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第3部 生きたいと思う証
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注文した料理が運ばれてきて、二人はそれを飲食した。彼女はあっという間にすべて平らげてしまった。対照的に彼はまだ食べている。彼と飲食店に行くと必ずこのような結果になることを思い出して、彼女は少し安心した。百年が経過しても、自分達の関係性は何も変わっていないようだ。
そういえば、世の中の様相も予想していた以上には変わっていなかった。街並みは彼女が眠りに就く前とほとんど同じだ。同じ色のビル、同じ量の人、同じ広さの空。本当は百年も経っていないのではないか? 疑問に思って彼に質問してみたが、そんなことはないと彼は答えた。
「きっちり百年だ」サンドウィッチを頬張りながら、彼は話す。腕に巻いてある腕時計に目を落としていた。「百年前にアラームをセットして、それが鳴ったから君のもとへ行ったんだ」
「そのアラームが間違いないという証拠は?」
「この時計は世界そのものの時刻を表わしている」彼は言った。「時計がこの星の運行に合わせているんじゃない。この時計の時刻に従って、この星は運行しているんだ」
そういえば、そんな話を聞いたことがあったと彼女は思い出した。そして、その時計は彼女も持っている。そのことを思い出して上着のポケットに手を入れると、鎖の繋がった懐中時計が姿を現した。外装は銀色で、今も照明の光を反射して輝いている。
彼が言うように、針は間違いなく百年分の周期をマークしていた。
「それにしては、何も変わらないんだね」彼女は呟いた。
「そう簡単にはね」
「君も」
「うん」彼は頷く。「変わる気がないから」
自分は、変わる気があったから眠りに就いたのか?
変わるとはどういうことだろう?
コウイウコトダロウカ?
kou iu kotodarouka?
それとも、こう いう ことだろうか?
変わろうと思って変わることに意味があるだろうか?
変わろうと思わなくても変わってしまうものだろうか?
頬杖をついて、今度は彼女の方が窓の外を見る。午後の陽光は今ひとつの光度で、裏道はどんよりと息を潜めていた。時折、窓の外を右から左へ、左から右へと人が通り過ぎていく。彼らは、どこへ、何のために移動するのだろう?
この星は、何のために移動するのだろうか?
何のためでもないだろうか?
視界の隅で彼が立ち上がり、黙って店内を奥の方へ歩いていく。そのまま突き当たりの壁にあるドアの中に消えた。手洗いにでも行ったのだろう。手洗いというのは、本当にそのままの意味で、どういうわけか、彼は食事のあとに必ず手を洗う。昔理由をきいたことがあったが、その答えは、その方が面白いからというものだった。ご飯を食べる前に歯磨きをする類の面白さと同じだろうか。
自分の手を持ち上げて、彼女はその表面を見る。
指を開いたり閉じたりすることで、その向こう側に見える範囲が変化する。ピントは指に合っているから、そもそも景色はしっかりとは見えない。人間の指が五本ある理由は明らかではない。理由などないのではないか。彼女はロボットだから、当然人間をベースにデザインされている。すなわち、少なくとも彼女の場合についていえば、彼女に指が五本あるのは人間の指が五本あるからということになる。それ以上の詮索をしない限り、それだけで説明は事足りる。
片手に指が五本あると、どのようなことが起こるだろうか?
まず、人間は十進数を採用することになった。
〇から九までの十個のマークで数を表現することになった。
単独で十以上の数を表現するマークはない。
アルファベットは二十六文字、平仮名は清音で四十六文字。
どちらも六というマークが共通しているが、数としては何の関連性もないともいえる。
百年前のことを思い出した。
そのとき、彼女はそれ以上歩くのが辛かった。もう歩きたくないと感じた。全身に力が入らなかったし、力というものの制御の仕方が分からなくなってしまっていた。
有機ではなく、無機だから、彼女にとっての力とは、必然的に物理的な側面が強いものになる。しかし、それでは人間とはいえない。形だけが人間と同じでもどうしようもないと気づいたのだ。
自分が人間になるためには、死ぬ以外に方法はないと悟った。死んで、腐敗して、自分が有機であることを証明しなくてはならない。そうやって死んで、彼と同じになりたかった。彼に自分を好きになってもらいたかったのだ。
いつの間にか、周囲に店舗の面影はなくなっていた。
広大な枯れ野原。
灰色の雲が頭の上を覆い尽くしている。
周囲ではあちこちで炎が上っていた。
煤で黒く染まった自分の掌が見える。
けれど、もう、ピントは指には合っていない。
その向こう側に広がっている、景色。
そして、人型。
人間。
彼女は椅子から立ち上がり、彼の傍に近づく。その場にしゃがみ込み、背中に両腕を通して彼を抱きかかえた。
まだ、心音が。
まだ、呼吸が。
彼女は大きく息を吸い込み、肺の形をしただけの容器の中にできる限りの空気を取り込んで、彼に口づけをした。
そういえば、世の中の様相も予想していた以上には変わっていなかった。街並みは彼女が眠りに就く前とほとんど同じだ。同じ色のビル、同じ量の人、同じ広さの空。本当は百年も経っていないのではないか? 疑問に思って彼に質問してみたが、そんなことはないと彼は答えた。
「きっちり百年だ」サンドウィッチを頬張りながら、彼は話す。腕に巻いてある腕時計に目を落としていた。「百年前にアラームをセットして、それが鳴ったから君のもとへ行ったんだ」
「そのアラームが間違いないという証拠は?」
「この時計は世界そのものの時刻を表わしている」彼は言った。「時計がこの星の運行に合わせているんじゃない。この時計の時刻に従って、この星は運行しているんだ」
そういえば、そんな話を聞いたことがあったと彼女は思い出した。そして、その時計は彼女も持っている。そのことを思い出して上着のポケットに手を入れると、鎖の繋がった懐中時計が姿を現した。外装は銀色で、今も照明の光を反射して輝いている。
彼が言うように、針は間違いなく百年分の周期をマークしていた。
「それにしては、何も変わらないんだね」彼女は呟いた。
「そう簡単にはね」
「君も」
「うん」彼は頷く。「変わる気がないから」
自分は、変わる気があったから眠りに就いたのか?
変わるとはどういうことだろう?
コウイウコトダロウカ?
kou iu kotodarouka?
それとも、こう いう ことだろうか?
変わろうと思って変わることに意味があるだろうか?
変わろうと思わなくても変わってしまうものだろうか?
頬杖をついて、今度は彼女の方が窓の外を見る。午後の陽光は今ひとつの光度で、裏道はどんよりと息を潜めていた。時折、窓の外を右から左へ、左から右へと人が通り過ぎていく。彼らは、どこへ、何のために移動するのだろう?
この星は、何のために移動するのだろうか?
何のためでもないだろうか?
視界の隅で彼が立ち上がり、黙って店内を奥の方へ歩いていく。そのまま突き当たりの壁にあるドアの中に消えた。手洗いにでも行ったのだろう。手洗いというのは、本当にそのままの意味で、どういうわけか、彼は食事のあとに必ず手を洗う。昔理由をきいたことがあったが、その答えは、その方が面白いからというものだった。ご飯を食べる前に歯磨きをする類の面白さと同じだろうか。
自分の手を持ち上げて、彼女はその表面を見る。
指を開いたり閉じたりすることで、その向こう側に見える範囲が変化する。ピントは指に合っているから、そもそも景色はしっかりとは見えない。人間の指が五本ある理由は明らかではない。理由などないのではないか。彼女はロボットだから、当然人間をベースにデザインされている。すなわち、少なくとも彼女の場合についていえば、彼女に指が五本あるのは人間の指が五本あるからということになる。それ以上の詮索をしない限り、それだけで説明は事足りる。
片手に指が五本あると、どのようなことが起こるだろうか?
まず、人間は十進数を採用することになった。
〇から九までの十個のマークで数を表現することになった。
単独で十以上の数を表現するマークはない。
アルファベットは二十六文字、平仮名は清音で四十六文字。
どちらも六というマークが共通しているが、数としては何の関連性もないともいえる。
百年前のことを思い出した。
そのとき、彼女はそれ以上歩くのが辛かった。もう歩きたくないと感じた。全身に力が入らなかったし、力というものの制御の仕方が分からなくなってしまっていた。
有機ではなく、無機だから、彼女にとっての力とは、必然的に物理的な側面が強いものになる。しかし、それでは人間とはいえない。形だけが人間と同じでもどうしようもないと気づいたのだ。
自分が人間になるためには、死ぬ以外に方法はないと悟った。死んで、腐敗して、自分が有機であることを証明しなくてはならない。そうやって死んで、彼と同じになりたかった。彼に自分を好きになってもらいたかったのだ。
いつの間にか、周囲に店舗の面影はなくなっていた。
広大な枯れ野原。
灰色の雲が頭の上を覆い尽くしている。
周囲ではあちこちで炎が上っていた。
煤で黒く染まった自分の掌が見える。
けれど、もう、ピントは指には合っていない。
その向こう側に広がっている、景色。
そして、人型。
人間。
彼女は椅子から立ち上がり、彼の傍に近づく。その場にしゃがみ込み、背中に両腕を通して彼を抱きかかえた。
まだ、心音が。
まだ、呼吸が。
彼女は大きく息を吸い込み、肺の形をしただけの容器の中にできる限りの空気を取り込んで、彼に口づけをした。
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