Think about Your Heartbeat

羽上帆樽

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第6章 店頭に点灯

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「え? 君は僕と一緒にいたくないの?」

 僕は素っ頓狂な声を上げて、手に持っているマグカップを床に落としそうになった。

 場所は街の片隅にある喫茶店の店内である。休日にも関わらず訪れる客の数は少なく、今は僕と彼女だけがテーブル席に着いていた。カウンターでも幾人かの大人たちが新聞を読んだりタイピングをしたりしているけれど、やはり閑散とした空気感が存在することは確かである。これは、もしかすると、店が持つ特有の古臭さに原因があるのかもしれない。人間の場合も同じだが、その身に纏う雰囲気というものは、想像しているよりも遥かに周囲の存在に影響を及ぼす。多くの場合、それは自分自身である程度操作することができるけれど、どうしても手に負えない部分というのも存在する。僕たちが入ったこの喫茶店はまさにそういった感じで、長い歴史の積み重なりが独特の空気感を生み出し、繁忙に溢れる現代に上手く溶け込むことができていなかった。

「うん……。だって、君と一緒にいると、なんか、私が、色々と面倒事を持ち込むみたいだからさ……」

 そんなことを呟く少女は、どちらかというと神秘的な雰囲気を纏っている。こういった正の方向の影響を与えるのであれば、それを無理に修正しようとする必要はない。しかし、僕はまったくの逆パターンなので、どうにかならないものかと昔から随分と頭を捻ってきた。

「いや、でも……。それは、反対のこともいえると思うし」

「反対のこと? それって、どういう意味?」

「うん、だから……」僕はテーブルの上にマグカップを戻す。「つまり、君が一緒にいてくれれば、それなりに楽しいこともできるかな、と思ってさ」

「……そうかな」

「そうだと思うよ、僕は」

「でも、今までだって、楽しいことよりは、面倒なことの方が、私が及ぼした割合は大きいと思うんだけど……」

「うん、まあ……」僕は言った。「それは事実かもしれない」

 目の前に座る少女は寂しげな表情を顔に浮かべ、口元に若干力を込めて申し訳程度に俯く。

 あ、これはまずかったかな、と僕は一瞬だけ焦った。

 しかし、すぐにいつもの調子を取り戻す。

「いやいや、だからといって、それで僕の生活に支障を来しているとか、そういう話ではないんだ」

「……でも、君、今、それは事実だって」

「事実と、僕がどう感じるかは、関係がない」

「嘘」

「嘘じゃないよ」僕は話す。「まあ、今のは、ちょっと、あまり上手くない誤魔化し方だったかもしれないけど」

「やっぱり」

「いやいや、まあ、だから、そんなに気にする必要はない、ということを言いたかったんだ」

「言いたかったの?」

「もちろん、言いたかった」

「そう……」

「うん、そうだよ」

 店内では小洒落たBGMが小さな音量で流れている。店の内装は歴史を感じさせる木造製品が多く使われている印象で、それは本当に印象にすぎないかもしれないけれど、とにかく落ち着いたスペースであることは確かだった。僕たちのすぐ傍には巨大な窓がある。その向こう側には近代的な都市が延々と広がっていて、こちらとあちらを空間として区切るその窓は、まるで現実と空想を隔てる巨大な壁のように思えた。もちろん、こちらが空想で、あちらが現実である。僕たちの現実は幾多もの人工物に溢れ返っていて、とても落ち着いて暮らせるような場所ではない。それが現実だから、その中で可能な限り落ち着くことのできる方法を考えることになるけれど、それでも、僕には、この喫茶店がどうにも異質なものに感じられてならなかった。

 僕の目の前に座る彼女は、ウッドクロックと呼ばれる人工生命体である。この説明からもかなり近代的な雰囲気が漂ってくるように思う。ただし、名称を訳せば「木造の置時計」だから、それだけ聞けばそこそこレトロな感じがするかもしれない。

 彼女は十三年前に僕の所にやって来て、そして成長した僕の前に再び姿を現した。

 その出会いは、限りなくロマンチックで、エキセントリックで、非常にユーモラスだったけれど、僕と彼女の努力によって成し得られたものではない。予めそうなるように設定されていた可能性が高く、しかし、それでも、彼女が会いに来てくれて良かったな、というのが僕の正直な感想だった。

 彼女と僕はすでに婚約を済ませている。

 文字にするとどうにも現実味のない表現になってしまうけれど、それを申し込んできたのは彼女の方だから、僕にはその冗談じみた現実に対して責任を果たす義務はない(と思い込んでいる)。そもそも、責任とか、義務とか、そういう問題ではない。今の言葉はある種のジョークである。彼女から言い出したことだったが、僕もそれを受け入れたわけだから、今後は二人で協力し合いながら自分たちの未来を切り開いていく必要がある。

 だからこそ、僕は彼女が突然言い出したことに狼狽せずにはいられなかった。

「まあ、とにかく」僕はマグカップを再び手に取り、コーヒーを喉に無理矢理流し込む。「君が気にするようなことじゃないから、あまり考えすぎる必要はないよ」

 僕がそう言うと、彼女はゆっくりと顔を上げてこちらを見た。

「うん……」

「それに、君が何を気にしても、それで現実が変わることはない」

 多少頭の回転が遅い彼女にも、それは正論と受け留められたようで、それきり暫くの間彼女は口を開かなかった。

 彼女、僕の目の前に腰かけているリィルという少女は、自分がウッドクロックであるために僕に迷惑がかかっていると思っているらしい。確かに、それはある意味では事実かもしれないが、僕としては、その種の迷惑は人と人が付き合っていくうえで避けられないものであると思っている(念の為に付け足しておくが、彼女は人ではない)。というよりも、そういうものは普通は迷惑とは呼ばない。そんなものまでいちいち迷惑だと感じていたら、群れで行動する人間はいったいどうすれば良いというのだろう。

 僕とリィルは、たった今とある施設から帰ってきたところで、そこで色々と悶着と呼べるような事態が発生した。具体的には、その施設を管理する男性が何らかの原因で負傷し、それを彼女が介抱して、各種様々な面倒事が露呈するに至った、というものなのだが、想像を遥かに超えてスペシャルな事態だったのは確かだとしても、そんなに気に病むような内容ではなかった、といえる(ここまで考えて気がついたが、これでは全然具体的な説明になっていない)。

 そして、問題なのはここからである。

 驚くべきことだが、その負傷した施設の管理人というのが実はウッドクロックで、さらには、彼が自分がウッドクロックであることを自覚していない、ということが発覚したのだ。

 まだ確証があるとはいえないが、彼が自分自身の素性を自覚していないのはほぼ確実だといって良い。僕と彼はそれなりに長い付き合いだったから、僕には、彼が、今まで意図的にそのことを話さなかったとは考えられない。そんなことをする理由がどこにもないし、第一、自分がどんな生き物であるのか分からないということは、本来ありえないからである。したがって、彼は、今まで、自分が人間であるものと思い込んで生きてきたと考えるのが、より自然になる。

 しかし……。

 それ以上に考えなくてはならないことがある。

 それが、では、どうして、彼は自分自身がどんな存在なのか知らないのか、ということだった。

「彼が自分がウッドクロックであることを自覚していないのは、たぶん、そうするようにプログラムされていたからだと思う」僕はさっさと話題を変えて、さも当たり前のような顔でリィルに話しかけた。「彼が言っていた、トラブルメーカーという企業だけど、やっぱり、そこが何か関わっているんじゃないかな」

 リィルはちょっとだけ落ち込んだような表情で僕を見る。

「うん、まあ、そうかも」

「それに、あのブルースカイと呼ばれるコンピューター」僕は言った。「あれが、どうにも気になって仕方がない」

「どんなふうに気になるの?」

「たとえば、箪笥の中に牡丹餅が入っていることを知りながら外出したとき、まだ誰にも食べられていないかな、と心配するみたいに気になる」

 僕がそう言うと、リィルは少しだけ笑ってくれた。

「それは、箪笥じゃなくて、棚、の間違いじゃない?」

「君さ、そういうどうでも良い知識は豊富なんだね」

「え? それって、ちょっと酷いかも」

「そう?」

「うん……」

 僕は窓の向こうを見る。

「まあ、それはどうでもいいとして……。……彼があの施設の管理人を務めているのには、やっぱり、何か、理由があるんだ」

「それは、私もそう思うけど……」

「君とも何か関係があるんじゃないかな?」僕はなんともないような顔で呟く。

「何かって、どんな?」

「君は、自分がウッドクロックであることを自覚しているんだろう? けれど、彼はその真逆、つまり自分がウッドクロックであることを自覚していない。こんなふうに並べて考えると、どうしても、そこに何かしらの関係があるように思えてならないんだ。それが良いものなのか、悪いものなのか、それは僕には分からないけど、でも、可能性として捨てきれないような、そんな微細ながらも重要な関係であることは確かだと思う」

 リィルは腕を組んで椅子の背凭れに寄りかかる。そんな格好をしている彼女はどことなく精悍で、僕が理想とする人物像をまざまざと表現しているように見えた。

「色の三原色は、混ざるとどうして黒になるのかな?」

 僕は何の前触れもなく彼女に尋ねた。

「え?」リィルがこちらを見る。僕は瞳だけを動かして、彼女の多少驚いたような顔を見つめる。

「君の体内には、赤と、青と、黄色の液体が流れている。それらが混ざれば黒になる、と思ったんだ」

「あ、そうか、たしか、そんな話をしたような……」

 施設の管理人を務める彼の手当てをする際に、リィルは自身の腕を通る管を破損させて、赤色の液体を彼の負傷部位に注いだのである。そのときに彼女が色の三原色について語ったことを、僕は記憶していたのだ。

「君の体内を流れている血液は、どうしてその三色なの?」

「うーん、それはちょっと分からないけど……」リィルは考える素振りを見せる。「でも、それは人間にも同じことがいえるんじゃないかな」

 それは、僕もその通りだと思っていた。彼女が体内に有する管は、それぞれ、赤、青、黄色、といった配色になっているが、これは人間でいうところの動脈、静脈、リンパ管に当て嵌まる。したがって、どうしてその三色であるのかという質問は、ウッドクロックだけでなく、人間にも同様に適用することができる(厳密にはリンパ液は黄色ではない)。

「色の三原色が混ざれば、黒になる」僕は言った。「それは、つまり、この世界を構成する基本的な色彩をすべて合わせれば、何も見えなくなるに等しい、ということだ」

「何も見えなくなるんじゃなくて、黒、という色しか見えなくなる、の間違いじゃないの?」

「目を瞑れば、黒しか認識できなくなるけど、それは何も見えていないのと同じなんじゃないかな、と僕は思うけど」

「うん……。まあ、確かに」

 僕とリィルが十三年ぶりに再会して間もない頃、彼女は、自分が黒という色が嫌いであることを僕に説明した。僕は未だにその点が引っかかっていたのである。

 ウッドクロックの体内にその三色の液体が流れていることと、彼女が黒色を避けるということの間には、何らかの関係があるように思える。しかし、それと同時に、彼女は茶色が好きであるとも述べていた。色の三原色をすべて合わせれば黒になるが、赤と黄色を混ぜれば茶色に近い色になる。茶色というよりは橙色といった方が正しいけれど、色彩というものはあくまで主観的なものにすぎないから、もしかすると、それら二つの色が合わさると、彼女には茶色として認識されるのかもしれない。

 もちろん、この理論はこじつけであるといえる。けれど、一度こういった点に着目してしまうと、どうしてもそれらが関係しているように思えてしまう、というのが僕の持ち合わせる特徴の一つだから、仕方がないといえば仕方がない。だから、今のところは、この理論が成り立つものとして話を進めようと思う。

 仮に、彼女が茶色を好むことが、赤と黄色が混ざって橙色になることと関係があるとすると、当然そのほかの混合についても検討してみる必要がある。


 すなわち、


・赤と青が混ざって紫
・青と黄が混ざって緑


 の二つのパターンについても配慮する必要がある、ということである。


「あのさ、リィル」僕は言った。「一つ質問をしてもいいかな?」

 僕がそう言うと、彼女は不思議そうな顔をして首を小さく傾げる。

「うん、いいけど」

「君は、紫と、緑の二色について、どう思う?」

 リィルは目を二度ほど瞬かせて、怪訝そうな表情をさらに曇らせた。可愛らしい仕草だな、と僕は思う。

「どう思うって、どういう意味?」

「えっと、だから……。……つまり、君は、前に、自分は黒が嫌いだって言ってたから……。あと、好きな色は茶色だとも……。だから、今度はその二色に関してはどう感じるのかな、と思ってさ」

 彼女は自身の顎に人差し指を当てる。

「うーん、特に何も思わないけど……」彼女は答えた。「紫も、緑も、どちらも好きだと思うよ、たぶん」

「じゃあ、茶色とその二色だったら、どれが一番好き?」

「どれも等しく好き」

「あ、それじゃあ、その三色と僕だったら、どれが一番好きかな?」

 リィルは僕の顔をじっと見つめ、何かを吟味するように鋭い眼差しをこちらに向ける。普段は比較的だらしのない表情をしている彼女だから、そんなリィルの豹変ぶりを見て、僕は多少なりとも落ち着きを失ってしまいそうになった。

「……それは何かのジョークなの?」

 僕は慌てて手を振る。

「いや、違う」

「じゃあ、どういうつもり?」

「いや、悪かったよ、本当に」僕は素直に謝る。「そんなつもりはなかったんだ」

「まあ、いいけど」リィルは言った。「そんなの、君が一番に決まってるから」

「え、本当に?」

「嘘なんて吐いてどうするの?」

「そんなに簡単に言うようなことかな、それ」

「あ、じゃあ、君も言ってみてよ、私に」

 僕はテーブルの上にあるマグカップを持ち上げ、ゆっくりと時間をかけてほろ苦いコーヒーを堪能する。

 うん、なんて美味しいのだろう。

 自分の家にあるメーカーで淹れたら決して味わうことのできない奥深さ。

 本当に素晴らしい……。

「ねえ、聞いてる?」

「何かな、親友なるリィル殿」

「……友達の、つもりじゃ、なかったんだけど」

「ごめん、間違えた」

「ふざけてるの?」

「いや」僕は真剣な顔で答える。「本気だ」

 リィルは不貞腐れた様子で僕から顔を背けた。

 どういうわけか、僕たちの会話はときどきこういった方向に向かうことがある。理由は分からない。おそらくは僕の方に原因があるのだろうけれど、それが分かっているだけで、それでは、具体的に僕の中のどういった点に原因があるのか、ということについてはまったく分かっていない。彼女の方に原因がある可能性も捨てきれないが、今の場合僕の方から話を逸したわけだから、今回はそういうことで通しておこうと思う。

 注文しておいた料理が運ばれてくる。リィルは飲食をしないので、必然的に僕だけが食事をすることになる。こういうシチュエーションは何度経験しても慣れないものだが、その相手が彼女となると話は別だった。彼女はそもそも「食事」というものを経験したことがないから、僕が彼女に気を遣う必要はないし、反対に、それで彼女が気分を害するようなこともない。要するに、こういった種類の気まずさは、相手が自分と同じ立場である場合にのみ生じる、といえる。動物園に行ってライオンが餌を食べていても、それで自分のお腹が空くことがないのと同じである。

 僕の前にパスタを載せた皿が置かれた。ごく一般的なミートソースのスパゲティーである。

「でも、どうしてそんなことが気になったの?」

 僕がフォークを手に取ると、機嫌が直ったのかリィルが僕に質問してきた。

「それは、紫と、緑と、茶色の話?」

「そう」

 スパゲティーを一口食べてから、僕は先ほど思いついたことを彼女に説明する。リィルは、人間並みか、それを少々下回るほどの読解力しか持ち合わせていないが(僕の勝手な印象)、話し手が話す内容にしっかり耳を傾ければ、きちんと内容を理解することはできるようである。

「なるほど」リィルが言った。「うーん、そういう考え方もあるんだね」

「君は、何か別のことを思いついたの?」僕は水を飲む。

「うん、まあ、それほど大したことじゃないけど……」

「聞かせてよ、その、大したことのない発想を」

「その台詞、どこかで聞いたことがあるね」

「え、どこで?」

「内緒」そう言って、リィルは楽しそうに笑う。「君になら分かると思うよ、たぶん」

 数秒ほど頭の中のデータベースを照合してみたが、特に思い当たることはなかった。

「で、その、君の思いついたことというのは?」

 リィルは瞳を天井の方に向け、上で回転するプロペラ状の機器をじっと見つめる。僕はその機器の名称を知っていたが、今は思い出すことができなかった。先ほどいつも以上に頭を使ってしまったから、今は脳も休憩中なのである(言い訳)。

「私は、色じゃなくて、三という数字が重要なんじゃないかな、と思った」リィルは説明した。「赤、青、黄色というのは、言ってみれば基本的な色だから、裏を返せば、特徴がない、ということになると思う。つまり、その三色が使われるのは特に珍しくない、ということ。その三色に意味がないとすれば、赤、青、黄色を選んだ人物は、『三』という数字に拘りたかったんじゃないかな、と思った。三色を使いたいという意思が先にあって、三に当て嵌まる都合の良いものを選んだ結果として、赤と青と黄色が最終的に選ばれた、と考えることもできると思う」

 僕は一度フォークをテーブルの上に置く。

 彼女の話を聞いて、今度は僕が深く考える番だった。

 確かに、その可能性はある。三という数字を使う必要があって、そこに何かを当て嵌めようとするなら、もともと三つの要素で成り立っているものを採用するのが好ましい。考えてみれば、信号機にも、赤と青と黄色の三色が使われている。本当のところは知らないけれど、これはその三色が最も標準的なものだからかもしれない。あえてほかの色を選ぶ必要はないという意味である。

 そうか……。

 それなら……。

 次は、「三」という数字に拘る理由を考えなくてはならない。

 それはどんな理由だろう?

 人間からすると、三という数字にはある種の特別な意味が込められているように思える。理由は分からないけれど、クイズを作るときは選択肢を三つにすることが多いし、じゃんけんも、グー、チョキ、パーの三つの要素から構成されている。ほかにも、(酷く古典的な言葉だが)三種の神器とか、三途の川とか、団子の数といえば三だったりとか、三が特徴的に使われている場面は数多く存在する。これは、それらが三という数字ともともと何らかの関係があったというよりも、三という数字を使いたかったからそうした、と考えた方がより自然なのではいか、と思う。

 ウッドクロックを作った人物が、「三」という数字を強調したかったとすれば、そこにいったいどんな意思があったと考えるのが妥当だろう?

 暫くの間考えてみたが、今の僕では何も思いつきそうになかった。

 単なるデータ不足である可能性が高い。

 僕は再びフォークを手に取り、ミートソースのスパゲティーを食べる。リィルも話すのをやめたので、店内に流れるBGMのメロディーが自然と頭の中に入ってくるようになった。

 とても落ち着いている。

 彼女も、僕も、何も話さなければ、世界はこんなにも閑散としているのだ。

 人間だけが世界を混沌としたものへと変えていく。

 それでは、ウッドクロックは世界を混沌へと導く要因となりえるのか?

 ……分からない。

 ただ一ついえるのは、僕には彼女が必要だ、ということだけだった。

「これからどうしよう」僕は呟く。「何をしたらいいのか分からないし、何もできないし……」

「何もしなくていいんじゃない?」リィルは首を傾げる。

「でも、そういうわけにはいかないじゃないか。僕たちが動かなくても、確かに誰も困らないけど、でも、なんていうのか、やっぱり何かを掴みかけているわけだから、その知的好奇心に従って行動するべきというか……」

「私は、そんなこと、する必要はないと思う」

「どうして?」

「私と君との間に良好な関係を築くうえで、特に重要であるとは思えないから」

「じゃあ、どういうことなら重要なの?」

「うーん、やっぱり、デートしたり、話したり、あとは、一緒に歌を歌ったり、とかじゃないかな」

「今のところ、する必要のないことばかりだね」

「え、そう?」

「そんな気がするけど」

「それは、どうして?」

「さあ」僕は首を捻った。「もう、充分良好な関係を築けているから、じゃないかな」

「そうかな……。……うん、確かに、そうかも……」

「ところで、君は具体的にどんなことをやりたいの?」

「どんなことって、何が?」

「遊んだりしたいから、僕にそんなことを言うんじゃないの?」

 リィルは一時停止して考える。即答する必要はないけれど、僕が質問すると彼女は必ずといって良いほどそのポーズをとるから、僕はいつもついつい可笑しくて笑ってしまう。僕がおかしいのではない。おかしいのは彼女の方である。

「遊ぶのってさ、不思議な行為だよね」リィルは言った。「生き物なんだから、余計なエネルギーを消費しない方がいいのに、その反対のことをしようとするのは、どうしてなんだろう?」

「さあ……。遊ぶことで、寿命を縮めたいのかもしれないね」

「どういう意味?」

「いや、特に深い意味はない」僕は笑う。「生き物が進化する過程で、人間という種が少々特異な方向に進化したことは確かだよ。だから、その到達点には、自ら寿命を縮める生き物がいても不思議ではないな、と思ったんだ。無意識の内に生き延びたいと思うのが生き物なら、それを意識的に変えられるのが、人間という生き物なんじゃないかな」

「私はウッドクロックだから、それほど遊びたいとは思わない」

「そうなの?」

「と、思い込んでいるだけかな」

「人間をモデルにしているんだから、君の行動も、それなりに人間に似ているはずだよ」僕は話した。「でも、遊ぶとなると、個性が出るわけだから、その個性が何に由来するのか、君にとっては不思議かもしれないね」

「うん……」

 僕はスパゲティーを食べ終える。とても美味しかった。

「でも、こんなふうに話していると、それなりに楽しいだろう?」

 僕がそう尋ねると、リィルは若干腑に落ちないような顔をする。

「うーん、どうだろう……」

「え、楽しくないの?」

「いや」彼女は笑った。「まあまあ」

 僕とリィルが揃って店の外に出ると、すでに真夜中と化した街が目の前に広がっていた。この飲食店はメインストリートから一本入った住宅街にあるから、周囲にはこの付近を住居とする人の家々がいくつも並んでいる。窓に明かりが灯っている家はほとんどない。腕時計で時刻を確認してみると、ちょうど零時三十分を回ったところだった。

 建物の明かりがほとんどないから、空に浮かぶ星々がはっきり見える。

 久し振りに見た星空だった。

「綺麗」リィルが呟く。

 そのとき、僕たちの背後で今出てきた飲食店の照明が落ち、代わりに外壁に巻きつけられた電灯が光りを灯し始めた。

 赤、緑、青の電飾がきらきらと輝いている。

 今日はクリスマスではなかったけれど、そんなちょっとしたサプライズに遭遇することができて、僕はクリスマスプレゼントを貰ったみたいに嬉しくなった。

「何色に見える?」

 手をコートのポケットに入れて、僕は隣に立つリィルに質問する。

「赤と、緑と、青」彼女は答えた。「光の三原色が混ざれば、白になる」

 黒と白。

 そのときの、可視光線を使わないで世界を見ていた彼女が、僕にはとても遠い存在のように思えてならなかった。
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