、宿題の消化作業にほかならない。自分で計画を立てて進めていかなくてはならないので、とにかくやるしかなかった。成績もそれに基づいてつけられる。もちろん、一番重要なのはテストの結果だが、彼女はテストというものにほとんど興味がない。知らないことを知る過程が、勉強の中で一番面白い。今まで知ったことを紙面に出力する行為に、意味があるとは思えなかった。

 図書室が閉鎖される前に、荷物を纏めて、月夜は再び教室に戻る。そして、それ以降ずっとそこで時間を過ごす。勉強は放課後の数時間で終わらせるから、読書をすることが多い。今夜も例外ではなく、彼女は誰もいない真っ暗な教室で、一人で本を読んでいた。今日は冒険小説を選んだ。

 窓の外では雨が降っていた。

 午後になってから、突然降り出したのだ。

 雨が降っていても、フィルがここへ来る確率には影響しない。彼は天候を判断基準にしない。その癖、月夜がそれを指摘すると、雨は嫌だとか、じめじめしているとやる気が起こらないとか、そういうことを口にする。別に、月夜がそれを厄介だと感じているわけではなかった。ただ、客観的に見て、言っていることとやっていることが一致していない者は、扱いに困る。

 しかし、それは自分も同じかもしれない。

 そんなことを思いついて、しかし、月夜は相変わらず無表情で本を読み続けた。

 読んでいる本のページを捲る。冒険小説というと幅が広いが、簡単に言ってしまえば、それは一種のファンタジーだった。ただ、最初からファンタジーの世界なのではなく、何らかの過程を経て、主人公がファンタジーの世界に飛び込むのだ。都市に住む主人公が船を出し、不思議な島に漂着したり、駅にある事務員用のドアを開けたら、その先に魔法の世界が広がっていたりなど、そういう内容のものが多い。月夜が今読んでいるのは正に後者のパターンで、この場合は駅ではなく、家のトイレのドアを開けたら、その先が別の宇宙に繋がっていたという内容だった。

 月夜は、この手の物語があまり得意ではない。でも、普段読まないから、少し読んでみようという気になった。それで図書室に行って、本を探していたら、司書が紹介してくれたのがこの本だった。

 今のところ、面白いのか面白くないのか、判断をしかねるような感じだった。まだ物語は始まったばかりだし、これから面白くなりそうな気がしなくもないが、この手のストーリーにありがちな、先が読める感がすでにしていた。先が読めること自体は悪いことではないが、やはり意外性がないと物語は面白く感じられない。だから、この本を読み続けることで、その意外性に出会うことができるのかと、少々心配だった。

 窓の向こうで音がして、月夜はそちらを振り返る。

 見ると、案の定、フィルが爪で窓枠を引っ掻いていた。

 月夜は手に持っていた本を机の上に起き、立ち上がって窓の傍に近寄る。

 鍵を開けて窓を開くと、フィルが勢い良く教室の中に入ってきた。そして、床に着地するかと思いきや、月夜のもとに飛び込んできた。当然、彼の身体は濡れている。月夜の制服には所々濡れた跡がついてしまった。

 フィルはそのまま、なんともないような顔で月夜の腕の中に収まる。顔を上げると、満面の笑みを彼女に向けた。

「制服が、濡れた」窓を閉めてから、月夜は言った。

「ああ、そうか。それは済まなかったな」全然済まないと思っていなさそうな口調で、フィルは話す。「でも、お前の胸の中が待ち遠しかったんだ。許してくれ。他意はない」

 濡れてしまったブレザーを脱いで、月夜はそれを窓際にかけた。さすがに勝手に暖房を点けるわけにはいかなかった。一人分の洋服を乾かすためだけに、部屋全体を温めるというのは、エネルギー効率的にも非常によろしくない。

 ワイシャツ一枚だと寒かったから、月夜はジャージを羽織った。体育の授業で使うものだが、今週はまだ一度も使っていなかった。もう春だが、まだ暖かい日と寒い日がある。というよりも、彼女の印象だと、春はあまり暖かいイメージではない。夏になってようやく暖かさを実感できるようになる。

 フィルに構わず、月夜は読書を続けた。とはいっても、彼はすぐにちょっかいを出してくるから、構わないわけにはいかなかった。

「今日の昼は、何を食べたんだ?」

 フィルは月夜の隣の席にいる。椅子に座っているのではなく、机の上に載っていた。

「何も、食べていない」月夜は答える。「フィルは? 何か、食べた?」

「俺は、秋刀魚」

「フィルは、猫だよ」

「久し振りに、秋刀魚を食べたな」月夜の言葉を無視して、フィルは話した。「猫といったら、秋刀魚を食べているイメージだろう? だから秋刀魚を食べたんだ。サービス精神に尽きるね」

「ぜいごが、喉に詰まらなかった?」

「ああ、大丈夫だったよ」

「秋刀魚を食べたというのは、嘘?」

「嘘? なぜだ?」フィルは首を傾げる。「食べたと言ったんだから、食べたんだろう」

 月夜は顔を手もとに戻して、本のページを捲る。

 フィルは机から飛び降り、教室をうろちょろし始めた。もう何度もここに来たことがあるはずなのに、毎回同じように偵察をするから、不思議だ。月夜の学年が上がって、たしかに教室は変わったが、教室は教室で、どこも大して変わらない。それなのに、いったい何が彼の気を引くのだろうと、月夜は疑問だった。

 この学校で過ごす時間も、もう一年もない。でも、月夜に特別思い入れはなかった。高校生活は三年間だが、長いとも短いとも感じない。三年間は三年間として処理される。高校生活が始まったときから、それは決まっていたことだ。時間はすべての人間に平等に与えられる。

 自分は、この先、どんなふうに生きていくのだろうという考えが、ふと頭に浮かんだ。それについて考えるのはナンセンスだと分かっていても、なんとなく考えてしまう。意識的にそうしているのではない。自然と頭に浮かんでくるのだ。

 どうしてそんなことを考えるのか、自分でもよく分からなかった。先のことを考えることを、無意識の内に望んでいるのかもしれない。先のことは分からないから、分からないのを恐れて不安を感じているとも解釈できる。それは正しい見解で、論理的には整合性がつく。

 ただ、月夜は、自分にそうした一般論が適用できないことを知っていた。だから一概に断定することはできない。ほかの人と照らし合わせて考えるのではなく、自分を自分と照らし合わせて考えなくてはならない。そうしないと答えに辿り着けない。いや、いずれにしろ、答えには辿り着けないのかもしれないが……。

「月夜は、黒板に文字を書いたことがあるか?」

 不意に前方から声が聞こえて、月夜は顔を上げた。また、フィルがチョークの滓を受け止める溝の上に載って、彼女を見ていた。

「たぶん、あると思う」

 投げかけられた質問に、月夜は素直に答える。

「最近も、あったか?」

「最近はない」月夜は答えた。「小学生くらいの頃は、よくあった」

 引き出しを器用に引き出して、フィルは中からチョークを取り出す。後ろ脚で体勢を保って立ち、彼は持ったチョークを黒板に擦りつけて、真っ直ぐ線を引いた。想像していた以上に綺麗な線だったから、月夜は感心した。

「フィルも、チョークを使ったことがあるの?」不思議に思って、月夜は尋ねる。

「いいや」フィルは首を振った。「でも、よく、公園の地面に、枯れ木で絵を描くことがある。だから、それで慣れているんだろうな」

 月夜も椅子から立ち上がり、フィルがいる方へ向かう。彼女も引き出しからチョークを取り出して、黒板にそれを押し当ててみた。彼女が手に取ったのは黄色いチョークだ。昼間の授業では、日が当たると見えにくくなる。今は夜だから、そもそも照度という概念がない。

 月夜は、フィルとは対象的に、円を描く。

 でも、出来上がった円はどことなく歪んでいて、見栄えが悪かった。

「なんだ、月夜。絵心がないみたいだな」

 フィルに指摘されたが、事実だったので、月夜は頷いた。

「うん、そうらしい」

「円なんて、初歩中の初歩じゃないか。そんなんじゃ、美術の授業でいい成績を貰えないぞ」

「今は、美術の授業はとっていないから、問題ない」

 フィルもチョークを捻って、円を描く。たしかに、彼の方が上下左右のバランスはとれていたが、でも、自分が描いたものと大して変わらないように、月夜には見えた。

「それで、結局、あの事件について、学校での扱いはどうなったんだ?」

 チョークで落書きをしていると、フィルが尋ねてきた。月夜は一度手を止めて彼を見る。フィルはまだ満足しないようで、引き続き落書きを続けていた。

「どう、とは?」月夜は首を傾げる。

「解決したのか?」フィルは少しだけ彼女を見て、もう一度尋ねた。

「解決はしていない」月夜は答える。「もう、忘れ去られつつある」

「また、いつも通りの展開か。まあ、社会の縮図だから仕方がないな」

「フィルの中では、解決したの?」

 月夜が質問すると、フィルは心外そうな顔をした。

「俺か?」

 フィルに問われ、月夜は頷く。

「うん」

「俺は、初めから解決なんて望んでいないぜ?」

「でも、本当は興味があるんじゃないの?」

「どうして?」

「なんとなく……」月夜は口籠る。「そんな気がしたから」

 フィルに倣って、月夜も落書きを再開する。小さく花の輪郭を描いて、その中を斜線で塗った。はみ出さないように意識したから、今度は先ほどよりは幾分綺麗に描けた。

「月夜が話したいというのなら、話してくれて構わない」暫くすると、フィルが言った。「その点では、俺はあいつと変わらない。月夜がそうしたいのなら、してくれた方が楽しいからな」

「……楽しいの?」

「もちろん」フィルは頷く。「気を遣ってそっけない態度をとられるよりは、ましだろう?」

 フィルの言っていることはいまいち理解できなかったが、そういう人もいるのだということで、月夜は納得しておくことにした。

「分かった。じゃあ、話す」

「無理に話す必要もない。月夜がしたいようにすればいい」

「フィルは、聞きたい?」

 フィルは笑った。

「分かった分かった。聞きたいとも」

 フィルの返事を受けて、月夜は暫くの間沈黙した。話そうと思っていなかったから、まだ頭の中で話を纏められていなかったのだ。一分ほどで話すべきポイントを押さえて、彼女は口を開いた。

「問題は、まだ残っている。それは、割られた皿の内、そこになかった破片が、どこにあるのか、ということ」まるで前回から時間が地続きになっているかのように、月夜は何の前触れもなく話し始めた。「ピアノの鍵盤と蓋の間に挟まれていた皿は、一部が欠けていた。その破片は、割れた拍子になくったと考えるには、大きすぎるものだった。つまり、意図的にそこだけなくなったと考える方が、合理的」

「俺は、それがどこにあるのか、予想できるぜ」不敵な笑みを浮かべて、フィルが口を挟んだ。

「そう? じゃあ、どこにあるの?」

 月夜が尋ねると、フィルは身体を後ろに向けて、教室に並ぶ机を指差した。その先には、月夜の席がある。さらに、机の横のフックに鞄がかけられていて、フィルはそれを示しているみたいだった。

「大方、あの中にあるんだろう?」

 フィルに返事を促されて、月夜は答える。

 彼女は、首を上下に促した。それはもちろん、肯定を意味するジェスチャーだった。

「正解」

 フィルは肩を竦めて、また黒板に向き直る。彼の落書きは段々と壮大なものになりつつあって、今は月夜が描いた花を量産しているところだった。

「五十二でゼロを割ったことで、皿は存在しないものになった。でも、それはあくまで想像上の話。現実では、割ったことで、却って存在することが明らかになった。皿は、割られることで、ゼロから一になった。だから、その破片を得ることで、一になったことを証明できる」

「ナイフも、鞄の中に入っているのか?」黒板の方を向いたまま、フィルが尋ねる。「同じように、食堂から奪ったのか?」

 教室の中を歩いて、月夜は自分の席まで戻った。それから机の横にかけてある鞄のチャックを開き、中に手を入れる。

 彼女が再び手を出したとき、そこには鈍い色を放つ細長い金属板が握られていた。それは暗闇に残留する微かな光を反射して、厳かに光る。持ち手は太く、先に向かうほど薄く鋭くなっていた。

「ナイフも、ここにある」

「それは、最初から一だからだろうな」距離を置いて立つ月夜に向かって、フィルが言葉を放った。「皿と対比になっているんだから、当然か」

「うん」

「ナイフが奪われたことは、気がつかれていないのか?」

 フィルの質問を受けて、月夜は頷く。

「今のところは」彼女は無表情のまま答えた。「沢山あるから、分からなかったんだと思う。皿も、割らなければ、気がつかれることはなかった」

 ナイフを鞄に仕舞ってから、月夜はフィルの傍まで戻ってきた。それからまたチョークを手に取り、黒板に絵を描き始める。

「それで、終わりか?」

「うん、終わり」彼女は頷いた。「聞いてくれて、ありがとう」

「どういたしまして」

 その後も落書きを続けたが、やがてフィルが飽きたと言い出して、月夜は黒板消しで絵をすべて消した。その作業をすべて月夜に任せて、フィルはまた教室内を無闇に歩き回っていた。

「今日は、散歩には行ったの?」

 黒板の落書きを消し終えてから、月夜はフィルに尋ねた。

「いいや」フィルは首を振る。「こんな天気で、行くはずがないだろう?」

「フィルなら、行くと思った」

「どうやら、異星人か何かと間違えられているようだ」

「伊勢海老?」

「学校の中を探索しよう」

「前、したよ」

「まだ行ったことがない所に、連れていってくれ」

 まだ行ったことがない所と言われて、思いつく場所はなかったから、とりあえず、荷物を持って、月夜はフィルと一緒に教室を出た。教室の扉の先には右と左に廊下が続いている。右に行くと学校の二つの棟を繋ぐ連絡路に至るので、そちらに向かうことにした。

 階段を下る。

 昇降口までやって来て、そこにある地図を見ながら、フィルにどこに行きたいか尋ねた。彼は、とりあえず一階をぶらぶらしたいと言ったから、廊下を先へと進んで、月夜は階段を下りた。

「一年生の頃は、こっちの棟だったのか?」

 フィルに問われて、月夜は頷く。彼の言った通り、こちらの棟には一年生の教室があった。

「学年が変わるごとに、教室を変えるというのも、不思議だな」

 フィルの呟きに月夜は応じる。

「何が?」

「別に、変えなくてもよくないか?」フィルは意見を述べた。「場所が変わると、何かいいことがあるのか?」

「部屋の中身が変わらないと、その年によって、授業を担当する先生の行く場所が変わることになる」月夜は説明した。「一方で、部屋の位置はそのままに、中身だけ変わることで、先生は行く場所を変えなくて済む」

「つまり、教員優先ってことか」

「要約すれば、そう」

「生徒に優しくない学校だな」

「どこの学校でも、事情は同じだと思うよ」

 廊下を真っ直ぐ進むと、理科室の前に辿り着いた。壁の一部が硝子張りになっていて、その向こうに様々な模型が並べられている。小動物の骨格標本や、物質の構造を立体で表したものなど、ジャンルに関係なく、並べられそうな模型を適当に並べた感じだった。

「こういうのが、夜中に動き出したら面白いのにな」硝子の向こうにある爬虫類の骨格標本を指差して、フィルが言った。「学校の怪談とかに出てきそうじゃないか」

「生きていないから、動かない」

「動いたらいいな、という話をしているんだ」

「何がいいの?」

「面白い」

 フィルが指差した標本を、月夜はじっと見つめる。

「動かなくても、面白いよ」

 さらに先へと進むと、やがて行き止まりになった。左には階段が、右には外に出るための硝子扉があるが、室内の一階のフロアはここまでだった。そのまま左の階段を上って、月夜とフィルは二階に出る。今来たのとは反対向きに廊下を進むと、やがて昇降口へと戻ってきた。

 目新しいものは何もなさそうだったから、靴を履き替えて、二人は校舎の外に出た。石造りの階段を下りて、裏口へと向かう。敷地の外に出ると、そのまま線路沿いを歩いた。

「もう、家に帰るのか?」

 フィルに尋ねられて、月夜は答える。

「分からない」

 電車がすぐ傍を通り過ぎていく。乗っている人はあまりいなかった。窓は雨で濡れている。

 傘を差していても、なぜか持ち手は濡れる。手は冷たい。まだ完全には渇いていないブレザーが、少し気持ち悪かった。でも、それを引き起こしたフィルが、嫌だとは感じない。彼のそんな行動は、むしろ愛嬌があって好ましかった。それを引き起こした本人は、今は月夜の片方の腕に抱かれて、辺りをきょろきょろと見回している。

「片腕で抱かれるのも、いいものだな」雨音に馴染むような声で、フィルが言った。「包容感はないが、悪いことをして連れていかれるようで、どきどきする」

「どきどきするの?」月夜は尋ねる。

「ああ、弾けるほどに」

 車は通っていない。街灯に照らされて、マンホールが光っている。踏切は今は鳴っていなかった。大学の窓には、所々明かりが灯っている。空は今日も暗い。

 階段を上って駅舎に入る。三叉路まで来ると、屋根に覆われた発券所の傍に立って、月夜は傘を閉じた。

「まだ、考えているのか?」

 今は両腕で抱かれたフィルが、彼女に訊いた。

「うん」月夜は頷く。「フィルは、どっちがいい?」

「お前が好きな方でいいよ」

 フィルにそう言われたから、月夜は余計に判断しづらくなった。好きだと感じるのがどちらか分からなかったからだ。家に帰るのも、ここに留まるのも、はたまた別の場所に行くのも、別に好きとは感じない。どれを選んでも彼女にとっては当価値で、そもそも価値という基準が存在するのかも疑わしい。

「フィル」月夜は言った。「私は、君が好きなのかもしれない」

 月夜の言葉を聞いて、腕の中に居座る彼は顔を上げた。

 月夜は前を向いている。

「そうか。それなら、嬉しい限りだ」

「煤のことは、好きになれた」月夜は話した。「でも、同じように、フィルも好きなんだと気がついた」

「そこには、価値判断があるわけだ」

「基準を設けて、判断しているんじゃないよ。ただ、好き、と感じるだけ」

「嫌いがあるうえでの、好きではないということか?」

「そう」

「それなら、尚さら嬉しいよ」

「どれくらい?」

「余程、嬉しい」

 雨音が聞こえる。頭上にある屋根に反射して、木霊するように響き渡る。

「自分に対しては、どうなんだ?」沈黙する月夜に、フィルは尋ねた。「お前は、自分のことをどう思っているんだ?」

「好きかどうかということ?」

「そう」

 前を向いたまま、月夜は考える。

 降ってくる雨粒を数えようとしたが、無理だった。

「好きでも、嫌いでもないと思っていたけど、どちらかというと、好きなのかもしれない」

「自分が、可愛いと思うか?」

「うん。可愛い」

「誰かに、優しくしてほしいんだな」

「うん」月夜は頷く。「誰かに、優しくしてほしい」

 自動車の走る音が聞こえてくる。まだ、活動している人はいる。自分と同じように、生きて動いている人がいる。

 閉鎖されていた駐輪場は開いただろうかと、月夜は考える。彼は楽に移動することができているだろうか。

 三叉路を真っ直ぐ進めば、バスロータリーに出る。ほんの数歩の距離だ。迷うほど遠くはない。けれど今の月夜には、そうしようという気は起こらなかった。階段を下りるのが怖いからではない。再び傘を差して、雨の中に出るのが嫌だったからでもない。

 月夜はポケットから定期券を取り出して、改札の前に来る。

 そのまま改札を抜け、エスカレーターを下りて、彼女はホームへと至った。

 奥に進み、ホームの端へと向かう。周囲には誰もいなかった。駅に特徴的な電子音だけが、この静かな空間に色を与えている。

 月夜はフィルを両手で抱きかかえて、上に持ち上げた。泣きじゃくる赤子をあやすように、下から彼の顔を覗き込む。フィルの顔が、自分の顔より高い所にある。

「腕が引っ張られて、痛い」フィルが言った。

「少しだけ、我慢して」月夜は要求する。

「そんなことをしなくても、俺はお前の傍から離れないから、安心しろ」

「ううん、違う」月夜は首を振った。「私が、今そうしたいだけ」

 電車がホームに入ってくる。遠くの方から徐々に光が近づいてくる。フィルを抱えたまま、月夜も明るい光の中に包まれる。

 ドアが開き、車内への入り口が開放された。

 フィルもとの高さへと戻し、月夜は車中に入った。

 入り口に近い席に座る。車内にも誰もいなかった。やがて電車は動き出し、色彩を失った夜の景色が右から左へと流れていく。

 揺り籠のように、一定のテンポで揺れる車体。

 それに伴って、往復運動を繰り返す吊革。

 慣性の法則。

 宇宙が本当に存在するか分からなくても、自分がここにいることに変わりはないという事実。

 腕に力を込めて、他者の存在を確かめる。

 きっと、この先も、同様の過程を繰り返すだろう。その度に自問し、その度に求め、その度に不安になり、その度に安心するに違いない。

 前にもそう思ったことがあった。そう思うことを、また繰り返しているのだ。

 それが良いかどうかの判断は、今はしないことにした。

 いつでもできることだ。

 フィルの前脚を自分の手で握って、軽く振る。

 ダンスをするように、一定のリズムに合わせて、月夜は上下運動を繰り返した。

「ご機嫌だな」

 フィルに言われて、月夜は下を向く。

「そうかな?」

「不機嫌がなければ、ご機嫌もないか」

 踏切りを通過するとき、警鐘の音が聞こえた。赤色の光が、暗闇の中で輝いていた。

 自分は、きっと、そんな存在にはなれないと月夜は思う。

 それでも、傍に誰かがいてくれる。

 自分以外の他者がいる。

「それだけで、いいのか?」

「それだけで、いい」彼女は答えた。「明日のことは考えずに、帰ったら一緒に眠ろう」
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