少年Cの終末目撃証言

陸一 潤

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急 異端者Mの望み

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 山と丘の中間ほどの高さの高台にあるその公園は、かつてこの地にあった城跡である。今は僅かな土台が残るのみで、申し訳程度の歴史案内の看板と、遊歩道、山肌に沿って鬱蒼とした林がある。
  燻るような夕日だった。遊歩道は僕たち自身の影が重なり、薄墨が垂らされているように薄暗い。
  赤を背追って、聖兄ちゃんは僕の前を歩いていた。


 「おい純坊。夏休みはいつからだ? 」
 「あと一週間と少しだよ」
 「そうか。じゃあ、夏休みに入ったら夜釣り教えてやるよ」
 「本当? 」
 「っていっても、俺もあんまり上手くないけどな。期待すんなよ」

  聖兄ちゃんの右手には、くたびれた白いスーパーの袋がぶら下がっていた。虫よけを付けて来なかったので、寄ってくる羽虫が気になる。



 「おい純。いいもん見せてやるよ」学校から帰ってきた僕にそう言って、聖兄ちゃんは僕を連れ出した。明日が土曜日だということもあって、出発の時刻は七時近く。山中で日暮れを待つ予定だった。

 「兄ちゃん、まだ登るの? 」
 「もうちょっとだな」
 「本当に蛍なんている? このあたりに水場なんてあったっけ」
 「川がいらない蛍っているんだよ。ヒメボタルつってよ。それに今年はまだ涼しいからな。昨日下見もしたし、一日でいなくなったりはしないだろ」
 「昨日いないと思ったら、そんなことしていたの」

  確かに、今年の梅雨空けは遅れている。夜はひんやりとしていて、窓を開けていると、明け方の冷気で目が覚めるほどだ。ここ数日は晴天が続いていたので遊歩道は乾いていたが、林に踏み入っていくと、土が水を吸って冷たいことが脚先から伝わってきた。足元はいよいよ危なくなってくる。聖兄ちゃんがビニール袋から細身の懐中電灯を取り出して、足元を照らした。
  ふと、僕の視界の端で、何かが瞬く。それは尾を引いて蛇行し、地面に吸い込まれるように溶けたように思った。

  僕は、アッと小さく声を上げたように思う。その声で、聖兄ちゃんは僕を振り返ったが、その顔は黒く塗りつぶされていて見えなかった。

 「あっちは崖になってるからな。気を付けろよ」聖兄ちゃんの声が、箱に入っているように遠い。

  梢の影が夜のとばりに重なり、闇がいっそう深くなる。地から金の燐光が無数に浮遊し、うねうねと空をくねる。いっそ眩しいほどの緑交じりの金色だ。

  暗闇が濃い。粘的に蠢いている気さえした。

  その時、音が消えた。無音と暗闇がぐねりとうねり、僕を飲み込んで、そして。


  ジインと腕が痺れるような感覚があった。


  僕の視界を遮っていた『物体』が、滑り落ちていくのが見えた。その物体は夕日を受けながら、黒い飛沫を上げて眼下へ落下していく。金色のあの光が、群れ成してそれを飲み込んだ。

 『それ』が『聖兄ちゃん』だと気が付いた時、僕の体は一瞬にして感覚を取り戻す。

  右腕が衝撃を忘れずに痺れている。掌が濡れていた。爪の奥にまで、肉の感触が残っている。

  今度は瞼を閉じたような、瞬くように落ちる暗闇だった。


  朝になって、家でいつも通りに目が覚めた。聖兄ちゃんは入院したそうだ。
  襲ってきた通り魔に喧嘩を売り、そのまま遊歩道の階段から転げ落ちたのだと、見舞いに行った大陽兄さんが呆れた口調で言った。三日に一度は、仕事帰りに兄さんたちが見舞いに行き、洗濯物やらを貰ってくる。

  けれど僕は、僕だけは、あの夜から一度も聖兄ちゃんに会っていない。
  時々、食べた記憶がないのに食事が終わっていたり、数時間飛ぶのはまだいいほうで、悪い時には一日経っていることがある。
  エムが現れた時。ついに僕は、何かが壊れ始めていることを悟った。
  僕の顔は勝手に笑うように出来ている。


  きっと僕は、長い長い夢の中にいる。



  ◎◎◎◎◎




 エムが異変に気が付いたのは、彼が病棟の廊下を走り出した瞬間だった。
  脳髄を冷たい指でなぞられたような不快感は、おそらくこの場に踏み入った異物に向かっての警告だ。
 (彼は何も感じていないの? )
  一心に、『辻 聖』のいる病室を目指している彼は、気づいていないだけなのだろうか。エムは荷物の中で揉まれながら、強く何かの気配が迫っていることを感じていた。
  耳鳴りがする……いや、これは耳鳴りなのだろうか。火災報知器? いや、いや……違う。外からではない。

  ――――………リリリ。ジリリリリリリリ。ジリリリリリリ。ジリリ……。

 (わたしの頭の中からだ)
  ガチリ、ガチリ。

  無数に散らばっていた事柄が、エムの中で噛み合っていく。

  『未来』の彼女は言った。
 (『たぶん、アリスだったら……あなたのことを必要以上に警戒するはずよ。あなたと美嶋純との繋がりは、アリスには隠し切れないもの。でも、その無駄な情報が、アリスを混乱させるはず。だからとりあえず、あなたの肉体を奪って、後でゆっくりとその頭の中をさぐろうとするわ。あの時代のわたしは弱っている。体を奪う前に、相手には分かってしまうでしょうね。あなたなら、その前兆も分かるでしょう。わたしの『支配』は、理解さえすれば回避できるわ。
  同じ魔女の血を引くあなたなら、拒むことができるはずよ』)

  『ほら、やってみなさい』というように、悪戯っぽく、挑戦的に笑った彼女の青い瞳を思い出し、エムは手段を選ぶことをやめた。瞬間、その小さく押し込めていた肉体を解放する。



  リュックサックを破り外へ転び出た勢いのままに、背後で迫っていた男の看護師の鼻先で、爪を出していない脚先で空を引っ掻いてやった。悲鳴を上げて、看護師は転げながら逃げていく。黒々とした獣の四肢を踏みしめ羽が舞う。獣の首があるはずの場所には、乱れ髪の女の顔がある。赤々と濡れた瞳を見た他の職員も、悲鳴をあげて逃げ出した。

  髪を掻き上げ、ヒト型を取りながら立ち上がった時には、あのサイレンのような音は消えていたが、首の後ろを這う不快感は拭えないままだ。エムは純の背中を追う。二度目の悲鳴が聞こえたのは、ほんの数メートル足を進めた時だった。

  茫然と病室を覗き込む数人の職員たちの中、小さな黒い頭を見つけ出す。

 「純? 何があったの? 」
  エムは、腕を引いて視線を合わせた彼の視線の強さに驚いた。

  美嶋純という少年は、良く言えば温和な人柄で、悪く言うならボンヤリとした人柄である。未来の『美嶋純』を知らないエムだったが、僅かな時を過ごして知った彼は、けっして破壊衝動を押し込めたようなこんな目をしないことを知っている。

  『純』は、くっくっと哂った。
 「知らねえ間に、知らねえ女が増えてやがるなあ」
 「……わたし、人違いをしたかしら」
 「人違い? ガワは確かに『美嶋純』だぜェ。あんたこそ誰だ? 」
  エムには他にも知っていることがある。この不遜な口調の男の正体だ。

  事態は、エムの知る未来とは、明確に変化している。
 「先に名乗りなさい。『チェシャー猫』。あんた、どうやって純に入り込んだの? 」
 「……俺を知ってンのか。なるほど……。異世界人か? それとも、あの神官どものオトモダチか? 」
  お得意の誘導尋問だ。彼にはその正解が分かる。分かるからこそ、その顔に苛立ちと不快感を露わに睨みつけた。

 「正解は、『どちらも』で、『どれでもない』だわ」


  床を蹴った。「待て! 」 チェシャー猫が追いかけてくる。
  廊下を走りながら四つ足になったエムに、ただの少年の体を持つ『チェシャー猫』は追いつけないはずだ。エムは祈るように、病院の廊下の窓から身を躍らせた。

  身を隠そう。『美嶋純』のことも、もちろん気にはなっているが、それよりも、この場所にいる方がまずい。じわじわ『何か』が近づいてきている。エムは、悪寒を起こしているその正体にも、見当が付き始めていた。

 (あの嫌な感じ……あれは『魔女』の結界だわ。この時代でわたしより格上の『魔女』なんて、分かり切ったことじゃない! )
  白靴下を前足に履いた黒猫が茂みを飛び出すと、上から視線が降ってくるのが分かった。その着地音に、エムの心は沸騰した水に触れたように怖気る。

 (そうか! そういうことか! 純―――――あなた……! )

  獣の咆哮が背後から迫る。エムの後ろ脚が木を蹴り、翼で空に舞い上がった。
 (『チェシャー猫』は、アリスと同じ『精神感応』の能力がある。あれはアリスの『精神干渉』の下位互換……しまった。チェシャーが精神干渉まで使えるようになるなんて、考えもしなかった。さすがにアリスほどの範囲で能力は使えないだろうけれど、いつから『美嶋純』は『チェシャー猫』からの干渉を受けていたの? )

  この建物で、『同期』がエムに向かって試みられたのは間違いない。それとも、場所は関係が無いのか? 
  魔女のテリトリーで、アリス一派が『同期』をした。
  その事実は、エムを混乱に陥れた。この時代、魔女はアリス一派から手を引いて、静観を貫いている。その魔女の気が変わり、積極的にアリス一派に手を貸しているとしたら、『アリス』対『世界』対『異世界管理局』という、三つ巴の構図のパワーバランスが崩壊する。
  そしてもう一つ、彼女に混乱を持ち込んだのは、彼女自身の記憶と感情だ。

 (……純と仲良くなりすぎたわね)
  自分の動揺を諦観し、エムはため息を吐く。考えずにはいられない。あの少年が、今までどんな想いで笑顔を浮かべていたというのか。エムの存在を、どう認識していたのか。
 (まさか、『美嶋純』にこんな感情を抱くことになるなんて――――世界はなんて広くて、自由なのかしら……)


  危険を冒す必要があることを確信した。

 (確かめなくては)
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