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「普通」

普通の日常

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人はそれぞれ死ぬまでにしたいことの一つや二つ持っているものだ。この話を持ち出すと、「俺は普遍的な日常が好きだから」などと見当違いな発言をする輩もいるのだが、これはそういう類の話ではない。日常とはただ脈々と続くルーティーンの集積。そんな普遍的な日常の中で人は数あるスパイスを求めるのだ。

  神野郁《じんのいく》の場合の日常はその殆どをゲームに費やす。しかし、流石にゲーム機を学校に持ち込むほどの気概は彼にはなく、仕方なくソーシャルゲームで我慢しているのが現状。ホームルーム中に担任の話を右から左に流しつつゲームに興じるというのは手放しに褒められた行為ではないが、バレなければ多少は問題ない。そんな恣意的な一面は人間さながらの特性だと郁は言う。

「先程の集会でも紹介があったが今日は転校生を……」

  液晶に目を落としながら何とも奇妙な話だと思った。都会か田舎かを問答すれば、三:七くらいで後者が選ばれるであろう辺鄙なこの地を果たして転校先に選ぶのだろうか。
  しかも、今は高校二年の二学期だ。一学期にはまだ浮き足立っていたクラスメイトたちも次第に人間関係は固定され、今更異分子が入り込む余地など皆無に等しい。これがゴリ押し根性でいけるという希望的観測の持てる男子ならまだしも、階級意識の高い女子なら茨の道だ。

  担任の言葉に促され、件の転校生が指定された席に向かう。パタパタと足音が近づいてきてグラウンド側の最後列の隣でピタリと止まった。言わずとも、郁にはそれが何を意味するのかは分かる。
  転校生は郁を一瞥すると大人しく自分の席に着いた。隠れてゲームをやっていたことを告げ口されるのではないかと密かに懸念していた郁はその意思が彼女にないと分かると、ほっと胸を撫で下ろした。

「え~今日は放課後各種委員会の集まりがあるからな~」

  担任の諸連絡が意識の遠くで響き渡る。郁は再び液晶に視線を落とした。所々でクラスメイトが世間話を始める。その中で一際張り付くような視線が郁を捉えていた。厳密に言うと左隣からだ。
  視線をやると、じーっと自分を見据えているクラスメイトがいた。郁は意地でもそちらには振り向かず無視を決め込む。面倒事は出来る限り避けたい。第一、郁の勘違いかもしれないのだ。
  しかし、相手も中々手強かった。微塵も意に介さない郁に更に追い討ちをかけるように体の向きをひねった。
  基本的に教卓に立つ担任の向きと対になるように配列されたはずの椅子が郁の横腹と対面している。これは一体、どういう状況なのだろう。郁とて理解不能だったが、下手に反応すれば相手が調子づくかもしれない。ここは辛抱が吉だ。

「むぅ……」

  隣で唸り声が一つ。これを機に諦めてくれと心中穏やかでない郁の願いが成就することはなかった。
  何とそのまま放課後を迎えてしまったのだ。郁とて自分が何を言っているのかイマイチ理解出来ないが、事実なのだから仕方がない。

  確かに今日は新学期初日なので半日で全行程が終了したのだが、ホームルームの間、終始視姦プレイを耐えられるほど郁の精神は屈強にできていない。おまけに、最後の方にはガタガタと椅子を引く謎めいた抵抗を見せてきたのだ。これを不可解と言わずなんというだろうか。新学期初日から担任に注意を受けるなんてみっともないやつだと心中せせら笑っていたのだが、彼女のアピールは冗談の領域に収まらなかったようだ。
  しかし、日常は断続的に進行していく。一時間弱の視姦プレイから解放された郁は我先にと席を立ち上がる。
  すると、視姦プレイの匠が郁の行く手を阻むように立ち塞がっていた。

「……」
「……」

 そのまま暫く双方対峙していたが、 口火を切ったのは転校生の方からだった。

「……あなたが珍野郁君?」

 予想外のパンチを食らった。

「視姦プレイの後は意味深ワードですかそうですか」
「えっもしかして私、名前間違えちゃった? あわわっ……ごめんね」
「ま、転校初日なら仕方ないな……一応、言っとくと正しい名前は――」
「あわわっ! ちょっと待って、お詫びに当てるから! 私、名前覚えるの得意だから!」

  視姦プレイの匠もとい転校生は眼を爛々と輝かせながら、気合十分といった様子で握り拳を作る。ショートボブの髪型。薄めのブラウンの色素にアッシュの色味が混じった髪色。毛染めしている辺り如何にも今時の女子高生といった感じで、薄化粧はしているものの元の相貌もまさに容姿端麗だろう。
  しかし、残念なことに眉を八の字にした困り顔は空回りしそうな未来が容易に遠視できた。

「かみ……の? ちんの……? じんや……?」
「そこまで上手く外すのも神の領域だな」

 適当に躱してその場を去れない自分が愚かしい。

「も、もしかして……神の域?」
「上目遣いは上手いけど不正解」
「はぁ~~、またダメだったぁ……」

  淡々と告げる郁に対し、転校生はやけに大袈裟な反応を見せた。

「お前、名前覚えるの苦手なのか?」
「ない。それは絶っっっっ対ないから!」
「説得力とは」

 むしろ、苦手だと自己申告してるようなものだ。全く、新学期初日から厄介なやつに絡まれたものだ。さっさと家に帰って不貞寝でもして――

 ――――――ドクッッッッ!!

    途端に動悸が激しくなった。手の震えが止まらない。彼女を見ていると、なぜだか胸の奥が異様に熱くなって、汗が滝のように流れ出た。

「ちょっと、神本くん? どうしたの!?」
「いやだよ、誰だよそれ……っ」
    
    ツッコミのキレだけは健在だった。


                       ◆ ◆ ◆


 幼少期の記憶というものは大方不鮮明であり、成長するにつれそのほとんどを忘れていく。だが、忘れたい嫌な記憶ほど胸に蟠りのように残ってしまうのが人の性。厄介な機能だ。

『私が遠くに行っても、郁ちゃんは私を見つけてくれる?』
『うん絶対に見つけだすよ。お前の姿が見えなくても』

 幼少期さながらの無謀で無責任な約束。男に二言はない、なんて言うけれど、現実はそう甘くはない。二言に収まらず、三言いやそれ以上の言い訳を並び立てるはずだ。

『それまで〇〇ちゃんをよろしくね』
『……ああ、約束だ』

 しかし、それ以降彼女の声を耳にすることはなかった。


                       ◆ ◆ ◆


「うえっくしょいっ……!」

 全身の寒気が郁の体を起こした。ここはどこだろう。辺りを見渡してみると、保健室のベッドの上から掛け布団やらシーツやらが雑に乱れていた。事後のラブホのベッドのようだ。猛獣もびっくりの寝相の悪さである。おまけに、背中は寝汗でびっしょりだった。最悪の寝覚めだ。

「なんだ、やっと起きたのか」

 耳に慣れたぶっきらぼうな声音。人物の特定は簡単だった。そもそも、養護教諭はこのように横柄な話し方はしない。

「俺はスロースターターなんでね」
「ディー〇ス〇ート? 確かにお前の好きそうなことだ」
「ちげぇよ。お前の耳は迷子か」
「プロマゾのお前なら何も怪訝に感じる必要はないはずだが?」

 恐らく下の口の締りが良いのに対して、上のお口はガバガバだ。

「馬鹿野郎。プロマゾは催眠音声に負けたりしねぇよ」
「また貧血か?」
「話の流れもくそもねぇな」

 この宍戸伊澄《ししどいずみ》こそ、郁の腐れ縁にして幼馴染。ストレートに下ろした艶やかな黒髪。つり気味の怜悧な眼。鼻梁の通った鼻筋。加えて身長170弱のプロポーション。所謂、キツめの美人で通りそうな優れた容姿はモデル業界でも多くの名声を得ることを期待できよう。
 しかし、綺麗な薔薇には刺がある、というように性格には難がある。

「……あいつはなんなんだ」
「あいつなどという曖昧な言い方ではわからん」
「とぼけんな。偶然被るような名字でもないだろ」

 宍戸翠音《ししどみおん》。転校生は自己紹介の時そう名乗った。しかし、郁自身彼女と接したことによって、どうして身体が悲鳴をあげたのか皆目見当がつかない。ただ、眼前の伊澄だけが何かを隠していることだけは確かだ。

「あれは私の妹だ」

 伊澄はなぜだか暗い面持ちで述べる。それにしても妹をあれ呼ばわりとはいくら身内にしても、少し冷たいのではないか。

「この時期に転校してくるなんて物好きだよな」
 
 複雑な事情があるらしいことくらいどんなに鈍感な男でもわかるだろう。だが、コミュ障はえげつなく他人に対して気を遣うので、一周回って変なことを言ってしまう傾向にある。

「郁。お前に頼みがある」
「それが人にものを頼む態度かよ」
「犬。貴様には頼まれてもらおう」
「いや悪化してんじゃねぇかよおい」

 とりあえず、一つ茶番を挟んだ。しかし、プライドの高い伊澄が率直に頼んでくるのは珍しい。どうやら、冗談の類ではないようだ。

「翠音はな、ちょっと人とズレてるところがあってな……」
「それをお前が言う?」
「私やお前はもう手遅れだが、あいつはまだ救いようがある」

 珍しくはっきりしない物言いだ。なんだがモヤモヤする。

「つまり、俺にあいつをどういう方向に導かせたいんだ?」
「翠音を、宍戸翠音を普通の女の子にしてやってくれ」
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