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〜15章〜
魔女の谷 テム
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うっすらと霧が立ち込め、ムッとする空気が支配する谷底を二人は歩いていた。
さっきまで晴れ渡っていた空は消え、どんよりと気だるそうな雲が上空を覆う。
時折、聞いたことのない生き物の鳴き声がこだまし、ソルはビクッと体を震わせるが、ルーナは慣れた様子でずんずんと歩みを進めていた。
「あとどのくらい?」
気味の悪い道が果てしなく続いていくように思え、ソルはそう聞かずにはいられなかった。
「もう少し。雲が晴れてきたから」
天を指差しひたすらに歩き続ける。ソルにはその違いがわからなかったが黙って後に続く。
ルーナの言った通り、ほんの少しばかり歩いた頃に、魔女の住む谷がその姿を表した。
その村んは寂れたボロ屋が数軒ほど立ち並んでいる。
二人が村へと立ち入ると、スゥーっと足音も立てずに、フードをまぶかに被った者が静かに近づいてきた。
「ルーナ」
男性とも女性とも取れないその声の主が声をかけてくる。魔女の谷と呼ばれるぐらいだから、女性なのだろう。
「こんにちは。フォーイね。元気」
フォーイと呼ばれた魔女はゆっくりと頷き、また静かにその場から離れていった。
その後も何人かの魔女たちが二人に声をかけてきたが、誰一人として会話をすることはなく、ただルーナの名前を呼ぶのみであった。ソルの存在には誰も気づいていない様子である。
ソルには誰一人として違いを見分けることはできなかったが、ルーナにははっきりとわかっているようだった。
「ここね」
村一番と言っていいほどの小さな小屋の目の前で立ち止まる。
扉には何やら獣の骨がぶら下がっており、脇に生えたいの知れない液体がヒソヒソと泡を吹いている。
ルーナがノックをしようとすると、突如その扉がしゃべった。
正確には、扉にかけられていた骨が動き、まるで口のように体を成して声を放ったのだ。
「ルーナや。お入り」
そのおどろおどろしい声に思わずビクッと後ろにのけぞってしまったソルを見て、ルーナはケラケラと笑い肩を叩く。
扉が一人でに開き、背後から吹き付ける風に誘われ、二人はその小さな家へと足を踏み入れた。
ソルは足を踏み入れるや否や、その部屋の広さに驚愕した。
確かに質素で小さな小屋のはずだった。
しかし、いざ小屋の中へと足を踏み入れると、そこはさまざまな物が所狭しと置かれ、想像していたよりも優に五倍はあるであろう広さであった。
積まれた山を崩さないように慎重に奥へと踏み行っていくルーナ。
ソルはその部屋の異様な雰囲気に飲まれ、ただただ俯いてルーナのあとをついていく。
小さな丸いテーブルが暖炉の前に置かれ、その周りを六つの椅子が囲っている。
ルーナは黙ってその椅子の一つに座り、ソルもどうぞ、と自分の家の如く優雅に手を差し出し隣の椅子を勧めた。
渋々腰を下ろし、ゆっくりと室内を見回す。
たくさんの書物が積み上げられている。
その脇には大小さまざまなガラス瓶が置かれており、その中には得体の知れないものが浮かんでいた。
ルーナはというと、いつものように鼻歌を口ずさみリラックスしている様子だ。
怖くないのかな。
明らかに胡散臭く異様な空気が密閉されるこの部屋で落ち着いていられるルーナが不思議で仕方なかった。
すると突然、声が響いた。
〔ほぉ。これはこれは。また珍しいお客さんが来たものだ〕
ソルはまたしてもビクッと体を震わせ、あと少しで後ろに倒れ込むところだった。
「わっ。びっくりした。どうしたの急に」
含み笑いをしながらも驚いた様子で尋ねるルーナ。
今の声が聞こえなかったのだろうか。そんなわけはない。
「今の声、誰?」
手話で素早くそう告げると、頭にはてなマークを浮かべたルーナは「声?まだ来てないでしょ?」と怪訝そうに言った。
「今、声がした」
「またまた。テムに来てから様子がおかしいわよ。よっぽど魔女が怖いのね」
大袈裟に馬鹿にするように笑い、ルーナはまた鼻歌を歌い始めた。
幻聴だったのだろうか。そんなはずはない。
ソルはいよいよ怖くなり落ち着きがなくなってきた。
すると部屋の中に何かが近づいてくる音が聞こえてきた。
その足音はとても小さく、それはまるで小動物が歩いているような足音であった。
今度は驚かないぞ。と身構えるソル。
段々とその足音が確かに鳴り響いてくる。
薄暗い部屋の中、その足音のする方を凝視していると、やがて小さな黒猫が姿を現した。
「あら、シェズ。元気だった?」
その黒猫に向かってルーナは愉快そうに挨拶をした。
それに応えるかのようにシェズと呼ばれた黒猫は「にゃー」と鳴いた。どこにでもいそうな黒猫だったが、よくよく見てみると左右の目の色が違っていた。また片方の耳が潰れているようだった。
(なんだ、猫か。)
また亡霊でも現れるのではないか、と身構えていたソルはほっとため息をついた。
〔ただの猫ではないぞ〕
またしても謎の声が響き渡り、今度は椅子をひっくり返し後ろへと倒れ込んでしまった。
「ちょっと。大丈夫?どうしたのよまったく」
慌てた様子でソルを起き上がらせるルーナ。
「声。声」
と恐怖を隠すことなく、震える手でなんとか伝える。
「声って。何もしないわ。大丈夫?」
恐怖に怯えるソルをなんとか椅子に座らせたルーナは、ソルの背中をさすりながら「どこかで頭でも打ったのかしら」と一人呟いていた。
なんなんだここは。
間違いなく自分にしか聞こえていない声の存在に怯え、ソルは段々と気分が悪くなってきた。
すると今度は誰かがこちらにやってくる足音が聞こえた。
その足音にもビクッと反応したソルを見て、ルーナは笑いながら、「大丈夫よ。シニーよ。魔女のシニコローレ」と言った。
「あらあら。シェズと会話したのね」
物陰からスーッと姿を現したのは、すらっとした女性であった。
ルーナよりも少しばかり歳が上といった具合だろうか。
スタイルがよく大人の女性といった様子だ。
しかし、その声質や話し方はまるで老人のようであった。
「シニー。久しぶり」
シニーと呼ばれたその女性は静かに頷いた。
真っ黒な髪に真っ白な肌。大きくゆったりとした服を纏い、また手袋をはめているため、素肌が見えるのは首から上だけだ。その肌質はまるで大理石のようであった。
シニコローレはソルのことを見据えるとこう言った。
「ソルマルク人。珍しいわね。あなたで三人目よ。機械人間と会うのは」
ゆっくりと優雅に二人と対面するように椅子に腰を下ろすと、懐から何やら棒状のものを取り出し口に咥えた。
さっと手をかざすとその先端に火が灯り、ふぅっと深く吸い込んでそれを吐き出した。
「あなた、シェズに好かれている。機械人間だからってわけじゃないわね。あなたの人間性に興味を持ったようだわ」
黒猫がシニコローレの膝下に飛び乗り、こちらに顔を向けるようにうずくまった。
「話せるの?」手話で目の前の魔女とその黒猫に尋ねる。
〔さよう。私に手話は必要ない〕
(心の中に直接語りかけているんだ。)
ソルはその事実に驚愕した。全くもって非科学的なことだが、今実際にそれを体験しているのだ。
〔さよう。其方の心に話しているのだ〕
シェズはそう言うと、まるで笑ったかのように歯を剥き出した。
「あなた、シェズに気に入られたみたいね」
シニコローレが妖艶に笑う。
「いいな。私は話したことないわ」
ルーナが羨ましそうにシェズの方をみやる。それはまるで「私にも話しかけて」と懇願しているようだった。
シェズはまたしても、「にゃー」と鳴くのみだった。
「残念」と言った様子で、肩をすくめるルーナ。
二人をじっと見つめながら、シニコローレが口を開いた。
「それで、ルーナ。あなた機械人間と何を企んでいるのかしら?」
目の前で両手を組み合わせじっとルーナを見つめる。
ルーナが口を開こうとすると、「あぁ、ちょっと待って」とルーナを制した。
手をくるくると回すと、それぞれの手元に得体の知れない液体の入ったカップが現れた。
「ありがとう」とルーナは警戒することなくそれを口にする。
(魔法だ)
たった今目の前で起きた信じられない光景に、ソルは恐る恐る手元のカップを覗き見たが、口にするのは遠慮することにした。
「ソル。あなた声帯のオイルが干上がってるわね。だから手話なんて破廉恥なものを使っている。かわいそうに」
ソルの顔を凝視し、そう言い放った。
名前を言い当てられた!
それに、シニコローレは僕たちの体の構造を理解しているのか!
まるでソルの心を読んでいるかのように、シニコローレは不敵に笑った。
「まぁ、シニー。手話は立派な言語で破廉恥じゃないわ」
さっとルーナの方を見ると、「可愛くてウブな子猫ちゃん」とだけ言って微笑んだ。
ルーナはむっと膨れると、ふんっと鼻を鳴らした。が、本気で怒っている訳ではないようだ。
「ちょっと待ってなさい。ええと、どこにあったかしらねぇ」
シニコローレはさっと立ち上がると、ガサゴソと積み上げられた山を切り崩しながら何かを探している。
シェズが慌てて飛び退いて避難する。
「これじゃない。えーと、これは、ダメね。あぁ、死んでるわ」
何やら物騒なことを一人垂れている。
ソルはルーナに「大丈夫なの?」と尋ねた。
ルーナは「大丈夫。シニーはすんごい魔女なんだから」と胸を張ってソルを見返した。
手元のカップが減ってないことに気がついたルーナは、「飲まないの?」とソルを突いた。
苦笑いを浮かべ、首を振るソルを見てルーナは呆れたように笑った。
「あぁ、あったわ。よかった。こんなもの使う時が来るなんてねぇ。やだわ、あはは」
一人で爆笑しながら何やら手にして戻ってきたシニコローレは、やっと見つけ出したその品をソルへと手渡した。
「はい、どうぞ」
ルーナが身を乗り出して覗き込む。
得体の知れない液体の入った細長い透明なものだ。
「何これ?」と手話で尋ねると、シニコローレは不機嫌な様子で冷たく言い放った。
「その破廉恥な行為はやめて黙ってお飲み」
静かながらとてつもない圧でそう言われたソル、仕方なくそれを飲もうとキャップを外す。
中を覗くと濁った液体が蠢いている。
「さぁ、ほら」
シニコローレは今度は猫撫で声で促した。
ソルは諦め、意を決してそれを一気に口に流し込んだ。
ピリピリとひりつくような衝撃が口の中に走る。
スゥーっと体の中を謎の液体が伝っていくのがはっきりとはわかった。
涙目になりながらなんとかそれを飲み干すと、強い倦怠感に襲われどさっと椅子に深く倒れ込んだ。
「大丈夫?」
ルーナが身を乗り出し心配そうにこちらを覗いている。
「坊やにはちょっと刺激が強すぎたかしら」
おちゃらけたようにそうウィンクすると、シニコローレはまたまた手をくるくると回し、今度は水の入ったカップをその場に出現させた。
ルーナに水を手渡すと、「飲ませておやり」と呟き、再び椅子に深く座り直した。すぐにシェズがその膝下に飛び乗る。
黒猫の頭をゆっくりと撫で回しながら、ルーナが水を飲ます様子をうっとりと見つめている。
「何を飲ませたの?」
水をなんとか飲ませたルーナは不安げに訪ねた。ソルは呆然とした様子で座ったままだ。
あはは、と笑い声を上げその魔女は楽しげに言った。
「水よ。それに飲ませたのはあなたよ、子猫ちゃん」
「そうじゃなくて!」
またもや楽しげに大きな笑い声を上げた魔女は、やれやれと言った様子で口を開いた。
「そう怒りなさんな。それはね、ジェスリムっていうの。って言ってもあなたにはわからないわね。機械人間用の薬よ。まぁ気付薬みたいなもんね」
楽しそうに二人の様子を伺うシニコローレは、まさに魔女といったいで立ちで優雅に座っている。
「なんでそんなもの持ってるの?」
「昔の友達がくれたのよ。機械人間の」
さも当たり前のようにそう言い放つ。
「友達?ソルマルクに友人がいるの?どうやって出会ったの?」
驚いた様子で矢継ぎ早に質問を投げかけるルーナを見て、シニコローレはふふふ、と笑った。
「子猫ちゃん。あなたはいつも質問を始めると止まらなくなるわね。まぁそこが可愛いんだけど、今日はダメよ」
口元に指を当て、シーッと呟くとまたまたウィンクを投げかけた。
「坊や。気分はどう?」
ソルはゆっくりと上体を起こし、静かに深呼吸をする。
倦怠感が徐々に引いていき、やがてすっきりとした気分になってきた。
「何か喋ってみなさい」
シニコローレに促され、ソルは咳払いをする。
「ル、ルーナ」
久しぶりに耳にした自分の声だった。なんだか懐かしい気持ちになる。
かたや初めて名前を呼ばれたルーナは大喜びし、ソルの手を取り大いにはしゃいだ。
「ソルってそんな声してるのね!思っていたよりもずっと大人っぽい!」
ソルの腕を取りブンブンと上下に振っている。よっぽど嬉しかったのだろう。その目には微かに涙が浮かんでいたように見えた。
「よかったわね。それ、一時的にしか効かないから、できることなら早く国に帰りなさいよ」
はしゃぐルーナをよそに、シニコローレは冷静にそう言い放った。
何か言いかけるルーナを制し、「はい、これ。お守り」とまたもや怪しげに細長い容器に入った謎の液体を手渡してきた。
「な、なんですか、これ?」
ソルはそう口に出して質問した。
「それはね、マーシェインっていうお薬よ。さっきのとはまた違うけど、どんな効果があるかは飲んでみてからのお楽しみ。ここ一番、頑張り時って時に飲みなさい」
怪しげに笑いウィンクを送ってくる魔女に、ルーナは呆れたように一言お礼を告げた。
「あら、皮肉かしら。かわいいわね、相変わらず」
ふふふ、と意に介した様子は全く内容だ。
「かなわないわ」
はぁっとため息をつき、お手上げといった様子で両手を上げるルーナ。
その魔女は「老人の知恵に敵うはずがないでしょ」といたずらっ子のように笑った。
(老人?なんの話だろう。)
曖昧な笑顔を浮かべ二人の話を聞いていたソルを見て、シニコローレは笑った。
「ソル、老人っていうのは私のことよ」
「えっ!まさか」
また坊やと呼ばれたら敵わない。魔女の冗談と受け流したソルだったが、シニコローレがやれやれと首を振っている。
「目に見えるものなんて当てにならないのよ。これだから坊やは」
老人。この魔女が?
どう見てもルーナより少し年上ぐらいにしか見えない。
「節穴がどう見たってわかりっこないわ」
あはは、と面白がるように笑ったシニコローレは、「この話はもういいわ」と手を振った。
「ところで」と真剣な顔に戻った魔女はソルに質問をした。
「あなた、これが何色かわかる?」と、何やら小さな果物を取り出した。赤い果物だった。
ソルはその質問に驚き思わず身を乗り出した。
「色を知ってるの?」
「何色?」有無を言わさずに問い詰める魔女。
「赤」とソル。
満足そうに頷いたシニコローレは「私はなんでも知ってるわよ」と乙女のような笑い声を上げた。
「前に言ってたやつね。なんなの、その色って?」
ルーナはやはり色がわからないらしい。眉根を寄せその魔女の方を見やる。
「色はね、あなたにはわからないでしょうね。あぁ、ちょっと待って。そう膨れないで。ちゃんと説明してあげるから」
いきりたつルーナをいなし、シニコローレは『色』について説明してくれた。
その魔女曰く、ルナシリス人は過去に植物との融合を余儀なくされたとのことだ。
そして、それ以来『色』という概念そのものが失われてしまったらしい。
「ソルマルク人は色の認識ができるようになったようね」
考え込むように深く椅子にもたれた魔女は、先ほどまでのからかう様子は全くない。
「なったようね、ってシニーのお友達のソルマルク人は違ったの?」
ルーナが質問をする。
ぼんやりと虚空を見つめていた魔女は、ハッとした様子で目を見開きゆっくりとルーナの方を見た。
それはまるでたった今ルーナがそこにいることを認識したかのようであった。
「あぁ、彼は色の判断はつかなかったわ。はるか昔のことだもの」
心ここに在らずといった様子で、膝下の黒猫を撫でている。気がつけばその黒猫はぐっすりと眠っていた。
ぼんやりとしていた魔女だったが、突然「はっ!」としてスッと立ち上がった。
突如、宙に投げ出された黒猫が抗議の声を上げている。
「あら、ごめんなさい。けど、やることができたわ」
牙を剥き出し、その魔女を威嚇した黒猫は静かに暗闇の中へと消えていった。
「悪いけどお話はこれでおしまい。もう帰りなさい」
シニコローレはそう言うと二人を急き立て、入口の方まで押しやった。
「気をつけて帰るのよ」
優しくそう言うと、「さぁ、行った行った」と二人を追い払うように手を振った。
「そういえば」と魔女の家を後にしようとしていたルーナが振り返る。
不機嫌そうに「何?」と眉を上げる魔女。
「ラールーで、亡霊に取り憑かれたかのような獣に襲われたの。何か知らないかしら?」
ルーナのその言葉に、魔女は考え込み一言呟いた。
「ヴィヴィリアンの馬鹿かもね。・・・ちょっと急がないといけないわ。あーめんどくさ」
ルーナが口を開く前に魔女は目の前で手を気だるそうに振り話を続ける。
「あんたたち帰りは街を通って帰りなさい。ラールーには近づかないこと。いいね?はい、行った行った!」
それ以上の質問は御免だと言わんばかりに、荒々しく扉を閉める魔女。
小さな古い家の前に二人は佇み、呆然としていた。
「変わった人だったね」
ははは、と思わず笑いが込み上げてくる。それにつられたかのようにルーナも笑い出した。
「魔女だもの」
二人は笑いながら、魔女の谷を後にした。薄暗い寂れた村にその不釣り合いな笑い声はいつまでもこだましていた。
さっきまで晴れ渡っていた空は消え、どんよりと気だるそうな雲が上空を覆う。
時折、聞いたことのない生き物の鳴き声がこだまし、ソルはビクッと体を震わせるが、ルーナは慣れた様子でずんずんと歩みを進めていた。
「あとどのくらい?」
気味の悪い道が果てしなく続いていくように思え、ソルはそう聞かずにはいられなかった。
「もう少し。雲が晴れてきたから」
天を指差しひたすらに歩き続ける。ソルにはその違いがわからなかったが黙って後に続く。
ルーナの言った通り、ほんの少しばかり歩いた頃に、魔女の住む谷がその姿を表した。
その村んは寂れたボロ屋が数軒ほど立ち並んでいる。
二人が村へと立ち入ると、スゥーっと足音も立てずに、フードをまぶかに被った者が静かに近づいてきた。
「ルーナ」
男性とも女性とも取れないその声の主が声をかけてくる。魔女の谷と呼ばれるぐらいだから、女性なのだろう。
「こんにちは。フォーイね。元気」
フォーイと呼ばれた魔女はゆっくりと頷き、また静かにその場から離れていった。
その後も何人かの魔女たちが二人に声をかけてきたが、誰一人として会話をすることはなく、ただルーナの名前を呼ぶのみであった。ソルの存在には誰も気づいていない様子である。
ソルには誰一人として違いを見分けることはできなかったが、ルーナにははっきりとわかっているようだった。
「ここね」
村一番と言っていいほどの小さな小屋の目の前で立ち止まる。
扉には何やら獣の骨がぶら下がっており、脇に生えたいの知れない液体がヒソヒソと泡を吹いている。
ルーナがノックをしようとすると、突如その扉がしゃべった。
正確には、扉にかけられていた骨が動き、まるで口のように体を成して声を放ったのだ。
「ルーナや。お入り」
そのおどろおどろしい声に思わずビクッと後ろにのけぞってしまったソルを見て、ルーナはケラケラと笑い肩を叩く。
扉が一人でに開き、背後から吹き付ける風に誘われ、二人はその小さな家へと足を踏み入れた。
ソルは足を踏み入れるや否や、その部屋の広さに驚愕した。
確かに質素で小さな小屋のはずだった。
しかし、いざ小屋の中へと足を踏み入れると、そこはさまざまな物が所狭しと置かれ、想像していたよりも優に五倍はあるであろう広さであった。
積まれた山を崩さないように慎重に奥へと踏み行っていくルーナ。
ソルはその部屋の異様な雰囲気に飲まれ、ただただ俯いてルーナのあとをついていく。
小さな丸いテーブルが暖炉の前に置かれ、その周りを六つの椅子が囲っている。
ルーナは黙ってその椅子の一つに座り、ソルもどうぞ、と自分の家の如く優雅に手を差し出し隣の椅子を勧めた。
渋々腰を下ろし、ゆっくりと室内を見回す。
たくさんの書物が積み上げられている。
その脇には大小さまざまなガラス瓶が置かれており、その中には得体の知れないものが浮かんでいた。
ルーナはというと、いつものように鼻歌を口ずさみリラックスしている様子だ。
怖くないのかな。
明らかに胡散臭く異様な空気が密閉されるこの部屋で落ち着いていられるルーナが不思議で仕方なかった。
すると突然、声が響いた。
〔ほぉ。これはこれは。また珍しいお客さんが来たものだ〕
ソルはまたしてもビクッと体を震わせ、あと少しで後ろに倒れ込むところだった。
「わっ。びっくりした。どうしたの急に」
含み笑いをしながらも驚いた様子で尋ねるルーナ。
今の声が聞こえなかったのだろうか。そんなわけはない。
「今の声、誰?」
手話で素早くそう告げると、頭にはてなマークを浮かべたルーナは「声?まだ来てないでしょ?」と怪訝そうに言った。
「今、声がした」
「またまた。テムに来てから様子がおかしいわよ。よっぽど魔女が怖いのね」
大袈裟に馬鹿にするように笑い、ルーナはまた鼻歌を歌い始めた。
幻聴だったのだろうか。そんなはずはない。
ソルはいよいよ怖くなり落ち着きがなくなってきた。
すると部屋の中に何かが近づいてくる音が聞こえてきた。
その足音はとても小さく、それはまるで小動物が歩いているような足音であった。
今度は驚かないぞ。と身構えるソル。
段々とその足音が確かに鳴り響いてくる。
薄暗い部屋の中、その足音のする方を凝視していると、やがて小さな黒猫が姿を現した。
「あら、シェズ。元気だった?」
その黒猫に向かってルーナは愉快そうに挨拶をした。
それに応えるかのようにシェズと呼ばれた黒猫は「にゃー」と鳴いた。どこにでもいそうな黒猫だったが、よくよく見てみると左右の目の色が違っていた。また片方の耳が潰れているようだった。
(なんだ、猫か。)
また亡霊でも現れるのではないか、と身構えていたソルはほっとため息をついた。
〔ただの猫ではないぞ〕
またしても謎の声が響き渡り、今度は椅子をひっくり返し後ろへと倒れ込んでしまった。
「ちょっと。大丈夫?どうしたのよまったく」
慌てた様子でソルを起き上がらせるルーナ。
「声。声」
と恐怖を隠すことなく、震える手でなんとか伝える。
「声って。何もしないわ。大丈夫?」
恐怖に怯えるソルをなんとか椅子に座らせたルーナは、ソルの背中をさすりながら「どこかで頭でも打ったのかしら」と一人呟いていた。
なんなんだここは。
間違いなく自分にしか聞こえていない声の存在に怯え、ソルは段々と気分が悪くなってきた。
すると今度は誰かがこちらにやってくる足音が聞こえた。
その足音にもビクッと反応したソルを見て、ルーナは笑いながら、「大丈夫よ。シニーよ。魔女のシニコローレ」と言った。
「あらあら。シェズと会話したのね」
物陰からスーッと姿を現したのは、すらっとした女性であった。
ルーナよりも少しばかり歳が上といった具合だろうか。
スタイルがよく大人の女性といった様子だ。
しかし、その声質や話し方はまるで老人のようであった。
「シニー。久しぶり」
シニーと呼ばれたその女性は静かに頷いた。
真っ黒な髪に真っ白な肌。大きくゆったりとした服を纏い、また手袋をはめているため、素肌が見えるのは首から上だけだ。その肌質はまるで大理石のようであった。
シニコローレはソルのことを見据えるとこう言った。
「ソルマルク人。珍しいわね。あなたで三人目よ。機械人間と会うのは」
ゆっくりと優雅に二人と対面するように椅子に腰を下ろすと、懐から何やら棒状のものを取り出し口に咥えた。
さっと手をかざすとその先端に火が灯り、ふぅっと深く吸い込んでそれを吐き出した。
「あなた、シェズに好かれている。機械人間だからってわけじゃないわね。あなたの人間性に興味を持ったようだわ」
黒猫がシニコローレの膝下に飛び乗り、こちらに顔を向けるようにうずくまった。
「話せるの?」手話で目の前の魔女とその黒猫に尋ねる。
〔さよう。私に手話は必要ない〕
(心の中に直接語りかけているんだ。)
ソルはその事実に驚愕した。全くもって非科学的なことだが、今実際にそれを体験しているのだ。
〔さよう。其方の心に話しているのだ〕
シェズはそう言うと、まるで笑ったかのように歯を剥き出した。
「あなた、シェズに気に入られたみたいね」
シニコローレが妖艶に笑う。
「いいな。私は話したことないわ」
ルーナが羨ましそうにシェズの方をみやる。それはまるで「私にも話しかけて」と懇願しているようだった。
シェズはまたしても、「にゃー」と鳴くのみだった。
「残念」と言った様子で、肩をすくめるルーナ。
二人をじっと見つめながら、シニコローレが口を開いた。
「それで、ルーナ。あなた機械人間と何を企んでいるのかしら?」
目の前で両手を組み合わせじっとルーナを見つめる。
ルーナが口を開こうとすると、「あぁ、ちょっと待って」とルーナを制した。
手をくるくると回すと、それぞれの手元に得体の知れない液体の入ったカップが現れた。
「ありがとう」とルーナは警戒することなくそれを口にする。
(魔法だ)
たった今目の前で起きた信じられない光景に、ソルは恐る恐る手元のカップを覗き見たが、口にするのは遠慮することにした。
「ソル。あなた声帯のオイルが干上がってるわね。だから手話なんて破廉恥なものを使っている。かわいそうに」
ソルの顔を凝視し、そう言い放った。
名前を言い当てられた!
それに、シニコローレは僕たちの体の構造を理解しているのか!
まるでソルの心を読んでいるかのように、シニコローレは不敵に笑った。
「まぁ、シニー。手話は立派な言語で破廉恥じゃないわ」
さっとルーナの方を見ると、「可愛くてウブな子猫ちゃん」とだけ言って微笑んだ。
ルーナはむっと膨れると、ふんっと鼻を鳴らした。が、本気で怒っている訳ではないようだ。
「ちょっと待ってなさい。ええと、どこにあったかしらねぇ」
シニコローレはさっと立ち上がると、ガサゴソと積み上げられた山を切り崩しながら何かを探している。
シェズが慌てて飛び退いて避難する。
「これじゃない。えーと、これは、ダメね。あぁ、死んでるわ」
何やら物騒なことを一人垂れている。
ソルはルーナに「大丈夫なの?」と尋ねた。
ルーナは「大丈夫。シニーはすんごい魔女なんだから」と胸を張ってソルを見返した。
手元のカップが減ってないことに気がついたルーナは、「飲まないの?」とソルを突いた。
苦笑いを浮かべ、首を振るソルを見てルーナは呆れたように笑った。
「あぁ、あったわ。よかった。こんなもの使う時が来るなんてねぇ。やだわ、あはは」
一人で爆笑しながら何やら手にして戻ってきたシニコローレは、やっと見つけ出したその品をソルへと手渡した。
「はい、どうぞ」
ルーナが身を乗り出して覗き込む。
得体の知れない液体の入った細長い透明なものだ。
「何これ?」と手話で尋ねると、シニコローレは不機嫌な様子で冷たく言い放った。
「その破廉恥な行為はやめて黙ってお飲み」
静かながらとてつもない圧でそう言われたソル、仕方なくそれを飲もうとキャップを外す。
中を覗くと濁った液体が蠢いている。
「さぁ、ほら」
シニコローレは今度は猫撫で声で促した。
ソルは諦め、意を決してそれを一気に口に流し込んだ。
ピリピリとひりつくような衝撃が口の中に走る。
スゥーっと体の中を謎の液体が伝っていくのがはっきりとはわかった。
涙目になりながらなんとかそれを飲み干すと、強い倦怠感に襲われどさっと椅子に深く倒れ込んだ。
「大丈夫?」
ルーナが身を乗り出し心配そうにこちらを覗いている。
「坊やにはちょっと刺激が強すぎたかしら」
おちゃらけたようにそうウィンクすると、シニコローレはまたまた手をくるくると回し、今度は水の入ったカップをその場に出現させた。
ルーナに水を手渡すと、「飲ませておやり」と呟き、再び椅子に深く座り直した。すぐにシェズがその膝下に飛び乗る。
黒猫の頭をゆっくりと撫で回しながら、ルーナが水を飲ます様子をうっとりと見つめている。
「何を飲ませたの?」
水をなんとか飲ませたルーナは不安げに訪ねた。ソルは呆然とした様子で座ったままだ。
あはは、と笑い声を上げその魔女は楽しげに言った。
「水よ。それに飲ませたのはあなたよ、子猫ちゃん」
「そうじゃなくて!」
またもや楽しげに大きな笑い声を上げた魔女は、やれやれと言った様子で口を開いた。
「そう怒りなさんな。それはね、ジェスリムっていうの。って言ってもあなたにはわからないわね。機械人間用の薬よ。まぁ気付薬みたいなもんね」
楽しそうに二人の様子を伺うシニコローレは、まさに魔女といったいで立ちで優雅に座っている。
「なんでそんなもの持ってるの?」
「昔の友達がくれたのよ。機械人間の」
さも当たり前のようにそう言い放つ。
「友達?ソルマルクに友人がいるの?どうやって出会ったの?」
驚いた様子で矢継ぎ早に質問を投げかけるルーナを見て、シニコローレはふふふ、と笑った。
「子猫ちゃん。あなたはいつも質問を始めると止まらなくなるわね。まぁそこが可愛いんだけど、今日はダメよ」
口元に指を当て、シーッと呟くとまたまたウィンクを投げかけた。
「坊や。気分はどう?」
ソルはゆっくりと上体を起こし、静かに深呼吸をする。
倦怠感が徐々に引いていき、やがてすっきりとした気分になってきた。
「何か喋ってみなさい」
シニコローレに促され、ソルは咳払いをする。
「ル、ルーナ」
久しぶりに耳にした自分の声だった。なんだか懐かしい気持ちになる。
かたや初めて名前を呼ばれたルーナは大喜びし、ソルの手を取り大いにはしゃいだ。
「ソルってそんな声してるのね!思っていたよりもずっと大人っぽい!」
ソルの腕を取りブンブンと上下に振っている。よっぽど嬉しかったのだろう。その目には微かに涙が浮かんでいたように見えた。
「よかったわね。それ、一時的にしか効かないから、できることなら早く国に帰りなさいよ」
はしゃぐルーナをよそに、シニコローレは冷静にそう言い放った。
何か言いかけるルーナを制し、「はい、これ。お守り」とまたもや怪しげに細長い容器に入った謎の液体を手渡してきた。
「な、なんですか、これ?」
ソルはそう口に出して質問した。
「それはね、マーシェインっていうお薬よ。さっきのとはまた違うけど、どんな効果があるかは飲んでみてからのお楽しみ。ここ一番、頑張り時って時に飲みなさい」
怪しげに笑いウィンクを送ってくる魔女に、ルーナは呆れたように一言お礼を告げた。
「あら、皮肉かしら。かわいいわね、相変わらず」
ふふふ、と意に介した様子は全く内容だ。
「かなわないわ」
はぁっとため息をつき、お手上げといった様子で両手を上げるルーナ。
その魔女は「老人の知恵に敵うはずがないでしょ」といたずらっ子のように笑った。
(老人?なんの話だろう。)
曖昧な笑顔を浮かべ二人の話を聞いていたソルを見て、シニコローレは笑った。
「ソル、老人っていうのは私のことよ」
「えっ!まさか」
また坊やと呼ばれたら敵わない。魔女の冗談と受け流したソルだったが、シニコローレがやれやれと首を振っている。
「目に見えるものなんて当てにならないのよ。これだから坊やは」
老人。この魔女が?
どう見てもルーナより少し年上ぐらいにしか見えない。
「節穴がどう見たってわかりっこないわ」
あはは、と面白がるように笑ったシニコローレは、「この話はもういいわ」と手を振った。
「ところで」と真剣な顔に戻った魔女はソルに質問をした。
「あなた、これが何色かわかる?」と、何やら小さな果物を取り出した。赤い果物だった。
ソルはその質問に驚き思わず身を乗り出した。
「色を知ってるの?」
「何色?」有無を言わさずに問い詰める魔女。
「赤」とソル。
満足そうに頷いたシニコローレは「私はなんでも知ってるわよ」と乙女のような笑い声を上げた。
「前に言ってたやつね。なんなの、その色って?」
ルーナはやはり色がわからないらしい。眉根を寄せその魔女の方を見やる。
「色はね、あなたにはわからないでしょうね。あぁ、ちょっと待って。そう膨れないで。ちゃんと説明してあげるから」
いきりたつルーナをいなし、シニコローレは『色』について説明してくれた。
その魔女曰く、ルナシリス人は過去に植物との融合を余儀なくされたとのことだ。
そして、それ以来『色』という概念そのものが失われてしまったらしい。
「ソルマルク人は色の認識ができるようになったようね」
考え込むように深く椅子にもたれた魔女は、先ほどまでのからかう様子は全くない。
「なったようね、ってシニーのお友達のソルマルク人は違ったの?」
ルーナが質問をする。
ぼんやりと虚空を見つめていた魔女は、ハッとした様子で目を見開きゆっくりとルーナの方を見た。
それはまるでたった今ルーナがそこにいることを認識したかのようであった。
「あぁ、彼は色の判断はつかなかったわ。はるか昔のことだもの」
心ここに在らずといった様子で、膝下の黒猫を撫でている。気がつけばその黒猫はぐっすりと眠っていた。
ぼんやりとしていた魔女だったが、突然「はっ!」としてスッと立ち上がった。
突如、宙に投げ出された黒猫が抗議の声を上げている。
「あら、ごめんなさい。けど、やることができたわ」
牙を剥き出し、その魔女を威嚇した黒猫は静かに暗闇の中へと消えていった。
「悪いけどお話はこれでおしまい。もう帰りなさい」
シニコローレはそう言うと二人を急き立て、入口の方まで押しやった。
「気をつけて帰るのよ」
優しくそう言うと、「さぁ、行った行った」と二人を追い払うように手を振った。
「そういえば」と魔女の家を後にしようとしていたルーナが振り返る。
不機嫌そうに「何?」と眉を上げる魔女。
「ラールーで、亡霊に取り憑かれたかのような獣に襲われたの。何か知らないかしら?」
ルーナのその言葉に、魔女は考え込み一言呟いた。
「ヴィヴィリアンの馬鹿かもね。・・・ちょっと急がないといけないわ。あーめんどくさ」
ルーナが口を開く前に魔女は目の前で手を気だるそうに振り話を続ける。
「あんたたち帰りは街を通って帰りなさい。ラールーには近づかないこと。いいね?はい、行った行った!」
それ以上の質問は御免だと言わんばかりに、荒々しく扉を閉める魔女。
小さな古い家の前に二人は佇み、呆然としていた。
「変わった人だったね」
ははは、と思わず笑いが込み上げてくる。それにつられたかのようにルーナも笑い出した。
「魔女だもの」
二人は笑いながら、魔女の谷を後にした。薄暗い寂れた村にその不釣り合いな笑い声はいつまでもこだましていた。
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