No.2 トブトリノス

羽上帆樽

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 家の前の地面に大きな穴が開いていた。人為的に成されたとは思えないほど、アスファルトが不自然に剥離している。穴の底から密度の小さい煙が上っている。近づくと、鼻をつく奇妙な匂いがした。周囲の地面も波を打ったように変形している。穴の縁に近づいてみると、すでに温度は幾分下がっているようだった。

 突如として赤い光が穴の中に生じ、蛇行する光線になって外へ溢れ出る。光線は渦を巻きながら周囲に散乱し、やがて僕とカロの身体を包み込んだ。反射的に僕は目を瞑ってしまう。薄く目を開くと、光線は周囲にあるものを次々と包んでは解放し、右に行ったり左に行ったりを繰り返した。

 カロが周囲を歩き回り始める。彼女の動きと赤い光線の動きが微妙にマッチしているように見えた。どうやら光線に操られているみたいだ。

「大丈夫?」僕は自分でも不思議なくらい落ち着いた声で尋ねた。

 カロは顔をこちらに向け、こくりと一度小さく頷く。

「これは、何?」彼女は問う。

「分からない」僕は答えた。「空から降ってきたようだ」

「それは分かる」

「墜落したわけではないみたいだね」僕は言った。「被害が小さい。まるで、この地点を正確に狙ったみたいだ。墜落ではなくて、着陸のつもりかもしれない」

 穴の中から奇妙な音がした。それを合図にしたみたいに、それまで空中を浮遊していた赤い光線が、再び穴の中へ戻っていく。それとは逆に今度は音が徐々に地上へ近づいてきた。やがて四角い立方体が姿を現す。その立方体が仄かに赤い光を纏っていた。材質はよく分からないが、金属のような印象を受けた。アスファルトの地面に衝突したはずなのに、表面は滑らかで傷はない。このままの状態で空から降ってきたのではなく、別の何かに保護されていたのかもしれない。

 立方体は宙に浮いている。暫くの間一点に浮遊したままだったが、やがて表面に幾重にもスリットが入り、奇怪な音を立てながら変形を始めた。ルービックキューブのように一定の規則を持って機構が組み替えられ、地面に対して平行な面と垂直な面が、互いに交差しながら回転する。

 立方体は僕の顔のすぐ前にあった。カロも立ち止まって、僕の隣でその様を見ている。立方体は変形の段階を終え、今度は展開とも呼べそうな動きを始めた。面が分解され、無数の小さなエレメントに分れた。立方体は最終的に球体に落ち着く。単一の物体ではなく、無数の粒子の集合体のように見えた。

 球体は、宙に浮いたまま静止する。

 中心に赤い光があった。

〈これが世界か〉そのキューブから音声が発せられた。それをキューブと表現するのは、僕の勝手な解釈にすぎない。ただし、「キューブ」ではなく、「球舞」かもしれない。〈思ったよりもしっかりしている〉

 そう言って、キューブはその場で回転する。キューブを構成する一つ一つの粒子は、遙かに速いスピードで蠢いていた。

〈なんだ、お前たちは〉キューブは僕とカロの方を向いて、静止した。球体だから厳密には向きはないが、なんとなくそんな感じだった。

 僕は小さく首を傾げてみせる。どのような言葉を発したら良いのか分からないときに、決まってする動作だった。隣でカロも同じ仕草をする。ただし、首は僕とは反対側に倒された。

〈ああ、君、君。君を探していたんだ〉キューブがカロに向かって言った。〈目標地点にずれはなかったわけだ〉

「貴方は誰?」

 カロは前方に浮かぶキューブに手を伸ばす。それに反応して、キューブは後方に退いた。その際に、重たく低い不気味な音が鳴った。耳もとで暴れる羽虫が出す音に近い。それよりは幾分友好的に思えたが。

〈鍵、持っているだろ?〉キューブは今度は僕の方を向く。

「鍵?」僕は再び首を傾げる。

〈先に送っておいたんだ〉

 カロと買い物に行く前に、この道路で鍵を拾ったことを、僕は思い出した。ただ、もう少し知らない振りをしようと考えた。まだ状況を上手く飲み込めていないからだ。しかし、その割に落ち着いていることも確かだった。もともと騒ぎ立てたりするような性分ではないから、普通と言えば普通だ。肉体的な苦痛を与えられない限り、僕が騒ぐことはないかもしれない。

〈ここがポイントだったんだよ〉キューブが言った。〈お嬢ちゃん、オレは君に会いたかったんだ〉

「私、お嬢ちゃんではないと思う」カロがコメントする。

〈まあ、何でもいいけど。とにかく、ここは落ち着かない。家に上がらせてくれよ。そこだろ?〉

 なんとなく指でさされたような感じがして、僕は後ろを振り返る。たしかに、そこに僕の家がある。

「この地面は、どうするの?」僕は質問する。

〈その内、治っているだろうよ。パーフェクトな修理屋さんがいるもんでね〉

 キューブを家の中に入れて、僕とカロはコーヒーを飲んだ。カロはコーヒーが特別好きではないみたいだ。僕も特別好きではない。ただ何かを飲みながらだと風情が出るような気がするから、とりあえず飲んでいるにすぎない。

〈いやあ、まいっちまったぜ、まったく〉僕たちの頭上を浮遊しながら、キューブが言った。〈乱暴に着陸するんだから〉

「貴方はどこから来たの?」カロが尋ねる。

〈いい質問だな。どこから来たと思う?〉

「空」カロは天井を指さした。

〈それはそうだろう。高度はどのくらいでしょうか〉

「計測していないから、分からない」

〈まともすぎる回答だ〉

「僕たちに何か用事?」今度は僕が尋ねた。

〈当たり前だろ? 用事がないのに、こんなことをするはずがない〉キューブは空中を飛び回る。〈そこのお嬢ちゃん、名前は?〉

 キューブはカロの頭の上に停滞した。音が煩そうだなと僕は思った。

「カロ」彼女は答える。

〈そうか。では、カロ。君に来てもらいたい所があるんだ〉キューブは話した。〈オレは君を呼ぶためにやって来た。君がポイントだったからな〉

「どういう意味?」

〈まあ、その内分かるさ。オレについて来てくれよ〉

 カロはゆっくり顔をこちらに向ける。首を傾げて静止した。二度の瞬き。

「何?」僕も同じ方向に首を傾げる。

「行っていい?」

「駄目」

「どうして?」

「状況がよく分からない」僕は言った。「どういうこと?」

〈だから、このお嬢ちゃんが必要なんだよ〉キューブは声を張り上げる。その際に、内側に灯る赤い光が若干明るさを強めた。〈悪いようにはしないさ。彼女の力が必要なだけだ。終わったらすぐに返すから〉

「目的は?」

〈はあ? 知ってるだろ?〉

「何の話をしているのか分からない」僕は言った。「もう少し、具体的に話してもらわないと」

〈具体的なことは、もう聞いてるんじゃないのか?〉

「どうやって?」

〈職員がいるだろう?〉

「職員?」

〈本当に何も聞いてないのか?〉

「聞いていない。聞く手段を持たない。誰に聞いたらいい?」

〈だから……〉

 カロの頭の上でホバリングしたまま、キューブは黙り込む。代わりにじじじという音を鳴らした。球体を構成する無数の粒子が局所に集まり、水平方向と垂直方向に伸びた板状の構造を形作る。それらが交差するように回り出した。何かを計算しているのかもしれない。

〈オレに与えられたデータでは、職員がお前のすぐ傍にいることになっている。このお嬢ちゃんだって、その職員が用意したものだろう? ようやく実験に成功したんだ〉

 僕はキューブを見つめたまま静止する。カロが僕の顔を見ていた。

 カロを生み出したのは魔法使いだ。キューブが勘違いをしていないのであれば、彼の言う職員とは、あの魔法使いということになる。

〈そうそう、そいつだ〉キューブが言った。

「僕の思考が読めるの?」

〈部分的にならな。ただし、思考の結果しか分からない〉

 恐ろしいものだと僕は思った。何も考えないようにした方が良いかと思ったが、これも考えたことの一部だからどうしようもない。

〈あいつが何も言っていないのなら、説明してやってもいいが、面倒だな。それに、ことは急を要する……、わけではないが、早いに越したことはない。すぐに行こう。約束の地へ〉

「どこに行くの?」僕は質問する。

〈オレたちの国だ〉

「国って……。空に浮かぶ城でもあるの?」

〈城ではないが、似たようなものだ〉

「行こう」カロが言った。「私が必要らしい」

「僕もついていく」僕は提案した。「家で待っているよりはいいと思う」

〈オレはどちらでもいいぜ。このお嬢ちゃんさえ来てくれればな〉

 そう言うや否や、キューブはリビングの硝子戸に近づく。すると、戸が勝手に開いた。ものを操作することもできるみたいだ。彼を形成する微粒子が関係しているのかもしれない。

 キューブは家の外に出る。球体だからどちらが正面か分からないが、なんとなく、僕たちの方を向いているような格好で、彼は言った。

〈さあ、行こう〉

「どうやって?」僕は尋ねる。「君の国は空にあるんだろう?」

 キューブはもともと浮遊しているが、僕に空を飛ぶ力はない。

 いや……。

 僕は隣に座るカロを見た。

〈そうそう、その通り〉また僕の思考を読んで、キューブが言った。〈そのお嬢ちゃんには、立派な翼が付いてるだろう?〉
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