天井人は気象にて

羽上帆樽

文字の大きさ
上 下
3 / 5

第3部 買い、付ける

しおりを挟む
 キラ・ソラに纏わりつけられる日々が続いていた。

 距離感とか空気とか呼ばれるものは、あいつにも理解できるようで、教室の中ではこれまで通りの関係が保たれていた。しかし、放課後になると、あいつは決まって俺の傍に近づいてきた。あとをつけているのではないはずなのに、俺がいる所に必ず現れるのだ。校舎裏の木陰にいても、学校から少し離れた公園にいても、スーパーマーケットの中をうろついていても、あいつは必ず俺の前に姿を現した。

 今日は、学校が終わってから一目散に家に帰ったのに、しばらくすると、窓の外から俺を呼ぶ声が聞こえてきた。宿題をやっていた手を止めて窓硝子を開くと、数メートル下の方に、にこやかな笑顔を掲げて手を振っているあいつの姿が見えた。

 俺は窓硝子を閉めると、ふざけんなと悪態を吐いてから、わざとらしく音を立てながら階段を下りて、玄関のドアを開いた。

「帰れよ」門を開いて勝手に敷地内に入っていたあいつに向かって、俺は言った。

「遊ぼうムよ」あいつは少し身を屈めて、下から覗き込むように俺の顔を見てくる。

「遊ばねえよ」俺は無表情のまま顔を逸らす。遠くの方に午後の気怠げな雲が見えた。

「遊んでくれないムと、悪いことが起こるウよ」

「なんで俺に構うんだよ」

「似たもの同士だムから?」

 ふざけるな、と言おうとして正面に向き直った先で、あいつの手に中にある何かが煌めいた。

 カッターナイフだった。

「遊んでくれないムと、傷つけるムよ」相変わらず少しだけ笑った顔のままで、あいつは言った。「今まで散々やってくれたおかえしウ」

 俺は溜め息を吐いて、また顔を逸らす。

「俺はもうやってねえよ」

「見て見ぬ振りをするのも、同罪だウよ。私が馬鹿にされてるの、知ってるムよね?」

「知らない」

 あいつは黙ってカッターナイフの刃先を出すと、それを自分の掌にそっと沿わせる。数秒かけて薄い血液が滲み出してきた。もともと少しだけしかなかった笑みをさらに少しだけにして、あいつは自分の掌を見つめている。

 こういうところも、あいつが馬鹿にされる理由の一つだと俺は思う。

 ただ、流れる血液は綺麗だった。

 あいつが紛れもなく生きていることが分かる色だった。

「……分かったよ」俺は言った。

「本当?」勢い良く顔を上げて、あいつは話す。「じゃ、今すぐ行こうム」

「どこへ?」

「お買い物♪」

 一度部屋に戻って上着を羽織り、玄関の鍵をかけて俺は敷地の外に出る。ついでにガーゼと医療用のテープを持ってきていたから、俺はそれをあいつに渡した。家のものを勝手に使ったところで、誰に咎められるはずもなかった。親は夜まで帰ってこない。今日も自分で夕飯を作ることになるかもしれない。

 あいつに無理矢理連れられて、俺達はスーパーマーケットまでやって来た。学校のすぐ傍だから、急いで家に帰った意味がほとんどない。

「何買うんだよ」入り口で買い物籠を手に取っているあいつに向かって、俺は問う。

「分かんないム」

「どういうことだよ」

「何か、買ってあげようムか?」

「いらない」

 キラ・ソラは、周りの連中から宇宙人と呼ばれている。名前の奇怪さや話し方の奇妙さから、そう呼ばれているのだろう。そのことについてどう思っているのか不意に気になって、俺は歩きながらあいつに質問した。別に、どうでも良いことだった。ただ、俺に構わないで一人で話し続けるあいつの態度が気に食わなかっただけだ。

 本当にそうなのかと、頭の中のもう一人の俺が問う。

 黙っていてくれ。

「存在を認めてもらえるのは、嬉しいムよ」と、俺の質問にあいつは平然と答えた。あいつは買い物籠の中にプラスチック製の容器に収められた弁当を放り込んでいく。「なんでそんなこときくムの?」

「別に」

「君は、そう呼んでくれないムよね。どうして?」

「別に」

「宇宙人じゃないって思ってるムから?」

「当たり前だろ」

「当たり前って、何が?」

「本人が承諾していない渾名で呼ぶのは変だ」

「ふうん」あいつは今度はお菓子売り場に向かって、目についたお菓子を端から籠に入れていく。

「いいのかよ」俺はきいた。

「何が?」

「このままで」

 俺がそう言うと、あいつはお菓子を籠に入れる手を止めて、こちらを見る。

「もしかして、心配してくれてるムの?」

 俺はあいつの顔を目だけで見る。

「そうなウんだ」そう言って、あいつは少しだけ笑った。

「違う」

「でもさ、別に普通のことじゃないウ?」あいつはまたお菓子を籠の中に入れ始める。「周りと違うものは、弾かれるウんだよ。それが普通のことなウんだよ。床に転がって黒くなった給食の残りかすのパンも、いつだって教室の隅の方に転がってるウでしょ? それと同じなウの。教室の床は生徒の足が踏むべき所で、パンが転がっていていい所じゃないウから。そういうものは、弾かれて隅に行くウの」

 あいつの言っていることは間違っていない、と俺は感じた。

 しかし、そういうのを一般論と呼ぶのではないのかと、俺は最近覚えた言葉を頭の中で思い浮かべた。

 会計を済ませたあと、あいつに無理矢理袖口を引っ張られて、俺は隣接する公園に連れていかれた。太陽はすでに地平線の下に沈んだあとで、辺りには冷たい空気が漂っていた。そんな中、俺とあいつはベンチに並んで座って、たった今買ってきたばかりのものを食べた。いや、食べさせられた。おかげで、今夜俺が自分一人のために夕飯を作る必要はなくなった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立

水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~ 第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。 ◇◇◇◇ 飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。 仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。 退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。 他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。 おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。 

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語

六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。

妻への最後の手紙

中七七三
ライト文芸
生きることに疲れた夫が妻へ送った最後の手紙の話。

処理中です...