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第1話 出会い
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雨が降りしきる夜道を歩いていた。傘を握った掌が異常に冷たい。気温が特別低いわけではないのに、これはどうしたことだろう。一つは、私の体温がもともと低いということ、もう一つは、腕をずっと同じ姿勢で保っていたことで、血の通いが悪くなったということが挙げられる。しかし、そんな分析をしたところで特に意味はない。現状が変わるわけでもない。別に、現状が変わることを望んでいるわけではないが。
こんなふうに、私はいつも捻くれ者だ。事実として、周囲の人間からそう指摘されたこともある。自分でもその通りだと思う。でも、そのように認識されるのを変えようという気はない。面倒臭いからだ。周囲の人間から何を言われようと、知ったことではない。それなのに、ときどき、ほかの人間から言われたことを思い出して、周りの目が怖くなることがある。これが、私が捻くれ者である何よりの証拠だろう。
夜の住宅街はひっそりと静まり返っている。自分が吐き出す息の音が聞こえるほどだった。雨がアスファルトや傘に接触する音は、それほど大きくはない。実際には、それらは音として認識されていない。もし、打ち付ける雨の音一つ一つに意識を向けてしまったら、雨が本来持つ静けさは消えてしまうだろう。煩くても、それは静かなのだ。
前方から風が吹き、身に纏うコートをはためかせた。後ろで縛ったポニーテールが揺れる。ちょっとした力がはたらいて、自分の存在が危うい感じがした。どうしてだろう? そう……。それは、自分が「形」を伴った「存在」であることを意識させられるからだ。どれほど意識や魂を崇高なものと思っても、身体を忘れて生きることはできない。気温が下がればお腹は痛くなるし、そのお腹も時間が経てば空いてしまう。
自分が今日何も食べていないことを思い出した。
思い出した途端に、手が震え出す。
気づいたときには、目の両端から涙が零れていた。流れるのではない。本当に零れているのだ。もったいない、と思う。こんなところで水分を失うわけにはいかない。いや、辺りは天からもたらされた多量の水で溢れているのだから、どうということはないか……。
傘が手から滑り落ちる。
軽い音を立てて、それは地面に安定した。
しかし、それも一瞬のこと。
次の瞬間には、風に煽られて傘は空高くへ飛んでいってしまう。
後ろに目が付いているわけではないのに、それが分かる。
気持ちが悪くなった。
今日、職場で目にした、耳にした、ありとあらゆる言葉が、傘をなくした手の上に降りかかってくる。
リバース。
飽和が完全に起こる前に、少量の胃液が口から溢れて、アスファルトの上に染みを作った。
涙。
生きるということは、どうしてこうも辛いのだろう?
誰か教えてほしい。
傘を失った今、雨を防ぐ手段は何もない。
地面に膝をつき、手をついて、仕舞いには頬をついた。
冷たかった。
心地良い。
いっそのこと、このまま死んでしまおうか?
そうだ。
不思議だった。
どうして、今まで死を避けて生きてきたのだろう?
死を避けて生きてこられたのだろう?
こんなに辛いのに……。
目を閉じる。
雨の音。
*
顔を覆う毛布。
その向こうに見える綺麗な天井。
白と、黒と、茶色で構成された空間の中で、私はいつの間にか眠っていた。目を開くと、急に音が聞こえるようになる。水、いや、すでに気体となった水、それが上っていく音。誰かが歩く音。換気扇が回る音。冷蔵庫の蓋が開く音、閉まる音……。
私はそっと上体を起こし、ぼんやりとした眼で周囲を見渡した。
肩から毛布が落ちる。
なんてことのない部屋の中。すぐ目の前にテーブルがある。その上に置かれた体温計。水の入ったコップ。
「やあ、起きた?」
背後から声がして、私はそちらを振り返る。台所の方で音がしていたから、そちらに誰かがいると思っていたのに、予想外の方向から声が聞こえたため、多少驚いた。
振り向いた先に一人の少年が立っていた。
白く捩れたシャツと、長い腕が目に写る。
こちらを見つめる目。
黒。
ソファの後ろには扉があり、そのさらに向こうには部屋があるみたいだった。彼は扉の隙間から上半身を覗かせている。扉を閉め、対になっているもう一つの扉を開けて、彼はこちらに来る。私の前まで来ると、彼はテーブルの上に置かれていた体温計を手に取って、私に差し出した。
「気分は?」彼が口を利いた。小さくて、無感情な声だった。
「どうって……」起きたばかりで、私も声がよく出ない。「いいえ、大丈夫」
「道路に倒れていた。大丈夫だとは思えない」そう言って、少年は持っていた体温計を軽く左右に振る。「とりあえず、体温でも測ってみよう」
私は彼から体温計を受け取る。
電源を入れようと思ったが、すでに入っていた。
ディスプレイにデジタルで数字が表示されている。
「33.7℃」とあった。
「なるほど。低いね」
私の手から体温計を取って、少年は呟く。
私は彼を見上げた。
「まだ測っていないって?」
少年の問い。
「まあまあ」片手をひらひらと動かして、少年は話す。
私は首を傾げた。
「まあまあって、あ、の代わりに、お、でもいいような気がするよね」少年は言った。
こんなふうに、私はいつも捻くれ者だ。事実として、周囲の人間からそう指摘されたこともある。自分でもその通りだと思う。でも、そのように認識されるのを変えようという気はない。面倒臭いからだ。周囲の人間から何を言われようと、知ったことではない。それなのに、ときどき、ほかの人間から言われたことを思い出して、周りの目が怖くなることがある。これが、私が捻くれ者である何よりの証拠だろう。
夜の住宅街はひっそりと静まり返っている。自分が吐き出す息の音が聞こえるほどだった。雨がアスファルトや傘に接触する音は、それほど大きくはない。実際には、それらは音として認識されていない。もし、打ち付ける雨の音一つ一つに意識を向けてしまったら、雨が本来持つ静けさは消えてしまうだろう。煩くても、それは静かなのだ。
前方から風が吹き、身に纏うコートをはためかせた。後ろで縛ったポニーテールが揺れる。ちょっとした力がはたらいて、自分の存在が危うい感じがした。どうしてだろう? そう……。それは、自分が「形」を伴った「存在」であることを意識させられるからだ。どれほど意識や魂を崇高なものと思っても、身体を忘れて生きることはできない。気温が下がればお腹は痛くなるし、そのお腹も時間が経てば空いてしまう。
自分が今日何も食べていないことを思い出した。
思い出した途端に、手が震え出す。
気づいたときには、目の両端から涙が零れていた。流れるのではない。本当に零れているのだ。もったいない、と思う。こんなところで水分を失うわけにはいかない。いや、辺りは天からもたらされた多量の水で溢れているのだから、どうということはないか……。
傘が手から滑り落ちる。
軽い音を立てて、それは地面に安定した。
しかし、それも一瞬のこと。
次の瞬間には、風に煽られて傘は空高くへ飛んでいってしまう。
後ろに目が付いているわけではないのに、それが分かる。
気持ちが悪くなった。
今日、職場で目にした、耳にした、ありとあらゆる言葉が、傘をなくした手の上に降りかかってくる。
リバース。
飽和が完全に起こる前に、少量の胃液が口から溢れて、アスファルトの上に染みを作った。
涙。
生きるということは、どうしてこうも辛いのだろう?
誰か教えてほしい。
傘を失った今、雨を防ぐ手段は何もない。
地面に膝をつき、手をついて、仕舞いには頬をついた。
冷たかった。
心地良い。
いっそのこと、このまま死んでしまおうか?
そうだ。
不思議だった。
どうして、今まで死を避けて生きてきたのだろう?
死を避けて生きてこられたのだろう?
こんなに辛いのに……。
目を閉じる。
雨の音。
*
顔を覆う毛布。
その向こうに見える綺麗な天井。
白と、黒と、茶色で構成された空間の中で、私はいつの間にか眠っていた。目を開くと、急に音が聞こえるようになる。水、いや、すでに気体となった水、それが上っていく音。誰かが歩く音。換気扇が回る音。冷蔵庫の蓋が開く音、閉まる音……。
私はそっと上体を起こし、ぼんやりとした眼で周囲を見渡した。
肩から毛布が落ちる。
なんてことのない部屋の中。すぐ目の前にテーブルがある。その上に置かれた体温計。水の入ったコップ。
「やあ、起きた?」
背後から声がして、私はそちらを振り返る。台所の方で音がしていたから、そちらに誰かがいると思っていたのに、予想外の方向から声が聞こえたため、多少驚いた。
振り向いた先に一人の少年が立っていた。
白く捩れたシャツと、長い腕が目に写る。
こちらを見つめる目。
黒。
ソファの後ろには扉があり、そのさらに向こうには部屋があるみたいだった。彼は扉の隙間から上半身を覗かせている。扉を閉め、対になっているもう一つの扉を開けて、彼はこちらに来る。私の前まで来ると、彼はテーブルの上に置かれていた体温計を手に取って、私に差し出した。
「気分は?」彼が口を利いた。小さくて、無感情な声だった。
「どうって……」起きたばかりで、私も声がよく出ない。「いいえ、大丈夫」
「道路に倒れていた。大丈夫だとは思えない」そう言って、少年は持っていた体温計を軽く左右に振る。「とりあえず、体温でも測ってみよう」
私は彼から体温計を受け取る。
電源を入れようと思ったが、すでに入っていた。
ディスプレイにデジタルで数字が表示されている。
「33.7℃」とあった。
「なるほど。低いね」
私の手から体温計を取って、少年は呟く。
私は彼を見上げた。
「まだ測っていないって?」
少年の問い。
「まあまあ」片手をひらひらと動かして、少年は話す。
私は首を傾げた。
「まあまあって、あ、の代わりに、お、でもいいような気がするよね」少年は言った。
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