Think about Your Heartbeat

羽上帆樽

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第2章 思考を試行

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 夕焼けの空。屋上の柵。

 午後五時が到来した街の片隅にある屋上で、僕と彼女は黄昏色に染まっていた。床はコンクリート、柵は鉄。僕も彼女も装いはかなり軽かったけれど、この時刻になるとちょっと寒い。気温は比較的高い方なのに、吹きつける風が妙に寒冷さを帯びていて、日々の心的苦労に冷淡が染み入るような感じだった。もちろん、冷淡という物質はこの世界には存在しないけれど、物質とは異なる形でそれは確かに存在する。しかし、この感覚が彼女にも共有できるのか、出会ったばかりの僕には推測することができなかった。出会ったばかりという言い方は少しだけ違うけれど、実際にこんなに話したのも、行動をともにしたのも、今回が本当に初めてである。初めてのことはなんでも面白い。今回も例外なく、彼女との外出は想像を絶して面白かった。

「そろそろ、帰ろうか?」

 柵に腕を載せて遠くの方を見ていた僕は、顔だけを横に向けて、隣で同じ格好をしている彼女に声をかけた。

「うーん、もう少し、このままがいいかな」

「どうして?」

「え?」

「君は、さっき、早く家に帰りたいって言ったじゃないか」

「そんなこと、言ったっけ?」彼女は小さく首を傾げる。

「言ったよ」僕は笑った。「忘れたの?」

「忘れた、という概念が、私にはどうしても理解できない」

「それは、君が理解しようとしていないからだ」

「それは言葉遊びなんじゃない?」

「言葉は遊んだりしない」

「うーん、それも、言葉遊びだと思うけど……」

「遊びは大切だ。特に、螺子を締めたりするときに重要になってくる」僕は言った。「君の身体にも、螺子の一本くらいは使われているんだろう?」

「使われていないと思う」

「ウッドクロックには?」

「あ、そうか……。……うん、確かに、使われているかもしれない」

 ウッドクロックというのは、彼女の心臓としての役割を担っている装置のことである。この装置は記憶媒体としての機能も担っていて、人間の心臓よりも機能が高い水準にある。ちなみに、酸素と二酸化炭素の交換作業を行う肺としての機能も備わっているみたいで、現代の技術を超えた次世代のメカニズムとして注目されている(今のところ、その技術に注目しているのは僕一人だけである)。

 彼女は人間ではない。外見は限りなく人間と同じように見えるが、ウッドクロックと呼ばれる人工生命体で、製造者は不明、存在異議も不明、といった恐ろしく未知に溢れた存在だった。先述した通り、ウッドクロックとは彼女の動力源兼記憶媒体兼呼吸器の名称でもある。その装置が木製の時計の形をしているからそう呼ばれているらしく、僕は実際にその様子を見たことがあった。

「ねえ、リィル」僕は、そのとき、おそらく、初めて彼女の名前を呼んだ。

 リィルはこちらを見る。

「何?」

「君はさ、どうして僕を選んだの?」

「どういうこと?」

「いや、だから……」僕は一度彼女から顔を背けた。「どうして、結婚相手に僕を選んだのかな、と思って」

「うーん、質問の意味が分からないけど……」彼女は考える素振りをする。「まあ、でも、比較的信頼できる人柄だし、それなりに一般教養もあるし、ほどほどな見た目もしてるから、じゃないかな?」

「……そんな人は、僕以外にも沢山いると思うけど」

「あ、そうか。そういえば、そうだった。……じゃあ、どうしてだろう?」

 僕は正面の景色に視線を戻し、彼女に気づかれないように小さく溜息を吐いた。

 彼女、リィルという固有名詞を与えられたウッドクロックは、いつもこういった調子なのである。彼女が言った通り、僕もかなり平凡な頭脳の持ち主なのだが、僕が思うに、彼女はそれ以上に非才な存在である。人工的に作られた生命体なのにも関わらず、わざわざこれを人工的に作った意味が分からない、という程度に発言や行動が平均値を下回っている。最近はこういった少々馬鹿げた機器の製造が流行っているのだろうか、と考えたこともあったけれど、僕の濁りきった目で世界を観察しても、今のところそうした傾向は見られない。

 そう……。

 僕には、彼女がどうしてこれほど普通なのか、理解することができなかった。

 挙動言動が非才であるのは確かだが、しかし、それに反して、外見はかなりスペシャルであるというのも彼女が持ち合わせる特徴の一つである。いや、むしろ、それくらいしか特徴がないといっても良いだろう。アイドルとか、モデルとか、外見に秀でている人種はいくらでもいるけれど、彼女のそれはそういったレベルではない。彼らを遥かに超越している。

 もしかすると、この外見と内面のギャップを狙って、彼女のような個体が生み出されたのかもしれない、と最近になって僕は思うようになったのだけれど……。

 まあ、これについてはもう良いだろう。

 あまり詮索しすぎるのも良くない。それが僕のポリシーというものである。

「……君は、僕が好き?」

 僕は、再びリィルの方に顔を戻して、今度はちょっぴりストレートに質問をぶつけてみることにした。

「うん、まあ……」彼女は曖昧に頷く。

「じゃあ、具体的にどこが?」

「具体性はない」リィルは言った。「全体的に、好き、という方向に傾いている、という意味」

「素晴らしい誤魔化し方だ」

 太陽が地平線の彼方に沈もうとしている。もっとも、この街の果てには巨大な山脈が鎮座しているので、ここから地平線そのものを見ることはできない。山々は右にも左にも延々と連なり、どこまで続いているのか僕は知らなかった。きっとこの街に住む誰もが知らないに違いない。山の反対側には海があり、その海にもまた果てというものが存在しない。僕たちが住む街はこの山と海によって完全に隔離されているといえる。

 それでは、その隔離を行ったのは誰だろう?

 それは神だという回答が最も相応しいように思えるが、その回答はほかの命題に対しても通用するため、もう少しこの問いに特徴的な回答を導出する必要がある。

 選択肢は主に三つある。

 一つは僕。

 もう一つは彼女。

 そして、最後の一つは彼女の製造者。

 どうしてその三者に限定することができるのか、これを説明するためには少々時間が必要になる。今はそれほど充分な時間には恵まれていないから、これに関する注釈は後々述べることにしようと思う(と考えている僕は、いったい誰に対してこの説明を行っているのだろう?)。

 僕は隣に立つリィルの方に身体を寄せた。

 彼女は瞳だけで僕を確認し、それから再び正面に視線を戻す。その動作は限りなくシームレスで、省エネルギーで、バイオロジカルだった。

「……どうかしたの?」

 リィルは前を向いたまま僕に尋ねる。

 僕はその質問に答えなかった。

 僕と彼女の出会いは十三年前から規定されている。反対にいえば、僕と彼女の出会いは実に十三年もの間達成されることがなかった。その間のブランクがどのように生じたのか、また如何なる理由で生じたのかは、今のところ少しも分かっていない。推測することはできても、それを立証するだけの根拠に欠けている。もちろん推測も立証もする必要はない。原因や理由がどうであれ僕と彼女はすでに出会ったわけであるし、一度出会ったからには、これからも互いに一生添い遂げる運命にある。

 そう……。僕と彼女は、形式上は婚約を済ませているのである。あくまで形式上はであるけれど……。

「寒くなってきたし、そろそろ、帰ろうか」

 僕はなんとなく呟くようにそう言った。

 リィルは答えない。

 その代わりに、彼女は今度は自分の身体を僕の方に近づけ、それから小さくくしゃみをした。

「どうしたの? マイクロダストでも舞ってたかな?」

「誰かが、どこかで、私の噂話をしているのかもしれない」

「その可能性は限りなく低い」

「どうして?」

「君の存在を知っている人物がごく少数しかいないからだ」

 僕がそう言うと、彼女は細部に至るまで動きを完全に止めた。

「……確かに、そうかも」

「君はどこから来たの?」僕は尋ねた。「早く帰らないとお家の人が心配しているんじゃない?」

「家はない」

「じゃあ、ご家族やご両親は?」

「それもいない」

「寂しくなかった?」

 彼女は僕の方を向く。

「寂しかった。寂しかったから、君のもとに来た」

 僕は笑った。

 太陽が完全に姿を消す。本格的な夜の気配が潮風に乗ってここまで来た。星はまだ見えない。月もまだ僕たちに認知可能な範囲外だった。

 この建物は町内唯一の図書館である。ちなみに、屋上への立ち入りは本来なら禁止されている。管理人に無理を言って、僕が半ば強引に許可を貰ったのである。

 図書館というのはあくまで名目上の呼称にすぎず、この建物は、現在はそれとは別の用途で使用されている。つまり、昔は正真正銘の図書館として機能していた。僕たちの足もとには高度なデータを処理する計算機器が沢山あって、街で起こる出来事を逐一収拾し、一つ一つの事象をすべて合理的に処理するための演算を行っている。合理的な処理とは、人間同士の不均衡を未然に防ぐという意味である。その対象は、たとえば、殺人事件とか、窃盗事件とか、負の要素に纏わるものばかりではない。正の要素を含むものもすべて一律で処理されている。

 それでは、どうしてそんなことをするのだろう?

 僕はその答えを知らなかった。

 おそらく、この建物の管理人は知っている。

 そして、僕は、その管理人が何らかの情報を持っている、ということを知っていた。

 さらには、僕の隣にいる彼女は、その管理人が何らかの情報を持っている、ということを僕が知っていることを知っている。

 要するに、三重のメタ構造が形成されているのである。

「君は、寒くないの?」僕は尋ねた。

 リィルはこちらを見て頷く。

「うん、寒くはない。でも、暖かくもない」

「ウッドクロックの身体は、寒いの?」

 僕がそう尋ねると、彼女は顎に人差し指を当てて考える素振りをした。

「うーん、それも、寒くはないけど、暖かくもない、かな」

「温度で言うとどれくらい?」

「二十八・五度くらい?」

「それは寒い方なんじゃないの?」

「寒いというか、冷たいんだよね」

「どっちも同じだよ」僕は笑った。「言葉の問題じゃないか」

 言葉の問題ということは、示している事象は同じであるということになる。つまり、言葉の影響を受けない本質というものが存在するとすれば、装飾を取り払ったあとの核に変わりはないという意味である。選択する言葉によってその人物の人柄をある程度計ることはできるが、本質の方が比重が高いことを考えれば、言葉という装飾はそこまで重要ではないことが分かる。

 しかし、僕(あるいは、僕以外の誰であっても)がわざわざこういったことを記述するということは、世間的な認識はそうではないということでもある。要するに、今述べたことを反対にとれば、世間一般では本質よりも言葉の方が重要だと捉えられることが多いため、言葉さえ上手く使えば相手を操作できる、ということになる。これは非常に恐ろしいことであると僕は思う。というよりも、人間が詐欺に遭うのは与えられた情報としての言葉に原因がある場合がほとんどであるため、そうした恐ろしいことが平気で行われている、という点がさらに恐ろしく感じられるのである。

 そして、当然のことながら、それは詐欺に限った話ではない。

 言葉の丁寧さや流暢さを売りにするものにも同じことがいえる。

 それは、たとえば、小説……、などが当て嵌まる。

「何を考えるているの?」

 突然リィルに声をかけられて、僕はとっさに彼女の方を向いた。

「え? あ、いや……」僕は適当に音を発する。「いや、何も特別なことは考えていない」

「教えてよ、その、特別ではないことを」

「え、どうして?」

「なんとなく、気になるというか、なんだか面白そうだな、と思ったから」リィルは表情を明るくする。「面白いことは、私、けっこう好きだよ。元気になるし」

 面白いことと、元気になることは、本質的には反対である、と僕は思った。

「うーん、でもね、僕が考えることは、大抵の人にとっては面白くないんだ」

「私は人じゃないから、きっと面白いはずだよ」

 彼女の言葉を受けて僕は笑った。

「それはね、言葉の綾というんだよ」僕は話す。「今考えていたのは、まさにそれに関することだ」

「え、じゃあ、やっぱり、面白いことを考えていたってこと?」

 僕は正面に向き直る。

「何か言った?」

「いや、だから、やっぱり面白いことを考えていたんじゃん、と思って」

「まあ、そうかな」僕は頷いた。「正直に言えば、君のことを考えていた」

 本格的な夜の到来は近い。僕の家はこの建物から比較的近い場所にあるから、遅くなってもそれほど困ることはない。しかし、この建物の管理人がそれを許してくはくれないだろう。彼(つまり、管理人は男なのである)はなかなか気性が荒い人間(つまり、ウッドクロックではない)で、せっかちだから僕の理屈に一向に耳を傾けようとしない。

 しかし、今日は僕が無理を言ったのだから、そろそろお暇するのが礼儀というものか、とは思った。

 だから……。

 そろそろ、本当に、家に帰ろうと思う。

「もう帰ろう」僕はぶっきらぼうにそう言った。なぜぶっきらぼうな言い方になったのかは分からない。「本当に寒くなってきた」

「ね、君はさ、私をお嫁さんにしてくれるんだよね?」リィルが突然話題を逸らす。

 僕は完全に彼女の方に身体を向けた。

「そのつもりだけど」

「じゃあ、結婚式は挙げないの?」

「君は挙げたいの?」

「うーん、君が挙げたいって言うなら、私も挙げたいと思う、かな」

 僕は彼女に背を向け、そのまま片手をひらひらと振った。

「じゃあ、挙げないよ。馬鹿馬鹿しいじゃないか、そんなこと。ただのセレモニーだよ。意味はない。それに、結婚式を挙げるのは、大勢がそうしているから、その流れに乗って楽をしようとしているだけじゃないか」

 僕がそう言うと、背後でリィルはくすくすと笑い声を上げた。

「……そうなの?」

「そうさ、きっと」僕は言った。「それに、結婚式を挙げたりしないと深まらない関係なんて、僕は必要としていない」

 リィルの笑い声が途絶える。

 僕は少し心配になった。

 ……。

 自分でも、かなり気障な台詞を口にしたと思う。僕にしては珍しい。

 もしかすると、彼女を傷つけたかもしれない。

 それはいけない。

 それはよくない。

 謝った方が良いかもしれない。

 そんなことを思って僕がそっと後ろを振り返ると、彼女は、今度は上品な笑顔を顔に浮かべて、じっと僕のことを見つめていた。

「……何?」僕は彼女に尋ねる。

「ううん、何も」彼女は笑顔のまま首を振る。「それなら、よかったな、と思って」

「何が?」

「君のお嫁さんになれて」

「それは、どうも」僕は話す。「しかし、そうするように言ったのは君の方だ」

「そう……」リィルは言った。「それを見越して、君にお願いしたんだから」

「それというのは?」

「君となら上手くいく、という確信」

 沈黙。

 それから、僕の方もなんだか面白くなってきてしまって、気づいたら僕も小さく笑い声を上げていた。

「さあ、もう帰ろう」僕は言った。「夜ご飯が待ち遠しい」

「今日は何が食べたいの?」

「うーん、そうだな……」僕は答える。「天丼かな」

 ペントハウスの扉を開け、二人揃って屋上から立ち去った。階段に照明器具は存在しない。足もとが見えづらくて危なかったけれど、どうにか転ぶことなく下の階まで下りることができた。そもそも、リィルは転ぶようなことがないらしい。もちろん、外部から強い衝撃を受ければ体勢を崩すことはあるが、強固なスタビライザーが搭載されているため、余程のことがない限りバランスを保ち続けることが可能とのことである。

 僕にもそんな装置があったら良いな、と少しだけ感じる。物理的なスタビライザーを求めているのではなく、概念的なスタビライザーがあれば良いと思う。これからの人生はまだまだ長い(と期待している)だろうから、予期しない地点で転びそうになることもあるはずである。そうしたときになんとかバランスを保ち、転びそうになるぎりぎりのところで耐えることができたらどれほど良いだろう。転びそうになる要因が完全に排除されるに越したことはないが、そんなことは不可能であるだろうし、何よりも、それではスリルに欠けるというものである。だから、ほどほどに転びそうになって、あと一歩のところで踏ん張るのが良い。そんな幸せな日々が送れたら良いな、と僕は心の底から感じるのである。

 でも……。

 彼女と、リィルといれば、少しはそんなこともできるのではないか、という予感がする。

 彼女にスタビライザーが搭載されているのなら、僕も多少はその恩恵を受けることができるだろう。

 きっと、僕が転びそうになったとき、絶対に転ばない彼女が僕を支えてくれるに違いない。

 そんな関係になれれば、本当に素晴らしいと思う。

 これ以上ない。

 つまり、極上。

 そして、僕たちがたった今までいたのは屋上である。

 というわけで、階段を完全に下りきったわけだが……。

 そこには依然として真っ暗な空間が広がっているだけだった。

「誰もいないのかな?」僕の隣でリィルが呟く。

「さあ……。いや、そんなことはないと思うけど」僕は説明した。「管理人の彼は、ほとんど外に出ることがないから……。というよりも、外に出られないんだ」

「へえ……。どうして?」

「うーん、なんというのか、持病みたいなものでさ」僕は言った。「外に出ると精神に支障を来すというか、まあ、なんだ、そういう一種のトラウマのようなものを抱えていて……」

「何かあったの? その、昔に」

「それは、何もなければ、そうした事態にはならないだろうね」

「じゃあ、何があったの?」

 僕は質問に答えずにぶらぶらと歩き回る。

 リィルもそのあとをついてきた。

「猫に噛まれたんだ」やがて、僕は意を決して答えた。「とても大きな猫に、昔」

「え、それだけ?」彼女は素っ頓狂な声を上げる。

「いやいや、それだけって、いくらなんでも酷いじゃないか」

「あ、そう……、かな……」

「そうだ。絶対に」僕は話す。「そんな言葉は二度と口にするものじゃない」

「それって冗談のつもり?」

「冗談の通じないレディーに、僕がそんなことを言うと思うの?」

「思う」リィルはなんの躊躇いもなく頷いた。「すごく、そう思う」

 僕は溜息を吐いてやれやれという素振りをしてみせたが、暗すぎてその姿を彼女に見せることはできなかった。

 いや……。

 それは違うかもしれない。

「あ、もしかして、君さ、今のこの空間を把握できている?」

「え?」僕がそう尋ねると、リィルは端的に答えた。「もちろん。全部見えてるけど」

「そうか……」

 以前、彼女に、ウッドクロックは可視光線を使って世界を見ているのか、と尋ねたことがある。そのとき、彼女は可視光線が何かは分からないが、少なくとも、動物と同等な手段を用いて視覚情報を得ていることは確かである、と答えた。

 それを思い出して、全然違うではないか、と僕は思ったが、別に問い詰めるようなことでもないし、むしろ便利だと思って、僕は今は何も言わないでおいた。

「じゃあさ、えっと、どこに何があるのか、軽く教えてくれないかな?」

 僕は適当に身振り手振りをしながら、彼女にそう要請した。

「うん、いいよ」リィルは素直に答える。「えっと、じゃあ、まず、だけど……」

 この建物に入ってきたときのことを思い出しながら、僕は頭に情景を思い描く。そう……。僕たちがここにやって来たときは、まだ照明が灯されていたのである。

「部屋の中央に、何か大きな装置みたいなものがあるかな」リィルは説明する。「で、その隣に、人が倒れている」

 僕は吹き出しそうになった。

「……え?」

「あ、これ、誰だろう」

 誰だろう、ではない。そんなの一人に決まっているではないか。

「いや、あのさ、そういう重要な情報は、僕が尋ねる前に提供してくれないかな」

「あ、そう? それは、ごめん」

 僕は短く溜息を吐く。

「まあ、いいよ。えっと……。とにかく、その人を起こしてあげてくれないかな?」

「うん」リィルが動く気配が伝達される。

「怪我は?」

「あ……。特には、してなさそう、かな」

「そう」

「でも、気を失っているみたい」

「え?」

 僕は驚いて声を上げた。てっきり眠っているのかと思っていたのである。

 この建物の管理人の彼には、周囲の環境に構わずどこでも眠る癖がある。病気ではないのだが、本人の意思に関係なくそういったことが起こるのであれば、看過できない症状であることに変わりはない。つまり、これが原因で彼はこの建物から出られないのである。猫に噛まれたからとか、そんなくだらない理由ではない。

「大丈夫そう? あ、えっと、その前に、この部屋の電気を点けてくれないかな」僕は言った。

「どこに電源があるの?」

「君は今どこにいるの?」

「えっと、屋上へと続く階段から見て、正面に巨大な装置があるとすると、その左側」

「じゃあ……。そこから左手に進むと壁があるから、そのどこかにあると思う」

「どこかって、だいたいどれくらいの位置?」

「君が手を伸ばせば届くくらいの所」

 リィルが移動するのが分かる。暗くて何も見えないから、僕の立ち位置によっては接触してしまうおそれがある。しかし、彼女には先述したスタビライザーが搭載されているから、例によってその衝突によるダメージを受けるのは僕だけである。

 幸いそうした事故が生じることもなく、リィルは左側の壁に辿り着くことができたみたいだった。

「うーんと……」彼女が呟く声が聞こえる。「どこかな……」

「君さ、その、倒れていた彼は、今はどうしているの?」

「背負ってるけど、私の背中に」

「僕の背中だったら怖いじゃないか」僕は笑った。「え? 背負ってる?」

「あ、あった。これかな?」

 彼女がそう呟くとともに、部屋の照明が灯され、空間の全貌が明らかになった。

 僕から五メートルほど離れた場所にリィルが立っている。

 その背中に管理人の彼が背負われていた。

 しかし、その光景を見て、僕は声が出なくなった。

 どうして……。

「あ、点いた」リィルが言った。そして、僕の顔を見て彼女は硬直する。「……どうかした?」

 僕は黙って彼女の方に近づいていく。

 リィルの衣服には赤色の染みが広がっていた。

 それは、当然、彼女の体内から溢れ出したものではない。

 したがって、その流出もとは一つ。 

 彼の腹部から大量の血液が漏れている。

「急いで、緊急医療センターに連絡するんだ」彼女の背中から管理人の彼を降ろして、僕は言った。「そこに、電話があるから、それで……」

「え? どうして?」

「早く!」僕は叫ぶ。「彼が死んでしまう」

 僕がそう言うと、リィルは立ったまま目を瞬かせた。

「どういうこと?」

「説明している暇はない」僕は話す。彼の腹部に自分の掌を当て、出血が治まるように努力する。「いいから、僕の言う通りに」

「彼は、気を失っているだけだよ」

「違う」

「でも、そうだから」

「だから、違うんだ」

 リィルは僕の傍に屈み込む。

 我慢ができなくなって、僕が大声を出そうとした瞬間、彼女がおかしな挙動をとった。

 リィルは、自分の手を手首から取り外す。

 腕から三本の管が出てきた。

 その内の一つを切断し、管の中から液体を零し始める。

 液体は彼の腹部に注がれていく。

 僕は、驚いて、何も言えなかった。

「彼は、気を失っているだけ」リィルは落ち着いた口調で説明した。「すぐに目を覚ますと思うけど、でも、一応、君がどうしてもって言うから、これくらいの処置はしておこうと思う」

「……どういう意味?」

「彼は、ウッドクロックだった」

「……え?」

「これで、私を含めて、二人目」

 僕は彼の顔を覗くように見る。

 彼が、ウッドクロック?

 人間じゃない?

「ああ、駄目だ、私って……」リィルが呟く。「どうして、もっと早く気がつかなかったんだろう……」

 沈黙。

 液体の滴下音。

 僕は彼女の掌に触れる。

「……何?」

「痛くないの?」

「痛いよ」リィルは言った。「でも、それは、生きている証拠だよ」
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