Think about Your Heartbeat

羽上帆樽

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第3章 機械は奇怪

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 色の三原色が混ざると黒になる。これは一般的な教養を受けた人なら誰でも知っていることだが、知識として知っているというだけで、その指し示す意味まで考えたことがあるという人は意外と少ない。

 もちろん、僕も今まではずっとそうだった。知識は知識のまま脳の一部分に保存されたままになり、余程のことがなければそれ以上の何かに醸成されることはない。考えるという行為は莫大なエネルギーを消費するし、考える理由がなければ考えようとさえ思わないというのが、人間が持ち合わせる特徴の一つである。だから、色の三原色に纏わる現象が何を示しているのか、具体的かつ主体的に考えたことは一度もなかった。

 しかし、彼女の説明を受けて、その傾向に少し変化があった。

 彼女というのは、今僕の目の前にいる彼女、ウッドクロックと呼ばれる人工生命体の少女である。

 薄暗い部屋。

 その片隅。

 リィルと名乗る彼女は、僕の目の前で腕から血液を流している。

 いや、正確にはそれは血液ではない。

 あくまで人間に例えるなら、血液と同等の役割を担う構成要素になる、という意味である。

「大丈夫?」何もすることができなくて、僕は彼女にそう尋ねた。

「うん……。まだ、意識を保つことはできている」

「意識? どういうこと?」

「人間も、あまり血を流しすぎると、意識を保てなくなるんじゃないの?」

 確かに、と僕は思った。幸福なことに、僕は今までそういった事態に遭遇したことはない。

「あと、どのくらいなら大丈夫そう?」

「えっと、たぶん、三分くらいだと思う」リィルは説明する。「まあ、でも、気を失っても、大丈夫だよ、きっと」

「大丈夫ではないと思う」

「でも、大丈夫」

「どうして?」

「ウッドクロックだから」彼女は僕の方に顔を向け、少しだけ笑った。「人間が、意味もなく、人間だから、ということを理由にするのと同じ」

「君はそれでいいの?」

「うん……。……まあ、本当はよくないけど」

 自分の腕の中に一人の男性を抱え、リィルは自身の体液を腕から流出させている。彼女の腕から流れ出した液体は男性の腹部に注がれ、やがて彼の体内へと移動し、細胞の修復作業にそのすべてが費やされていく。

 彼がどうしてこんな状態にあるのかは分からない。僕と彼女でこの建物の屋上から戻ってきたら、この男性はすでに部屋の中で気を失っていた。腹部に大きな傷跡があって、そこから赤色の液体が流れ出していたのである。それを見たとき、僕は血が流れているのかと思ったけれど、リィルの説明によってそうではないことが判明した。

 リィルに抱き抱えられている彼は、彼女と同じウッドクロックと呼ばれる人工生命体である。しかし、僕はそのことを今日まで知らなかった。というのも、彼は僕の知り合いなのである。この建物の管理人を務めていて、僕ともかなり長い間親交があった。しかし、彼が自分からそのことについて言及したことはなかった。だから、僕も彼がウッドクロックであることを知りようがなかったのである。

 どうして、彼は僕にそのことを黙っていたのだろう?

 自分から話すのが憚れたからか?

 それとも、彼自身も知らなかったのだろうか?

 いや……。少なくとも、自分がどの種の生き物であるのか、彼がそれすら認識していなかったとは思えない。僕は自分が何者であるのかは知らないけれど、自分が人間であることは知っている。それは誰かに教えてもらったからではない。僕の周りにいる多くの生き物が人間と呼ばれる存在で、彼らが僕を仲間と認めてくれたから、僕は自分が人間という生き物であることを悟った。だから僕は今も人間として生活しているのであるし、これからも彼らとともに生きていこうと思えるのである。

 ?

 しかし、ということは、彼の周りにウッドクロックが存在していなかった、というふうに考えることもできる。

 だから、彼は自分が何者なのか分からなかったのか?

 確かに、その可能性がないとは言い切れない。非現実的であることは確かだが、だからといってまるっきり排除できるものとも思えない。

 そうか……。

 彼が目を覚ましたら、そのことについて質問してみる必要がある、と僕は思った。

「よし、もう、いいかな」

 輸血作業を続けていたリィルがそう呟き、自分の腕から伸びる管を閉じる。欠損した管の一部を縛るように固定し、その上から手首に当たるパーツを被せた。

「君は、本当に大丈夫?」僕は彼女に尋ねる。

「うん、平気。でも、ちょっと、眠くなってきちゃったかも……」

「え? それ、本気?」

「うん……」

 そう言うと、リィルは僅かにバランスを崩し、僕の身体に自分の身体を預けるように凭れかかってくる。

「ちょっと、眠ってもいいかな?」

 僕は辺りを逡巡し、ベッドの代わりになりそうな場所を探した。

「いいけど、こんな所で寝ない方がいい。身体を悪くする」

「うん……。でも、もう、駄目かも……」

「いや、ちょっと待ってくれないかな」

「無理、待てない」彼女はすでに目を閉じかけている。

「いや、あの……」

「おやすみなさい」彼女は言った。「いい夢を見られるようにって、心の中で願っていて」

 僕が答えようと思って口を開きかけたときには、彼女はすでにすうすうと寝息を立てていた。

 やれやれ……。 

 これからどうしたら良いだろう?

 リィルの顔から傍に横たわる男性の方に視線をずらすと、ちょうど彼の腹部が修復されていくところだった。編み物が修繕されていくように、細胞が網目状に広がり、小さな穴が塞がって腹部全体が閉鎖されていく。

 ウッドクロックといっても、身体全体がまるっきりメカニカルな素材で構成されているわけではない。むしろその割合は小さいといえる。僕が知っている範囲では、少なくとも、骨格はメカニカルなパーツで構成されているらしい。リィルや彼の様子を見る限り、どちらかというと、バイオロジカルな部分の方が全体に閉める割合は多いようだ。

 リィルの腕から伸びていた管は、全部で三本の細いパイプのようなもので構成されていた。それぞれ、赤、青、黄色、といった配色になっていたと記憶している。リィル曰く、それらは人間でいう動脈・静脈・リンパ管と同じ役割を担うものらしい(彼女が彼の修復作業をしているときに教えてくれた)。彼女が先ほど彼に供給したのは赤色の管から齎される液体で、つまりは動脈血を輸送したことになる。人間からすると考えられない行為だが、彼女がなんの躊躇いもなくそうした行動をとったことを考えると、ウッドクロックからすると特に不思議なことではないのかもしれない。

 いや……。

 もしかすると、彼女だからこそ、如何なる躊躇も見せずにそんな突拍子もないことをしてのけたのかもしれない。

 そんな考えが急速に僕の頭を支配するようになった。

 確かに、リィルはある意味特殊な個体である。どのように特殊なのか、また、どうして特殊なのか、そういった点を逐一説明することはできない。あくまで僕の直感的な感想にすぎないからである。しかしながら、たとえば、僕とリィルが再会したときに、彼女が一つの布団で一緒に眠ろうと言ったことなどを思い出せば、多少は僕が抱いている印象を伝えることができるかもしれない。要するに、一般的な感覚からしたら到底思いつかないような、そういった超越性のようなものを感じるのである。けれど、これを言ってしまうと、今度は「一般的とは何か」といった問題を処理しなくてはならなくなる。だからこれ以上彼女の特殊性について述べることはできないし、僕もこれ以上この点について言及するつもりはない。

 それでも、彼女が特殊であることは確実だろう。

 考え事をしていたせいでぼんやりとしていた視線を下に向けて、僕はリィルの寝顔を眺める。

 こんなふうに見てみると、彼女が僕と異なる生き物だとは到底思えない。むしろ僕以上に人間らしいと感じる。リィルを作った人はどんな人物だったのだろう、と考えることがときどきあるけれど、その彼あるいは彼女の思考は僕には理解できそうになかった。

 まだ、目の前の彼女すらちゃんと理解することができていない。

 そう……。

 そして、その反対のことも同様にいえる。

 僕も、彼女に、僕のことを知ってもらえていない。

 これから時間をかけて、この点を少しずつ解消していく必要がある。

 さて……。

 それでは、この辺で一度思考を切り替えようと思う。同じことをずっと考え続けるのはあまり良くない。それは、過ぎ去ったことについて延々と考え続けるのと同じである。

 リィルが灯してくれた照明のおかげで、今は室内の様子が比較的よく見えた。比較的というのは、明かりの照度があまり高くなく、もともと室内が薄暗い状態にあるということを示している。どうしてこんな状態になっているのかは分からない。単に省エネルギーを目指しているのかもしれないが、管理人の彼がそんなことを思慮するとは思えない。

 その彼は、腹部の修復が完全に終了し、今はリィルと同じように小さく寝息を立てていた。

 そもそも、彼はどうしてこんな事態に遭遇したのだろう? この点については深く熟考してみる必要がある。

 当然のことだが、一番可能性が高いのは、他者から何らかの攻撃を受けた、ということである。

 彼が自殺行為をする意味は特にない。その前に、ウッドクロックという種に「自殺」という概念があるのか疑わしい。これは彼が自分がウッドクロックであることを自覚していなかった場合の話だが、もしそうでなかったら、彼が今まで僕にそのことを話さなかったのがなおさらおかしいことになる。

 確かに、他者に安々と話すような内容ではない。しかし、僕と彼の仲がそれほど良いものではなかったにせよ、犬猿の仲というほどでもなかったし、どちらかというとそれなりに親しい間柄だったわけだから、黙っているというのはどうにも不可解で仕方がない。

 では、ほかに考えられる理由とはなんだろう?

 それは、そうした情報を伝達しないように誰かから強要されていた、もっといえば、そうするようにプログラムされていた、というものである。

 もしそうだとしたら、それを行った人物の目的は何だろう?

 それ以前に、それをしたのは誰か?

 この問いに対する答えは一つしかない。

 すなわち、彼を設計し製造した者、さらに規模を拡大すれば、ウッドクロックの生産に関わった人物ということになる。

「なるほど……」気がつくと、僕は一人で呟いていた。「少しずつ分かってきたかもしれない」

 リィルもウッドクロックだが、彼女は自分がウッドクロックであることを自覚している。今のところは彼と彼女の二つしかデータがないから、はっきりしたことはいえないけれど、一括りにウッドクロックといっても、自分がそうであることを自覚しているタイプと、そうでないタイプが存在する、と考えるのはどうだろう。仮にこの推測が正しいとすれば、今度はそうした差別化が行われている理由について考えなくてはならない。反対にいえば、その方向にさえ考えれば、何らかの解に辿り着ける可能性が高い。

 ウッドクロックは人間に作られたものだから、その存在には必ず何かしらの目的がある。ここが彼らが生き物とは違うところである。すべての生き物は、存在という観点における目的を持っているわけではない。せいぜい「生存」し「繁殖」するといった普遍的な目的があるくらいだが、それは真の目的ではない。なぜなら、では、なぜ「生存」し「繁殖」する必要があるのか、という問いに答えられていないからである。

 ウッドクロックが存在する意味はなんだろう?

 彼らが存在することで、人間はどのような影響を受けることになるのか?

 彼らの生みの親は誰だろう?

 そして、なぜ彼らには(少なくとも)二種類のタイプが存在しているのか?

 僕の頭は珍しくいつもより速く回転していて、もう少しでオーバーヒートしてしまいそうだった。こんな比喩を思いつくのも、比較的頭がよく回っている証拠である。ウッドクロックという単語から連想した事項だが、ある種の関連性を帯びているという点で、重要度の高い情報であるといえる。

 ? オーバーヒート?

 色々と考えている内に脳内のニューロンが活性化し、僕はたちまち別のことを思いついた。

 そうだ、オーバーヒート。

 この建物の管理人の彼には、不規則に眠ってしまう癖があった。それは病気ではないが、「症状」と呼んで良いくらいには当事者にそこそこの影響を与えるものである。

 それは、もしかすると、オーバーヒートしていたのかもしれない。

 唐突に、僕の頭脳にそんな発想が湧き上がる。

 では……。

 いったい、彼は、何をして、オーバーヒートするに至ったのだろう?

 ……。

 暫くの間考えてみたけれど、これ以上何かを思いつく気配はなさそうだった。普段からぼんやりしている僕にしては上出来な発想だったし、まあいいか、と思う。

 今考えたことはすべて推測の域を出ない。けれど、それでも僕の中には一種の手応えのようなものがあった。そちらの方向に考えれば答えに辿り着けるといったような、確信にも近い何かを掴めたような気がする。

 さて……。

 僕はこれからどうしたら良いだろう?

 リィルはまだ目を覚ましそうにない。彼女が起きてくれればそれなりに楽しめそうだけれど、なんていうのか、人間でいったら病み上がりみたいな状態であるし、無闇に燥いだりするのも良くないだろう。

 そうなると、本当にできることが何もない。

 いや、違うか。

 最後の最後で、僕はとっておきの発想をするに至った。おそらくはこれが最後である。

 そう……。

 僕も一緒に眠れば良い。

 そういえば、なんだか随分と瞼が重たいような気がする。一度そう考えると自分でもそう思い込んでしまうから、人間とは不思議な生き物である。

 欠伸。

 僕はリィルの掌をそっと握り、彼女の存在を確かめるように静かに目を閉じた。





 意識の覚醒とともに僕は柔らかな感触に包まれ、まるで自分が天国にいるような気持ちになった。天国に行ったことはないけれど、あくまで言葉の綾だから、特に気にするようなことではない。

 しかし、重視すべきなのは「天国にいるような」という部分ではなく、「柔らかな感触に包まれた」という部分である。

 僕は静かに目を開ける。

 すると、すぐ目の前にリィルの顔があって、彼女がにこにこ笑っている様子が確認できた。

「……どうしたの?」目を擦りながら僕は尋ねる。「なんだ、もう起きてたのか」

「おはよう」リィルは言った。「よく眠れました。ありがとう」

「うん……」

 僕は自分の身体を持ち上げようとする。

 しかし、想像していたよりも身体が重たくて、僕は起き上がることができななかった。

 顔を前方に向けて原因を探る。

 リィルが僕の身体の上に乗っていた。

「あのさ、ちょっと、どいてくれないかな」僕は言った。

「え、なんで?」

「いや、重いから」

「え!?」リィルはオーバーなリアクションをする。「重いって、そんな……」

「いや、そういう意味じゃなくてさ。なんていうのか、一般的に、誰かに身体の上に乗られたりしたら、重いに決まってるじゃないか」

「私、最軽量モデルなんだけど」

「え?」僕は声を発する。「それ、どういう意味?」

「冗談」リィルは笑った。

「冗談? 冗談って……。……それが冗談で通じると思っているなら、今すぐ考え方を改めた方がいい」

 僕がそう言っても、リィルは笑うのをやめなかった。

 まあ、いいか……。

 リィルは僕の上から降り、両腕を天井に向けて大きく伸びをする。彼女のその素振りを眺めながら、伸びをすることでどのような効果を得られるのだろう、と僕は一人で考えた。なんだか今日の僕はいつもと随分違う。普段ならこんなことは絶対に考えない。比較的頭が冴えているというか、普段なら見落としていてもおかしくないような点に着目することができている。

 人間にはこういった気紛れさが存在する。しかし、それはリィルを見ていても感じられることで、だからこそ僕は彼女という存在が不思議でならなかった。

 僕もゆっくりと立ち上がる。近くにパイプ製の椅子があったので、僕はそこに腰をかけた。

「あのさ、リィル」僕は彼女に声をかけた。

 リィルはこちらを向き、笑顔のまま小さく首を傾げる。

「何?」

「こんなこと、訊いてもいいのか分からないけど……」

「うん」

「君は、自分がウッドクロックであるということを自覚しているの?」

 僕がそう尋ねると、リィルは二、三度と目を瞬かせた。この仕草はもはや彼女のデフォルトであるといって良い。

「うん、そうだけど……。というか、自分からそう説明したんだから、そうに決まっているじゃん」

「ま、そうだよね」

「それがどうかしたの?」

「もちろん、どうかはした」僕は言った。「けれど、自分が何を考えていたのか、今は頭がちょっともやもやしてしまっていて……、上手く言葉では説明できない」

「言葉以外では、説明はできないよ」

 僕は笑った。

「まあ、そうだね」

「でも……」リィルは一度顔を背け、何かを思い出すように顔を上に向ける。「私がそれを自覚したのは、つい最近のような気がする」

「え?」僕は少しだけ驚いて、すぐに彼女の顔を見た。「それは、どういうこと?」

「えっと、なんていうのか……。幼少期の記憶がない、というか……」

「ああ、なんだ、そんなこと」僕は話す。「そんなのは、当たり前だと思うけど」

「そうなの?」

「うん、まあ……。人間だって、そうだと思うよ、ほとんどの人は」

「そうじゃない人もいるの?」

「ときどきね」僕は頷いた。「そういう人は、天才とか、変人とか、そんなふうに呼ばれている」

「じゃあ、君には幼少期の記憶が残っているの?」

「なかなか酷い質問だよね、それって」

「え、何が?」リィルは首の角度をさらに大きくする。

「いや、何も」

 僕に幼少期の記憶は残っていない。「至って普通の少年」といったレッテルを自分で貼っているくらいだし、したがって、僕は変人でも天才でもない。

「じゃあ、もう一つ質問したいんだけど……」僕は目だけで彼女の方を見て言った。「君は、ウッドクロックにいくつかのタイプがあるとか、そういう話を聞いたことはある?」

 僕は彼女の様子を観察する。リィルも黙って僕のことを見つめてくる。

 かなり際どい質問のつもりだった。僕には自分に掲げているポリシーがあって、なるべく他人のプライベートな領分には立ち入らない、というのがそれである。だから彼女やウッドクロックに関わることはなるべく尋ねないようにしてきたし、これからもそうするつもりである。どうしてそんなことをしようとするのか、それは僕にも分からない。僕なりの距離のとり方というか、言葉で説明するとそんな陳腐な内容になってしまうのだが、実際はもっと複雑な感情だった。

 たとえるなら、そう……。

 まるで、ICチップの配列みたいにその思いは複雑である。

「タイプ、か……」やがて、リィルは自分の顎に人差し指を当てて答えた。「そんな話は、聞いたことがないと思うけど……」

「そう」

「で、それが、どうかしたの?」

「だから、もちろん、どうかはしたんだ」

「どんなふうに、どうかしたの?」

「それは説明できない」僕は説明する。「なんて言ったらいいのか分からないけど、個人的な好奇心が発動してしまったというか、うん、まあ、そんな感じ」

「全然分からないけど」

「困るなあ……。そんなんじゃ、君、僕のお嫁さんは務まらないよ」

 突如訪れる沈黙。

 あ、これはまずい、と僕は思った。

 が、次の瞬間、リィルは急にガッツポーズをし始め、自分に対して喝を入れるような素振りをしてみせた。

「うん、そうだよね」

「え、そうだよねって、何が?」

「うん、そうそう」リィルは独り言のように呟く。「やっぱり、私、もう少しちゃんとしないと」

「あ、いや、今のは……」

「こんなだったら、君を支えられないし」

「だから、それは……」

「頑張らないと!」

「ねえ、人の話聞いてる?」

「よし!」

 どうやら聞こえていないらしい。

 僕は彼女に気づかれないように小さく溜息を吐き、直ちに思考を切り替えた。

 さて……。

 先ほども一度考えたことだが、これから僕たちは何をどうするべきなのか、それについてある程度の見解を出さなくてはならない。

 僕はリィルが一人芝居をやめるのを待ち、なるべく真剣な表情になるように意識しながら尋ねた。

「あのさ、リィル」僕は言った。「僕たちは、これから何をするべきかな?」

 僕の呼びかけに反応し、リィルは身体ごとこちらを向く。

「何って……。うーんと、まずは、家に帰って、リフレッシュするのが一番だと思うけど」

「冗談を言ってるんじゃない」

「え? 冗談?」

 僕は彼女の呆けを無視する。

「彼は僕の知り合いだけど……」僕はすぐ傍で寝息を立てている男性を指差した。「さっき言った通り、彼はこの建物から出られないんだ」

「うん……。あ、でも、私たちが一緒にいるのなら、出ても大丈夫なんじゃない?」

「いや、そうじゃない」僕は説明する。「彼がウッドクロックである以上、人目につくような、そんな危険な行動をとるわけにはいかない、ということなんだ」

「あ、そういうこと……。うん……。そうか、なるほど……」

「で、君はどうしたら良いと思う?」

「うーん……」

 僕は腕を組む。

「……君の予測だと、彼はどのくらいで目を覚ましそう?」

「え?」リィルは首を傾げた。「そんなの、分からないけど」

「細胞はすでに修復されている。だから、もう、その、起こしても大丈夫かな?」

「無理矢理ってこと?」

「そう」僕は頷く。「それに、僕は彼に訊かなくてはならないことがある」

「どんな?」

 そこまで話して、いや、それはちょっと違うか、と僕は思った。

「いや、そうじゃないな……。万が一、彼が自分がウッドクロックであることを自覚していないのなら、僕の口からそんなことを訊くわけにはいかないか」

「どういう意味?」

「いや、完全にこちらの話だから、気にしなくてもいいよ」

 僕はリィルに笑いかける。しかし、彼女は目を細くして僕を睨みつけてきた。

「何?」

 僕は彼女に質問する。

「いや、なんか、今日の君、変だな、と思って」

「うん、まあ、そうかもしれない」

「どうかしたの?」

「いや、どうも」

「まあ、いいけど……」リィルは言った。「とにかく、彼を無理矢理起こすのはやめた方がいいと思う」

「ほう。どうして?」

「細胞が修復されても、データのロード作業はまだ終わっていないと思うから」

「データのロード? それって、ウッドクロックの記憶領域の、ということ?」

「そうだよ」リィルは頷く。「外部から一定以上のダメージを受けると、ウッドクロックは一時停止するようにできている、らしい。で、それから、データを再びロードして、ダメージを受ける前の状態まで復旧する、とか、どこかで聞いたことがある」

「あのさ、そういう重要な情報は、僕が尋ねる前に教えてくれないかな」

「あ、そうか」

「あ、そうか、ではない」

「じゃあ、うん、そうだね、かな」

 リィルは全然動じない。完全に天然な彼女である。

 これ以上何も言いたくなくなって、僕は静かに口を閉じた。

 急に辺りは静かになる。

 閉鎖的な空間にいる、といった状況が唐突に際立つようになった。

 しかし、それも束の間、変化はひっきりなしに訪れる。

 まるで、それが僕たちに定められた運命でもあるかのように……。

 見ると、倒れていた彼が動き出し、上半身を持ち上げようとしている。

 特に不自然な動きには見えない。人間とそっくりにシームレスな動きをしている。

 とても彼がウッドクロックだとは思えなかった。

 いや、とても彼が人間ではないようには思えなかった、といった方が正しい。

 彼は立ち上がる。

 その瞳にはすでに僕たち二人の姿が写り込んでいた。

 彼は片手を上げて僕に挨拶をする。

「ごきげんよう」

 沈黙。

 僕は不機嫌だったので、その挨拶には応じなかった。
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