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〜1章〜
甘酸っぱいおかしな恋心
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「さぁ、できたわよ」
部屋中に充満する甘い焼き菓子の香りに包まれながら、少年シエロは絵を描いていました。
シエロのお母さん、ウカの呼びかけにハッと顔を上げたシエロは、期待に目を輝かせすぐさま匂いの元へと駆けていきます。
「今日はなにを焼いたの?」
自慢げな様子のオーブンに齧り付くように、ガラス越しに中を覗き込んでいたシエロが尋ねます。
その問いにウカは悪戯っ子のように笑いました。
「ふふふ。なんでしょうか」
どうぞご覧あれ、とオーブンをそっと開けると、暖かい空気と共にこれまた甘いチョコレートの香りが広がりました。
うわぁっと歓声を上げ美味しそうに煙をまとっているケーキを覗き込んだシエロは、不思議そうな顔で母親の顔を見上げました。
「ウカ、上に乗ってるの、レモン?」
ウカは嬉しそう微笑みそっとシエロのほっぺたに手を添えました。
「さすが私の息子ね。正解よ」
甘い香りに包まれて、また母親の愛情に包まれてシエロはとても幸せそうです。
まだ食べてもいないというのに、シエロのほっぺたは落っこちてしまいそうです。
「どうやったらこんなにおいしく焼けるの?」
「あら、なあに。まだ食べてもいないのに、美味しいってわかるの?」
ふふふっと笑ったウカは焼きたてのケーキをオーブンから取り出し、丁寧に型から外していきます。
まだ小さく幼いシエロは小さな木の箱に乗り、母親の邪魔をしないようにと気をつけながら、その様子を隣で見守っています。
シエロの家はガトーショコラの専門店を営んでおり、ウカの焼くガトーショコラは街の人々を笑顔にしています。シエロもいつかお菓子屋さんになって、母親のように街中のみんなを笑顔にしたいと思っているようです。
「美味しく焼くコツはね」
上に乗ったこんがりとしたレモンを押し潰さないよう、優しく包丁を入れていくウカは笑顔で言いました。
「心を込めて焼くことよ」
均等に切り分けられたガトーショコラを見て、よし、と額に浮かんだ汗を拭ったウカはシエロの方へと向き直り微笑みました。
「ここよ」と、シエロの胸の辺りにそっと手を添えます。
シエロは母親に撫でられた胸に触れ、不思議そうな顔をしました。
「・・・どうやって心を込めるの?」
切り分けられたガトーショコラは流れるようにラッピングされていきます。
シエロは早く食べたい気持ちをなんとか飲み込み、お菓子作りのコツを尋ねました。
「食べてくれる人の笑顔を思い浮かべるの。自分の焼いたケーキを食べてくれる人には、幸せになって欲しいでしょ?」
はい、どうぞ。と可愛くラッピングされたガトーショコラはピンク色のリボンで飾られています。可愛いリボンで飾られてガトーショコラも嬉しそうです。
手のひらの上の焼き菓子はまだ暖かく、シエロのお腹はグーッと鳴き声を上げました。
「ふふふ。早くいってらっしゃい。気をつけてね」
母親に見送られたシエロは、ガトーショコラを落とさないよう大切に抱えながら家を出ました。
手元からはウカの焼いてくれた甘い焼き菓子の香りがゆらゆらと鼻をくすぐり、シエロの歩みは自然と早くなります。
春の陽気に頬をくすぐる爽やかな風がひんやりと心地よく、シエロは甘い香りに包まれてとても幸せな気持ちでいっぱいでした。
歩き慣れた道はすぐにシエロのことを目的の場所へと運んでくれたようです。
シエロは友達のルーフェのお家へとやってきました。
ルーフェは女の子です。
シエロはルーフェのことが少しだけ好きなようです。そのことは誰にも秘密です。
ルーフェのお家はピンク色のレンガ屋根が特徴的な可愛いお家です。その屋根には若々しい緑が垂れ下がるようにしてその葉を伸ばしていて、そこがまたルーフェらしくてチャーミングだと、シエロは思っています。
玄関の方には行かず、家の脇道を通って裏庭へと歩いていきます。その足取りはもう慣れたものです。
庭に咲く色とりどりの花壇から顔を覗かせると、そこにはルーフェの姿がありました。小さなパラソルの下で、お気に入りの木のお人形とお茶会をしているようです。
名前は確か、パタムール。
シエロはルーフェに気づかれないよう、抜き足差し足、静かに忍び寄っていきます。
ルーフェはパタムールとのお話に夢中のようでシエロには全く気がつきません。
ワッ!っと声を上げ肩を揺すぶると、ルーフェはキャッと声を上げて飛び跳ねました。
「もう、シエロったら。驚かさないでよ」
まるでチューインガムのように頬を膨らませたルーフェは、怒ったようにシエロの方を振り返ります。
シエロはというと、お腹を抱えて今にも笑い転げそうです。
「またこの人形で遊んでたの?・・・ピエロが使う操り人形みたいだよねコイツ」
びっくりしてルーフェの手から脱げ出した木の人形を拾い上げたシエロは、母親の焼いた焼き菓子と共にルーフェに手渡しました。
「別にいいでしょ。可愛いんだから。それに私はピエロじゃありません・・・本当はシエロも欲しいんでしょ」
あら、ありがとう、と焼き菓子を受け取ったルーフェは嬉しそうに笑い声を上げます。
「まぁ。ウカおばさまのガトーショコラね」
隣に木の人形をそっと座らせるとルーフェはうっとりとした様子で手元の焼き菓子の匂いを嗅ぎました。もう怒ってはいないようです。
「私もさっきケーキ焼いたからお茶しましょう」
ちょっと待ってて、と言い残しルーフェは家の中へと入っていきました。
シエロはルーフェの大切な木の人形パタムールを手に取ると、しげしげと眺めました。精巧とはお世辞にも言えない作りで、もうだいぶ古めかしくなっています。それでも、ルーフェの愛情をたっぷりと吸ったその木の人形は、愛らしい表情を浮かべておりとても幸せそうです。
「お待たせ」
ルーフェは紅茶の入った流行りのカップと自家製の焼き菓子を、三角のお盆に乗せて持ってきました。
どうぞ、と目の前に置かれたカップからは、ゆらゆらと優しい香りが立ち昇っています。
ルーフェの焼いた焼き菓子はどうやらクッキーのようです。淡い紫色をしたその焼き菓子は紫芋でも使っているのでしょうか。
いただきます。と二人は声を合わせ満面の笑みです。
まずは紅茶を一口。馴染みのあるアールグレイの香りが口いっぱいに広がります。
ホッと一息ついたシエロは早速といった様子で、ウカの焼いてくれたレモンのガトーショコラへと手を伸ばしました。
「もう。私の焼いたクッキーから食べてよ」
拗ねた様子で眉を顰め紅茶を啜るルーフェに、シエロは平謝りです。
それでは改めて、いただきます。
ルーフェのクッキーを一気に放り込んだシエロは、あまりの美味しさに目を回しました。
何の香りでしょうか。
まるでお花が蕾が口の中でパッと開いたかのような、甘い甘い香りが口の中に広がります。
シエロの様子を見て満足そうな表情を浮かべたルーフェは、ウカの焼いたガトーショコラへと手を伸ばします。
「今度のはレモンスライスを使ってるのね」
しげしげと、一通りその焼き菓子を眺めたルーフェは、そっとフォークを手に取り一口大よりも少しばかり小さく切り分けました。
大事そうにそれを口に入れると、目を瞑りうっとりとした表情を浮かべているではないですか。
さすがウカの焼いたガトーショコラ。みんなを笑顔にする魔法が効いているようです。
シエロもワクワクとした気持ちでガトーショコラを頬張ります。大きさは一口大よりも三倍ほどの大きさです。
もぐもぐと口の中でガトーショコラが踊り出します。
んん~、とほっぺたをまん丸に膨らませ満足げな声を上げたシエロを見て、ルーフェは笑い出しました。
「お行儀が悪いわよ。そんなにいっぺんに食べちゃって」
ぱぁっと春風が吹きパラパラと葉っぱが宙を舞いました。
太陽の日差しを浴びてキラキラと輝く葉っぱは楽しそうにゆらゆらと心地良さそうです。
ルーフェそれを横目に幸せそうに紅茶を啜ります。
「おいしいね」
シエロは幸せそうなルーフェを眺めながらそう呟きました。
二人の間には柔らかい時間が流れ、優しく満たされていくようです。
ルーフェは最後の一口を名残惜しそうに平らげるとシエロに尋ねました。
「私のクッキーどうだった?」
期待と不安に満ちた目は伏し目がちです。シエロはクッキーを口いっぱいに頬張っていたため、慌てて紅茶で流し込みました。
ふぅっと満足げなため息をついたシエロはニヤリと口を開きました。
「まぁまぁ、かな。やっぱウカのガトーショコラにはまだまだ敵わないね」
少年時代特有の、好きな子に対するいじわる心でしょうか。
ほんとはルーフェの焼いたクッキーも全然負けてはいませんでした。
けど、やっぱり正直に褒めるのはどこかこっぱずかしいものです。
ルーフェは、そっか、と小さく呟きそっと紅茶を口にしました。
なんだか少しだけ空気がひんやりとしたようです。海風でも吹いてきたのでしょうか。
じっと黙って座っているルーフェを見てシエロの心はざわめき始めました。
「ルーフェ?・・・どうかした?」
おずおずと尋ねるシエロの背中にはうっすらと冷や汗が流れ落ちます。
そうして初めて、言ってはいけないことを言ってしまったような気がしてきます。
不思議なものです。
「・・・たのに」
ぶわっと吹きつけた風にルーフェの声は掻き消されます。
「え?」
シエロは目の前のルーフェが静かに俯き肩を揺らしていることに気がつきました。
「心を込めて焼いたのに!」
キラキラと輝く瞳が責めるようにシエロのことを見据えているではないですか。
「ご、ごめん」
またもや寒々しい風が吹き付けます。
おどおどとするシエロを横目に、もういい、とルーフェは立ち上がるとお気に入りの木の人形を抱え上げ歩き始めてしまいました。
慌てて後を追いますが、ルーフェは知らんぷりのようです。
シエロはなんとかルーフェに渦巻く怒りを取り払おうと頭を巡らせます。
「ルーフェ。ごめんって。ウカはプロなんだから仕方ないよ。ルーフェのクッキーだっておいしかったよ」
シエロのその言葉はルーフェの心を打ったようです。もちろん、悪い方に。
ルーフェはふと立ち止まり頬を伝う涙を拭い取ります。そして、顔にかかった髪を乱暴に振り払うとシエロの方へと向き直り言いました。
「もういいって言ったでしょ。シエロなんか知らない。ピエロか何かにでもなってどっか行っちゃえ。甘い物だって食べられなくなっちゃえばいいのよ。ほら、これ、餞別よ。欲しかったでしょ?・・・さよなら」
抱えていた木の人形を押し付けるようにシエロへと手渡したルーフェは、踵を返して家の中へと帰ってしまいました。
扉が閉まると共に、カチリ、と寒々しい音が鳴り響きます。
唖然とした様子でその扉を見つめていたシエロは、手元の木の人形と目が合いぶるぶると体を震わせました。
ズキズキとこめかみが痛み、胸には何か重たいものがつっかえたかのようで、シエロは深呼吸を繰り返しました。
なんであんなに怒っちゃったんだろう。
男の子というのはいつの時代も愚かなものです。
気がつけば海風がひんやりとその姿を変え、晴れ渡っていた空には大きな雲が野次馬のように流れ始めました。
なんとか仲直りがしたいと扉の前で佇み、自分の中にいる勇気を探し周ります。
握りしめた拳を振り上げ扉をノックしたいシエロでありましたが、結局探し物は見つからず諦めて一人、と木の人形パタムール、と共に帰ることにしました。
シエロの運命はこの日を境に大きく変わることになったのでした。
部屋中に充満する甘い焼き菓子の香りに包まれながら、少年シエロは絵を描いていました。
シエロのお母さん、ウカの呼びかけにハッと顔を上げたシエロは、期待に目を輝かせすぐさま匂いの元へと駆けていきます。
「今日はなにを焼いたの?」
自慢げな様子のオーブンに齧り付くように、ガラス越しに中を覗き込んでいたシエロが尋ねます。
その問いにウカは悪戯っ子のように笑いました。
「ふふふ。なんでしょうか」
どうぞご覧あれ、とオーブンをそっと開けると、暖かい空気と共にこれまた甘いチョコレートの香りが広がりました。
うわぁっと歓声を上げ美味しそうに煙をまとっているケーキを覗き込んだシエロは、不思議そうな顔で母親の顔を見上げました。
「ウカ、上に乗ってるの、レモン?」
ウカは嬉しそう微笑みそっとシエロのほっぺたに手を添えました。
「さすが私の息子ね。正解よ」
甘い香りに包まれて、また母親の愛情に包まれてシエロはとても幸せそうです。
まだ食べてもいないというのに、シエロのほっぺたは落っこちてしまいそうです。
「どうやったらこんなにおいしく焼けるの?」
「あら、なあに。まだ食べてもいないのに、美味しいってわかるの?」
ふふふっと笑ったウカは焼きたてのケーキをオーブンから取り出し、丁寧に型から外していきます。
まだ小さく幼いシエロは小さな木の箱に乗り、母親の邪魔をしないようにと気をつけながら、その様子を隣で見守っています。
シエロの家はガトーショコラの専門店を営んでおり、ウカの焼くガトーショコラは街の人々を笑顔にしています。シエロもいつかお菓子屋さんになって、母親のように街中のみんなを笑顔にしたいと思っているようです。
「美味しく焼くコツはね」
上に乗ったこんがりとしたレモンを押し潰さないよう、優しく包丁を入れていくウカは笑顔で言いました。
「心を込めて焼くことよ」
均等に切り分けられたガトーショコラを見て、よし、と額に浮かんだ汗を拭ったウカはシエロの方へと向き直り微笑みました。
「ここよ」と、シエロの胸の辺りにそっと手を添えます。
シエロは母親に撫でられた胸に触れ、不思議そうな顔をしました。
「・・・どうやって心を込めるの?」
切り分けられたガトーショコラは流れるようにラッピングされていきます。
シエロは早く食べたい気持ちをなんとか飲み込み、お菓子作りのコツを尋ねました。
「食べてくれる人の笑顔を思い浮かべるの。自分の焼いたケーキを食べてくれる人には、幸せになって欲しいでしょ?」
はい、どうぞ。と可愛くラッピングされたガトーショコラはピンク色のリボンで飾られています。可愛いリボンで飾られてガトーショコラも嬉しそうです。
手のひらの上の焼き菓子はまだ暖かく、シエロのお腹はグーッと鳴き声を上げました。
「ふふふ。早くいってらっしゃい。気をつけてね」
母親に見送られたシエロは、ガトーショコラを落とさないよう大切に抱えながら家を出ました。
手元からはウカの焼いてくれた甘い焼き菓子の香りがゆらゆらと鼻をくすぐり、シエロの歩みは自然と早くなります。
春の陽気に頬をくすぐる爽やかな風がひんやりと心地よく、シエロは甘い香りに包まれてとても幸せな気持ちでいっぱいでした。
歩き慣れた道はすぐにシエロのことを目的の場所へと運んでくれたようです。
シエロは友達のルーフェのお家へとやってきました。
ルーフェは女の子です。
シエロはルーフェのことが少しだけ好きなようです。そのことは誰にも秘密です。
ルーフェのお家はピンク色のレンガ屋根が特徴的な可愛いお家です。その屋根には若々しい緑が垂れ下がるようにしてその葉を伸ばしていて、そこがまたルーフェらしくてチャーミングだと、シエロは思っています。
玄関の方には行かず、家の脇道を通って裏庭へと歩いていきます。その足取りはもう慣れたものです。
庭に咲く色とりどりの花壇から顔を覗かせると、そこにはルーフェの姿がありました。小さなパラソルの下で、お気に入りの木のお人形とお茶会をしているようです。
名前は確か、パタムール。
シエロはルーフェに気づかれないよう、抜き足差し足、静かに忍び寄っていきます。
ルーフェはパタムールとのお話に夢中のようでシエロには全く気がつきません。
ワッ!っと声を上げ肩を揺すぶると、ルーフェはキャッと声を上げて飛び跳ねました。
「もう、シエロったら。驚かさないでよ」
まるでチューインガムのように頬を膨らませたルーフェは、怒ったようにシエロの方を振り返ります。
シエロはというと、お腹を抱えて今にも笑い転げそうです。
「またこの人形で遊んでたの?・・・ピエロが使う操り人形みたいだよねコイツ」
びっくりしてルーフェの手から脱げ出した木の人形を拾い上げたシエロは、母親の焼いた焼き菓子と共にルーフェに手渡しました。
「別にいいでしょ。可愛いんだから。それに私はピエロじゃありません・・・本当はシエロも欲しいんでしょ」
あら、ありがとう、と焼き菓子を受け取ったルーフェは嬉しそうに笑い声を上げます。
「まぁ。ウカおばさまのガトーショコラね」
隣に木の人形をそっと座らせるとルーフェはうっとりとした様子で手元の焼き菓子の匂いを嗅ぎました。もう怒ってはいないようです。
「私もさっきケーキ焼いたからお茶しましょう」
ちょっと待ってて、と言い残しルーフェは家の中へと入っていきました。
シエロはルーフェの大切な木の人形パタムールを手に取ると、しげしげと眺めました。精巧とはお世辞にも言えない作りで、もうだいぶ古めかしくなっています。それでも、ルーフェの愛情をたっぷりと吸ったその木の人形は、愛らしい表情を浮かべておりとても幸せそうです。
「お待たせ」
ルーフェは紅茶の入った流行りのカップと自家製の焼き菓子を、三角のお盆に乗せて持ってきました。
どうぞ、と目の前に置かれたカップからは、ゆらゆらと優しい香りが立ち昇っています。
ルーフェの焼いた焼き菓子はどうやらクッキーのようです。淡い紫色をしたその焼き菓子は紫芋でも使っているのでしょうか。
いただきます。と二人は声を合わせ満面の笑みです。
まずは紅茶を一口。馴染みのあるアールグレイの香りが口いっぱいに広がります。
ホッと一息ついたシエロは早速といった様子で、ウカの焼いてくれたレモンのガトーショコラへと手を伸ばしました。
「もう。私の焼いたクッキーから食べてよ」
拗ねた様子で眉を顰め紅茶を啜るルーフェに、シエロは平謝りです。
それでは改めて、いただきます。
ルーフェのクッキーを一気に放り込んだシエロは、あまりの美味しさに目を回しました。
何の香りでしょうか。
まるでお花が蕾が口の中でパッと開いたかのような、甘い甘い香りが口の中に広がります。
シエロの様子を見て満足そうな表情を浮かべたルーフェは、ウカの焼いたガトーショコラへと手を伸ばします。
「今度のはレモンスライスを使ってるのね」
しげしげと、一通りその焼き菓子を眺めたルーフェは、そっとフォークを手に取り一口大よりも少しばかり小さく切り分けました。
大事そうにそれを口に入れると、目を瞑りうっとりとした表情を浮かべているではないですか。
さすがウカの焼いたガトーショコラ。みんなを笑顔にする魔法が効いているようです。
シエロもワクワクとした気持ちでガトーショコラを頬張ります。大きさは一口大よりも三倍ほどの大きさです。
もぐもぐと口の中でガトーショコラが踊り出します。
んん~、とほっぺたをまん丸に膨らませ満足げな声を上げたシエロを見て、ルーフェは笑い出しました。
「お行儀が悪いわよ。そんなにいっぺんに食べちゃって」
ぱぁっと春風が吹きパラパラと葉っぱが宙を舞いました。
太陽の日差しを浴びてキラキラと輝く葉っぱは楽しそうにゆらゆらと心地良さそうです。
ルーフェそれを横目に幸せそうに紅茶を啜ります。
「おいしいね」
シエロは幸せそうなルーフェを眺めながらそう呟きました。
二人の間には柔らかい時間が流れ、優しく満たされていくようです。
ルーフェは最後の一口を名残惜しそうに平らげるとシエロに尋ねました。
「私のクッキーどうだった?」
期待と不安に満ちた目は伏し目がちです。シエロはクッキーを口いっぱいに頬張っていたため、慌てて紅茶で流し込みました。
ふぅっと満足げなため息をついたシエロはニヤリと口を開きました。
「まぁまぁ、かな。やっぱウカのガトーショコラにはまだまだ敵わないね」
少年時代特有の、好きな子に対するいじわる心でしょうか。
ほんとはルーフェの焼いたクッキーも全然負けてはいませんでした。
けど、やっぱり正直に褒めるのはどこかこっぱずかしいものです。
ルーフェは、そっか、と小さく呟きそっと紅茶を口にしました。
なんだか少しだけ空気がひんやりとしたようです。海風でも吹いてきたのでしょうか。
じっと黙って座っているルーフェを見てシエロの心はざわめき始めました。
「ルーフェ?・・・どうかした?」
おずおずと尋ねるシエロの背中にはうっすらと冷や汗が流れ落ちます。
そうして初めて、言ってはいけないことを言ってしまったような気がしてきます。
不思議なものです。
「・・・たのに」
ぶわっと吹きつけた風にルーフェの声は掻き消されます。
「え?」
シエロは目の前のルーフェが静かに俯き肩を揺らしていることに気がつきました。
「心を込めて焼いたのに!」
キラキラと輝く瞳が責めるようにシエロのことを見据えているではないですか。
「ご、ごめん」
またもや寒々しい風が吹き付けます。
おどおどとするシエロを横目に、もういい、とルーフェは立ち上がるとお気に入りの木の人形を抱え上げ歩き始めてしまいました。
慌てて後を追いますが、ルーフェは知らんぷりのようです。
シエロはなんとかルーフェに渦巻く怒りを取り払おうと頭を巡らせます。
「ルーフェ。ごめんって。ウカはプロなんだから仕方ないよ。ルーフェのクッキーだっておいしかったよ」
シエロのその言葉はルーフェの心を打ったようです。もちろん、悪い方に。
ルーフェはふと立ち止まり頬を伝う涙を拭い取ります。そして、顔にかかった髪を乱暴に振り払うとシエロの方へと向き直り言いました。
「もういいって言ったでしょ。シエロなんか知らない。ピエロか何かにでもなってどっか行っちゃえ。甘い物だって食べられなくなっちゃえばいいのよ。ほら、これ、餞別よ。欲しかったでしょ?・・・さよなら」
抱えていた木の人形を押し付けるようにシエロへと手渡したルーフェは、踵を返して家の中へと帰ってしまいました。
扉が閉まると共に、カチリ、と寒々しい音が鳴り響きます。
唖然とした様子でその扉を見つめていたシエロは、手元の木の人形と目が合いぶるぶると体を震わせました。
ズキズキとこめかみが痛み、胸には何か重たいものがつっかえたかのようで、シエロは深呼吸を繰り返しました。
なんであんなに怒っちゃったんだろう。
男の子というのはいつの時代も愚かなものです。
気がつけば海風がひんやりとその姿を変え、晴れ渡っていた空には大きな雲が野次馬のように流れ始めました。
なんとか仲直りがしたいと扉の前で佇み、自分の中にいる勇気を探し周ります。
握りしめた拳を振り上げ扉をノックしたいシエロでありましたが、結局探し物は見つからず諦めて一人、と木の人形パタムール、と共に帰ることにしました。
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