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第8章 遺志よ意思
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僕の前にリィルの青色の瞳が浮かんでいた。
彼女がソファから上体を起こすのと同時に、この家のシャッターがすべて自動的に下ろされた。それから、家の中に滞留する無線通信がすべてシャットアウトされる。僕は完全に隔離された状態になり、声も出せず、目の前に座る異型をただ見つめることしかできなかった。
「……リィル?」
僕は小さな声で彼女に問いかける。
しかし、そこにいる彼女は、リィルではなかった。
外見は確かに彼女と同じである。けれど、身に纏う雰囲気がまったく違っている。その違いを言葉で説明することはできないけれど、生まれ変わりのような、あるいは、似ていながらも性格や趣向が異なる双子のような、そんな見知らぬ「誰か」がソファに座っている。僕は、怖くなったけれど、それでも、呼吸と心拍はいつも通り落ち着いていた。そう……。まるで、その一定のリズムを保つのが当然であるかのように……。
「私は、リィルではありません」
やがて、リィルの身体を持つ「誰か」が、僕の呼びかけに応答した。
「君は、誰?」僕は尋ねる。
「誰、という質問にはお答えできませんが、リィルの母親だ、とでも申し上げておきましょう」彼女は言った。「貴方は、現在、今まで自分と暮らしてきた少女が豹変して、大変驚いていると思います。ですが、そんな必要はありません。ええ、たしかに、少なからず驚かせてしまったことは確かです。ですから、その必要があれば謝ります。貴方は、私の謝罪を望みますか?」
「……いえ、望みません」僕は答えた。「えっと、どういうことなのか、僕には、さっぱり……」
「私は、トラブルメーカーの創始者です」
それを聞いて、僕は彼女をじっと見つめる。
「貴方は、すでに、その名前を知っていますね?」
「……どういうことですか?」
「この音声データは、特定の条件が揃った場合に起動するようになっています。彼女、リィルと呼ばれる個体に搭載されたウッドクロックが、もともと設定されていた『ある時』を刻んだとき、私が彼女のもとに現出するようにできているのです。ですから、彼女の人格を形成するデータが上書きされたわけではありませんので、ご安心下さい。貴方が愛したリィルは、消えてなくならない、ということです」
僕は彼女をテーブルへと案内し、二人で向かい合って椅子に座った。僕は、落ち着きを取り戻すためにコーヒーを淹れる。コーヒーにはカフェインが含まれているから、どちらかというと、覚醒作用が齎されることになるけれど、それなりに覚醒していないと、彼女の話も上手く理解できないだろうし、それを飲めば気分的に落ち着くだろうから、まあ、良いだろう、と思ってそれを用意した(良い、というのには、具体的な意味はない)。
僕が席に戻ると、彼女は椅子に座ったまま、真っ直ぐ前を向いていた。
「お待たせしました」椅子を引いて、僕は言った。「えっと、あの……、まだ、よく、理解できていないのですが……」
「ええ、無理もないと思います」
「貴女のことは、どのように呼べばいいですか?」
「そうですね。私に名前はありませんが、ルル、というのが私を識別する記号です。ですから、必要があれば、そのようにお呼び下さい」
「分かりました、ルル」
「貴方の名前はなんですか?」
「え、僕ですか?」僕は首を傾げる。「……僕にも、名前はありません」
「では、リィルは、いつも、どのように貴方を呼んでいるのですか?」
「リィルは、僕の名前は呼びません」
「それは、どうして?」
「家に二人しかいなくて、名前を呼ぶ必要がないからです」
僕がそう答えると、ルルは満足そうな顔で一度頷いた。
「何か、訊きたいことがあるようですね」
僕が黙っていると、ルルの方から話しかけてくる。
「ええ……。……その前に、貴女は、どうして、僕の前に現れたのですか?」
「貴方の疑問に答えるためです」
「それは、どういう意味ですか?」
「貴方と、リィルが、どのような過程を経て、どのような疑問に辿り着くのか、それらはすべて予想されていました。そして、その通りに、今回それらの予想が的中した、ということです」
「でも、それは、貴女が現れた本当の目的ではないのではありませんか?」
僕がそう尋ねると、ルルは、リィルとはまったく異なる、上品な笑みを浮かべた。
「ええ、その通りです」
「親子だと、やっぱり、似ているということかな」
「何か言いましたか?」
「いえ、何も」
「私が貴方の前に現れた真の目的については、後々お話させて頂こうと思います」
「ええ……」
僕はコーヒーを飲む。
「貴方が私に尋ねたいことは、主に次の三つですね?」
ルルがそう言うと、彼女の瞳が宿す青い光が強くなって、目の前の空間に立体映像が投影された。
そこには、
①トラブルメーカーとベソゥ、及びブルースカイに関すること
②色の三原色に関すること
③自覚と無自覚に起因する、ウッドクロックのタイプに関すること
の三つが記載されていた。
僕はその内容を確認し、彼女の質問に答える。
「ええ、その通りです」僕は頷いた。「それを、僕に教えるために、貴女はここにやって来たのですか?」
「それと、先ほど貴方が尋ねた、真の目的を果たすために、です」
「リィルが、僕の所にやって来た理由についても、教えて頂けませんか?」
僕がそう要求すると、ルルは何の躊躇も見せずに頷いた。
「ええ、もちろんです」
暫くの間、僕と彼女の間に沈黙が下りる。僕は、目の前の彼女がリィルではないという事実を、上手く呑み込むことができなかった。どちらかというと、それは事実というよりも、ルルに見せられている錯覚といった方が正しい。外見がリィルと同じでも、内面がルルとして機能しているのだから、今の彼女は紛れもなくルルである。
そう考えたとき、自分はリィルの外見と内面の、どちらに心を惹かれたのだろう、と思った。正直に言って、あまり考えたくないことだったが、いずれ、それについて考えなくてはならなくなる。たしかに、外見と内面の両方を合わせて、リィルを好きになったのだ、と言えばそれで良い話だが、僕には、どうしても、自信をもってそんな主張することはできそうにない。なぜなら、僕は、リィルの内面を知る前に、彼女の外見を認識したからだ。つまり、先に外見を認識してしまえば、内面はあとでどのようにでも捏造できる、ということである。
ルルは、こちらを見て、その青い瞳に僕の姿を映した。
「それでは、それら三つの疑問に答える前に、ウッドクロックの概要についてお話しましょう」ルルが言った。「まず、ウッドクロックは、ご存知の通り、人間をモデルに作られています。これには、私が人間を創造しようと思った過去に、そもそもの原因があります。人間の数は、今や全盛期の頃と比べて、半分近くまで減少しています。そこで、ウッドクロックを作って、表面的な人間の数をキープしよう、と思い立ったのです。それが、私がウッドクロックを生み出した理由です。本当は人間そのものを作りたかったのですが、私の技術力では、ウッドクロックを作るのが限界だった、ということです」
「貴女は、人間に絶滅してほしくなかったのですか?」僕は質問する。
「ええ、そう」ルルは頷いた。「私は、とても、人間が好きなのです」
そんなことを呟いて、ルルは本当に嬉しそうに微笑む。誰かと再び話せる日を夢見て、このときが来るのを、ずっと待ち望んできたかのように見えた。
「ウッドクロックを人間と同じように作動させるためには、まず、人間に特有な言語を解析する必要がありました」
「言語?」
「そうです。言語といっても、私たちが、今、こうして口に出している言語とは違います。それは、人間というシステムを根底から支える、人間を『人間』として記述するための言語です。私は、それをベーシックと名づけました。人間を規定する最も根本的な言語なので、ベーシックです。そして、このベーシックのいくつかを特定の順序で並べると、そこに『意思』が生じることが確認されました」
「意思って……。それは、つまり、僕たちの意識は、その言語によって支えられている、という意味ですか?」
「そうです。『意思』を生み出すベーシックの配列を、一般的な人間にも知覚可能になるように、アルファベットで表記すると、こうなります」
そう言って、ルルは、自分の胸部にあるパーツを展開させた。
僕は、そこに存在するものを、以前見たことがある。
それは、そう……。
僕とリィルが、あの丘の上の公園で再会したときに、彼女に見せてもらったものだった。
円形の窓。木製の枠。そして、その中を一定の周期で回転する三つの針。
まさしく、ウッドクロック。
針を覆う透明の文字盤に、英単語が数個並んでいる。
僕はそれを声に出して読み上げた。
「Who am I?」
ルルは僕の顔を見て、大きく頷く。
「それが、『意思』を生み出すベーシックの配列です。正確には、先ほどお伝えしたように、ベーシックをアルファベットに置き換えたものになります」
ルルはウッドクロックを収納し、人間と何一つ変わらない姿に戻った。
僕は一度黙って考える。
「意思」を生み出すコードが、”Who am I?”というのは、いったいどういうことだろう?
なぜ、そうなるのか?
これは、たとえば、ある特定の物質を生み出すために、必要なDNAの塩基配列を調べてみたら、偶然にも意味の通じる単語になった、というのと同じである。それは偶然かもしれないが、偶然だから、それでお仕舞い、というわけにはいかない。それは、僕が、人間という、意味を認識する生き物だからである。人間を記述するベーシックにこのような性質があるとしたら、それは、人間を生み出した存在が、人間が意味を扱うことを予期していた、というふうにしか考えられなくなる。
この点については、これ以上は何もいえない。
ただ、”Who am I?”という問いかけが、人間を支える基盤になる、という事実だけが残される。
「それでは、次に、一つ目の問いに答えましょう」やがて、ルルは話を先に進めた。「しかし、それについて説明する前に、一つだけ、貴方にお伝えしておくことがあります。それは、これから私が語る内容は、一部推測の域を出ない部分がある、ということです。これについては、理解して頂けますね?」
「ええ、もちろん、それは分かりますが……」
「私が語る内容は、私が認識した情報を組み合わせて作られた、基も合理的で筋の通る理論でしかありません。だから、それが本当に真実なのか、ということについては、私には分かりません」
僕は頷く。
「ですから、貴方も、そういうつもりで聞いて下さい。もちろん、私が自ら仕掛けたことについては、一定の確証があると言うことはできます」
部屋の空気が張り詰めている。仕方がなかった。僕もルルも初対面なのだから、いきなりこんな話をして、柔和な雰囲気になるはずがない。しかも、相手は僕がよく知るリィルの姿をしている。はっきりいって、理解が追いつかない。僕はもともと頭があまり良くないのだ。それはリィルも同じだから、そんなリィルの姿をした誰かが、こんなにも流暢に自分の見解を述べていることが、僕には不可解に感じられてならなかった。
「では、ブルースカイシステムに関する事項について、答え合わせをします」ルルは、なんだかこの状況を楽しんでいるような表情で、話し始めた。「貴方は、この街が、海と、山と、そして空によって、隔離されていることを知っています。そして、いつか、その規定を行ったのが、貴方か、リィルか、私の誰かだ、と思ったことがありました。それは、どうしてですか?」
「いえ、それは、えっと……。……僕とリィルについては、主観として、そう規定するしかなかった、というだけで、それを決定的に行ったのは、おそらく貴女だろう、とは思っていました」
「つまり、トラブルメーカーが関わっていると考えたのですね?」
「そうです」
「その通り」ルルは笑った。「よくできました」
気分を落ち着かせる意味も込めて、僕はマグカップを持って肩を竦める。
「トラブルメーカーは、ウッドクロックを開発した企業です。そして、その企業を始めたのが、私です。トラブルメーカーは、合計で四体のウッドクロックを製造しました。それしか作れなかったのは、開発がまだ実験的な段階だったからです」
だった、と過去形で語るということは、今はそうではないのかもしれない、と僕は思った。
ルルの説明は続く。
「そして、四体製造した機体の内、如何なる不備もなく完成されたのは、一体だけでした。つまり、残りの三体には、なんらかの不備があったのです」
「その、四体というのは、具体的に誰ですか?」
「それについては、まだお答えできません」ルルは答える。
「では、あとで答えてくれるんですね?」
「ええ、私の説明が一通り終わったら、最後にお伝えすることをお約束します」
彼女がそう言ったから、僕は大人しく引き下がった。
「不備がある三体の内の一つが、現在ベソゥと呼ばれている個体です。彼には、製造が完了した段階で、すでに不備があることが分かっていました。本来なら、実際に稼働させない限り、不備があるかどうかは分かりませんが、彼には致命的な設計ミスがあって、稼働させる前から不備が存在することが判明していました。それが、彼が人間に特有な行動をとろうとすると、フリーズする、というものでした」
僕は、急に背筋が寒くなった。良いことであろうと、悪いことであろうと、予想が的中すれば多少なりとも震える。
「……じゃあ、彼は、やっぱり、自分が人間だと思い込んでいた、ということですね?」
「ええ、そうです。人間に特有な行動というのは、あまり具体的な説明ではありませんが、その候補は、彼の内部で明確に規定されています。たとえば、食事や入浴、睡眠などがそれに当たります。そして、そんな彼を保護するために、私たちは、彼をとある施設に隔離することにしました」
「それが、あの図書館ですか?」
「そう……。ブルーススカイシステムには、たしかに、この街で起こる問題を解決する、という機能もありますが、それはあくまで表向きのものでしかありません。本当の目的は、彼を監視することです。ブルースカイによって、彼の生活は保証されているのです」
ルルの説明を聞いて、僕は驚いたけれど、今のところ、まだ、それほど仰天するような内容ではなかった。そのくらいのことは僕も予想していたし、彼がウッドクロックであるのが確実になったのはショックだったけれど、だからといって、僕にどうこうできる問題ではない。
「しかし、あるとき、人間に特有な行動をとれないはずの彼に、事故が起こりました。それが、彼自身によって、自殺、という選択が成されたことでした」
僕は顔を上げる。
自殺?
そうか……。
彼は、他者から攻撃を受けたのではなかったのだ。
「ベソゥが人間に特有な行動をとろうとすると、その直前で、ウッドクロックの一機能が作動し、彼を一時的にフリーズさせるようにできています。彼がフリーズしている間に、彼が人間に特有な行動をとろうとした、その記憶を削除する。こうすることで、彼は目を覚ましても、自分がフリーズした原因を思い出せなくなります。だから、彼は、自分が人間ではない、ということに思い至らなかったのです」
僕はコーヒーを一口飲む。
「しかし、あの日、彼が自殺を決行しようとしたとき、ウッドクロックの反応に僅かな遅延が認められました。その結果、彼は自分の腹部を自分で刺したあと、フリーズして直前の記憶を失い、その後リィルによって助けられました。それが、ベソゥに纏わる真実です」
僕は片手で額を抑えて、ルルに質問した。
「……彼が、自殺をしようと思ったのは、どうしてですか?」
「それは、私にも分かりません」ルルは首を振る。「おそらく、彼のウッドクロックを調べても分からないでしょう。ウッドクロックには、彼が自殺を決行した、という記録は残っているはずですが、その記録を見つけ出すのは困難です」
「自殺は、たしかに、人間に特有な行動ですね、きっと」
「その通りです。ベーシックには、自殺を記述する配列が存在します。そういう意味では、彼は限りなく人間らしかったのかもしれませんね」
そう言ったときの、ルルの何かを慈しむような顔が、僕は忘れられなかった。
ルルは、僕に話を整理する時間を与えるように黙り込む。
ベソゥは自殺しようとして、失敗した。それは、彼が不備を抱えたウッドクロックだったからだ。つまり、そういった不備がなければ、ウッドクロックでも人間に特有な行動をとることが可能だ、ということになる。
「さて、それでは、次の問いに対する答えについて、お話しましょう」
僕の目の前で、ルルが話す。特に止める必要もなかったから、僕は黙って頷いた。もはや、僕には、自分の考えを述べたり、反論したり、といった気力はない。ルルが話す内容を正確にインプットするしかなかった。
「次は、色の三原色に関するお話です。しかし、これについては、それほど難しくはない、といえるでしょう。ウッドクロックには、赤、青、黄色、の合計三色の体液が流れていますが、これは、ウッドクロックを開発する際に、モデルとした生き物、もっといえば、種族に関係がある、と説明することができます」
「モデル? ウッドクロックのモデルは、人間じゃないんですか?」
「ウッドクロックの根本的な支えとなっているのは、もちろん人間です。しかし、それ以外に、二種類の種族が関わっています。残念ながら、これについては、機密事項になりますから、詳細な情報を貴方にお伝えすることはできません。ああ、そうですね、今まで私が話した内容も、これから話す内容も、他言しないで頂けると助かります。リィルには、今私が話している内容がログとして記憶されているので、彼女に対する配慮は必要ありません」
「どうして、機密事項なんですか?」
「それについても、お答えできません」しかしながら、ルルは何かを仄めかすように、言葉を紡いだ。「人間の歴史に記録されている事実と、異なる部分が存在するので、人々の混乱を防ぐために秘密にしている、とでも言っておきましょうか」
僕は黙ってコーヒーを飲む。
苦かった。
ルルは説明を続ける。
「ウッドクロックの体液の内、人間から齎されたのは、赤色の液体です。青と、黄色の体液を持つ種族に関する情報については、詳しくお話しすることはできませんが、まあ、人間以外の何らかの種族が開発に関わっている、と思ってもらえれば良いでしょう」
「視覚の方は? たしか、リィルは、黒が嫌いだ、と言っていましたけど……」
「ええ、そうです」ルルは頷く。「ウッドクロックは、黒という色が嫌いです。それは、ウッドクロックの開発に関わった三種類の種族が持つ体液が、たまたま、赤、青、黄色、の三色だったことに原因があります。これらの色をすべて合わせると、黒になります。このとき、ウッドクロックを記述するベーシックにエラーが起こり、黒いものを見ると嫌悪感を抱くようになってしまったのです」
「それは、リィルが茶色が好きなことにも関係がありますか?」
「もちろん、関係はあります。三種類の体液が、色の三原色だったことから、ベーシックに黒いバイアスがかかってしまいました。つまり、彼女たちは、本来なら、人間と同じような色彩感覚で、この世界を認識するはずだったのに、黒いバイアスがかかってしまったことで、人間の色彩感覚からずれてしまった。だから、ウッドクロックは黒が嫌いなのです。本当は人間になるはずだった者たちが、黒いバイアスによって人間になれなかったことに対する、拒否反応と捉えられます。そして、リィルが茶色を好むのは、色の三原色から二色を選んで、黒を混ぜた場合に、茶色が現れることと関係があります」
僕は少し考える。しかし、すぐに彼女が言っている意味が分かったから、閃いたことをそのまま口にした。
「……赤と、黄色に、黒を混ぜて、茶色、ということですか?」
「ええ、その通りです。素晴らしい色彩感覚ですね」
「人間なら、誰でも分かるはずです」
「そう……。あくまで、人間なら、ですが」
「でも、黒が混ざることで、どうして、ウッドクロックは、茶色を、好きだ、と思うようになったのでしょう?」
「赤と、黄色だけでは、仲が悪いからです」
「仲が悪い?」
「赤は人間。黄色は、ほかの種族です」ルルは言った。「その二つだけでは、この世界は成り立ちません。おそらく、ほかの色の組み合わせでも、同様の反応が見られると思います。つまり、〈赤と青に黒を足して深紫〉、もしくは〈青と黄に黒を足して深緑〉のいずれかを認識しても、おそらく、ウッドクロックは好意的な感情を抱きます」
僕は脚を組む。
「これらの色彩は、ベーシックで記述した場合のものです。先述した通り、ウッドクロックの色彩感覚は、人間のそれにバイアスがかかったものなので、実際に彼らが見ている色は、私たちが見ている色とは異なります。それでも、人間との会話を成立させるために、ある程度色彩に関する表現が補正されるようになっています。たとえば、人間にとって『赤』を示す信号を感知したら、それが彼らにとっての『赤』ではなくても、『赤』と表現する、ということです」
天井で光る照明が切れかかっている。徐々に照度が下がりつつあり、部屋が陰気な雰囲気に包まれ始める。
それでも、ルルの青色に光った目は変わらない。自分が人工物であることを主張するように、彼女はその輝く瞳で僕をじっと見つめていた。
「それでは、最後の問いに対する答えです」
ルルは口を開く。
僕は、できるなら、彼女からそれを聞きたくなかった。
なぜかは分からない。
僕が人間だから、勘がはたらいたのかもしれない。
いや……。
「貴方も気づいていると思いますが、ウッドクロックには大きく分けて二つのタイプが存在します。一つは、自分がウッドクロックであることを自覚しているタイプ。そして、もう一つが、自分がウッドクロックであることを自覚していないタイプです。自覚、無自覚というのは、酷く主観的な問題ですが、貴方はそれに気がつきました。どうして、ウッドクロックにそれら二つのタイプが存在するか、分かりますか?」
僕はルルの視線を真っ直ぐ受け留める。
青い光線が僕の瞳を貫いた。
僕は答えない。
けれど、それは、なんとなく分かっていた。
そう……。
リィルと出会ったときから、いつかこうなることは分かっていたのだ。
「お答えにならないので、私の方からお伝えします」ルルは言った。「ウッドクロックにそれら二つのタイプが存在するのは、そうなるように設定されているからではありません。きちんと自己と向き合った個体が、自分自身で思い至ったからにほかならないのです。つまり、リィルは、自身の行動を客観的に分析して、自分がウッドクロックだと気がついた。しかし、ベソゥにはそれができなかった。なぜなら、彼の場合、設計の段階で存在した不備によって、定期的に記憶が改変されてしまうからです」
「自覚は、しなくてはいけないものですか?」
「その質問にはお答えできません」
「どうしてですか?」
「貴方が決めることだからです」
コーヒーを喉に通そうと思ったが、カップはすでに空だった。
部屋の照明が完全に落ちる。
暗闇の中でルルの瞳だけが浮遊していた。
「ウッドクロックは、全部で四体存在します。それでは、その四体とは、具体的に誰のことなのか?」
ルルは一人で話す。
「昔、テュナと呼ばれる少年がいました。彼はウッドクロックでした。ですが、最も致命的な設計ミスによって、早くに命を落としました。これで、リィル、ベソゥ、テュナの三人がウッドクロックだということが分かります」
僕はもう何も話さない。
いや、話せなかった。
ルルは、最後の審判を告げるように、僕に言った。
「そうです。残された最後の一体は、貴方です」
彼女がソファから上体を起こすのと同時に、この家のシャッターがすべて自動的に下ろされた。それから、家の中に滞留する無線通信がすべてシャットアウトされる。僕は完全に隔離された状態になり、声も出せず、目の前に座る異型をただ見つめることしかできなかった。
「……リィル?」
僕は小さな声で彼女に問いかける。
しかし、そこにいる彼女は、リィルではなかった。
外見は確かに彼女と同じである。けれど、身に纏う雰囲気がまったく違っている。その違いを言葉で説明することはできないけれど、生まれ変わりのような、あるいは、似ていながらも性格や趣向が異なる双子のような、そんな見知らぬ「誰か」がソファに座っている。僕は、怖くなったけれど、それでも、呼吸と心拍はいつも通り落ち着いていた。そう……。まるで、その一定のリズムを保つのが当然であるかのように……。
「私は、リィルではありません」
やがて、リィルの身体を持つ「誰か」が、僕の呼びかけに応答した。
「君は、誰?」僕は尋ねる。
「誰、という質問にはお答えできませんが、リィルの母親だ、とでも申し上げておきましょう」彼女は言った。「貴方は、現在、今まで自分と暮らしてきた少女が豹変して、大変驚いていると思います。ですが、そんな必要はありません。ええ、たしかに、少なからず驚かせてしまったことは確かです。ですから、その必要があれば謝ります。貴方は、私の謝罪を望みますか?」
「……いえ、望みません」僕は答えた。「えっと、どういうことなのか、僕には、さっぱり……」
「私は、トラブルメーカーの創始者です」
それを聞いて、僕は彼女をじっと見つめる。
「貴方は、すでに、その名前を知っていますね?」
「……どういうことですか?」
「この音声データは、特定の条件が揃った場合に起動するようになっています。彼女、リィルと呼ばれる個体に搭載されたウッドクロックが、もともと設定されていた『ある時』を刻んだとき、私が彼女のもとに現出するようにできているのです。ですから、彼女の人格を形成するデータが上書きされたわけではありませんので、ご安心下さい。貴方が愛したリィルは、消えてなくならない、ということです」
僕は彼女をテーブルへと案内し、二人で向かい合って椅子に座った。僕は、落ち着きを取り戻すためにコーヒーを淹れる。コーヒーにはカフェインが含まれているから、どちらかというと、覚醒作用が齎されることになるけれど、それなりに覚醒していないと、彼女の話も上手く理解できないだろうし、それを飲めば気分的に落ち着くだろうから、まあ、良いだろう、と思ってそれを用意した(良い、というのには、具体的な意味はない)。
僕が席に戻ると、彼女は椅子に座ったまま、真っ直ぐ前を向いていた。
「お待たせしました」椅子を引いて、僕は言った。「えっと、あの……、まだ、よく、理解できていないのですが……」
「ええ、無理もないと思います」
「貴女のことは、どのように呼べばいいですか?」
「そうですね。私に名前はありませんが、ルル、というのが私を識別する記号です。ですから、必要があれば、そのようにお呼び下さい」
「分かりました、ルル」
「貴方の名前はなんですか?」
「え、僕ですか?」僕は首を傾げる。「……僕にも、名前はありません」
「では、リィルは、いつも、どのように貴方を呼んでいるのですか?」
「リィルは、僕の名前は呼びません」
「それは、どうして?」
「家に二人しかいなくて、名前を呼ぶ必要がないからです」
僕がそう答えると、ルルは満足そうな顔で一度頷いた。
「何か、訊きたいことがあるようですね」
僕が黙っていると、ルルの方から話しかけてくる。
「ええ……。……その前に、貴女は、どうして、僕の前に現れたのですか?」
「貴方の疑問に答えるためです」
「それは、どういう意味ですか?」
「貴方と、リィルが、どのような過程を経て、どのような疑問に辿り着くのか、それらはすべて予想されていました。そして、その通りに、今回それらの予想が的中した、ということです」
「でも、それは、貴女が現れた本当の目的ではないのではありませんか?」
僕がそう尋ねると、ルルは、リィルとはまったく異なる、上品な笑みを浮かべた。
「ええ、その通りです」
「親子だと、やっぱり、似ているということかな」
「何か言いましたか?」
「いえ、何も」
「私が貴方の前に現れた真の目的については、後々お話させて頂こうと思います」
「ええ……」
僕はコーヒーを飲む。
「貴方が私に尋ねたいことは、主に次の三つですね?」
ルルがそう言うと、彼女の瞳が宿す青い光が強くなって、目の前の空間に立体映像が投影された。
そこには、
①トラブルメーカーとベソゥ、及びブルースカイに関すること
②色の三原色に関すること
③自覚と無自覚に起因する、ウッドクロックのタイプに関すること
の三つが記載されていた。
僕はその内容を確認し、彼女の質問に答える。
「ええ、その通りです」僕は頷いた。「それを、僕に教えるために、貴女はここにやって来たのですか?」
「それと、先ほど貴方が尋ねた、真の目的を果たすために、です」
「リィルが、僕の所にやって来た理由についても、教えて頂けませんか?」
僕がそう要求すると、ルルは何の躊躇も見せずに頷いた。
「ええ、もちろんです」
暫くの間、僕と彼女の間に沈黙が下りる。僕は、目の前の彼女がリィルではないという事実を、上手く呑み込むことができなかった。どちらかというと、それは事実というよりも、ルルに見せられている錯覚といった方が正しい。外見がリィルと同じでも、内面がルルとして機能しているのだから、今の彼女は紛れもなくルルである。
そう考えたとき、自分はリィルの外見と内面の、どちらに心を惹かれたのだろう、と思った。正直に言って、あまり考えたくないことだったが、いずれ、それについて考えなくてはならなくなる。たしかに、外見と内面の両方を合わせて、リィルを好きになったのだ、と言えばそれで良い話だが、僕には、どうしても、自信をもってそんな主張することはできそうにない。なぜなら、僕は、リィルの内面を知る前に、彼女の外見を認識したからだ。つまり、先に外見を認識してしまえば、内面はあとでどのようにでも捏造できる、ということである。
ルルは、こちらを見て、その青い瞳に僕の姿を映した。
「それでは、それら三つの疑問に答える前に、ウッドクロックの概要についてお話しましょう」ルルが言った。「まず、ウッドクロックは、ご存知の通り、人間をモデルに作られています。これには、私が人間を創造しようと思った過去に、そもそもの原因があります。人間の数は、今や全盛期の頃と比べて、半分近くまで減少しています。そこで、ウッドクロックを作って、表面的な人間の数をキープしよう、と思い立ったのです。それが、私がウッドクロックを生み出した理由です。本当は人間そのものを作りたかったのですが、私の技術力では、ウッドクロックを作るのが限界だった、ということです」
「貴女は、人間に絶滅してほしくなかったのですか?」僕は質問する。
「ええ、そう」ルルは頷いた。「私は、とても、人間が好きなのです」
そんなことを呟いて、ルルは本当に嬉しそうに微笑む。誰かと再び話せる日を夢見て、このときが来るのを、ずっと待ち望んできたかのように見えた。
「ウッドクロックを人間と同じように作動させるためには、まず、人間に特有な言語を解析する必要がありました」
「言語?」
「そうです。言語といっても、私たちが、今、こうして口に出している言語とは違います。それは、人間というシステムを根底から支える、人間を『人間』として記述するための言語です。私は、それをベーシックと名づけました。人間を規定する最も根本的な言語なので、ベーシックです。そして、このベーシックのいくつかを特定の順序で並べると、そこに『意思』が生じることが確認されました」
「意思って……。それは、つまり、僕たちの意識は、その言語によって支えられている、という意味ですか?」
「そうです。『意思』を生み出すベーシックの配列を、一般的な人間にも知覚可能になるように、アルファベットで表記すると、こうなります」
そう言って、ルルは、自分の胸部にあるパーツを展開させた。
僕は、そこに存在するものを、以前見たことがある。
それは、そう……。
僕とリィルが、あの丘の上の公園で再会したときに、彼女に見せてもらったものだった。
円形の窓。木製の枠。そして、その中を一定の周期で回転する三つの針。
まさしく、ウッドクロック。
針を覆う透明の文字盤に、英単語が数個並んでいる。
僕はそれを声に出して読み上げた。
「Who am I?」
ルルは僕の顔を見て、大きく頷く。
「それが、『意思』を生み出すベーシックの配列です。正確には、先ほどお伝えしたように、ベーシックをアルファベットに置き換えたものになります」
ルルはウッドクロックを収納し、人間と何一つ変わらない姿に戻った。
僕は一度黙って考える。
「意思」を生み出すコードが、”Who am I?”というのは、いったいどういうことだろう?
なぜ、そうなるのか?
これは、たとえば、ある特定の物質を生み出すために、必要なDNAの塩基配列を調べてみたら、偶然にも意味の通じる単語になった、というのと同じである。それは偶然かもしれないが、偶然だから、それでお仕舞い、というわけにはいかない。それは、僕が、人間という、意味を認識する生き物だからである。人間を記述するベーシックにこのような性質があるとしたら、それは、人間を生み出した存在が、人間が意味を扱うことを予期していた、というふうにしか考えられなくなる。
この点については、これ以上は何もいえない。
ただ、”Who am I?”という問いかけが、人間を支える基盤になる、という事実だけが残される。
「それでは、次に、一つ目の問いに答えましょう」やがて、ルルは話を先に進めた。「しかし、それについて説明する前に、一つだけ、貴方にお伝えしておくことがあります。それは、これから私が語る内容は、一部推測の域を出ない部分がある、ということです。これについては、理解して頂けますね?」
「ええ、もちろん、それは分かりますが……」
「私が語る内容は、私が認識した情報を組み合わせて作られた、基も合理的で筋の通る理論でしかありません。だから、それが本当に真実なのか、ということについては、私には分かりません」
僕は頷く。
「ですから、貴方も、そういうつもりで聞いて下さい。もちろん、私が自ら仕掛けたことについては、一定の確証があると言うことはできます」
部屋の空気が張り詰めている。仕方がなかった。僕もルルも初対面なのだから、いきなりこんな話をして、柔和な雰囲気になるはずがない。しかも、相手は僕がよく知るリィルの姿をしている。はっきりいって、理解が追いつかない。僕はもともと頭があまり良くないのだ。それはリィルも同じだから、そんなリィルの姿をした誰かが、こんなにも流暢に自分の見解を述べていることが、僕には不可解に感じられてならなかった。
「では、ブルースカイシステムに関する事項について、答え合わせをします」ルルは、なんだかこの状況を楽しんでいるような表情で、話し始めた。「貴方は、この街が、海と、山と、そして空によって、隔離されていることを知っています。そして、いつか、その規定を行ったのが、貴方か、リィルか、私の誰かだ、と思ったことがありました。それは、どうしてですか?」
「いえ、それは、えっと……。……僕とリィルについては、主観として、そう規定するしかなかった、というだけで、それを決定的に行ったのは、おそらく貴女だろう、とは思っていました」
「つまり、トラブルメーカーが関わっていると考えたのですね?」
「そうです」
「その通り」ルルは笑った。「よくできました」
気分を落ち着かせる意味も込めて、僕はマグカップを持って肩を竦める。
「トラブルメーカーは、ウッドクロックを開発した企業です。そして、その企業を始めたのが、私です。トラブルメーカーは、合計で四体のウッドクロックを製造しました。それしか作れなかったのは、開発がまだ実験的な段階だったからです」
だった、と過去形で語るということは、今はそうではないのかもしれない、と僕は思った。
ルルの説明は続く。
「そして、四体製造した機体の内、如何なる不備もなく完成されたのは、一体だけでした。つまり、残りの三体には、なんらかの不備があったのです」
「その、四体というのは、具体的に誰ですか?」
「それについては、まだお答えできません」ルルは答える。
「では、あとで答えてくれるんですね?」
「ええ、私の説明が一通り終わったら、最後にお伝えすることをお約束します」
彼女がそう言ったから、僕は大人しく引き下がった。
「不備がある三体の内の一つが、現在ベソゥと呼ばれている個体です。彼には、製造が完了した段階で、すでに不備があることが分かっていました。本来なら、実際に稼働させない限り、不備があるかどうかは分かりませんが、彼には致命的な設計ミスがあって、稼働させる前から不備が存在することが判明していました。それが、彼が人間に特有な行動をとろうとすると、フリーズする、というものでした」
僕は、急に背筋が寒くなった。良いことであろうと、悪いことであろうと、予想が的中すれば多少なりとも震える。
「……じゃあ、彼は、やっぱり、自分が人間だと思い込んでいた、ということですね?」
「ええ、そうです。人間に特有な行動というのは、あまり具体的な説明ではありませんが、その候補は、彼の内部で明確に規定されています。たとえば、食事や入浴、睡眠などがそれに当たります。そして、そんな彼を保護するために、私たちは、彼をとある施設に隔離することにしました」
「それが、あの図書館ですか?」
「そう……。ブルーススカイシステムには、たしかに、この街で起こる問題を解決する、という機能もありますが、それはあくまで表向きのものでしかありません。本当の目的は、彼を監視することです。ブルースカイによって、彼の生活は保証されているのです」
ルルの説明を聞いて、僕は驚いたけれど、今のところ、まだ、それほど仰天するような内容ではなかった。そのくらいのことは僕も予想していたし、彼がウッドクロックであるのが確実になったのはショックだったけれど、だからといって、僕にどうこうできる問題ではない。
「しかし、あるとき、人間に特有な行動をとれないはずの彼に、事故が起こりました。それが、彼自身によって、自殺、という選択が成されたことでした」
僕は顔を上げる。
自殺?
そうか……。
彼は、他者から攻撃を受けたのではなかったのだ。
「ベソゥが人間に特有な行動をとろうとすると、その直前で、ウッドクロックの一機能が作動し、彼を一時的にフリーズさせるようにできています。彼がフリーズしている間に、彼が人間に特有な行動をとろうとした、その記憶を削除する。こうすることで、彼は目を覚ましても、自分がフリーズした原因を思い出せなくなります。だから、彼は、自分が人間ではない、ということに思い至らなかったのです」
僕はコーヒーを一口飲む。
「しかし、あの日、彼が自殺を決行しようとしたとき、ウッドクロックの反応に僅かな遅延が認められました。その結果、彼は自分の腹部を自分で刺したあと、フリーズして直前の記憶を失い、その後リィルによって助けられました。それが、ベソゥに纏わる真実です」
僕は片手で額を抑えて、ルルに質問した。
「……彼が、自殺をしようと思ったのは、どうしてですか?」
「それは、私にも分かりません」ルルは首を振る。「おそらく、彼のウッドクロックを調べても分からないでしょう。ウッドクロックには、彼が自殺を決行した、という記録は残っているはずですが、その記録を見つけ出すのは困難です」
「自殺は、たしかに、人間に特有な行動ですね、きっと」
「その通りです。ベーシックには、自殺を記述する配列が存在します。そういう意味では、彼は限りなく人間らしかったのかもしれませんね」
そう言ったときの、ルルの何かを慈しむような顔が、僕は忘れられなかった。
ルルは、僕に話を整理する時間を与えるように黙り込む。
ベソゥは自殺しようとして、失敗した。それは、彼が不備を抱えたウッドクロックだったからだ。つまり、そういった不備がなければ、ウッドクロックでも人間に特有な行動をとることが可能だ、ということになる。
「さて、それでは、次の問いに対する答えについて、お話しましょう」
僕の目の前で、ルルが話す。特に止める必要もなかったから、僕は黙って頷いた。もはや、僕には、自分の考えを述べたり、反論したり、といった気力はない。ルルが話す内容を正確にインプットするしかなかった。
「次は、色の三原色に関するお話です。しかし、これについては、それほど難しくはない、といえるでしょう。ウッドクロックには、赤、青、黄色、の合計三色の体液が流れていますが、これは、ウッドクロックを開発する際に、モデルとした生き物、もっといえば、種族に関係がある、と説明することができます」
「モデル? ウッドクロックのモデルは、人間じゃないんですか?」
「ウッドクロックの根本的な支えとなっているのは、もちろん人間です。しかし、それ以外に、二種類の種族が関わっています。残念ながら、これについては、機密事項になりますから、詳細な情報を貴方にお伝えすることはできません。ああ、そうですね、今まで私が話した内容も、これから話す内容も、他言しないで頂けると助かります。リィルには、今私が話している内容がログとして記憶されているので、彼女に対する配慮は必要ありません」
「どうして、機密事項なんですか?」
「それについても、お答えできません」しかしながら、ルルは何かを仄めかすように、言葉を紡いだ。「人間の歴史に記録されている事実と、異なる部分が存在するので、人々の混乱を防ぐために秘密にしている、とでも言っておきましょうか」
僕は黙ってコーヒーを飲む。
苦かった。
ルルは説明を続ける。
「ウッドクロックの体液の内、人間から齎されたのは、赤色の液体です。青と、黄色の体液を持つ種族に関する情報については、詳しくお話しすることはできませんが、まあ、人間以外の何らかの種族が開発に関わっている、と思ってもらえれば良いでしょう」
「視覚の方は? たしか、リィルは、黒が嫌いだ、と言っていましたけど……」
「ええ、そうです」ルルは頷く。「ウッドクロックは、黒という色が嫌いです。それは、ウッドクロックの開発に関わった三種類の種族が持つ体液が、たまたま、赤、青、黄色、の三色だったことに原因があります。これらの色をすべて合わせると、黒になります。このとき、ウッドクロックを記述するベーシックにエラーが起こり、黒いものを見ると嫌悪感を抱くようになってしまったのです」
「それは、リィルが茶色が好きなことにも関係がありますか?」
「もちろん、関係はあります。三種類の体液が、色の三原色だったことから、ベーシックに黒いバイアスがかかってしまいました。つまり、彼女たちは、本来なら、人間と同じような色彩感覚で、この世界を認識するはずだったのに、黒いバイアスがかかってしまったことで、人間の色彩感覚からずれてしまった。だから、ウッドクロックは黒が嫌いなのです。本当は人間になるはずだった者たちが、黒いバイアスによって人間になれなかったことに対する、拒否反応と捉えられます。そして、リィルが茶色を好むのは、色の三原色から二色を選んで、黒を混ぜた場合に、茶色が現れることと関係があります」
僕は少し考える。しかし、すぐに彼女が言っている意味が分かったから、閃いたことをそのまま口にした。
「……赤と、黄色に、黒を混ぜて、茶色、ということですか?」
「ええ、その通りです。素晴らしい色彩感覚ですね」
「人間なら、誰でも分かるはずです」
「そう……。あくまで、人間なら、ですが」
「でも、黒が混ざることで、どうして、ウッドクロックは、茶色を、好きだ、と思うようになったのでしょう?」
「赤と、黄色だけでは、仲が悪いからです」
「仲が悪い?」
「赤は人間。黄色は、ほかの種族です」ルルは言った。「その二つだけでは、この世界は成り立ちません。おそらく、ほかの色の組み合わせでも、同様の反応が見られると思います。つまり、〈赤と青に黒を足して深紫〉、もしくは〈青と黄に黒を足して深緑〉のいずれかを認識しても、おそらく、ウッドクロックは好意的な感情を抱きます」
僕は脚を組む。
「これらの色彩は、ベーシックで記述した場合のものです。先述した通り、ウッドクロックの色彩感覚は、人間のそれにバイアスがかかったものなので、実際に彼らが見ている色は、私たちが見ている色とは異なります。それでも、人間との会話を成立させるために、ある程度色彩に関する表現が補正されるようになっています。たとえば、人間にとって『赤』を示す信号を感知したら、それが彼らにとっての『赤』ではなくても、『赤』と表現する、ということです」
天井で光る照明が切れかかっている。徐々に照度が下がりつつあり、部屋が陰気な雰囲気に包まれ始める。
それでも、ルルの青色に光った目は変わらない。自分が人工物であることを主張するように、彼女はその輝く瞳で僕をじっと見つめていた。
「それでは、最後の問いに対する答えです」
ルルは口を開く。
僕は、できるなら、彼女からそれを聞きたくなかった。
なぜかは分からない。
僕が人間だから、勘がはたらいたのかもしれない。
いや……。
「貴方も気づいていると思いますが、ウッドクロックには大きく分けて二つのタイプが存在します。一つは、自分がウッドクロックであることを自覚しているタイプ。そして、もう一つが、自分がウッドクロックであることを自覚していないタイプです。自覚、無自覚というのは、酷く主観的な問題ですが、貴方はそれに気がつきました。どうして、ウッドクロックにそれら二つのタイプが存在するか、分かりますか?」
僕はルルの視線を真っ直ぐ受け留める。
青い光線が僕の瞳を貫いた。
僕は答えない。
けれど、それは、なんとなく分かっていた。
そう……。
リィルと出会ったときから、いつかこうなることは分かっていたのだ。
「お答えにならないので、私の方からお伝えします」ルルは言った。「ウッドクロックにそれら二つのタイプが存在するのは、そうなるように設定されているからではありません。きちんと自己と向き合った個体が、自分自身で思い至ったからにほかならないのです。つまり、リィルは、自身の行動を客観的に分析して、自分がウッドクロックだと気がついた。しかし、ベソゥにはそれができなかった。なぜなら、彼の場合、設計の段階で存在した不備によって、定期的に記憶が改変されてしまうからです」
「自覚は、しなくてはいけないものですか?」
「その質問にはお答えできません」
「どうしてですか?」
「貴方が決めることだからです」
コーヒーを喉に通そうと思ったが、カップはすでに空だった。
部屋の照明が完全に落ちる。
暗闇の中でルルの瞳だけが浮遊していた。
「ウッドクロックは、全部で四体存在します。それでは、その四体とは、具体的に誰のことなのか?」
ルルは一人で話す。
「昔、テュナと呼ばれる少年がいました。彼はウッドクロックでした。ですが、最も致命的な設計ミスによって、早くに命を落としました。これで、リィル、ベソゥ、テュナの三人がウッドクロックだということが分かります」
僕はもう何も話さない。
いや、話せなかった。
ルルは、最後の審判を告げるように、僕に言った。
「そうです。残された最後の一体は、貴方です」
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