278 / 492
第8章
277話 アトスのリハビリ
しおりを挟む ノアは、まじまじと上から下までヴェルを見やった。
庭仕事を終えて、そのまま食事の準備をし始めたヴェルは、髪に櫛も通していないどころか、麦わら帽子をかぶった跡が髪にくっきりついている。
ノアは不思議そうに首を傾げた。
「失礼だが、ヴェル。客人……というには、出立ちが使用人のようなんだけど」
「え? ああ。何もしてないってのも落ち着かないから、俺もリウの手伝いと……、あと庭の手入れを少しやってる」
ノアはメガネ越しにじっとヴェルの顔を見た。ノアのまつ毛の長さに、ヴェルは思わずどきりとする。
天を向くその黒いまつ毛はふさふさと長く、切れ長の瞳を縁取っている。肌は透き通るように白く、きめ細やかだった。
薄い唇はほんのりと紅色で、誰が見ても美しいと形容されるだろう。
しかしその柳眉が顰められ、艶やかな唇が僅かに戦慄いた。
「ヴェル……。まさかとは思うけど、そのまま庭仕事を……?」
「そのまま?」
「だから、肌に何も塗らずにということだよ」
肌に何か塗る、というのが、何を指しているのか分からずヴェルは眉根を寄せた。困惑の眼差しを向けるヴェルに、ノアは頭痛をおさえるかのようにこめかみに指を当てた。
「信じられない……。せめて日焼け止めを塗ってくれ。私のをあげるから」
ポケットから色とりどりの缶を取り出したノアは、その中から掌にちょこんと収まるような青い缶を選んでヴェルに渡した。
言われるがままに受け取り、蓋を取ってみると、中には軟膏のような、白いクリーム状のものが入っていた。
「日焼け止めって王都の貴族がつけるようなものだよな?」
「今は庶民でもつけるよ。はぁ……、リウにもつけるよう言ってるんだけど、この子は『焼けたら焼けたで構いません』なんて言うから」
リウは「だって面倒じゃないですか」とヴェルの横から口を挟む。なるほどリウらしい、と、ヴェルは苦笑した。
「俺もどちらかというとそっちだけどな。まあいいや。とりあえず塗ってみるよ。ありがとう」
必要とはあまり思わないが、せっかく厚意でくれているのだからつけないのも申し訳ない。
するとノアはゆったりと目を細め、口の端に柔らかな笑みを浮かべた。
「ヴェルは良い子だねえ」
「良い子って……」
もう「子」という年ではないし、そもそもノアとはそう年齢も変わらないと思うが。
答えあぐねるヴェルの前で、ノアがリウに問う。
「カイとシグは?」
「殿下は眠っておられます。シグは出かけてます」
「おやおや。昼夜逆転は肌に悪いんだが、まあ、そうも言ってられないか……。私は先に城へ行っているよ。カイが起きたらそう伝えておいてくれ」
ほっそりとした手をひらりと振ると、ノアは踵を返した。長旅から戻ってきたばかりだろうに、軽やかな足取りで館を出ていったノアを見送り、リウは「本当に自由なんだから」とこぼす。
ヴェルはふとリウに訊ねた。
「ノアは『殿下』呼びじゃないんだな」
「そうですね。まあ、ノアは付き人の中でも特別です。公の場ではちゃんと呼んでますから大丈夫ですよ」
リウは「夕飯の支度が途中でした」と慌ただしく厨房へ戻っていく。
ヴェルはリウを追い掛けようとして、貰った缶に目を落とした。缶の中に入っていた日焼け止めの軟膏は、リウが言ったようにどことなく薬草のような匂いがする。だが決して鼻につくような嫌な香りではなく、むしろふわりと馨しい。
今ばかりは、先ほど聞いたリウの言葉がぐるぐると頭の中を巡ってしまう。
『殿下もあの匂いは好きって言ってましたから』
なんだか辻褄が合ってしまった気がする。
断り続ける縁談。
名前呼びが許される昔馴染み。
好きな匂いのする、特別なオメガ——
(加えて、導医なんていう最難関に合格するほどの実力派魔導士。……で、あれだけ美人で気さくな性格、と。いやぁ……お似合いすぎて何も言えねえな。いや、別に元々何か言うつもりもなかったけど)
恋愛のような分不相応なものを望んだことなど、今までの人生において一度もない。自分の人生においてそれは用意されていないのだ。選択肢として現れない。
ヴェルは口の中で小さく「ない」と呟いた。
(ないない。俺には関係ない。この手の話は、元々俺には関係がない)
カイは確かに良い匂いがした。だが、だったら何だというのか。
(恋だの愛だのは、まともな人間がやることなんだよ。俺じゃない)
ヴェルは青い缶を慈しむように撫でた。
ノアは、『この辺りの村をちょっと見ておこうと思ったら、どこも導医不足でね』と言っていた。口ぶりからして、自分の利益など考えず、困っている人たちを助けていたのだろう。つい、恩師の姿と重なってしまい、瞼を伏せる。
そう、恋だの愛だの。幸せな結婚だの、愛すべき家庭だの。そういう「ちゃんとしたこと」は、まともな人間同士でやるものなのだ。
一瞬で、ヴェルの顔から表情が消える。
(——……俺のせいで、先生は死んだ)
そして缶をポケットにしまいこむと、リウを追い掛けて厨房へ向かった。
(俺には、まともな人間の資格がないんだよ)
庭仕事を終えて、そのまま食事の準備をし始めたヴェルは、髪に櫛も通していないどころか、麦わら帽子をかぶった跡が髪にくっきりついている。
ノアは不思議そうに首を傾げた。
「失礼だが、ヴェル。客人……というには、出立ちが使用人のようなんだけど」
「え? ああ。何もしてないってのも落ち着かないから、俺もリウの手伝いと……、あと庭の手入れを少しやってる」
ノアはメガネ越しにじっとヴェルの顔を見た。ノアのまつ毛の長さに、ヴェルは思わずどきりとする。
天を向くその黒いまつ毛はふさふさと長く、切れ長の瞳を縁取っている。肌は透き通るように白く、きめ細やかだった。
薄い唇はほんのりと紅色で、誰が見ても美しいと形容されるだろう。
しかしその柳眉が顰められ、艶やかな唇が僅かに戦慄いた。
「ヴェル……。まさかとは思うけど、そのまま庭仕事を……?」
「そのまま?」
「だから、肌に何も塗らずにということだよ」
肌に何か塗る、というのが、何を指しているのか分からずヴェルは眉根を寄せた。困惑の眼差しを向けるヴェルに、ノアは頭痛をおさえるかのようにこめかみに指を当てた。
「信じられない……。せめて日焼け止めを塗ってくれ。私のをあげるから」
ポケットから色とりどりの缶を取り出したノアは、その中から掌にちょこんと収まるような青い缶を選んでヴェルに渡した。
言われるがままに受け取り、蓋を取ってみると、中には軟膏のような、白いクリーム状のものが入っていた。
「日焼け止めって王都の貴族がつけるようなものだよな?」
「今は庶民でもつけるよ。はぁ……、リウにもつけるよう言ってるんだけど、この子は『焼けたら焼けたで構いません』なんて言うから」
リウは「だって面倒じゃないですか」とヴェルの横から口を挟む。なるほどリウらしい、と、ヴェルは苦笑した。
「俺もどちらかというとそっちだけどな。まあいいや。とりあえず塗ってみるよ。ありがとう」
必要とはあまり思わないが、せっかく厚意でくれているのだからつけないのも申し訳ない。
するとノアはゆったりと目を細め、口の端に柔らかな笑みを浮かべた。
「ヴェルは良い子だねえ」
「良い子って……」
もう「子」という年ではないし、そもそもノアとはそう年齢も変わらないと思うが。
答えあぐねるヴェルの前で、ノアがリウに問う。
「カイとシグは?」
「殿下は眠っておられます。シグは出かけてます」
「おやおや。昼夜逆転は肌に悪いんだが、まあ、そうも言ってられないか……。私は先に城へ行っているよ。カイが起きたらそう伝えておいてくれ」
ほっそりとした手をひらりと振ると、ノアは踵を返した。長旅から戻ってきたばかりだろうに、軽やかな足取りで館を出ていったノアを見送り、リウは「本当に自由なんだから」とこぼす。
ヴェルはふとリウに訊ねた。
「ノアは『殿下』呼びじゃないんだな」
「そうですね。まあ、ノアは付き人の中でも特別です。公の場ではちゃんと呼んでますから大丈夫ですよ」
リウは「夕飯の支度が途中でした」と慌ただしく厨房へ戻っていく。
ヴェルはリウを追い掛けようとして、貰った缶に目を落とした。缶の中に入っていた日焼け止めの軟膏は、リウが言ったようにどことなく薬草のような匂いがする。だが決して鼻につくような嫌な香りではなく、むしろふわりと馨しい。
今ばかりは、先ほど聞いたリウの言葉がぐるぐると頭の中を巡ってしまう。
『殿下もあの匂いは好きって言ってましたから』
なんだか辻褄が合ってしまった気がする。
断り続ける縁談。
名前呼びが許される昔馴染み。
好きな匂いのする、特別なオメガ——
(加えて、導医なんていう最難関に合格するほどの実力派魔導士。……で、あれだけ美人で気さくな性格、と。いやぁ……お似合いすぎて何も言えねえな。いや、別に元々何か言うつもりもなかったけど)
恋愛のような分不相応なものを望んだことなど、今までの人生において一度もない。自分の人生においてそれは用意されていないのだ。選択肢として現れない。
ヴェルは口の中で小さく「ない」と呟いた。
(ないない。俺には関係ない。この手の話は、元々俺には関係がない)
カイは確かに良い匂いがした。だが、だったら何だというのか。
(恋だの愛だのは、まともな人間がやることなんだよ。俺じゃない)
ヴェルは青い缶を慈しむように撫でた。
ノアは、『この辺りの村をちょっと見ておこうと思ったら、どこも導医不足でね』と言っていた。口ぶりからして、自分の利益など考えず、困っている人たちを助けていたのだろう。つい、恩師の姿と重なってしまい、瞼を伏せる。
そう、恋だの愛だの。幸せな結婚だの、愛すべき家庭だの。そういう「ちゃんとしたこと」は、まともな人間同士でやるものなのだ。
一瞬で、ヴェルの顔から表情が消える。
(——……俺のせいで、先生は死んだ)
そして缶をポケットにしまいこむと、リウを追い掛けて厨房へ向かった。
(俺には、まともな人間の資格がないんだよ)
0
お気に入りに追加
73
あなたにおすすめの小説
嘘つきレイラ
織部
ファンタジー
1文800文字程度。通勤、通学のお供にどうぞ。
双子のように、育った幼馴染の俺、リドリーとレイラ王女。彼女は、6歳になり異世界転生者だといい、9歳になり、彼女の母親の死と共に、俺を遠ざけた。
「この風景見たことが無い?」
王国の継承順位が事件とともに上がっていく彼女の先にあるものとは……
※カクヨム様、小説家になろう様でも掲載しております。
欲張ってチートスキル貰いすぎたらステータスを全部0にされてしまったので最弱から最強&ハーレム目指します
ゆさま
ファンタジー
チートスキルを授けてくれる女神様が出てくるまで最短最速です。(多分) HP1 全ステータス0から這い上がる! 可愛い女の子の挿絵多めです!!
カクヨムにて公開したものを手直しして投稿しています。
王位を捨てた元王子、冒険者として新たな人生を歩む
凪木桜
ファンタジー
かつて王国の次期国王候補と期待されながらも、自ら王位を捨てた元王子レオン。彼は自由を求め、名もなき冒険者として歩み始める。しかし、貴族社会で培った知識と騎士団で鍛えた剣技は、新たな世界で否応なく彼を際立たせる。ギルドでの成長、仲間との出会い、そして迫り来る王国の影——。過去と向き合いながらも、自らの道を切り開くレオンの冒険譚が今、幕を開ける!
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
転生したら王族だった
みみっく
ファンタジー
異世界に転生した若い男の子レイニーは、王族として生まれ変わり、強力なスキルや魔法を持つ。彼の最大の願望は、人間界で種族を問わずに平和に暮らすこと。前世では得られなかった魔法やスキル、さらに不思議な力が宿るアイテムに強い興味を抱き大喜びの日々を送っていた。
レイニーは異種族の友人たちと出会い、共に育つことで異種族との絆を深めていく。しかし……
王宮で汚職を告発したら逆に指名手配されて殺されかけたけど、たまたま出会ったメイドロボに転生者の技術力を借りて反撃します
有賀冬馬
ファンタジー
王国貴族ヘンリー・レンは大臣と宰相の汚職を告発したが、逆に濡れ衣を着せられてしまい、追われる身になってしまう。
妻は宰相側に寝返り、ヘンリーは女性不信になってしまう。
さらに差し向けられた追手によって左腕切断、毒、呪い状態という満身創痍で、命からがら雪山に逃げ込む。
そこで力尽き、倒れたヘンリーを助けたのは、奇妙なメイド型アンドロイドだった。
そのアンドロイドは、かつて大賢者と呼ばれた転生者の技術で作られたメイドロボだったのだ。
現代知識チートと魔法の融合技術で作られた義手を与えられたヘンリーが、独立勢力となって王国の悪を蹴散らしていく!
異世界でぺったんこさん!〜無限収納5段階活用で無双する〜
KeyBow
ファンタジー
間もなく50歳になる銀行マンのおっさんは、高校生達の異世界召喚に巻き込まれた。
何故か若返り、他の召喚者と同じ高校生位の年齢になっていた。
召喚したのは、魔王を討ち滅ぼす為だと伝えられる。自分で2つのスキルを選ぶ事が出来ると言われ、おっさんが選んだのは無限収納と飛翔!
しかし召喚した者達はスキルを制御する為の装飾品と偽り、隷属の首輪を装着しようとしていた・・・
いち早くその嘘に気が付いたおっさんが1人の少女を連れて逃亡を図る。
その後おっさんは無限収納の5段階活用で無双する!・・・はずだ。
上空に飛び、そこから大きな岩を落として押しつぶす。やがて救った少女は口癖のように言う。
またぺったんこですか?・・・
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる