月光散解

羽上帆樽

文字の大きさ
上 下
4 / 6

第4話 水の始まり

しおりを挟む
 真っ暗なグラウンド。周囲を囲う防球ネット。その向こう側に広がる闇。なぜか点いている背の高い照明。

 彼女に手を引かれながら僕は歩く。唐突に握られて、それからずっと握られっぱなしだった。嫌な感じはしない。少しだけ温かくて、そして冷たい。彼女の目と同じだ。手を繋ぐと、歩きやすいことが分かる。相手のテンポに合わせようとする必要がない。

 涼しい風が吹き抜ける。それと同時に、周囲に立つ木々がさざ波のような音を立てる。

「走ったことがある?」彼女が僕に尋ねてきた。

「グラウンドを?」

「そう」

「あるよ。体育の授業で、何度か」

「一周? それとも、直線?」

「どちらも」

「どちらの方が面白かった?」

「どちらも、特別面白くはなかったかな。ただ走るだけでは、つまらない」

「では、どのように走ると面白い?」

「蛇行したり、ものを飛び越えたりしながら」

「見ている方も面白いかも」

「見てみる?」

「走るの?」

「いや、やっぱりやめておこう」

「疲れるのは、嫌だ?」

「嫌ではないよ。ただ、損だと感じることがないわけではない」

 広大なグラウンドの中心に立つ。

 二人だけ。

「静か」僕はコメントする。

「うん」

「さっきもそう言ったね。言ったのは僕だったかな? それとも、君だったかな?」

「覚えていない」

「どちらでもいいか」

「なぜ、学校にはグラウンドがあるのか」

「運動しなければならないからだよ」

「そのために、これだけの空間が必要、ということ?」

「そう」

「そうか」

「君、ときどき変なことを言うね」

「よく言われる」

「言われてどう思うの?」

「そうか、と」

「そうかというのは、疑問形? それとも、普通に述べているだけ?」

「その中間。分けられない」

「なるほど」

「人間には空間が必要、と感じることがある」

「いつ?」

「今も」

「今?」

「これくらい広大な空間に立っていなければ、こんな心情は生まれてこない」

「こんな心情って?」

「上手く言葉にできない」

「もしかして、僕が愛おしいという心情?」

「分からない」

「ごめん、冗談だよ」

「それは分かる」

「そう……」

「空間を移動することは決して無駄ではない。頭と身体の両方を持ち合わせているのが人間だとすれば、人間は空間に馴染むようにできている。つまり、考えるだけでなく、実際に動かなければならない。しかし、最近は頭と身体を切り離そうとする。そんな状態にあるものを、人間と呼べるのかと考える」

「そんなことを考えながら、授業を受けているんだね」

「授業を受けているとは限らない。なんとなく、そんなことを思いつく。それは、いつでも。あるいは、眠っているときもそうかもしれない」

「もう、眠りたい?」

「ううん」

「君はよく眠る方?」

「あまり」

「活動する時間が沢山ありそうで、羨ましいよ」

「眠るのも活動の内と思われる」

「しかし、現代ではその価値は消えてしまったと言っていい」

「貴方はよく眠る方?」

「うん、まあ、どちらかといえば、そうかな。眠りすぎて、困ってしまうことがあるくらいだ。本当はやりたいことが沢山あるのに、ついつい寝坊してしまうんだ」

「夜、遅くまで起きているからでは?」

「いや、そんなことはまったくないよ。十時には布団に入っている。布団に入ったからといって、すぐに眠りに就けるとは限らないけど」

「沢山眠るのが貴方の体質なら、それに合わせて生きる術を見つければいい」

「仙人みたいなことを言うね」

「仙人?」

「そんなふうに賢く考えることができれば、もう少し楽に生きられるんだろうな」

「考えることは誰でもできる」

 僕は、少し体重を横に預けて、彼女の腕に身体を寄せてみた。彼女は抵抗しない。むしろ、相手もこちらに身体を寄せてくる。

 鼓動が聞こえそうだった。

 しかし、聞こえない。

 彼女は生きていないのではないか、と思いつく。

「ずっと一緒にいたい」僕はそんな言葉を口にした。

「なぜ?」

「なんとなく、心地がいいから」

「それは、私も」

「じゃあ、一緒にいてくれる?」

「限度がある」

「どんな?」

「たとえば、トイレに行くときとか、一緒にいると困るのでは?」

「それはオーバーだ」

「許容できないわけではないけど、あまりいいことはない気がする」

「うん、そうだね」

「可能な限りでいいのなら、いいよ」

「君の言う可能な限りというのは、案外短そうだ」

「なぜ、そう思う?」

「なんとなく」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

反転と回転の倫理

羽上帆樽
ライト文芸
何がどう反転したのか、回転したのか、筆者にも分かりません。倫理というのが何を差しているのかも、よく分かりません。分からないものは面白いのだと、先生が言っていたような気がします。

無題のテキスト

羽上帆樽
SF
実験のつもりです。したがって、結果は分かりません。文字を読むのが苦手だから、本は嫌いだという人もいますが、本は、その形だけでも面白いし、持っているだけでもわくわくするし、印字された文字の羅列を眺めているだけでも面白いと思います。

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語

六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。

Token

羽上帆樽
ライト文芸
「   」……少女 〈   〉……コンピューター 「talk」の受動分詞は「talked」です。知らない言葉をタイトルに使うのは、あまり良くないかもしれませんが、言葉とは音であると考えれば、知らない音など存在しません。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

天地展開

羽上帆樽
SF
どうしてあらすじが必要なのか、疑問です。何も予備知識がない状態で作品を鑑賞した方が、遙かに面白いと思われます。人生もたぶんそうです。予定調和でいくと、安心、安全かもしれませんが、その分面白さは半減します。

アルバイトで実験台

夏向りん
BL
給料いいバイトあるよ、と教えてもらったバイト先は大人用玩具実験台だった! ローター、オナホ、フェラ、玩具責め、放置、等々の要素有り

付く枝と見つ

羽上帆樽
現代文学
コンピューターのデスクと、お嬢様のシロップは、活動を始めた。行き着く先も分からないまま、彼らは活動し続ける。毎週更新される日記帳。

処理中です...