Think about Your Heartbeat

羽上帆樽

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第1章 邂逅の改稿

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 僕は彼女の心臓に触れていた。

 円形の木材。その中心。透明の素材でできた窓の中に小さな二本の針が見える。それらは互いに異なるリズムで回転し、やがてもとあった地点へと戻ってくる。その永遠の繰り返し。音はほとんど聞こえない。耳を近づけたら多少は聞こえるようになるかもしれないが、そんなことをしたら警察に通報されてしまうかもしれないから、今のところは余計な行動をとらないように心がけた。

 空には月が昇っている。今日に限って満月だった。今日に限って、とわざわざ断る意味は特にない。僕がそういった無意味な説明が好きだというだけである。というよりも、この世界に存在するありとあらゆる事象は、人間が関わらない限りそのすべてが無意味である。意味を持つ生き物は人間しかいない。意味を持つというのは、存在そのものに意味があるということではなく、意味を作り出す生き物、そしてその意味を用いて自らを規定する生き物が、人間を除いてほかにはいないということを示している。

 吹き抜ける風。

 ブランコの往復。

 僕と彼女は小さな公園の片隅に留まり、微妙に年季が入った木造のベンチに腰をかけていた。そこに座ろうと提案したのは僕の方である。彼女は絶対にそんなことを提案したりはしない。エネルギーの無駄になるようなことはしないのが彼女という存在であるし、僕もできるならそういうことは避けたいと思っている。しかし、思っただけでは現実に影響を与えることはできない、というのが人間が持つ習性の一つであるから、どちらかというと、僕は彼女以上にエネルギーを消費する傾向にある。彼女もそれは充分に分かっているみたいだったし、別に分かってもらう必要なんてまったくなかったけれど、僕としても、彼女に認めてもらえたような感じがして、まったく嬉しくないというわけではなかった。

 さて、これではあまり面白くないだろう。

 僕が一人で話したりしていては……。

 仕方がないので、僕は言葉を発するように努めることにした。僕が黙っている限り、彼女が口を開くこともない。しかし、それでは物語がなかなか進行しない。そして、これは誰がなんと言おうと物語という形式をとっているのだから、僕にはそれを記述する義務がある。

 なんて、こんなことを言ったら、多少は聞こえが良くなるかな、なんてちょっとだけ期待したりして……。

 とにもかくにも、僕は自分の唇を動かした。

「痛い?」僕は彼女に尋ねた。

「うーん、あまり、痛くはありません。むしろ心地良いと思います」

「あ、そうなの?」

 僕は彼女の心臓に重ねた手を動かす。

 脈はない。

「ウッドクロックには、人間と同じように感覚神経が備わっています」彼女は言った。「しかし、自分にとって負になる感覚については、自動的に遮断されるようになっているのです」

「へえ……。しかし、何が負で、何が正かなんてことは、考えれば考えるほど分からなくなるんじゃないの?」

「うん、その通りです」

「じゃあ、君を設計した人は、いったい何を考えてそんな仕組みにしようと思ったのかな?」

「私には分かりません」

「それじゃあ、僕にも分からないなあ……」

 彼女は僕の手の上に自分の掌を重ね、そこに少しだけ力を込めた。

 そのまま僕の顔を見つめてくる。

 彼女の視線はとても冷たい。

 零度、という温度を纏っている。

 まるで氷。

 しかし、ドライアイスに触ったとき、一瞬だけ奇妙な暖かさを感じるみたいに、その中にはどこか容認できる熱が込められていた。

「気温が低下してきたんじゃないかな、と思います」彼女は一度瞬きをした。「部屋に戻られた方がいいでしょう」

「君はどうするの?」

「貴方の家に入れますか?」

「僕の家?」僕は少しだけ驚いた。驚いたから、素直にその感想を口にした。「驚いたなあ……。初対面の人間に対して、家に泊めてくれ、なんてお願いをするなんて」

「泊めてくれ、とは言っていません」

「まあ、そうかな……」

「それに、初対面でもありません」

「うん」僕は頷いた。「そうだね」

 彼女が言った通り、僕も彼女もすでにお互いのことを知っている。それほど詳しく知っているわけではないけれど、一度会ったことがあるのは事実である。

 それは、僕の記憶が正しければ、確か十三年も前のことだった。

 そのときも、彼女は今と同じような佇まいでベンチに座って、僕のことをじっと見つめていた。

 僕はその光景を覚えている。

 そして、約束。

 その約束を果たすために、彼女はわざわざ再び僕に会いにきたのである。

「うん、でも、まあ、いいよ、泊めるくらいなら」暫くしてから、僕は言った。「それくらいしないと、君との関係も上手くいかない、という感じがするからね」

「意味と、理由と、思考が、すべて同時に分かりません」

「分かる必要も、すべて同時に理解する必要も、まったくないよ、すべて同時に」
 
 僕がそんなことを呟くと、彼女は数秒の間を空けてから僅かに笑った。

 肩を震わせている。

 しかし、そんなに面白いことではないだろう、と僕は思う。

 さて……。

 それでは、家に帰るとしよう。

 確かに寒くなってきた。

 僕と彼女はベンチから立ち上がり、黙って公園の外に出た。この公園は小高い丘の上に位置しているから、ここからだと街の全貌を見渡すことができる。橙色の人工的な明かりが丘の下に広がっていて、すぐ傍に幾人もの人間が存在することが分かった。どうしてなのかは分からないけれど、こういう光景を眺めていると、僕の中ではちょっとした安心感のようなものが芽生えてくる。比較的友達付き合いが少ない僕であるし、別に誰かと一緒にいたいわけでもないのに、どうしてそんなふうに感じるのかな、と自分でも不思議に思うことが度々あった。

 いや、誰かと一緒にいたいわけでもない、というのは少し違うかもしれない。

 そう……。

 僕は、自分でも知らない間に、自分にとって理想的な人物を探しているのである。

 それが正しい。

 そして、その理想的な人物というのが、彼女だったのかもしれない。

 もっとも、彼女は人間ではないけれど……。

 歩きながら、僕は隣を行く少女の横顔をそっと見た。彼女は目を伏せて歩いている。転んでしまわないかな、と僕はちょっとだけ心配になった。

 細い腕。

 脚。

 これが自然発生的なものであれば素晴らしいけれど、彼女は生き物ではないから、その素晴らしさは多少損なわれてしまう。

 けれど、全然許容範囲内。

 それくらいなら僕は許せる。

 いや、許せるなんて、いったい何様のつもりなんだろう……。

「夜の道は、暗くて、寂しくて、あまり好きではありません」歩行を続けながら、彼女は小さく呟いた。「可視光線が少なくなることで、人間は不安を覚えるのですか?」

「ああ、うん、どうだろう……」僕は考える。「でも、まあ、暗い所にいると怖く感じるわけだから、その考え方も間違ってはいないかもね」

「えっと、私は、暗い所は黒いので、好きではありません」

「黒い? 色に呼応して感情が引き起こされる、ということ?」

「全般的に、黒、という色が苦手です」

「へえ……。それは、どうして?」

「分かりません」

「そういうふうにプログラムされている、ということなのかな」

「おそらく、そうでしょう」

「じゃあ、どうしてそんなプログラムが必要なの?」

「分かりません」彼女は首を振った。「自分のことは、他人に関することより、分からない傾向にあります」

 その通りだ、と僕も思った。

 彼女は人間ではないけれど、人間が「人間」と呼ばれるのと同じように、彼女には種族としての名称が与えられている。彼女曰く、その種族はウッドクロックと呼ばれる人工生命体で、人間から姿を隠して密かに生活しているらしかった。しかし、僕はすでにその情報を十三年前から知っている。彼女が自分からそう説明したからである。人工的に作られた生命体なのに、人間から姿を隠しているというのは、いったいどういうことなのだろう、と考えたことがあるけれど、今のところ納得のいく結論に至ったことはない。それでは彼女に直接尋ねれば良いではないか、という話になるが、僕はそうした行為をできるだけ少なくするように心がけている。理由を説明することはできない。言ってみれば、それが僕のポリシーというものだからであり、そして、それと同時に、彼女に対する愛情のつもりだからでもある。

 ウッドクロックというのは、彼女を構成する一つのパーツの名称でもある。人間でいうと心臓にあたる器官のことで、これがないと彼女は自立的に動くことができない。心臓としての機能だけでなく、それは脳としての機能も担っている、といった点に動物とは異なる要素が含まれている。つまり、もしこのパーツが故障してしまったら、彼女という人格は二度と復元できなくなってしまう。動力源と同時に記憶媒体も機能を停止してしまうからだ。

「寒いです」僕がそんなことを考えていると、彼女が唐突に呟いた。

「そう?」僕は訊き返す。

「とても、寒いです」彼女は言った。「暖めて頂けませんか?」

「どうやって?」

「うーん、貴方の好きな方法で構いませんが、人工的な機器の使用は避けて頂けると助かります」

「君自身、人工的な存在じゃないか」

「だからこそ、そうして頂きたくないのです」

「どういう意味?」

「人工的なものは嫌いなんです」彼女は説明した。「人間も、動物よりは、機械を愛しているのではありませんか?」

 どうだろう、と僕は考える。

「うん……。まあ、言いたいことはなんとなく分かるけど……」

「なんとなく分かれば、充分です」

「では、どうやって暖める?」

「電子レンジを使う、というのはどうでしょう?」

 僕は思わず笑ってしまった。

「それは人工的な機器なんじゃないの?」

「あ、そうでした」彼女は言った。「忘れていました」

 丘を完全に下り切り、踏切を渡って十字路に辿り着く。そのまま直進し、ひっそりとした住宅街を十五分ほど歩き続けた。僕の家はこの街の中心に存在する。街は山と海に囲まれていて、北に海、南に山、という配置になっている。

 家に到着する。

 玄関のドアを開けて中に入った。

 一般的な一軒屋なので、特に目新しい点は何もない。僕はこういったシンプルな空間が好きだった。ちなみに、好きという感情を抱くのに理由は必要ないので、好きな理由を説明することはできない。当たり前である。では、どうしてこんな当たり前のことを言うのかというと、それは僕が人間だからである。人間には無駄なことが必要なのですね、と十三年前に彼女に言われたことを、僕は今になって思い出す。

「失礼します」

 靴を脱ぎ、彼女は玄関に上がった。

「どうぞ」僕は彼女を案内する。「特に散らかってはいないけど」

「散らかっていない方が好きなのですか?」

「君は、散らかっている方が好きなの?」

「私は、どちらとも好きです」彼女は微笑んだ。「というよりも、何でも好きです、と言った方が正しいと思います」

 自分でそう言った通り、リビングは比較的整理整頓されている。比較的というのは、世間一般に比べると整っている、という意味である。こんなことを言うと、それでは世間一般とはいったい何なのか、といった話題に発展しかねないので、これ以上余計なことは言わないでおこうと思う。

 さて……。

 僕はキッチンに移動し、コーヒーを淹れる準備をした。

 彼女は飲み物は飲まない。となると、必然的に僕の分だけを用意することになる。コーヒーを一人分だけ上手く抽出するのは難しい。どうしても味に偏りが生まれやすくなってしまう。けれど、なんとなく偏りのあるコーヒーが飲みたい気もしたから、僕はわざと一人分しか豆と水を用意しなかった。

 なるほど……。今日の僕は、なんだか浮かれているようだ、と状況を把握する。

 リビングに戻ると、彼女はソファに深く腰をかけていた。

「何もないよ」辺りに視線を巡らせていた彼女に向かって、僕は言葉をかけた。「必要のないものは買わない主義なんだ」

「では、私は必要ですか?」

「それ、どういう意味?」僕は笑った。「必要か、そうでないかと訊かれれば、間違いなく必要だと思う」

「うん……。それを聞いて安心しました」

「あのさ」僕は彼女の隣に座る。距離感が一気に縮まった。「もう少し、ラフな話し方をしてくれないかな」

「どういう意味ですか?」

「敬語とか、使わなくていいから」

「失礼ではありませんか?」

「うん……。というよりも、なんていうのか、こう……、君の性格には合わないと思う」

「そうですか?」

「うん、そう」

 僕がそう言うと、彼女は一度目を閉じ、そのまま呼吸だけを続けた。彼女も人間と同じように酸素からエネルギーを取り出している。つまり、心臓兼記憶媒体としてのウッドクロックは、酸素と二酸化炭素の交換を行う肺としての機能も担っている。なかなか素晴らしい発明だと思う。まさに兼業農家といった感じである。

「じゃあ、分かった」

 暫くしてから、彼女は目を開いて答えた。

「こんな感じで、いいかな?」

 僕は彼女の顔を見つめる。

「うん、いいよ」

 彼女は少し笑った。

「じゃあ、これでいくね」

「どこに?」

「え? どこって、何が?」彼女は首を傾げる。

「いや、なんでもない」僕も笑った。「まあ、気にしなくてもいいよ。ときどき、こんなふうに変なことを言ったりするのが、僕という人間だから」

「へえ……」

 キッチンから甲高い音が聞こえてくる。コーヒーができたらしい。僕はソファから立ち上がり、一度リビングから立ち去ろうとする。

 しかし、服の袖を掴まれて、僕は上手く移動することができなかった。

 後ろを振り返る。

「何?」僕は尋ねた。

 彼女は僕の顔を見つめている。その瞳は限りなく透明で、氷のように澄んだ色に輝いていた。

「あのさ」

「うん」僕は頷く。

「約束、覚えてる?」

「何の?」

「十三年前にした、あの約束」

「うん、まあ……」

 僕がそう答えると、彼女は嬉しそうな顔で笑った。

「どうしたの?」

 彼女はまだ笑っている。

「いや、なんでもない」彼女は呟く。「よかったって、そう思った」





 地球規模のオーロラが発生した場合、人類はすぐに火星に移住しなくてはならないらしい。オーロラから発せられる不可解極まりない電波を人間の脳が受信してしまい、地球を破壊する化身と化す恐れがある、とのことである。もちろん、これは僕が考えたことではない。僕の頭はかなり螺子が緩んでいるけれど、そこまで突拍子のないことを発想するようにはできていない。

 そんな意味の分からないことを熱弁しているのは、テレビの向こう側に座っている一人の科学者である。僕はあまりテレビを見ない方だが、なぜかうちにはテレビがあった。いつ買ってきたのかは覚えていない。僕と彼女はソファに並んで座り、その不可解な説明に熱心に耳を傾けている。いや、僕は熱心に聞き入ってなどいない。そんなことをしているのは、あくまで彼女一人だけである。

 彼女はテレビの画面をじっと見つめている。

 そのまま動かない。

 そんな彼女の横顔を、僕は隣で眺めていた。

 なかなか端正な顔つきをしていると思う。

 確かに、人間の意思によって作られたものなのだから、わざわざ負の要素を与えようという発想には至らないだろう。

 そう……。一言で言ってしまえば、彼女は相当な美形である。

「そんなに面白い?」そんなスペシャルな彼女に僕は質問した。

「え? あ、うん……」彼女はこちらを見る。「なんか、何言ってるのか全然分からないけど、面白いことを言っている、とは思う」

「君の、面白さの基準は?」僕はコーヒーを飲んだ。「人間と同じなの?」

「さあ……。それは、分からないけど……」

「君を作った人は、きっと、本当は人間を作りたかったんだろうね」

「どうして?」

「いや、なんとなく……」

 僕はリモコンを操作してテレビの電源をオフにした。

「さて……。じゃあ、せっかくだし、色々話してみようかな」

 彼女は僕の顔を見て一度小さく頷く。

「うん。いいけど、何を話すの?」

「まずは、君に関することから」

「私?」

「そうだ」僕は言った。「軽く自己紹介をしよう」

「もう、知ってるんじゃないの?」

「いや、まだ、あまり」

「そう?」

「うん、そう」

 リビングの照明は消えている。今は夜だから、窓の外から入ってくる月明かりだけがこの空間を照らし出していた。家の近くに街灯はない。特に治安が悪いわけでもないし、ゴーストが出るという噂もないから、暗くても何か問題があるわけではない。

「えっと、自己紹介って、何をどう説明すればいいの?」彼女は言った。

「え? うーん、やっぱり、好きな食べ物とか、好きな色とか、そういうのを教えるんじゃないの?」

「好きな食べ物はない。好きな色は、茶色」

「へえ……。あ、茶色なんだ」

「ごめん、適当に言った」彼女は首を傾ける仕草をする。そのジェスチャーの意味は分からない。

「茶色、という色が認識できるということは、君は可視光線を使って世界を見ている、ということ?」

「うーん、可視光線が何か分からないけど……」

「あそう」僕は頷く。「ま、知らなくても、不思議ではないか」

「え、どうして?」

「いや、なんか、君ならそう言いそうだ、と思って」

「分かっているなら、もう、自己紹介なんてする必要はないんじゃない?」

「君さ、自分について語るのが嫌いなの?」僕は笑った。「まあ、別にいいけど」

 自分でも何がしたいのか分からなくなってきて、僕はとりあえず顔に笑顔を貼り付けておいた。

 彼女がどのように世界を見ているのかは分からないが、少なくとも、彼女という個体が人間をもとに作られていることは確かである。たとえば、表情からある程度の心的情報を読み取ることができる、という点からもそれが分かる。僕が笑っていれば彼女も笑ってくれるし、反対に、僕が真面目な口調で話しているときであれば、彼女もそれなりに僕の話に付き合ってくれる。これは使っている言語が人間と同じものだからである。この場合の言語というのは、文字や発音、文法事項といった人工的なものではない。言うなれば、もっと根源的、人間という種が生まれたときから持ち合わせているような、すべての人類に共通する普遍的な記号のことを指す。

 言語が同じであれば、当然ながら意志の疎通を図ることができる。つまり、人間とウッドクロックが突然戦争を起こすような事態は回避できる可能性が高い。武力は自分の意思を言葉で伝えられないときに頼るものだし、言語情報を共有できるのであれば、お互いに妥協点を見つけた方が最終的な利益が大きくなる。

 なるほど……。

 つまり、人間とウッドクロックの関係は、最初から仕組まれていたことになる。

 そんな未来を仕組んだのは、もちろんウッドクロックを開発した人物にほかならない。

 それは誰だろう?

 目の前の彼女には当然興味があったけれど、僕としては、その開発者に対しても好奇心を擽られるものがあった。

「君は、自分が誰に作られたのか、覚えている?」

 暫くしてから、僕は彼女に質問した。

「いや、覚えていない」彼女は首を振る。「それは、人間が自らの創始者を知らないのと同じだと思う」

「なかなか哲学的なことを言うね」

「哲学って何?」

「君、それ、冗談で言っているの?」僕は笑った。

「冗談? どこに、そんな要素がある?」

「冗談を言えるのは、高尚な頭脳を持っている証拠だ」僕は話した。「具体的な形もなく、規定することもできない、面白さ、という概念を知らなければ、そんな気の利いた台詞を口にすることはできないからね」

「それが、どうして高尚なの?」

「予期していなかった事態にも関わらず、その場に適した行動を瞬時に選択することができるからだ」

 彼女は首を右に傾けて、次に左に傾ける。その動作を三回ほど繰り返し、ついにはそのまま固まってしまった。

「……大丈夫?」僕は声をかける。

「ちょっと、理解できなかったかも」

 今度は僕が口を開けたまま固まる番だった。

「まあ、僕の説明が下手だったのかもしれないし……」

「うん」

「あ、それは、何に対する肯定?」

「え?」彼女はさらに首を捻る。「君の説明が下手だったんじゃないの?」

 僕は、これ以上何も言うまい、と心に誓った。

 ところで、随分と悠長なやり取りをしているが、実際はこんなことをしている場合ではなかった。というのも、あともう少ししたら夜が明けてしまう。その前になんとしてでも布団に入らなければならない。しかし、僕は今までずっと一人暮らしだったから、当然家にはベッドが一つしかない。したがって、このどうにも厄介な気配のする問題について、なんとか頭をはたらかせて結論を出さなくてはならなかった。

 さて、どうしたものか……。

「なんだか、眠くなってきちゃった」僕がそんなことを考えていると、彼女が図星を指すようなことを言った。「私、ここで寝てもいいかな?」

「ウッドクロックも眠ったりするの?」

「するよ、そりゃあ」彼女は頷く。「人間は眠らないの?」

「いや、眠るけど……」

「じゃあ、早く寝たら?」

「うん……」

 僕は彼女の顔をじっと見つめる。

 視線。

 交差。

 数秒間そのままの状態を維持した末に、僕は一つの結論を導出するに至った。

 ここは、やはり、彼女に布団を譲るべきだろう。

 種族が異なるとはいえ、どんな文化でも女性を大切にする心構えは欠かせない。

 うん、そう……。

 そうに違いない。

「あ、そうそう、えっとさ、まだ言ってなかったんだけど」僕は言った。「実は、僕の家にはベッドが一つしかないんだ」

 僕がそう言うと、彼女はきょとんとした顔のまま固まった。

 いちいちフリーズしないでもらいたい。

「そうなの?」彼女は首を傾げる。「それが、どうかしたの?」

「いや、だからね……、そのベッドは、君に譲ろう、ということなんだ」

「え、なんで?」

「だって、ほかに寝る所なんて、どこにもないだろう?」

「うーん、このソファでも充分眠れそうだけど」彼女は自分が座っているソファの表面に触れ、感触を確かめる。

「いやいや、まさか、そんな、来賓に対して失礼じゃないか」

「じゃあ、君はどうするの?」

「だから、僕がこのソファで寝る」僕は言った。「言ってなかったけど、僕はね、ずっとベッド以外の場所で眠るのが夢だったんだ。でも、目の前にベッドがあると、ついついそちらの方に身体が向かってしまって……。だから、その、なんていうのか、こんな絶好のチャンスはそうそうあるものじゃない、と思ってさ」

「ふーん……。……変なの」

「そう、変なんだ、僕って」僕は自分の頭に触れる。

「あ、じゃあ」彼女はぱっと表情を明るくし、人差し指を立てた。「一緒に眠ればいいんじゃない? その、ベッドで」

 僕は絶句する。

 自分の耳を取り外して、耳介の奥の方まで検査したい衝動に駆られたが、生憎と僕は人間なので、そんな器用なことはできない。

「え、何か、言った?」

 とりあえず、惚けておく。

「いや、だから、一つのベッドを二人で使えばいいんじゃないかな、と思ったんだけど」

「君は、一度、お医者さんに診てもらった方がいい」

「そんなことしたら、人間じゃないって、すぐにばれるよ」

「全然構わない」僕はゆらゆらと首を振る。「常識を外れた行動をとられるよりは、よっぽどましだ」

「うーん、よく分からないけど……」彼女は言った。「でもさ、二人で眠った方が、きっと暖かいと思うし……」

 僕は小さく溜息を吐く。

 この生命体を作った開発者は、いったいどんな神経をしていたのだろう、と僕はさらなる好奇心を募らせた。

 確かに、面白い。

 彼女と一緒にいれば、退屈しないだろう。

「とにかく、僕は何がなんでもソファで寝る」最終的に、僕は自論を押し通すことにした。「君に断る権利はない。それは、僕がこの家の主で、君はあくまでも来賓にすぎないからだ」

「え?」

「何か文句でも?」

 彼女はまたまたフリーズする。頭から湯気が出てきそうだった。

「君さ、約束、覚えてないの?」

 暫くしてから、彼女は怪訝そうな顔をして言った。

 ……約束?

 そうだった……。

 そこで、僕はその内容を思い出した。

 完全に忘れていた。

 どうしてだろう?

 自分に都合の悪いことは、自動的に排除する性質を持っているのだろうか?

「えっと……、約束とは、何かな?」

 冷や汗。

 しかし、僕の誤魔化しは通用しなかった。

 彼女は僕を睨む。

「君さ、私と結婚してくれるって、言わなかったっけ?」

 ……。

 ええ、確かに。

 十三年前の僕は、そう言いましたとも。
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