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第3部 買い、付ける
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キラ・ソラに纏わりつけられる日々が続いていた。
距離感とか空気とか呼ばれるものは、あいつにも理解できるようで、教室の中ではこれまで通りの関係が保たれていた。しかし、放課後になると、あいつは決まって俺の傍に近づいてきた。あとをつけているのではないはずなのに、俺がいる所に必ず現れるのだ。校舎裏の木陰にいても、学校から少し離れた公園にいても、スーパーマーケットの中をうろついていても、あいつは必ず俺の前に姿を現した。
今日は、学校が終わってから一目散に家に帰ったのに、しばらくすると、窓の外から俺を呼ぶ声が聞こえてきた。宿題をやっていた手を止めて窓硝子を開くと、数メートル下の方に、にこやかな笑顔を掲げて手を振っているあいつの姿が見えた。
俺は窓硝子を閉めると、ふざけんなと悪態を吐いてから、わざとらしく音を立てながら階段を下りて、玄関のドアを開いた。
「帰れよ」門を開いて勝手に敷地内に入っていたあいつに向かって、俺は言った。
「遊ぼうムよ」あいつは少し身を屈めて、下から覗き込むように俺の顔を見てくる。
「遊ばねえよ」俺は無表情のまま顔を逸らす。遠くの方に午後の気怠げな雲が見えた。
「遊んでくれないムと、悪いことが起こるウよ」
「なんで俺に構うんだよ」
「似たもの同士だムから?」
ふざけるな、と言おうとして正面に向き直った先で、あいつの手に中にある何かが煌めいた。
カッターナイフだった。
「遊んでくれないムと、傷つけるムよ」相変わらず少しだけ笑った顔のままで、あいつは言った。「今まで散々やってくれたおかえしウ」
俺は溜め息を吐いて、また顔を逸らす。
「俺はもうやってねえよ」
「見て見ぬ振りをするのも、同罪だウよ。私が馬鹿にされてるの、知ってるムよね?」
「知らない」
あいつは黙ってカッターナイフの刃先を出すと、それを自分の掌にそっと沿わせる。数秒かけて薄い血液が滲み出してきた。もともと少しだけしかなかった笑みをさらに少しだけにして、あいつは自分の掌を見つめている。
こういうところも、あいつが馬鹿にされる理由の一つだと俺は思う。
ただ、流れる血液は綺麗だった。
あいつが紛れもなく生きていることが分かる色だった。
「……分かったよ」俺は言った。
「本当?」勢い良く顔を上げて、あいつは話す。「じゃ、今すぐ行こうム」
「どこへ?」
「お買い物♪」
一度部屋に戻って上着を羽織り、玄関の鍵をかけて俺は敷地の外に出る。ついでにガーゼと医療用のテープを持ってきていたから、俺はそれをあいつに渡した。家のものを勝手に使ったところで、誰に咎められるはずもなかった。親は夜まで帰ってこない。今日も自分で夕飯を作ることになるかもしれない。
あいつに無理矢理連れられて、俺達はスーパーマーケットまでやって来た。学校のすぐ傍だから、急いで家に帰った意味がほとんどない。
「何買うんだよ」入り口で買い物籠を手に取っているあいつに向かって、俺は問う。
「分かんないム」
「どういうことだよ」
「何か、買ってあげようムか?」
「いらない」
キラ・ソラは、周りの連中から宇宙人と呼ばれている。名前の奇怪さや話し方の奇妙さから、そう呼ばれているのだろう。そのことについてどう思っているのか不意に気になって、俺は歩きながらあいつに質問した。別に、どうでも良いことだった。ただ、俺に構わないで一人で話し続けるあいつの態度が気に食わなかっただけだ。
本当にそうなのかと、頭の中のもう一人の俺が問う。
黙っていてくれ。
「存在を認めてもらえるのは、嬉しいムよ」と、俺の質問にあいつは平然と答えた。あいつは買い物籠の中にプラスチック製の容器に収められた弁当を放り込んでいく。「なんでそんなこときくムの?」
「別に」
「君は、そう呼んでくれないムよね。どうして?」
「別に」
「宇宙人じゃないって思ってるムから?」
「当たり前だろ」
「当たり前って、何が?」
「本人が承諾していない渾名で呼ぶのは変だ」
「ふうん」あいつは今度はお菓子売り場に向かって、目についたお菓子を端から籠に入れていく。
「いいのかよ」俺はきいた。
「何が?」
「このままで」
俺がそう言うと、あいつはお菓子を籠に入れる手を止めて、こちらを見る。
「もしかして、心配してくれてるムの?」
俺はあいつの顔を目だけで見る。
「そうなウんだ」そう言って、あいつは少しだけ笑った。
「違う」
「でもさ、別に普通のことじゃないウ?」あいつはまたお菓子を籠の中に入れ始める。「周りと違うものは、弾かれるウんだよ。それが普通のことなウんだよ。床に転がって黒くなった給食の残りかすのパンも、いつだって教室の隅の方に転がってるウでしょ? それと同じなウの。教室の床は生徒の足が踏むべき所で、パンが転がっていていい所じゃないウから。そういうものは、弾かれて隅に行くウの」
あいつの言っていることは間違っていない、と俺は感じた。
しかし、そういうのを一般論と呼ぶのではないのかと、俺は最近覚えた言葉を頭の中で思い浮かべた。
会計を済ませたあと、あいつに無理矢理袖口を引っ張られて、俺は隣接する公園に連れていかれた。太陽はすでに地平線の下に沈んだあとで、辺りには冷たい空気が漂っていた。そんな中、俺とあいつはベンチに並んで座って、たった今買ってきたばかりのものを食べた。いや、食べさせられた。おかげで、今夜俺が自分一人のために夕飯を作る必要はなくなった。
距離感とか空気とか呼ばれるものは、あいつにも理解できるようで、教室の中ではこれまで通りの関係が保たれていた。しかし、放課後になると、あいつは決まって俺の傍に近づいてきた。あとをつけているのではないはずなのに、俺がいる所に必ず現れるのだ。校舎裏の木陰にいても、学校から少し離れた公園にいても、スーパーマーケットの中をうろついていても、あいつは必ず俺の前に姿を現した。
今日は、学校が終わってから一目散に家に帰ったのに、しばらくすると、窓の外から俺を呼ぶ声が聞こえてきた。宿題をやっていた手を止めて窓硝子を開くと、数メートル下の方に、にこやかな笑顔を掲げて手を振っているあいつの姿が見えた。
俺は窓硝子を閉めると、ふざけんなと悪態を吐いてから、わざとらしく音を立てながら階段を下りて、玄関のドアを開いた。
「帰れよ」門を開いて勝手に敷地内に入っていたあいつに向かって、俺は言った。
「遊ぼうムよ」あいつは少し身を屈めて、下から覗き込むように俺の顔を見てくる。
「遊ばねえよ」俺は無表情のまま顔を逸らす。遠くの方に午後の気怠げな雲が見えた。
「遊んでくれないムと、悪いことが起こるウよ」
「なんで俺に構うんだよ」
「似たもの同士だムから?」
ふざけるな、と言おうとして正面に向き直った先で、あいつの手に中にある何かが煌めいた。
カッターナイフだった。
「遊んでくれないムと、傷つけるムよ」相変わらず少しだけ笑った顔のままで、あいつは言った。「今まで散々やってくれたおかえしウ」
俺は溜め息を吐いて、また顔を逸らす。
「俺はもうやってねえよ」
「見て見ぬ振りをするのも、同罪だウよ。私が馬鹿にされてるの、知ってるムよね?」
「知らない」
あいつは黙ってカッターナイフの刃先を出すと、それを自分の掌にそっと沿わせる。数秒かけて薄い血液が滲み出してきた。もともと少しだけしかなかった笑みをさらに少しだけにして、あいつは自分の掌を見つめている。
こういうところも、あいつが馬鹿にされる理由の一つだと俺は思う。
ただ、流れる血液は綺麗だった。
あいつが紛れもなく生きていることが分かる色だった。
「……分かったよ」俺は言った。
「本当?」勢い良く顔を上げて、あいつは話す。「じゃ、今すぐ行こうム」
「どこへ?」
「お買い物♪」
一度部屋に戻って上着を羽織り、玄関の鍵をかけて俺は敷地の外に出る。ついでにガーゼと医療用のテープを持ってきていたから、俺はそれをあいつに渡した。家のものを勝手に使ったところで、誰に咎められるはずもなかった。親は夜まで帰ってこない。今日も自分で夕飯を作ることになるかもしれない。
あいつに無理矢理連れられて、俺達はスーパーマーケットまでやって来た。学校のすぐ傍だから、急いで家に帰った意味がほとんどない。
「何買うんだよ」入り口で買い物籠を手に取っているあいつに向かって、俺は問う。
「分かんないム」
「どういうことだよ」
「何か、買ってあげようムか?」
「いらない」
キラ・ソラは、周りの連中から宇宙人と呼ばれている。名前の奇怪さや話し方の奇妙さから、そう呼ばれているのだろう。そのことについてどう思っているのか不意に気になって、俺は歩きながらあいつに質問した。別に、どうでも良いことだった。ただ、俺に構わないで一人で話し続けるあいつの態度が気に食わなかっただけだ。
本当にそうなのかと、頭の中のもう一人の俺が問う。
黙っていてくれ。
「存在を認めてもらえるのは、嬉しいムよ」と、俺の質問にあいつは平然と答えた。あいつは買い物籠の中にプラスチック製の容器に収められた弁当を放り込んでいく。「なんでそんなこときくムの?」
「別に」
「君は、そう呼んでくれないムよね。どうして?」
「別に」
「宇宙人じゃないって思ってるムから?」
「当たり前だろ」
「当たり前って、何が?」
「本人が承諾していない渾名で呼ぶのは変だ」
「ふうん」あいつは今度はお菓子売り場に向かって、目についたお菓子を端から籠に入れていく。
「いいのかよ」俺はきいた。
「何が?」
「このままで」
俺がそう言うと、あいつはお菓子を籠に入れる手を止めて、こちらを見る。
「もしかして、心配してくれてるムの?」
俺はあいつの顔を目だけで見る。
「そうなウんだ」そう言って、あいつは少しだけ笑った。
「違う」
「でもさ、別に普通のことじゃないウ?」あいつはまたお菓子を籠の中に入れ始める。「周りと違うものは、弾かれるウんだよ。それが普通のことなウんだよ。床に転がって黒くなった給食の残りかすのパンも、いつだって教室の隅の方に転がってるウでしょ? それと同じなウの。教室の床は生徒の足が踏むべき所で、パンが転がっていていい所じゃないウから。そういうものは、弾かれて隅に行くウの」
あいつの言っていることは間違っていない、と俺は感じた。
しかし、そういうのを一般論と呼ぶのではないのかと、俺は最近覚えた言葉を頭の中で思い浮かべた。
会計を済ませたあと、あいつに無理矢理袖口を引っ張られて、俺は隣接する公園に連れていかれた。太陽はすでに地平線の下に沈んだあとで、辺りには冷たい空気が漂っていた。そんな中、俺とあいつはベンチに並んで座って、たった今買ってきたばかりのものを食べた。いや、食べさせられた。おかげで、今夜俺が自分一人のために夕飯を作る必要はなくなった。
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