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第10章 次界へ自戒
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ぼんやりとした時間が過ぎた。
リィルとは相変わらず会話ができないままで、意思の疎通を行う重要さが身に染みて分かるようになった。人間は言葉を使って相手と情報を共有するけれど、この情報の共有こそが、人間が人間らしく生きていく糧となるのだ、と思う。反対に言えば、情報を共有しなければ人間とはいえない。もちろん、人間以外の動物も様々な形で情報の共有をしているけれど、人間のそれはより高次なもので、ほかの生き物には真似できないような気がしてならない。しかし、人間を模倣して作られたウッドクロックにはそれができる。僕もウッドクロックだから、本当は、人間のことなんて何一つ分からない。リィルも今まで同じことを考えてきたのかと思うと、少しだけ胸が苦しくなって、自然と涙が零れてしまいそうになった(この表現は多少誇張している)。
窓を開けて、空を見上げながら、自分とはなんだろう、と考えることがよくある。ルルと出会うまではなかったことだから、彼女が僕に伝えた情報に原因があることは間違いない。それは、きっと、僕がウッドクロックであるという事実だろう。僕は、今まで、自分が人間か否か、なんてことは気にも留めないで生きてきたから、自分が何者であろうとどうでも良いと思っていた。けれど、それは違った。僕は間違いなく自分が人間であることを望んでいた。無意識にそんなふうに悟って、いつしかそれが思い込みとなり、人間であるに違いない、と考えるようになっていたのである。ウッドクロックか、人間かなんて、本来ならどうでも良い問題なのに、自分が人間ではないことが判明した途端、こうも僕は自分を見失ってしまう。もしかすると、それはほかの人にも同じことがいえるかもしれない。意思が強そうに見える人はいても、本当に意思の強い人なんてどこにも存在しないのだ。
それでも、リィルが傍にいてくれることで、僕はなんとか精神を安定した状態で保つことができている。僕と彼女が同じ種類の生き物であることが分かったから、より一層安心感が増した、というのもあるかもしれない。こういうのを親近感と呼ぶのだろう。
でも……。
やはり、それ以上に、自分には彼女がいてほしい、と思う。僕は一人では生きていけない。そういった点では、僕は限りなく人間らしいといえる。リィルが心の底から僕を求めてくれているのか、それを確認する手立てはないけれど、今のところ、僕は、彼女も同じように考えてくれていると信じていた。
そう、信じる。
それしかない。
僕が人間ではないとしても、自分は自分として存在していて良いのだ、と信じるしかない。
それだけしか……。
ルルに出会って暫くしてから、僕は一人でベソゥに会いに行った。彼の様子はいたっていつも通りで、僕にも気さくな様子で対応してくれた。それはあくまで様子だから、彼の心境がどういう状態なのかは分からない。彼は一度自殺しようとしているから、もしかすると、何か思い詰めていることがあるのかもしれないが、それが何なのか、それも、僕には分からないままだった。
彼が管理しているブルースカイシステムに関しては、その後判明したことがいくつかある。まず第一に、ブルースカイ自体に情報を記録する能力はない、ということが分かった。これは驚くべきことだったけれど、ブルースカイが対象としている守備範囲はとても広いから、それを見越して、クラウド上にすべてのデータが保存されるように設計されていたみたいである。クラウド上に保存されているデータは、トラブルメーカーに務める職員にしか確認することができない。だから、ベソゥがどのようにして自殺をしようと決意したのか、それを僕が確かめることはできそうになかった。そして、もう一つは、ブルースカイは、ベソゥの身に何か異変が起きた場合に、トラブルメーカーに通知を送る機能が備わっている、ということも判明した。しかし、そうすると、彼が自殺を決行した際に何の通知も成されなかったのがおかしいことになる。この点については今のところは不明だった。なお、これら二つの情報は、ルルがリィルのウッドクロックに残した情報から明らかになったことで、今現在それを知っているのは僕とリィルの二人だけだった。
ベソゥが管理する施設を訪問したとき、僕は彼にこう質問した。
「君は、どうして生きているの?」
僕の質問を受けたベソゥは、特に怪訝そうな素振りも見せずに、いつものように不気味な笑顔を浮かべてこう答えた。
「生まれてしまったから」
僕には、彼がそのように答えた真意を掴み取ることはできない。それでも、その考え方は、真の意味で素晴らしいと感じる。なぜなら、そう考えてさえいれば、自ら死に向かう道筋を自動的に断つことができるからだ。だから、彼にはもう自殺をしようとする意思はまったくないのだろう、と僕は思った。自分が過去にしたことを覚えていないというのが、良いことなのか、悪いことなのか、それについてはなんともいえない。けれど、少なくとも、自殺をするのは良いことではない。理由も根拠も何もなしに、彼の笑った顔を見て、僕は自然とそんなふうに思うことができた。
*
目を覚ますと午前六時だった。僕にしては早い目覚めである。カーテンを開けて窓の外を見ると、まだ空は暗いままだった。今は冬だから当たり前といえば当たり前だ。けれど、そんな当たり前は、きっといつまでも続かない。僕の場合はそうだった。でも、だからといって、それが嫌だとは感じない。むしろ、本当に嫌なのは、当たり前がずっと続いてしまうことである。それは、言い方を変えれば、何も進歩しない、ともいえるかもしれない。変化がなくては生きていけない。だから、何かを変えるために今日も起き上がって行動する。変える「ため」というふうに、常に目的意識を持っているわけではないけれど、そんなふうに思うことができれば、おそらく少しは毎日が楽しくなるだろう。
リビングに下りると、部屋の中は真っ暗だった。カーテンを開けて、シャッターを持ち上げる。冷たい風が室内に入り込んできた。洗面所に行って顔を洗い、鏡越しに自分の顔を見る。それは確かに僕の顔だった。けれど、前とは随分違うような気がする。そこに人工的な何かを感じてしまうことも、この瞳は、本当にこんな色をしているのか、と考えることも、昔の僕にはまったくなかった。そんなふうに感じるのはどうしてだろう? リィルを見ていても、そんな感覚に陥ることはない。つまり、これは、僕が自分自身を如何に大切だと考えているか、ということでもある。誰でも自分のことは大切だけれど、最近、ちょっと自意識過剰だな、と思うことがしばしばある。あまり良いことではない。だから、意識的に無意識になろう、といった、酷く矛盾した考えを、仕方なく受け入れるしかなかった。
リビングに戻る前にキッチンに入って、コーヒーを一人分用意する。ぼうっと立ったままコーヒーが入るのを待ち、液体が入ったカップを持ってリビングに向かった。そのままソファに腰かける。窓の外はまだ暗いままだった。でも、それで良い。こんな静けさが僕は好きだし、リィルを見るとそう感じるように、その中にはちょっとした優しさが隠されている。
コーヒーを飲んで、カップを手に持ったまま、僕は、固まって、機械仕掛けの人形のように、淡々と色々なことを考えた。
まだ一度も見たことがないものを見たい、と思う。
それはなんだろう?
たとえば、川のせせらぎが太陽の光を反射する光景。
それとも、地平線の彼方で空と海が出会いを果たす名場面。
どうして、そんなことを考えるのか?
それは、僕が人間だからか?
僕が窓の外を見ると、曇っていることがとても多い。
リィルと初めて目が合ったときのことを思い出す。
彼女は、どんなふうに僕を見ているだろう?
僕は、彼女に、僕を見てほしい、と思う。
奇妙な連想は止まらない。
誰かに教えてほしいと願う。
リィルには、本当に僕の姿が見えているのか?
僕が笑っていても、彼女はまったく嬉しくも楽しくもないかもしれない。
それは誰にも分からない。
窓の外に顔を向ける。
曇り空の灰色が見えるだけ。
リィルと初めて目が合ったときのことを思い出す。
彼女は、どんなふうに僕を見ているのだろう?
僕は、やっぱり、彼女に僕を見てほしいのか?
……分からない。
そう、分からないことだらけ。
僕が笑えば、リィルは本当に幸せになれるのか?
僕には、彼女が必要だけれど、それで、本当に、良いのか?
彼女が傍にいてくれることで、僕が幸せになれるから、それだけで、たったそれだけの理由で、リィルは僕の傍にいてくれるのではないか?
僕は誰だろう?
果てしない思索を繰り返しても分からない。
追いつかない連想。
明日になってもきっと答えは出ない。
これからもずっと。
成す術もなく。
あとにも先にも見えるのは彼女だけ。
それからどうしたら良いだろう?
見つからない答え。
落ちていくような感覚。
色褪せた過去の思い出。
繋がりの見えない過去と未来。
折れそうになる気持ちを必死に繋ぎ留める誰かの意思。
音も聞こえず。
生きているのかも分からず。
ぼろぼろになるまで歩き続けなくてはならない一生。
綺麗に見えるかも分からない。
見間違えてしまっても……。
肩を叩かれて、僕は一瞬の内に幻想から現実へと戻された。横に顔を向けるとリィルが立っているのが分かる。僕はカップをテーブルに置いて、彼女が座るスペースを作った。リィルは僕の隣に腰かける。この距離感は、出会ったときからずっと変わらない。それが僕には嬉しかった。リィルも、同じように感じてくれていたら良いな、と思う。
リィルはにっこり笑って、小さく首を傾げて僕を見た。
「やあ、おはよう」僕は小さな声で挨拶した。「久し振りだね」
彼女はさらに首を傾ける。
「いや、それは違うか……。なんか、君と、こうやって向かい合って話すの、久し振りかな、と思って」
リィルはにこにこ笑って、僕を見つめてくる。
「何かいいことでもあったの?」
彼女は首を振る。それから、僕の手の上に自分の掌を重ねた。
「何?」
リィルは答えない。
視線。
そのまま僕の手を自分の胸元へと導き、彼女はじっと僕の様子を観察する。
僕は驚いたけれど、彼女が何をしようとしているのかすぐに分かった。
そう……。
そこには、彼女のウッドクロックがある。
衣服の下から、時計の針が一秒ごとに刻まれる振動が伝わってきた。
まるで生きているみたいに。
いや……。
彼女は僕と同じように生きているのだ。
僕が彼女と同じように生きているみたいに……。
「どうしたの?」
僕が尋ねてもリィルは答えない。そのまま瞼を閉じて、永遠の眠りに就くように安らかな表情で固まってしまった。
僕も沈黙する。
以前、ウッドクロックについて、ちょっとした閃きを得たことがある。それは、ウッドクロックは、人間の心臓のように、自らの寿命を刻んでいるのではないか、ということだった。つまり、死へのカウントダウンということである。ウッドクロックは秒という単位で時を刻むから、秒と秒の間は存在しないことになる。つまり、それは、ウッドクロックがデジタル表示であるということを示す。人間の場合は拍動だから、どちらかというとアナログに近い。そういう点では、人間とウッドクロックは根本的なシステムが違うといえるかもしれない。
しかし……。
そんなことを思い出して、僕は急に底知れぬ不安に襲われたような気がした。
ウッドクロックが寿命を刻んでいるのなら、そこには、予め定められた制限時間が存在するはずである。人間の拍動にも、同じ意味が含まれている、と考えることもできるが、彼らが人工的な存在であるのなら、そういった意味合いは人間のそれよりも幾分深いかもしれない。
だから、僕は、リィルが、もう、そのときを迎えようとしているのではないか、と考えてしまった。
正面で目を瞑るリィルに、僕は少し大きな声で呼びかける。
「……リィル?」
彼女は答えない。
けれど、僕の手には秒針が動く気配が確かに伝わってくる。
まだ、彼女は死んでいない。
「リィル、どうしたの?」
僕の呼びかけに反応して、リィルはゆっくりと瞼を上げた。
「どういう意味?」
窓の外に広がる闇。
彼女は僕に何を伝えようとしているのだろう?
いや……。
そうか……。
僕は自分の掌に神経を集中させる。
ウッドクロックが秒を最小単位とするデジタル表示であるということは、当然、それ以上細かい単位は存在しない、ということになる。つまり、彼女を規定する最も根本的な単位は秒なのだ。この単位は、人間が時を規定する際に、最も根本的な単位として機能する。したがって、ウッドクロックと人間は、根本的に同じ存在である、といえるかもしれない。もしくは、限りなくそれに近いものである、ということになる。
リィルが使う言語に文字化けが表れるようになったのは、ルルが現れた直後からだったから、僕は、それが、ルルに原因があるものと考えていた。
でも、もしそうでないとしたら……。
そう……。
ウッドクロックが特定の値を刻んだときに、必然的にそのバグが表れるように設定されていたとしたら、どうだろう?
つまり、それは……。
「僕の方に原因がある、ということだね?」
僕の言葉を聞いて、リィルは頷く。
そうか……。
本当は……。
リィルに文字化けが起きたのではなく、彼女の言葉を理解する僕の能力に問題が生じたのだ。
どうして、それに気がつかなかったのだろう?
いや、今はそんなことはどうでも良い。
問題は、それをどうやって解消するか、ということである。
僕の方に問題があるとすれば、その原因を突き止める必要がある。といっても、考えられる可能性は一つしかない。ルルが現れてから、僕に起きた変化といえば、一つだけ。
それは、自分で自分をしっかり規定できなくなった、ということ。
だから、それさえ治せば、この問題を解決できるかもしれない。
ルルは、きっと、僕がそういう状態になることまで想定して、ウッドクロックに細工を施していた。
そう……。
リィルとの意思の疎通を妨害するプログラム。
僕のウッドクロックには、そのプログラムが存在していた。
それは、つまり、僕自身で、それを克服する必要がある、というルルからのメッセージであるに等しい。
自分で自分を規定すること。
それを、ルルは僕に求めていた。
「分かったよ、リィル」僕は言った。「僕は自分が何者なのか決めればいいんだね?」
リィルは黙って小さく頷く。言葉が通じない以上、彼女がルルの要求を僕に直接伝える方法はない。だから、リィルは僕が自分で気がつく可能性にかけるしかなかった。けれど、疎い僕は自分ではそれに気がつかなかった。今日がそのタイムリミットだったのである。
僕は彼女の瞳を見つめる。
そこには僕の姿が映っていた。
人間は、鏡を見ただけでは自分が何者なのか分からない。他者に自分の存在を認めてもらって、初めて自分で自分という存在を把握できるようになる。
僕は答えた。
「僕は僕だよ。人間でも、ウッドクロックでもない」
リィルのウッドクロックが展開されて、青色の光が室内に充満した。
「そして、私は私」文字化けが解除されて、リィルの言葉が理解できる形で僕に伝わる。「ウッドクロックではない、正真正銘の私」
彼女のウッドクロックから三本の針がすべてなくなった。
「やっと話せるようになったね」リィルが話す。
「うん……。全然答えに辿り着けなかったけど、僕にしては頑張った方かな」
「それ、冗談のつもり?」
「僕は冗談なんて言わないよ」
「じゃあ、何?」
「君はなんだと思う?」
「うーん、分からないけど……」
「分からなくていいよ。それより、教えてくれてありがとう」
「うん、どういたしまして」
「ルルにも伝えたかったけど、もう、無理かな」
「そうかも……。彼女は、どうして君にそんなことを求めたのかな?」
僕は考える。やはり、僕には何も分からなかった。ルルがウッドクロックを作ったのは、数が減った人間を補填するためだと言っていたけれど、どうにもほかの理由があるように思える。けれど、それが分かったところでどうこうなる問題ではないし、彼女のお陰で僕は存在しているのだから、まあ、そんなことはどうでも良いだろう、と僕は思った。
それでも、僕はリィルの質問に答えた。
「自分ではそれができなかったから、じゃないかな」
「それ、どういう意味?」
「気にしなくていいよ」僕は笑った。「さあ、朝ご飯を食べよう」
太陽がちょうど昇ってくるところだった。硝子戸の隙間から室内に陽光が差し込み、彼女の姿を細い光が薄く照らし出す。
「私、ご飯は食べないの」リィルの声が聞こえた。
「どうして?」
「私の分まで、君がいっぱい食べてくれるから」
*
リィルと一人の少年が意思の疎通を行う方法を取り戻す数日前、ルルは飛行機に乗ってその街から立ち去った。目的地は特にない。したいことも何もなかった。だから、その街に来て彼らの様子を観察しようと思ったのは、本当に気紛れ以上の何ものでもない。けれど、特別な目的がないからこそ旅程は楽しいものになったし、予期しない様々な出来事に遭遇することができて、彼女は一人で満足していた。
キャビンアテンダントがやって来て、飲み物は如何かと尋ねてきたから、彼女は暖かいコーヒーを注文した。飛行機の中でホットコーヒーにありつけるとは思っていなかったから、ルルはそのサプライズに感激してしまった。
「そういえば、ルルさんは、飛行機に乗られるのは初めてでしたね」
ルルの隣の席に腰かけた男性が、低い声で彼女に話しかける。彼はスタイリッシュなスーツを身に着けて、色の濃いしっかりとしたサングラスをかけていた。あからさまにこんな格好をしている人間はあまりいない。それは彼の趣味で、彼が職務の最中にそんな気取った格好をしていても、ルルはまったく不快に感じなかった。
こんな格好をしている人間、と断ったのには理由がある。それは、彼は人間ではないからだ。彼はルルが設計したウッドクロックである。
「うん、そうなの……。そもそも、出かける機会が全然なかったから、色々なことが新鮮で……。でも、やっぱり、私には、部屋に閉じ籠もっている方が似合っているかもしれませんね」
「そうですか? 外も、内も、あまり変わらないと思いますが」
「どういう意味?」
「深い意味はありません。思いつきで話しただけです」
「素晴らしいですね」
「貴女にそう言ってもらえるなんて、光栄です」
ルルは上品な笑顔を彼に向ける。そんな彼女の表情を見て、彼は小さく口元を上げた。
彼は、人間と同じような見た目をしながら、中身はほとんどメカニカルな機構で作られている。それはルルが意図的にそうしたからだった。彼女には、人間ではない、しかし人間とそっくりな、そんな微妙な立ち位置にいるアシスタントが必要だった。いや、彼はもはやアシスタントとは呼べないかもしれない。それ以上に親密な関係であることは間違いない。親密の度合いを数値で表すことはできないが、たとえるなら、冷蔵庫の表面にくっつくマグネットくらい二人は親密である。だから、立場上はルルの方が上でも、彼は彼女のことを親しみを込めて「ルルさん」と呼んでいた。
「それにしても、予想通りの展開で、面白かったですね」リクライニング機能を使って椅子の背を倒した彼が、天井を見たまま呟いた。「私は、もう少し貴女の予想が外れると思っていましたけど、こうも単純に事が進むと、プログラムというものにちょっとした恐怖を覚えます」
「その恐怖も、プログラムされたものです」ルルは説明する。「貴方は、私に作られたのですから」
「彼があのタイミングで自分を規定し直そうとしたのも、そうプログラムされていたからですか?」
「さあ、どうでしょう……。私には分かりません」
「誤魔化さないで下さいよ」
「彼のことは、彼にしか分かりません」
「貴女は、自分が誰だか分かっていますか?」
「貴方は、どう?」
「さあ、どうでしょう……。仮に私が貴女だったとしても、私には、私が誰かなんて分からないでしょうね」
彼の答えを聞いて、ルルは嬉しそうに微笑んだ。
高度は大分高くなっている。もう眼下に先ほどの街は見えなかった。見えなくても、それは確かにそこに存在する。しかし、認識しなければ、存在するかどうか分からない。もしかすると、だからこそ、自分はあの街に行こうと思ったのかもしれないな、とルルは考えた。こんな当たり前のことを考えるのは久し振りで、その思考を辿ったことで、彼女は昔のことを少し思い出した。
それは、リィルを生み出した日のことだった。彼女は起動した瞬間に自分が人間ではないことを悟って、ルルを驚かせた。その不備は、想定していなかったものだったからだ。テュナやベソゥが有する不備については、設計の段階でルルも存在を把握していた。しかし、リィルのそれは明らかに性質が違っていた。人間が、誕生した瞬間に自分が何者であるのか悟ることがないのと同じように、ウッドクロックも、自分が何者であるかを悟るまでにはそれなりの時間が必要になる。記述されたベーシックに何らかの齟齬があったために、リィルはすぐに自分が何者であるのか悟ってしまったのだ。
あの少年と出会って、リィルは幸せになっただろうか、とルルは考える。幸せという、形のないものについて考えるのは、彼女にとっては多少抵抗があった。けれど、最近になってそんなことも少しできるようになったから、彼女は自分の変化を不思議に思っていた。
「そうだ。ルルさん、お腹は空きませんか?」
隣に座る彼が声をかけてくる。
「お腹? うーん、お腹は空きません。でも、どうして?」
「いや、なんとなく訊いてみただけです。カレーとか、食べられるかもしれないな、と思って」
「カレー? 飛行機でカレーなんて食べられるの?」
「たぶん、食べられると思いますよ。なんなら、私が注文しましょうか?」
「いえ、今はけっこうです」ルルは断る。「あとで食べたくなったら、お願いします」
「そういえば、カレーライスって、カレーがメインなのか、ライスがメインなのか、分かりませんね。英語だったら重要な語句を先に置きますけど、カレーライスって、いったい何語なのでしょう?」
「英語でも、後ろから修飾する場合はあります」
「ああ、そうか。じゃあ、英語とか、日本語とか、そういう問題じゃないんですね」
「問題って?」
「クエスチョンの方です。プロブレムではありませんよ」
「私は、どちらかというとクエスチョンだけど、貴方はプロブレムかもしれませんね」
「それ、どういう意味ですか?」
窓の外に雲が見えた。
旅は続く。
*
午前八時三十分。僕はリィルと一緒に玄関の外に出て、森林公園まで散歩に行った。
枝葉の枯れた草木が午前の陽光を反射している。その光景はとても幻想的で、僕には限りなく綺麗に見えた。僕にそう見えるのだから、きっと、リィルにも同じように見えているだろう。
「ねえ、リィル」僕は言った。「そういえば、君の目的は、まだ達成していなかったね」
「目的って、どの目的のこと?」
「僕と結婚する、という目的はもう達成したから、あと、もう一つ、君が建前として挙げた方の目的だよ」
「私と、君と、もう、結婚したの?」
「したじゃないか」僕は横目でリィルを見る。「……もしかして、それは、今度は僕にプロポーズしてほしい、と言っているの?」
「そう」
僕は立ち止まって彼女の手を取る。
「リィル」木漏れ日が僕たちを優しく包み込んだ。「僕と一緒に、人間と仲良くなるための冒険に出かけよう」
リィルは首を傾げる。
「それ、プロポーズにしては、いまいちだよ」彼女は言った。「でも、いいよ」
今でも、ときどき自分の胸に手を当てて考える。
それは、心臓の拍動か。
それとも、ウッドクロックが時を刻む音なのか。
答えは誰にも分からない。
けれど、どちらでも良かった。
どちらであっても、僕は僕に変わりはないのだから……。
「まずは、どこに行く?」リィルが尋ねる。
「人間が、まだ知らない所へ」僕は答えた。
リィルとは相変わらず会話ができないままで、意思の疎通を行う重要さが身に染みて分かるようになった。人間は言葉を使って相手と情報を共有するけれど、この情報の共有こそが、人間が人間らしく生きていく糧となるのだ、と思う。反対に言えば、情報を共有しなければ人間とはいえない。もちろん、人間以外の動物も様々な形で情報の共有をしているけれど、人間のそれはより高次なもので、ほかの生き物には真似できないような気がしてならない。しかし、人間を模倣して作られたウッドクロックにはそれができる。僕もウッドクロックだから、本当は、人間のことなんて何一つ分からない。リィルも今まで同じことを考えてきたのかと思うと、少しだけ胸が苦しくなって、自然と涙が零れてしまいそうになった(この表現は多少誇張している)。
窓を開けて、空を見上げながら、自分とはなんだろう、と考えることがよくある。ルルと出会うまではなかったことだから、彼女が僕に伝えた情報に原因があることは間違いない。それは、きっと、僕がウッドクロックであるという事実だろう。僕は、今まで、自分が人間か否か、なんてことは気にも留めないで生きてきたから、自分が何者であろうとどうでも良いと思っていた。けれど、それは違った。僕は間違いなく自分が人間であることを望んでいた。無意識にそんなふうに悟って、いつしかそれが思い込みとなり、人間であるに違いない、と考えるようになっていたのである。ウッドクロックか、人間かなんて、本来ならどうでも良い問題なのに、自分が人間ではないことが判明した途端、こうも僕は自分を見失ってしまう。もしかすると、それはほかの人にも同じことがいえるかもしれない。意思が強そうに見える人はいても、本当に意思の強い人なんてどこにも存在しないのだ。
それでも、リィルが傍にいてくれることで、僕はなんとか精神を安定した状態で保つことができている。僕と彼女が同じ種類の生き物であることが分かったから、より一層安心感が増した、というのもあるかもしれない。こういうのを親近感と呼ぶのだろう。
でも……。
やはり、それ以上に、自分には彼女がいてほしい、と思う。僕は一人では生きていけない。そういった点では、僕は限りなく人間らしいといえる。リィルが心の底から僕を求めてくれているのか、それを確認する手立てはないけれど、今のところ、僕は、彼女も同じように考えてくれていると信じていた。
そう、信じる。
それしかない。
僕が人間ではないとしても、自分は自分として存在していて良いのだ、と信じるしかない。
それだけしか……。
ルルに出会って暫くしてから、僕は一人でベソゥに会いに行った。彼の様子はいたっていつも通りで、僕にも気さくな様子で対応してくれた。それはあくまで様子だから、彼の心境がどういう状態なのかは分からない。彼は一度自殺しようとしているから、もしかすると、何か思い詰めていることがあるのかもしれないが、それが何なのか、それも、僕には分からないままだった。
彼が管理しているブルースカイシステムに関しては、その後判明したことがいくつかある。まず第一に、ブルースカイ自体に情報を記録する能力はない、ということが分かった。これは驚くべきことだったけれど、ブルースカイが対象としている守備範囲はとても広いから、それを見越して、クラウド上にすべてのデータが保存されるように設計されていたみたいである。クラウド上に保存されているデータは、トラブルメーカーに務める職員にしか確認することができない。だから、ベソゥがどのようにして自殺をしようと決意したのか、それを僕が確かめることはできそうになかった。そして、もう一つは、ブルースカイは、ベソゥの身に何か異変が起きた場合に、トラブルメーカーに通知を送る機能が備わっている、ということも判明した。しかし、そうすると、彼が自殺を決行した際に何の通知も成されなかったのがおかしいことになる。この点については今のところは不明だった。なお、これら二つの情報は、ルルがリィルのウッドクロックに残した情報から明らかになったことで、今現在それを知っているのは僕とリィルの二人だけだった。
ベソゥが管理する施設を訪問したとき、僕は彼にこう質問した。
「君は、どうして生きているの?」
僕の質問を受けたベソゥは、特に怪訝そうな素振りも見せずに、いつものように不気味な笑顔を浮かべてこう答えた。
「生まれてしまったから」
僕には、彼がそのように答えた真意を掴み取ることはできない。それでも、その考え方は、真の意味で素晴らしいと感じる。なぜなら、そう考えてさえいれば、自ら死に向かう道筋を自動的に断つことができるからだ。だから、彼にはもう自殺をしようとする意思はまったくないのだろう、と僕は思った。自分が過去にしたことを覚えていないというのが、良いことなのか、悪いことなのか、それについてはなんともいえない。けれど、少なくとも、自殺をするのは良いことではない。理由も根拠も何もなしに、彼の笑った顔を見て、僕は自然とそんなふうに思うことができた。
*
目を覚ますと午前六時だった。僕にしては早い目覚めである。カーテンを開けて窓の外を見ると、まだ空は暗いままだった。今は冬だから当たり前といえば当たり前だ。けれど、そんな当たり前は、きっといつまでも続かない。僕の場合はそうだった。でも、だからといって、それが嫌だとは感じない。むしろ、本当に嫌なのは、当たり前がずっと続いてしまうことである。それは、言い方を変えれば、何も進歩しない、ともいえるかもしれない。変化がなくては生きていけない。だから、何かを変えるために今日も起き上がって行動する。変える「ため」というふうに、常に目的意識を持っているわけではないけれど、そんなふうに思うことができれば、おそらく少しは毎日が楽しくなるだろう。
リビングに下りると、部屋の中は真っ暗だった。カーテンを開けて、シャッターを持ち上げる。冷たい風が室内に入り込んできた。洗面所に行って顔を洗い、鏡越しに自分の顔を見る。それは確かに僕の顔だった。けれど、前とは随分違うような気がする。そこに人工的な何かを感じてしまうことも、この瞳は、本当にこんな色をしているのか、と考えることも、昔の僕にはまったくなかった。そんなふうに感じるのはどうしてだろう? リィルを見ていても、そんな感覚に陥ることはない。つまり、これは、僕が自分自身を如何に大切だと考えているか、ということでもある。誰でも自分のことは大切だけれど、最近、ちょっと自意識過剰だな、と思うことがしばしばある。あまり良いことではない。だから、意識的に無意識になろう、といった、酷く矛盾した考えを、仕方なく受け入れるしかなかった。
リビングに戻る前にキッチンに入って、コーヒーを一人分用意する。ぼうっと立ったままコーヒーが入るのを待ち、液体が入ったカップを持ってリビングに向かった。そのままソファに腰かける。窓の外はまだ暗いままだった。でも、それで良い。こんな静けさが僕は好きだし、リィルを見るとそう感じるように、その中にはちょっとした優しさが隠されている。
コーヒーを飲んで、カップを手に持ったまま、僕は、固まって、機械仕掛けの人形のように、淡々と色々なことを考えた。
まだ一度も見たことがないものを見たい、と思う。
それはなんだろう?
たとえば、川のせせらぎが太陽の光を反射する光景。
それとも、地平線の彼方で空と海が出会いを果たす名場面。
どうして、そんなことを考えるのか?
それは、僕が人間だからか?
僕が窓の外を見ると、曇っていることがとても多い。
リィルと初めて目が合ったときのことを思い出す。
彼女は、どんなふうに僕を見ているだろう?
僕は、彼女に、僕を見てほしい、と思う。
奇妙な連想は止まらない。
誰かに教えてほしいと願う。
リィルには、本当に僕の姿が見えているのか?
僕が笑っていても、彼女はまったく嬉しくも楽しくもないかもしれない。
それは誰にも分からない。
窓の外に顔を向ける。
曇り空の灰色が見えるだけ。
リィルと初めて目が合ったときのことを思い出す。
彼女は、どんなふうに僕を見ているのだろう?
僕は、やっぱり、彼女に僕を見てほしいのか?
……分からない。
そう、分からないことだらけ。
僕が笑えば、リィルは本当に幸せになれるのか?
僕には、彼女が必要だけれど、それで、本当に、良いのか?
彼女が傍にいてくれることで、僕が幸せになれるから、それだけで、たったそれだけの理由で、リィルは僕の傍にいてくれるのではないか?
僕は誰だろう?
果てしない思索を繰り返しても分からない。
追いつかない連想。
明日になってもきっと答えは出ない。
これからもずっと。
成す術もなく。
あとにも先にも見えるのは彼女だけ。
それからどうしたら良いだろう?
見つからない答え。
落ちていくような感覚。
色褪せた過去の思い出。
繋がりの見えない過去と未来。
折れそうになる気持ちを必死に繋ぎ留める誰かの意思。
音も聞こえず。
生きているのかも分からず。
ぼろぼろになるまで歩き続けなくてはならない一生。
綺麗に見えるかも分からない。
見間違えてしまっても……。
肩を叩かれて、僕は一瞬の内に幻想から現実へと戻された。横に顔を向けるとリィルが立っているのが分かる。僕はカップをテーブルに置いて、彼女が座るスペースを作った。リィルは僕の隣に腰かける。この距離感は、出会ったときからずっと変わらない。それが僕には嬉しかった。リィルも、同じように感じてくれていたら良いな、と思う。
リィルはにっこり笑って、小さく首を傾げて僕を見た。
「やあ、おはよう」僕は小さな声で挨拶した。「久し振りだね」
彼女はさらに首を傾ける。
「いや、それは違うか……。なんか、君と、こうやって向かい合って話すの、久し振りかな、と思って」
リィルはにこにこ笑って、僕を見つめてくる。
「何かいいことでもあったの?」
彼女は首を振る。それから、僕の手の上に自分の掌を重ねた。
「何?」
リィルは答えない。
視線。
そのまま僕の手を自分の胸元へと導き、彼女はじっと僕の様子を観察する。
僕は驚いたけれど、彼女が何をしようとしているのかすぐに分かった。
そう……。
そこには、彼女のウッドクロックがある。
衣服の下から、時計の針が一秒ごとに刻まれる振動が伝わってきた。
まるで生きているみたいに。
いや……。
彼女は僕と同じように生きているのだ。
僕が彼女と同じように生きているみたいに……。
「どうしたの?」
僕が尋ねてもリィルは答えない。そのまま瞼を閉じて、永遠の眠りに就くように安らかな表情で固まってしまった。
僕も沈黙する。
以前、ウッドクロックについて、ちょっとした閃きを得たことがある。それは、ウッドクロックは、人間の心臓のように、自らの寿命を刻んでいるのではないか、ということだった。つまり、死へのカウントダウンということである。ウッドクロックは秒という単位で時を刻むから、秒と秒の間は存在しないことになる。つまり、それは、ウッドクロックがデジタル表示であるということを示す。人間の場合は拍動だから、どちらかというとアナログに近い。そういう点では、人間とウッドクロックは根本的なシステムが違うといえるかもしれない。
しかし……。
そんなことを思い出して、僕は急に底知れぬ不安に襲われたような気がした。
ウッドクロックが寿命を刻んでいるのなら、そこには、予め定められた制限時間が存在するはずである。人間の拍動にも、同じ意味が含まれている、と考えることもできるが、彼らが人工的な存在であるのなら、そういった意味合いは人間のそれよりも幾分深いかもしれない。
だから、僕は、リィルが、もう、そのときを迎えようとしているのではないか、と考えてしまった。
正面で目を瞑るリィルに、僕は少し大きな声で呼びかける。
「……リィル?」
彼女は答えない。
けれど、僕の手には秒針が動く気配が確かに伝わってくる。
まだ、彼女は死んでいない。
「リィル、どうしたの?」
僕の呼びかけに反応して、リィルはゆっくりと瞼を上げた。
「どういう意味?」
窓の外に広がる闇。
彼女は僕に何を伝えようとしているのだろう?
いや……。
そうか……。
僕は自分の掌に神経を集中させる。
ウッドクロックが秒を最小単位とするデジタル表示であるということは、当然、それ以上細かい単位は存在しない、ということになる。つまり、彼女を規定する最も根本的な単位は秒なのだ。この単位は、人間が時を規定する際に、最も根本的な単位として機能する。したがって、ウッドクロックと人間は、根本的に同じ存在である、といえるかもしれない。もしくは、限りなくそれに近いものである、ということになる。
リィルが使う言語に文字化けが表れるようになったのは、ルルが現れた直後からだったから、僕は、それが、ルルに原因があるものと考えていた。
でも、もしそうでないとしたら……。
そう……。
ウッドクロックが特定の値を刻んだときに、必然的にそのバグが表れるように設定されていたとしたら、どうだろう?
つまり、それは……。
「僕の方に原因がある、ということだね?」
僕の言葉を聞いて、リィルは頷く。
そうか……。
本当は……。
リィルに文字化けが起きたのではなく、彼女の言葉を理解する僕の能力に問題が生じたのだ。
どうして、それに気がつかなかったのだろう?
いや、今はそんなことはどうでも良い。
問題は、それをどうやって解消するか、ということである。
僕の方に問題があるとすれば、その原因を突き止める必要がある。といっても、考えられる可能性は一つしかない。ルルが現れてから、僕に起きた変化といえば、一つだけ。
それは、自分で自分をしっかり規定できなくなった、ということ。
だから、それさえ治せば、この問題を解決できるかもしれない。
ルルは、きっと、僕がそういう状態になることまで想定して、ウッドクロックに細工を施していた。
そう……。
リィルとの意思の疎通を妨害するプログラム。
僕のウッドクロックには、そのプログラムが存在していた。
それは、つまり、僕自身で、それを克服する必要がある、というルルからのメッセージであるに等しい。
自分で自分を規定すること。
それを、ルルは僕に求めていた。
「分かったよ、リィル」僕は言った。「僕は自分が何者なのか決めればいいんだね?」
リィルは黙って小さく頷く。言葉が通じない以上、彼女がルルの要求を僕に直接伝える方法はない。だから、リィルは僕が自分で気がつく可能性にかけるしかなかった。けれど、疎い僕は自分ではそれに気がつかなかった。今日がそのタイムリミットだったのである。
僕は彼女の瞳を見つめる。
そこには僕の姿が映っていた。
人間は、鏡を見ただけでは自分が何者なのか分からない。他者に自分の存在を認めてもらって、初めて自分で自分という存在を把握できるようになる。
僕は答えた。
「僕は僕だよ。人間でも、ウッドクロックでもない」
リィルのウッドクロックが展開されて、青色の光が室内に充満した。
「そして、私は私」文字化けが解除されて、リィルの言葉が理解できる形で僕に伝わる。「ウッドクロックではない、正真正銘の私」
彼女のウッドクロックから三本の針がすべてなくなった。
「やっと話せるようになったね」リィルが話す。
「うん……。全然答えに辿り着けなかったけど、僕にしては頑張った方かな」
「それ、冗談のつもり?」
「僕は冗談なんて言わないよ」
「じゃあ、何?」
「君はなんだと思う?」
「うーん、分からないけど……」
「分からなくていいよ。それより、教えてくれてありがとう」
「うん、どういたしまして」
「ルルにも伝えたかったけど、もう、無理かな」
「そうかも……。彼女は、どうして君にそんなことを求めたのかな?」
僕は考える。やはり、僕には何も分からなかった。ルルがウッドクロックを作ったのは、数が減った人間を補填するためだと言っていたけれど、どうにもほかの理由があるように思える。けれど、それが分かったところでどうこうなる問題ではないし、彼女のお陰で僕は存在しているのだから、まあ、そんなことはどうでも良いだろう、と僕は思った。
それでも、僕はリィルの質問に答えた。
「自分ではそれができなかったから、じゃないかな」
「それ、どういう意味?」
「気にしなくていいよ」僕は笑った。「さあ、朝ご飯を食べよう」
太陽がちょうど昇ってくるところだった。硝子戸の隙間から室内に陽光が差し込み、彼女の姿を細い光が薄く照らし出す。
「私、ご飯は食べないの」リィルの声が聞こえた。
「どうして?」
「私の分まで、君がいっぱい食べてくれるから」
*
リィルと一人の少年が意思の疎通を行う方法を取り戻す数日前、ルルは飛行機に乗ってその街から立ち去った。目的地は特にない。したいことも何もなかった。だから、その街に来て彼らの様子を観察しようと思ったのは、本当に気紛れ以上の何ものでもない。けれど、特別な目的がないからこそ旅程は楽しいものになったし、予期しない様々な出来事に遭遇することができて、彼女は一人で満足していた。
キャビンアテンダントがやって来て、飲み物は如何かと尋ねてきたから、彼女は暖かいコーヒーを注文した。飛行機の中でホットコーヒーにありつけるとは思っていなかったから、ルルはそのサプライズに感激してしまった。
「そういえば、ルルさんは、飛行機に乗られるのは初めてでしたね」
ルルの隣の席に腰かけた男性が、低い声で彼女に話しかける。彼はスタイリッシュなスーツを身に着けて、色の濃いしっかりとしたサングラスをかけていた。あからさまにこんな格好をしている人間はあまりいない。それは彼の趣味で、彼が職務の最中にそんな気取った格好をしていても、ルルはまったく不快に感じなかった。
こんな格好をしている人間、と断ったのには理由がある。それは、彼は人間ではないからだ。彼はルルが設計したウッドクロックである。
「うん、そうなの……。そもそも、出かける機会が全然なかったから、色々なことが新鮮で……。でも、やっぱり、私には、部屋に閉じ籠もっている方が似合っているかもしれませんね」
「そうですか? 外も、内も、あまり変わらないと思いますが」
「どういう意味?」
「深い意味はありません。思いつきで話しただけです」
「素晴らしいですね」
「貴女にそう言ってもらえるなんて、光栄です」
ルルは上品な笑顔を彼に向ける。そんな彼女の表情を見て、彼は小さく口元を上げた。
彼は、人間と同じような見た目をしながら、中身はほとんどメカニカルな機構で作られている。それはルルが意図的にそうしたからだった。彼女には、人間ではない、しかし人間とそっくりな、そんな微妙な立ち位置にいるアシスタントが必要だった。いや、彼はもはやアシスタントとは呼べないかもしれない。それ以上に親密な関係であることは間違いない。親密の度合いを数値で表すことはできないが、たとえるなら、冷蔵庫の表面にくっつくマグネットくらい二人は親密である。だから、立場上はルルの方が上でも、彼は彼女のことを親しみを込めて「ルルさん」と呼んでいた。
「それにしても、予想通りの展開で、面白かったですね」リクライニング機能を使って椅子の背を倒した彼が、天井を見たまま呟いた。「私は、もう少し貴女の予想が外れると思っていましたけど、こうも単純に事が進むと、プログラムというものにちょっとした恐怖を覚えます」
「その恐怖も、プログラムされたものです」ルルは説明する。「貴方は、私に作られたのですから」
「彼があのタイミングで自分を規定し直そうとしたのも、そうプログラムされていたからですか?」
「さあ、どうでしょう……。私には分かりません」
「誤魔化さないで下さいよ」
「彼のことは、彼にしか分かりません」
「貴女は、自分が誰だか分かっていますか?」
「貴方は、どう?」
「さあ、どうでしょう……。仮に私が貴女だったとしても、私には、私が誰かなんて分からないでしょうね」
彼の答えを聞いて、ルルは嬉しそうに微笑んだ。
高度は大分高くなっている。もう眼下に先ほどの街は見えなかった。見えなくても、それは確かにそこに存在する。しかし、認識しなければ、存在するかどうか分からない。もしかすると、だからこそ、自分はあの街に行こうと思ったのかもしれないな、とルルは考えた。こんな当たり前のことを考えるのは久し振りで、その思考を辿ったことで、彼女は昔のことを少し思い出した。
それは、リィルを生み出した日のことだった。彼女は起動した瞬間に自分が人間ではないことを悟って、ルルを驚かせた。その不備は、想定していなかったものだったからだ。テュナやベソゥが有する不備については、設計の段階でルルも存在を把握していた。しかし、リィルのそれは明らかに性質が違っていた。人間が、誕生した瞬間に自分が何者であるのか悟ることがないのと同じように、ウッドクロックも、自分が何者であるかを悟るまでにはそれなりの時間が必要になる。記述されたベーシックに何らかの齟齬があったために、リィルはすぐに自分が何者であるのか悟ってしまったのだ。
あの少年と出会って、リィルは幸せになっただろうか、とルルは考える。幸せという、形のないものについて考えるのは、彼女にとっては多少抵抗があった。けれど、最近になってそんなことも少しできるようになったから、彼女は自分の変化を不思議に思っていた。
「そうだ。ルルさん、お腹は空きませんか?」
隣に座る彼が声をかけてくる。
「お腹? うーん、お腹は空きません。でも、どうして?」
「いや、なんとなく訊いてみただけです。カレーとか、食べられるかもしれないな、と思って」
「カレー? 飛行機でカレーなんて食べられるの?」
「たぶん、食べられると思いますよ。なんなら、私が注文しましょうか?」
「いえ、今はけっこうです」ルルは断る。「あとで食べたくなったら、お願いします」
「そういえば、カレーライスって、カレーがメインなのか、ライスがメインなのか、分かりませんね。英語だったら重要な語句を先に置きますけど、カレーライスって、いったい何語なのでしょう?」
「英語でも、後ろから修飾する場合はあります」
「ああ、そうか。じゃあ、英語とか、日本語とか、そういう問題じゃないんですね」
「問題って?」
「クエスチョンの方です。プロブレムではありませんよ」
「私は、どちらかというとクエスチョンだけど、貴方はプロブレムかもしれませんね」
「それ、どういう意味ですか?」
窓の外に雲が見えた。
旅は続く。
*
午前八時三十分。僕はリィルと一緒に玄関の外に出て、森林公園まで散歩に行った。
枝葉の枯れた草木が午前の陽光を反射している。その光景はとても幻想的で、僕には限りなく綺麗に見えた。僕にそう見えるのだから、きっと、リィルにも同じように見えているだろう。
「ねえ、リィル」僕は言った。「そういえば、君の目的は、まだ達成していなかったね」
「目的って、どの目的のこと?」
「僕と結婚する、という目的はもう達成したから、あと、もう一つ、君が建前として挙げた方の目的だよ」
「私と、君と、もう、結婚したの?」
「したじゃないか」僕は横目でリィルを見る。「……もしかして、それは、今度は僕にプロポーズしてほしい、と言っているの?」
「そう」
僕は立ち止まって彼女の手を取る。
「リィル」木漏れ日が僕たちを優しく包み込んだ。「僕と一緒に、人間と仲良くなるための冒険に出かけよう」
リィルは首を傾げる。
「それ、プロポーズにしては、いまいちだよ」彼女は言った。「でも、いいよ」
今でも、ときどき自分の胸に手を当てて考える。
それは、心臓の拍動か。
それとも、ウッドクロックが時を刻む音なのか。
答えは誰にも分からない。
けれど、どちらでも良かった。
どちらであっても、僕は僕に変わりはないのだから……。
「まずは、どこに行く?」リィルが尋ねる。
「人間が、まだ知らない所へ」僕は答えた。
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