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第4章 過程と仮定
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月明かりに照らされた丘の上の公園で、少年と少女は秘密の出会いを果たした。「出会い」とか、「果たした」とか、それらの表現は明らかに誇張であるけれど、辺りに漂う霧や露がそういった雰囲気を作り出している感は否めない。ごくありふれた街に住む、ごくありふれた生活をしている少年の前に現れたのは、奇怪と呼ばれてもおかしくない一人の機械の少女だった。
それが当然のことでもあるかのように、今は二人の周囲には誰もいない。ブランコとシーソー、ジャングルジムとローラーコースター。子どもたちが楽しめる沢山の遊具に囲まれた公園の敷地内は、しかし、今は完全に陰気な空気で溢れ返り、とても遊戯を行えるような状態ではない。それでも、少年は、少なくとも、彼だけは、目の前に座る少女の凛とした表情を見て、彼女と少しでも良いから遊びたいな、とずっと考えていた。
少年は五歳の幼稚園児である。けれど、彼は普通の幼稚園児ではなかった。見た目は普通の幼稚園児だが、頭の構造が一般的なそれとは少し違っている。どう違っているのかと訊かれても、その違いを上手く言葉で説明することはできない。人間が有する言葉というものは、そんなふうに、いざというときに役に立たないことが多い、ということを少年は昔から知っていた。だから戦争が起こるし、だから人は人を殺す。そういったことを延々と考えた末に出た結論といえば、自分も人間だから、やはり誰かを殺すのだろう、といった悲壮感溢れる未来予想でしかない。もちろん、彼に殺しをしようという意思はない。けれど、彼は、やろうと思えば自分で自分を殺すことくらいはできるだろうとは思っていた。
星。
星。
星。
霧に包まれているのはこの公園がある一帯だけで、一歩外に出ればいつも通りの日常がそこに広がっている。しかし、少年には今すぐに公園から立ち去るつもりはなかった。多少は危険な未来が待ち構えているとしても、今は目の前の彼女の話を聞くしかない。聞くしかない、とそれをあたかも義務のように規定したのは彼自身である。世界も、他人も、すべて自分が規定したものでしかない。しかし、それでも、少年は世界も他人も自分と同様に愛していた。
そして、もちろんその反対も……。
世界や他人は、自分と同様に憎悪する対象にもなりえる。
それに気づいたのはいつのことだろう?
いつでも良かった。
それがいつのことか思い出したとしても、今現在の自分の認識が変わるわけではない。
「意思決定を行うのは、人間の場合、頭脳と呼ばれる器官だと聞いています」少年の前に座る少女が、突如としてその小さな口を開いた。「えっと、私には頭脳がありません。頭脳に相当する器官を持ち合わせていますが、それは同時に呼吸器でもあり、また、記憶媒体でもあるようです」
少年は彼女にばれないようにそっと唾を飲み込んだ。どうしてそんなことをしたのかは分からない。あまり考えたくないことだったけれど、おそらく自分は緊張しているのだろう、と彼は思った。
「その、最後の部分は、どうして伝聞なの?」精一杯の勇気を振り絞って、少年は少女に質問する。
「あ、それは……。うーんと、私にもよく分かりませんが、そうするように、とプログラムされているからだと思われます」
「君は、どこから来たの?」
「では、人間はどこから来たのですか?」
「僕は、知らない」
「貴方なら、きっと知っていると思いました」少女は言った。「私が持ち合わせているデータと照合すると、貴方は少し特殊な性質を帯びているようです。いえ、少しという程度ではないかもしれません。一万年に一度の才能、とでも言えばよいでしょうか」
「才能だなんて、僕はそんなふうには思っていない」
「謙遜ですか?」
「違うよ」少年は首を振る。「僕は、自分が嫌いなんだ」
彼がそんなことを呟くと、それに呼応するように目の前の彼女はにっこりと笑った。
少年はそんな彼女の顔を凝視する。
彼女が美しいと思った。
これも、また、どうしてこんな感情が自分に芽生えたのかは分からない。
「美しい」という感情にも色々な種類が存在する。彼がたった今抱いたその感情は、どちらかというと、守りたい、保存したい、といった種類の願望によく似ていた。
「貴方は、今、私のことを保護したいと考えましたね?」
少年が黙っていると、少女が徐ろにそんなことを尋ねてきた。
「え? あ、うん……」少年は答える。「でも、どうして分かったの?」
「私も、貴方に、守られたい、保存されたい、と望みます」少女は笑顔のまま説明した。「もしかすると、それが私が生み出された目的なのかもしれません。それはとても素晴らしいことだと私は考えますが、貴方はどのように感じますか?」
「僕?」
「そうです」
「うん、僕も、嬉しい、と思うよ」
「それを聞いて安心しました」
「安心? 君には、安心という概念が分かるの?」
「もちろん、分かります」
「人間みたいだね」
「そう……」少女は頷いた。「ウッドクロックは、人間をモデルに作られています」
最初にそれを聞いたとき、彼は大変驚いたが、この少女は自分が人間ではないことを五分前に説明していた。
彼女曰く、自分はウッドクロックという人工生命体で、人間から正体を隠して今まで生活してきたとのことである。どのように隠れてきたのか、どのような生活を送ってきたのか、その詳細については明らかではない。そして、そんな秘密の情報を何の躊躇いもなく彼に伝えてきたのである。
少年は彼女がそんなことをする意味が分からなかった。そもそもの話、この少女の説明をすべて信じているわけではない。嘘という可能性も充分にありえる。けれど、疑おうと思えばなんでも疑えるわけだし、反対に、信じようと思えばどんなことでも信じられるというのが、人間が持ち合わせる特性の一つでもある。
少年は、特に否定する必要のないことについては、できるだけ信じようとする性格の持ち主だった。いや、本当はそれを性格と呼ぶことはできないかもしれない。どちらかというと、後天的に取得した処世術といった方が正しい。他人にできるだけ干渉することなく、穏健にことを済ますというのが彼の抱えるポリシーである。如何なる理由があっても争い事は少ない方が良い。可能であればゼロなのがパーフェクトである。
だから、どれだけ信じられないことであったとしても、少年は少女が語る内容を信じることにした。
「君の名前は何?」
ちょっとした沈黙が生まれたから、少年は社交辞令のつもりで少女に質問した。
「私には、まだ名前がありません」彼女は答える。「しかし、リィル、というのが私を識別する記号です」
「リィル? あの、魚を釣る、竿についているやつのこと?」
「うん、発音としては、それと同じですね」
「そう……」
「では、貴方のお名前はなんですか?」
「僕の?」少女にそう尋ねられて、少年は少しだけ戸惑った。今まで誰かから名前を訊かれたことがなかったからである。「僕は、テュナという」
「テュナ? それでは、鮪と同じですね」
「鮪? 君は以外と博識なんだね、リィル」
「ええ、そうなんです、テュナ」
リィルと名乗る少女は、今は彼の前で小首を傾げて笑っている。対面するように設置されたベンチの向こう側で、朝日がチェーンで巻き上げられるように持ち上がり、背後から彼女を照らしてその存在を浮き彫りにした。とても幻想的だな、と少年は思う。もっとも、幻想的といっても、それは現実だから、文字通りあくまで幻想「的」でしかない。幻想そのものはどこに行っても見つからないのである。
古代の人間は、その幻想を桃源郷と呼んだらしい。
「えっと、では、ちょっと真剣な話をしようと思いますが……。私の目的についてお話させて頂いてもよろしいですか?」リィルが背筋を伸ばし、顔から笑みを消して尋ねた。
「君の目的は、まだ不明なんじゃなかったの?」
「そんなことを、言いましたか?」
「僕に保護されることが、自分の目的かもしれないって、さっき、君はそう言ったじゃないか」
「それは、建前です」
「なるほど。じゃあ、本音があるわけだ」
「ええ、そうです」リィルは簡単に頷く。「私の目的は、人間と仲良く暮らすことです」
リィルが話す内容を理解して、テュナはなんだか吹き出しそうになった。そんな言葉を真面目な顔で言える者が存在するなんて、どうにも漫画じみていて具合が悪い。いや、別に具合が悪いというわけではなかった。むしろ漫画じみていて面白いと彼は考える。
少年は、自分の前に腰かける少女の姿を今一度観察した。
その外見を眺める限り、リィルは完全に人間のように見える。テュナよりも遥かに背が高くて、中学校や高校に通うお姉さんと言われても特に違和感はない。彼はまだ幼稚園児だから、血の繋がった正真正銘の親としてもぎりぎり通すことができるだろう。
そんな少女が、そんな機械の少女が、人間と仲良く暮らしたい、と言っている。
こんなユーモラスな事象が、かつてこの街で発生したことがあっただろうか?
「その目的は、いったいどんな目的によって支えられているの?」
面白くなってきて、テュナはさらに彼女に質問してみた。
「えっと……、それについては、まだ、お伝えすることができないのですが……」
「へえ……。それは、どうして? ああ、こんな質問をしても大丈夫?」
「ええ、大丈夫です」リィルは頷き、軽く辺りを逡巡する。それから、若干頬を赤らめて、なんだか恥ずかしがるような素振りをみせた。「……もちろん、目的を支える目的は別にあります。ですが、その真の目的については、貴方との信頼関係がある程度構築されたあとでないと、私の口からお伝えすることはできないのです」
「なるほど。本音と言っておきながら、それは建前パートツーにすぎない、ということだね」
「うん、まあ、そうです」
そう言ったきり、リィルは何も話さなくなった。機能が停止しているわけではない。意識的に自分の言動を謹んでいるように見える。
テュナは一度ベンチから立ち上がり、すぐ傍にあるブランコに腰をかけた。リィルも彼の隣までやって来て、音も立てずに静かに座面に腰を下ろす。霧は未だに晴れない。もう二度と晴れないのかもしれない。どうしてそんなことを思いついたのか、テュナは自分の思考が分からなかった。しかし、彼は常にネガティブな思考をする傾向にあるから、そういった点を鑑みれば特に不思議な発想ではないといえる。
ブランコの座面を吊るす金属のチェーンが擦れ合い、この閉鎖的な空間に風鈴みたいな音を響かせた。
空。
今は何時だろう?
もう夜は明けてしまうのだろうか?
「私は、貴方に会いに来たのです」
ブランコをそっと漕ぎながら、リィルが思い出したように呟いた。
「うん」
テュナもそれに応じる。
「どうしてだと思いますか?」
テュナは瞳だけを動かしてリィルの表情を伺い、彼女が何を考えているのか考えた。けれど、思い当たることは何もない。リィルの表情はどこまでも清々しく、そこにわざとらしい装飾は少しも見つからなかった。
「人間と、仲良く暮らすために、僕の所に来たんじゃないの?」
リィルはすぐには答えない。
風。
「ええ、その通りです」彼女は言った。「でも……。……それなら、どうして、その相手に貴方が選ばれたのでしょう?」
「僕は知らないよ。それを知っているのは君だけだ」
「いえ、私も知りません」
「じゃあ、誰が知っているの?」
「おそらく、私の母親です」
「母親?」テュナは首を傾げる。
「私をデザインし、実際に生み出した、ウッドクロックの生みの親です」
「ああ、そういうこと……」
ブランコの往復が続く。不思議なことだが、二人の前後運動は今は完全に一致していた。
「僕は、僕には、誰もいなくてもいいと思っていた」テュナは話した。「でも、君には、少しの間だけでも僕の傍にいてほしい、と思う」
テュナの言葉を受けて、リィルは彼の顔を見る。
それから、彼女は声を上げて笑った。
歯が見えるほどの笑顔。
眩しいという表現が最も相応しい。
「それは、どうしてですか?」
「さあ、どうしてだろう……。……もしかすると、君に惚れてしまったからかもしれない」
その言葉は、彼が使うには限りなく不釣り合いなものだった。少なくとも、五歳の幼稚園児が他者に向かって発するものではない。
テュナの特異性は、簡単な言葉で説明すれば「早熟」と言い換えられる。しかしながら、それは単に学習能力が高いということを意味しない。「早熟」という言葉が示す範囲のその先にある意味をも含んでいる。
テュナは、自分が一般の人間よりも寿命が短いことを知っていた。
要するに、早くに熟せば、その分腐るのも早くなる。
しかし、自分にそんな運命が定められていることを知っていても、どうでも良い、関係がない、というのが彼が今までとってきたスタンスだった。
リィルがブランコから立ち上がり、テュナの傍まで来て彼を上から見下ろす。彼女は彼に比べれば遥かに背が高い。テュナは得体の知れない威圧感を全身に感じたけれど、それは恐怖というものとは少し違っていた。
「私は、その言葉を聞くために、ここにやって来たのです」
リィルが呟く。
「その言葉って、どの言葉?」
テュナは尋ねた。
「貴方が、私に、惚れてしまった、という言葉」
沈黙。
太陽はまだそれほど高く昇っていない。けれど、今のテュナには時間が経つのがとても速く感じられた。彼はまだ幼いから、相対的な時間の感覚はどちらかというと長い方である。それでも、日が昇る速さは並大抵のものではなく、自分にはどうすることもできない、という無力感が完全に彼の頭を支配していた。
「……君が作られたのは、僕に恋愛感情を起こしてもらうため?」
テュナがそう尋ねると、リィルは黙って一度頷く。
「ええ、そうです」彼女は言った。「と言ったら、どうしますか?」
「きっと喜ぶと思うよ、素直に」テュナは微笑む。「まあ、でも、本当は違うと分かってしまったから、これ以上は興醒めという感じだね」
「本当にそうだとしたら、どうしますか?」
テュナはリィルの顔をじっと見つめる。
「……本当に、そうなの?」
リィルは答えない。
意味を持たない時間が流れる。
「……いえ、違います」やがて、リィルは言った。「私は、貴方に惚れてもらう『ため』に作られたのではありません。私が存在する目的、意味、理由は、私の母親にしか分かりません。しかし、私には自由に思考し行動する力が与えられているため、ある程度自分の好きなように活動することができます。したがって、その自由意思の範囲内の可能性については、現段階では否定することは不可能です。ですから、私が、自ら、貴方を愛するようになることは、可能性としてゼロではありません」
「随分と長い口説き文句だね」テュナは笑う。
「そうですか?」
「うん、そう」彼は言った。「でも、ちょっとだけ嬉しかったよ」
テュナはブランコから降り、シーソーがある方へと歩いていった。
今度は、リィルが彼のあとをついてくることはない。
当然のことながら、一人でシーソーに腰をかけると、座った側は低くなり、誰も乗っていないもう一方は高く持ち上がる。
きっと、その上がった方にリィルが今座れば、確実に自分の方が高くなるだろう、とテュナは考えた。幼稚園児と成長した女性とでは体重の差がありすぎる。ウッドクロックがどれくらいの重さなのかは分からないけれど、構造や動きが完全に人間のそれと一致しているのを見ると、人間と大差はないのかもしれないと彼は考えた。
「でも、私は、その目的を今達成するわけにはいかないのです」
シーソーに座ったままテュナが一人で考え事をしていると、ブランコを漕ぎながら不意にリィルが先ほどの話を再開した。
「その目的とは、どの目的のこと?」彼女の姿を捉えて、テュナは質問する。
「もちろん、貴方と一緒になる、という目的のことです」
「そんなこと、言ったっけ?」
「少なくとも、私は言ったつもりでした」リィルは言った。「その、なんていうのか、説明が下手で申し訳ありません」
「いや、冗談だよ。うん……。なんとなくは、伝わっていたと思う」テュナは話す。「でも、今は達成できないというのは、どういう意味?」
テュナがそう尋ねると、リィルはブランコの前後運動を止めた。そのまま下を向いて固まってしまう。フリーズしているのかもしれない。それほど高度な演算が求められるような話ではないが、もしかすると、論理とは別の何かが彼女をそうさせているのかもしれなかった。
人間の場合、それは感情と呼ばれる。
ウッドクロックに感情が存在するのか、それは彼には分からない。
けれど、きっと彼女にも感情があるだろうと、彼にしては珍しく、テュナは少しだけ前向きに考えることにした。
リィルが口を開く。
「今夜は、貴方と約束をするために来たのです」
「約束?」テュナは首を傾げた。「どんな?」
リィルは顔を上げ、シーソーに座るテュナを真っ直ぐに見つめる。
「私との未来を、約束して頂けませんか?」
テュナも彼女の瞳を見つめ返した。
冷徹。
いや、そうではない。
そこには確かな暖かさがあった。
「僕は、いつでもいいんだ」テュナは言った。「……でも、こんなことを訊いて申し訳ないけど、どうして今じゃ駄目なの? あ、もしかして、僕がまだ幼いから?」
「違います」
「じゃあ、なんで?」
「私が、幼いからです」
「君が?」
「そうです」
「……どういう意味?」
空は徐々に明るみを帯び始め、東の空から昇る太陽が地平線を紫色に染めていく。まるで絵の具が布に染みていくように、その光景は見ているだけで充分なもので、特別な注釈を加える必要はまったくないように思えた。
「私は、人間ではないのです」リィルは話す。
「うん、さっき、そう聞いたけど」
「ですから、えっと、まだ、もう少し、人間について学ぶ必要があるのです」
「どうして?」
「そうでないと、人間と仲良く暮らすことはできないからです」
彼女の言葉を聞いて、テュナは笑った。
「それはおかしいよ。だって、人間と一緒に暮らすから、段々と人間と仲良くできるようになるんじゃないか」
リィルは、じっとテュナの顔を見つめたまま動かない。
テュナは自分の顔から微笑みを消去し、真剣な眼差しで彼女の視線を受け留めた。
「……何?」
「貴方は、生きていますか?」
「……もちろん、生きているとは思うけど……」
「では、それは、何を根拠に言えるのですか?」
「僕が人間という生き物だから」
「そうなんですか?」
「そうだよ。知らなかったの?」テュナは説明する。「僕は人間なんだ。人間は生き物で、生き物は皆生きている。だから、僕も生きている。すごく簡単な理論だと思うんだけど……」
「私には、その理論を上手く解釈することができません」
「それは、どうして?」
「分からないんです」リィルは首を振った。「しかし、だからこそ、その理論を理解できないからこそ、私にはまだ学習を重ねる必要があるのです」
リィルの言葉を聞いて、テュナは何も言えなくなる。彼女が話す内容は全然論理的ではないが、それ以上の反論をできなくさせる力を持っている。どうしてかは分からないけれど、テュナにはそんなふうに思えてならなかった。
彼女は、リィルは、いったい何をしようとしているのだろう?
そんな問いが、不意にテュナの中に湧き上がってくる。
自分は生きているのか? 人間なのか? 生き物なのか?
どうしてそんなことを考えなくてはならないのだろう?
それは、自分が生きているからか?
確かに、そんなふうに考えることもできなくはない。けれど、それでは質問の答えになっていない。上手い具合に言葉を繋いで誤魔化しているだけである。
そう、まるで小説のように……。
「うん、まあ、分かったよ」テュナは頷いた。「君がそう言うなら、僕はそれでいいと思う。いや、お世辞とか、そういうのじゃなくて、君の言っていることは正しいと、根拠もなしに信じる方がいいと、そう思った」
リィルはブランコから立ち上がり、歩いてシーソーの傍までやって来る。そのままテュナの前で静かにしゃがみ込み、彼の目の高さに自分の視点を合わせて、魔法の言葉を唱えるように口を開いた。
「では、待っていてくれますか?」
視線。
「うん、もちろん」テュナは笑顔で答える。
「じゃあ、えっと……、十三年後に再びお会いする、というのは如何でしょう?」
「どうして、十三年後なの?」そう言ってから、テュナにもその言葉の意味が分かった。「ああ、そうか。僕が結婚できる年齢だね」
「ええ、そうです」
「そのときまで、僕が生きていればいいけど」
テュナがそう言うと、リィルはさらに笑顔を深めて応えた。
「私が生きている限り、貴方も生き続けるので、ご安心下さい」
テュナは彼女の目を見る。
「それ、どういう意味?」
「いえ、単なる冗談のつもりです」
「あそう。ま、悪くない冗談だね」
太陽の光を受けて、公園を包んでいた霧が一気に晴れた。空は活力を得たように端の方から青く染まっていく。気温は少しだけ低いけれど、これからきっと暖かくなる、といった予感が吹き抜ける風を通して密かに伝わってくる。
目の前に座るリィルの顔を見て、自分が生きる目的が少しは明瞭になった気がする、とテュナは思った。
たとえ自分の寿命が平均的な人間より短いとしても、あと十三年くらいは生きられるだろう。まったく根拠のない予想だったけれど、彼は不思議とそんなふうに思うことができた。リィルの言葉には、そういった不思議な力が込められているのかもしれない。それもまた根拠のない発想だったが、今のところは自分にそう言い聞かせておくだけで充分だった。
「僕が十三年後も生きていると仮定しよう」テュナは言った。「そのとき、君が人間らしくなっている確率は何パーセントくらいかな?」
「おそらく、七十六パーセントほどだと思います」
「随分と明確な数字だね」
「いえ、違います」リィルは首を振る。「七十六という数字は、七と六に分けてそれぞれを足せば、十三になります」
「それ、冗談のつもり?」
「うんと……、今回は本気です」
リィルの真剣な表情を観察しながら、テュナは十三年後に思いを馳せる。
やはり、そこに自分が存在している光景は想像できなかった。
しかし……。
それなら、なんとしても、そんな想像ができるように未来を変えよう、と思う。
なんていえば、多少は聞こえが良くなるかもしれない、なんてちょっとだけ期待したりして……。
「寒くありませんか?」リィルが尋ねる。
「いや、あまり」テュナは答えた。
「十三年後の今日も、私は、きっと、貴方に同じことをお尋ねします」
「本当に?」
「ええ、本当です」リィルは宣言した。「ウッドクロックは、嘘を吐きません」
「でも、人間は嘘を吐くよ」
リィルは驚いたような顔をする。
「……本当ですか?」
「まだまだ、勉強が足りないようだね」テュナは言った。「でも、それだけ伸びしろがあるということだ。期待しているよ」
「期待されると、お腹が痛くなってしまいます」
「それは、君が人間らしい証拠だ」
それが当然のことでもあるかのように、今は二人の周囲には誰もいない。ブランコとシーソー、ジャングルジムとローラーコースター。子どもたちが楽しめる沢山の遊具に囲まれた公園の敷地内は、しかし、今は完全に陰気な空気で溢れ返り、とても遊戯を行えるような状態ではない。それでも、少年は、少なくとも、彼だけは、目の前に座る少女の凛とした表情を見て、彼女と少しでも良いから遊びたいな、とずっと考えていた。
少年は五歳の幼稚園児である。けれど、彼は普通の幼稚園児ではなかった。見た目は普通の幼稚園児だが、頭の構造が一般的なそれとは少し違っている。どう違っているのかと訊かれても、その違いを上手く言葉で説明することはできない。人間が有する言葉というものは、そんなふうに、いざというときに役に立たないことが多い、ということを少年は昔から知っていた。だから戦争が起こるし、だから人は人を殺す。そういったことを延々と考えた末に出た結論といえば、自分も人間だから、やはり誰かを殺すのだろう、といった悲壮感溢れる未来予想でしかない。もちろん、彼に殺しをしようという意思はない。けれど、彼は、やろうと思えば自分で自分を殺すことくらいはできるだろうとは思っていた。
星。
星。
星。
霧に包まれているのはこの公園がある一帯だけで、一歩外に出ればいつも通りの日常がそこに広がっている。しかし、少年には今すぐに公園から立ち去るつもりはなかった。多少は危険な未来が待ち構えているとしても、今は目の前の彼女の話を聞くしかない。聞くしかない、とそれをあたかも義務のように規定したのは彼自身である。世界も、他人も、すべて自分が規定したものでしかない。しかし、それでも、少年は世界も他人も自分と同様に愛していた。
そして、もちろんその反対も……。
世界や他人は、自分と同様に憎悪する対象にもなりえる。
それに気づいたのはいつのことだろう?
いつでも良かった。
それがいつのことか思い出したとしても、今現在の自分の認識が変わるわけではない。
「意思決定を行うのは、人間の場合、頭脳と呼ばれる器官だと聞いています」少年の前に座る少女が、突如としてその小さな口を開いた。「えっと、私には頭脳がありません。頭脳に相当する器官を持ち合わせていますが、それは同時に呼吸器でもあり、また、記憶媒体でもあるようです」
少年は彼女にばれないようにそっと唾を飲み込んだ。どうしてそんなことをしたのかは分からない。あまり考えたくないことだったけれど、おそらく自分は緊張しているのだろう、と彼は思った。
「その、最後の部分は、どうして伝聞なの?」精一杯の勇気を振り絞って、少年は少女に質問する。
「あ、それは……。うーんと、私にもよく分かりませんが、そうするように、とプログラムされているからだと思われます」
「君は、どこから来たの?」
「では、人間はどこから来たのですか?」
「僕は、知らない」
「貴方なら、きっと知っていると思いました」少女は言った。「私が持ち合わせているデータと照合すると、貴方は少し特殊な性質を帯びているようです。いえ、少しという程度ではないかもしれません。一万年に一度の才能、とでも言えばよいでしょうか」
「才能だなんて、僕はそんなふうには思っていない」
「謙遜ですか?」
「違うよ」少年は首を振る。「僕は、自分が嫌いなんだ」
彼がそんなことを呟くと、それに呼応するように目の前の彼女はにっこりと笑った。
少年はそんな彼女の顔を凝視する。
彼女が美しいと思った。
これも、また、どうしてこんな感情が自分に芽生えたのかは分からない。
「美しい」という感情にも色々な種類が存在する。彼がたった今抱いたその感情は、どちらかというと、守りたい、保存したい、といった種類の願望によく似ていた。
「貴方は、今、私のことを保護したいと考えましたね?」
少年が黙っていると、少女が徐ろにそんなことを尋ねてきた。
「え? あ、うん……」少年は答える。「でも、どうして分かったの?」
「私も、貴方に、守られたい、保存されたい、と望みます」少女は笑顔のまま説明した。「もしかすると、それが私が生み出された目的なのかもしれません。それはとても素晴らしいことだと私は考えますが、貴方はどのように感じますか?」
「僕?」
「そうです」
「うん、僕も、嬉しい、と思うよ」
「それを聞いて安心しました」
「安心? 君には、安心という概念が分かるの?」
「もちろん、分かります」
「人間みたいだね」
「そう……」少女は頷いた。「ウッドクロックは、人間をモデルに作られています」
最初にそれを聞いたとき、彼は大変驚いたが、この少女は自分が人間ではないことを五分前に説明していた。
彼女曰く、自分はウッドクロックという人工生命体で、人間から正体を隠して今まで生活してきたとのことである。どのように隠れてきたのか、どのような生活を送ってきたのか、その詳細については明らかではない。そして、そんな秘密の情報を何の躊躇いもなく彼に伝えてきたのである。
少年は彼女がそんなことをする意味が分からなかった。そもそもの話、この少女の説明をすべて信じているわけではない。嘘という可能性も充分にありえる。けれど、疑おうと思えばなんでも疑えるわけだし、反対に、信じようと思えばどんなことでも信じられるというのが、人間が持ち合わせる特性の一つでもある。
少年は、特に否定する必要のないことについては、できるだけ信じようとする性格の持ち主だった。いや、本当はそれを性格と呼ぶことはできないかもしれない。どちらかというと、後天的に取得した処世術といった方が正しい。他人にできるだけ干渉することなく、穏健にことを済ますというのが彼の抱えるポリシーである。如何なる理由があっても争い事は少ない方が良い。可能であればゼロなのがパーフェクトである。
だから、どれだけ信じられないことであったとしても、少年は少女が語る内容を信じることにした。
「君の名前は何?」
ちょっとした沈黙が生まれたから、少年は社交辞令のつもりで少女に質問した。
「私には、まだ名前がありません」彼女は答える。「しかし、リィル、というのが私を識別する記号です」
「リィル? あの、魚を釣る、竿についているやつのこと?」
「うん、発音としては、それと同じですね」
「そう……」
「では、貴方のお名前はなんですか?」
「僕の?」少女にそう尋ねられて、少年は少しだけ戸惑った。今まで誰かから名前を訊かれたことがなかったからである。「僕は、テュナという」
「テュナ? それでは、鮪と同じですね」
「鮪? 君は以外と博識なんだね、リィル」
「ええ、そうなんです、テュナ」
リィルと名乗る少女は、今は彼の前で小首を傾げて笑っている。対面するように設置されたベンチの向こう側で、朝日がチェーンで巻き上げられるように持ち上がり、背後から彼女を照らしてその存在を浮き彫りにした。とても幻想的だな、と少年は思う。もっとも、幻想的といっても、それは現実だから、文字通りあくまで幻想「的」でしかない。幻想そのものはどこに行っても見つからないのである。
古代の人間は、その幻想を桃源郷と呼んだらしい。
「えっと、では、ちょっと真剣な話をしようと思いますが……。私の目的についてお話させて頂いてもよろしいですか?」リィルが背筋を伸ばし、顔から笑みを消して尋ねた。
「君の目的は、まだ不明なんじゃなかったの?」
「そんなことを、言いましたか?」
「僕に保護されることが、自分の目的かもしれないって、さっき、君はそう言ったじゃないか」
「それは、建前です」
「なるほど。じゃあ、本音があるわけだ」
「ええ、そうです」リィルは簡単に頷く。「私の目的は、人間と仲良く暮らすことです」
リィルが話す内容を理解して、テュナはなんだか吹き出しそうになった。そんな言葉を真面目な顔で言える者が存在するなんて、どうにも漫画じみていて具合が悪い。いや、別に具合が悪いというわけではなかった。むしろ漫画じみていて面白いと彼は考える。
少年は、自分の前に腰かける少女の姿を今一度観察した。
その外見を眺める限り、リィルは完全に人間のように見える。テュナよりも遥かに背が高くて、中学校や高校に通うお姉さんと言われても特に違和感はない。彼はまだ幼稚園児だから、血の繋がった正真正銘の親としてもぎりぎり通すことができるだろう。
そんな少女が、そんな機械の少女が、人間と仲良く暮らしたい、と言っている。
こんなユーモラスな事象が、かつてこの街で発生したことがあっただろうか?
「その目的は、いったいどんな目的によって支えられているの?」
面白くなってきて、テュナはさらに彼女に質問してみた。
「えっと……、それについては、まだ、お伝えすることができないのですが……」
「へえ……。それは、どうして? ああ、こんな質問をしても大丈夫?」
「ええ、大丈夫です」リィルは頷き、軽く辺りを逡巡する。それから、若干頬を赤らめて、なんだか恥ずかしがるような素振りをみせた。「……もちろん、目的を支える目的は別にあります。ですが、その真の目的については、貴方との信頼関係がある程度構築されたあとでないと、私の口からお伝えすることはできないのです」
「なるほど。本音と言っておきながら、それは建前パートツーにすぎない、ということだね」
「うん、まあ、そうです」
そう言ったきり、リィルは何も話さなくなった。機能が停止しているわけではない。意識的に自分の言動を謹んでいるように見える。
テュナは一度ベンチから立ち上がり、すぐ傍にあるブランコに腰をかけた。リィルも彼の隣までやって来て、音も立てずに静かに座面に腰を下ろす。霧は未だに晴れない。もう二度と晴れないのかもしれない。どうしてそんなことを思いついたのか、テュナは自分の思考が分からなかった。しかし、彼は常にネガティブな思考をする傾向にあるから、そういった点を鑑みれば特に不思議な発想ではないといえる。
ブランコの座面を吊るす金属のチェーンが擦れ合い、この閉鎖的な空間に風鈴みたいな音を響かせた。
空。
今は何時だろう?
もう夜は明けてしまうのだろうか?
「私は、貴方に会いに来たのです」
ブランコをそっと漕ぎながら、リィルが思い出したように呟いた。
「うん」
テュナもそれに応じる。
「どうしてだと思いますか?」
テュナは瞳だけを動かしてリィルの表情を伺い、彼女が何を考えているのか考えた。けれど、思い当たることは何もない。リィルの表情はどこまでも清々しく、そこにわざとらしい装飾は少しも見つからなかった。
「人間と、仲良く暮らすために、僕の所に来たんじゃないの?」
リィルはすぐには答えない。
風。
「ええ、その通りです」彼女は言った。「でも……。……それなら、どうして、その相手に貴方が選ばれたのでしょう?」
「僕は知らないよ。それを知っているのは君だけだ」
「いえ、私も知りません」
「じゃあ、誰が知っているの?」
「おそらく、私の母親です」
「母親?」テュナは首を傾げる。
「私をデザインし、実際に生み出した、ウッドクロックの生みの親です」
「ああ、そういうこと……」
ブランコの往復が続く。不思議なことだが、二人の前後運動は今は完全に一致していた。
「僕は、僕には、誰もいなくてもいいと思っていた」テュナは話した。「でも、君には、少しの間だけでも僕の傍にいてほしい、と思う」
テュナの言葉を受けて、リィルは彼の顔を見る。
それから、彼女は声を上げて笑った。
歯が見えるほどの笑顔。
眩しいという表現が最も相応しい。
「それは、どうしてですか?」
「さあ、どうしてだろう……。……もしかすると、君に惚れてしまったからかもしれない」
その言葉は、彼が使うには限りなく不釣り合いなものだった。少なくとも、五歳の幼稚園児が他者に向かって発するものではない。
テュナの特異性は、簡単な言葉で説明すれば「早熟」と言い換えられる。しかしながら、それは単に学習能力が高いということを意味しない。「早熟」という言葉が示す範囲のその先にある意味をも含んでいる。
テュナは、自分が一般の人間よりも寿命が短いことを知っていた。
要するに、早くに熟せば、その分腐るのも早くなる。
しかし、自分にそんな運命が定められていることを知っていても、どうでも良い、関係がない、というのが彼が今までとってきたスタンスだった。
リィルがブランコから立ち上がり、テュナの傍まで来て彼を上から見下ろす。彼女は彼に比べれば遥かに背が高い。テュナは得体の知れない威圧感を全身に感じたけれど、それは恐怖というものとは少し違っていた。
「私は、その言葉を聞くために、ここにやって来たのです」
リィルが呟く。
「その言葉って、どの言葉?」
テュナは尋ねた。
「貴方が、私に、惚れてしまった、という言葉」
沈黙。
太陽はまだそれほど高く昇っていない。けれど、今のテュナには時間が経つのがとても速く感じられた。彼はまだ幼いから、相対的な時間の感覚はどちらかというと長い方である。それでも、日が昇る速さは並大抵のものではなく、自分にはどうすることもできない、という無力感が完全に彼の頭を支配していた。
「……君が作られたのは、僕に恋愛感情を起こしてもらうため?」
テュナがそう尋ねると、リィルは黙って一度頷く。
「ええ、そうです」彼女は言った。「と言ったら、どうしますか?」
「きっと喜ぶと思うよ、素直に」テュナは微笑む。「まあ、でも、本当は違うと分かってしまったから、これ以上は興醒めという感じだね」
「本当にそうだとしたら、どうしますか?」
テュナはリィルの顔をじっと見つめる。
「……本当に、そうなの?」
リィルは答えない。
意味を持たない時間が流れる。
「……いえ、違います」やがて、リィルは言った。「私は、貴方に惚れてもらう『ため』に作られたのではありません。私が存在する目的、意味、理由は、私の母親にしか分かりません。しかし、私には自由に思考し行動する力が与えられているため、ある程度自分の好きなように活動することができます。したがって、その自由意思の範囲内の可能性については、現段階では否定することは不可能です。ですから、私が、自ら、貴方を愛するようになることは、可能性としてゼロではありません」
「随分と長い口説き文句だね」テュナは笑う。
「そうですか?」
「うん、そう」彼は言った。「でも、ちょっとだけ嬉しかったよ」
テュナはブランコから降り、シーソーがある方へと歩いていった。
今度は、リィルが彼のあとをついてくることはない。
当然のことながら、一人でシーソーに腰をかけると、座った側は低くなり、誰も乗っていないもう一方は高く持ち上がる。
きっと、その上がった方にリィルが今座れば、確実に自分の方が高くなるだろう、とテュナは考えた。幼稚園児と成長した女性とでは体重の差がありすぎる。ウッドクロックがどれくらいの重さなのかは分からないけれど、構造や動きが完全に人間のそれと一致しているのを見ると、人間と大差はないのかもしれないと彼は考えた。
「でも、私は、その目的を今達成するわけにはいかないのです」
シーソーに座ったままテュナが一人で考え事をしていると、ブランコを漕ぎながら不意にリィルが先ほどの話を再開した。
「その目的とは、どの目的のこと?」彼女の姿を捉えて、テュナは質問する。
「もちろん、貴方と一緒になる、という目的のことです」
「そんなこと、言ったっけ?」
「少なくとも、私は言ったつもりでした」リィルは言った。「その、なんていうのか、説明が下手で申し訳ありません」
「いや、冗談だよ。うん……。なんとなくは、伝わっていたと思う」テュナは話す。「でも、今は達成できないというのは、どういう意味?」
テュナがそう尋ねると、リィルはブランコの前後運動を止めた。そのまま下を向いて固まってしまう。フリーズしているのかもしれない。それほど高度な演算が求められるような話ではないが、もしかすると、論理とは別の何かが彼女をそうさせているのかもしれなかった。
人間の場合、それは感情と呼ばれる。
ウッドクロックに感情が存在するのか、それは彼には分からない。
けれど、きっと彼女にも感情があるだろうと、彼にしては珍しく、テュナは少しだけ前向きに考えることにした。
リィルが口を開く。
「今夜は、貴方と約束をするために来たのです」
「約束?」テュナは首を傾げた。「どんな?」
リィルは顔を上げ、シーソーに座るテュナを真っ直ぐに見つめる。
「私との未来を、約束して頂けませんか?」
テュナも彼女の瞳を見つめ返した。
冷徹。
いや、そうではない。
そこには確かな暖かさがあった。
「僕は、いつでもいいんだ」テュナは言った。「……でも、こんなことを訊いて申し訳ないけど、どうして今じゃ駄目なの? あ、もしかして、僕がまだ幼いから?」
「違います」
「じゃあ、なんで?」
「私が、幼いからです」
「君が?」
「そうです」
「……どういう意味?」
空は徐々に明るみを帯び始め、東の空から昇る太陽が地平線を紫色に染めていく。まるで絵の具が布に染みていくように、その光景は見ているだけで充分なもので、特別な注釈を加える必要はまったくないように思えた。
「私は、人間ではないのです」リィルは話す。
「うん、さっき、そう聞いたけど」
「ですから、えっと、まだ、もう少し、人間について学ぶ必要があるのです」
「どうして?」
「そうでないと、人間と仲良く暮らすことはできないからです」
彼女の言葉を聞いて、テュナは笑った。
「それはおかしいよ。だって、人間と一緒に暮らすから、段々と人間と仲良くできるようになるんじゃないか」
リィルは、じっとテュナの顔を見つめたまま動かない。
テュナは自分の顔から微笑みを消去し、真剣な眼差しで彼女の視線を受け留めた。
「……何?」
「貴方は、生きていますか?」
「……もちろん、生きているとは思うけど……」
「では、それは、何を根拠に言えるのですか?」
「僕が人間という生き物だから」
「そうなんですか?」
「そうだよ。知らなかったの?」テュナは説明する。「僕は人間なんだ。人間は生き物で、生き物は皆生きている。だから、僕も生きている。すごく簡単な理論だと思うんだけど……」
「私には、その理論を上手く解釈することができません」
「それは、どうして?」
「分からないんです」リィルは首を振った。「しかし、だからこそ、その理論を理解できないからこそ、私にはまだ学習を重ねる必要があるのです」
リィルの言葉を聞いて、テュナは何も言えなくなる。彼女が話す内容は全然論理的ではないが、それ以上の反論をできなくさせる力を持っている。どうしてかは分からないけれど、テュナにはそんなふうに思えてならなかった。
彼女は、リィルは、いったい何をしようとしているのだろう?
そんな問いが、不意にテュナの中に湧き上がってくる。
自分は生きているのか? 人間なのか? 生き物なのか?
どうしてそんなことを考えなくてはならないのだろう?
それは、自分が生きているからか?
確かに、そんなふうに考えることもできなくはない。けれど、それでは質問の答えになっていない。上手い具合に言葉を繋いで誤魔化しているだけである。
そう、まるで小説のように……。
「うん、まあ、分かったよ」テュナは頷いた。「君がそう言うなら、僕はそれでいいと思う。いや、お世辞とか、そういうのじゃなくて、君の言っていることは正しいと、根拠もなしに信じる方がいいと、そう思った」
リィルはブランコから立ち上がり、歩いてシーソーの傍までやって来る。そのままテュナの前で静かにしゃがみ込み、彼の目の高さに自分の視点を合わせて、魔法の言葉を唱えるように口を開いた。
「では、待っていてくれますか?」
視線。
「うん、もちろん」テュナは笑顔で答える。
「じゃあ、えっと……、十三年後に再びお会いする、というのは如何でしょう?」
「どうして、十三年後なの?」そう言ってから、テュナにもその言葉の意味が分かった。「ああ、そうか。僕が結婚できる年齢だね」
「ええ、そうです」
「そのときまで、僕が生きていればいいけど」
テュナがそう言うと、リィルはさらに笑顔を深めて応えた。
「私が生きている限り、貴方も生き続けるので、ご安心下さい」
テュナは彼女の目を見る。
「それ、どういう意味?」
「いえ、単なる冗談のつもりです」
「あそう。ま、悪くない冗談だね」
太陽の光を受けて、公園を包んでいた霧が一気に晴れた。空は活力を得たように端の方から青く染まっていく。気温は少しだけ低いけれど、これからきっと暖かくなる、といった予感が吹き抜ける風を通して密かに伝わってくる。
目の前に座るリィルの顔を見て、自分が生きる目的が少しは明瞭になった気がする、とテュナは思った。
たとえ自分の寿命が平均的な人間より短いとしても、あと十三年くらいは生きられるだろう。まったく根拠のない予想だったけれど、彼は不思議とそんなふうに思うことができた。リィルの言葉には、そういった不思議な力が込められているのかもしれない。それもまた根拠のない発想だったが、今のところは自分にそう言い聞かせておくだけで充分だった。
「僕が十三年後も生きていると仮定しよう」テュナは言った。「そのとき、君が人間らしくなっている確率は何パーセントくらいかな?」
「おそらく、七十六パーセントほどだと思います」
「随分と明確な数字だね」
「いえ、違います」リィルは首を振る。「七十六という数字は、七と六に分けてそれぞれを足せば、十三になります」
「それ、冗談のつもり?」
「うんと……、今回は本気です」
リィルの真剣な表情を観察しながら、テュナは十三年後に思いを馳せる。
やはり、そこに自分が存在している光景は想像できなかった。
しかし……。
それなら、なんとしても、そんな想像ができるように未来を変えよう、と思う。
なんていえば、多少は聞こえが良くなるかもしれない、なんてちょっとだけ期待したりして……。
「寒くありませんか?」リィルが尋ねる。
「いや、あまり」テュナは答えた。
「十三年後の今日も、私は、きっと、貴方に同じことをお尋ねします」
「本当に?」
「ええ、本当です」リィルは宣言した。「ウッドクロックは、嘘を吐きません」
「でも、人間は嘘を吐くよ」
リィルは驚いたような顔をする。
「……本当ですか?」
「まだまだ、勉強が足りないようだね」テュナは言った。「でも、それだけ伸びしろがあるということだ。期待しているよ」
「期待されると、お腹が痛くなってしまいます」
「それは、君が人間らしい証拠だ」
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