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本編
わさび菜のサグキーマカレーソース
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2024年3月11日(月)
「おはようございます! 先輩、見てくださいよ!」
「お、ミキサーかぁ!」
「なんと妹がバイト代で買ってくれたんですよ。新生活のお祝いにって」
トートバッグからミキサーの箱を取り出して嬉しそうに教えてくれた。
「いいな、うちの弟たちはそういうのないからなぁ」
「前に先輩も欲しがってた話をしたんですよね。でも置き場所とか考えると微妙かもって言ったら、ちゃんと覚えててくれて。引っ越すなら大丈夫かなって」
確かに、引っ越しをきっかけに新しい家電を買おうかと思っていたところだ。本音を言えば自分で機種を選びたかったが、せっかくの好意なので口には出さないでおこう。
「で、さっそくこれでなにか作っても構わないんだな?」
「そりゃもう、そのために持ってきたんですから」
にこにこ顔で開封していく彼女を見て、ふと気づいた。
「爪のところ、ちょっとささくれてないか?」
「ええ、最近乾燥してるのでちょっと。大したことないんですけど、料理の前には新しい絆創膏を付けますね」
「雑菌が入ると治りが悪くなるし、逆に傷に溜まった雑菌が食中毒を起こすこともあるからな。うちの店では傷があるときは必ず手袋を付ける決まりになってる」
家庭ではそこまでする必要はないと思うが、商売では万が一があってはならない。バイト先の店長からも口酸っぱく言われている。
「そうなんですか、気をつけますね」
「せっかくだから今日は包丁を使わない料理にしてみようか」
俺は材料を取り出す。鶏むねのひき肉に、みじん切りして冷凍しておいた玉ねぎのジップ、そして……
「その野菜、初めてみるかも」
「わさび菜っていうんだ。例の八百屋で買ってきた」
新居の近くにある店をチェックするついでに、またあの店に寄って買ってきたのだ。細かくちぢれた葉っぱが特徴的である。
「わさび菜?」
「そう、からし菜の改良品種で、わさびの香りに近いみたいだな」
「確かに、わさびもからし菜もアブラナ科ですからね」
袋から開けて匂いを嗅ぐ。うっすらとわさびの香りがした。
「生でも食べられるって聞いたぞ」
「ちょっと一口。……思ったよりツンとしませんね」
「あくまで野菜だからな。これをミキサーにかけて、サグカレー風にしようと思うんだ」
今までサグカレーは小松菜などを包丁で刻んで作っていたが、これからはより本格的に楽しめそうだ。
「私、知ってますよ。サグカレーってほうれん草じゃないんですよね本当は」
「お、詳しいな」
「本来は菜の花とかのアブラナ科を使うのに、ほうれん草のパラクカレーのことをサグカレーと呼ぶ風潮が日本ではなぜか定着してしまったって聞きました」
からし菜や小松菜はアブラナ科の仲間だが、小松菜によく似たほうれん草はヒユ科で、分類的には大きく異なる植物である。
「本場ではからし菜や菜の花を使うみたいだから、わさび菜も近いかもな」
「ですね。それじゃさっそくはじめましょうか」
こうして、今日も二人の時間が流れる。
*
「玉ねぎは冷凍しておいたから、すぐに火が通るぞ」
オリーブオイルを引いたフライパンに、冷凍したみじん切りの玉ねぎをほぐしながら入れて、さらにチューブのにんにくとしょうがを加え、軽く塩を振りながら炒めていく。
「飴色にするんですか?」
「いや、そこまではしない。軽く透き通ってきたらひき肉を入れて、よくほぐしながら炒めていく。ちょっとフライパン頼んだ」
「はーい」
任せている間にスパイスの準備だ。ガラムマサラとクミンの小瓶を取り出す。
「あ、カレー粉じゃないんですね」
「カレー粉でもいいけど、ターメリックの色味が強すぎるからちょっとこだわってみた」
カレー粉なら大さじ2杯分のところを、ガラムマサラ小さじ4杯、クミン小さじ2杯を計って、フライパンの中に入れていく。
「ガラムマサラにもクミンは少し入っているけど、さらにクミンを加えると、だいぶカレーっぽくなる」
「先輩のオリジナルですか?」
「まあ2種類を混ぜただけだけどな。ホワイトカレーのレシピを参考にしてみたんだ」
ホワイトカレーとは、ホワイトシチューのような色をしているが味はカレーという不思議な食べ物である。スパイスを工夫して黄色っぽくならないようにしているそうで、ターメリックを抜くという発想はここから来た。
「匂いがカレーらしくなってきましたね。わさび菜のほうはどうします?」
「さっそくミキサーの出番だ。全部で150グラムくらいかな。これを適当にちぎったら半カップの水と一緒に……スイッチ・オン!」
すでに洗ってあるので準備はできている。山盛りのわさび菜をぎゅっと押し込んでスイッチを入れると、あっという間に細切れにされ鮮やかな緑色をしたスムージー状の液体となった。
「うーん、青汁みたい」
「そういえば粉末の青汁でサグカレーを作るという話も聞いたことあるな。これをフライパンに注いで……残りカスも水ですすいで入れるか」
「洗うの、結構大変そうですからね」
さらに50mlほどのミキサーに水を入れ、スイッチを入れる。まだ緑色をしているすすぎ水をフライパンに注ぎ入れた。
「仕上げに半カップのヨーグルトを入れて、っと。少し水分が多かったかな」
「パスタがまだですから、今から煮詰めるくらいでちょうどいいんじゃないですか?」
「だな」
味見をしながら塩と味の素を加えつつ、鮮やかな緑色に染まったカレーソースを弱火でぐつぐつと煮込んでいく。
*
「わさび菜のサグキーマカレー、完成!」
茹で上がったパスタにソースをたっぷりとかける。前回に引き続きリングイネだ。
「いただきます!……こんな鮮やかな緑なのに、味はしっかりカレーですね!」
「唐辛子を入れようかと思ったけど、これでも十分だな」
辛味成分はガラムマサラのみだが、中辛から辛口レベルの辛さはある。これ以上辛くすると、せっかくのわさび菜の風味が活かせない気がした。
「わさび菜の香りも独特で、なんというかちゃんとスパイスなんですね」
「前に小松菜でも作ったことがあるけど、英語ではマスタードスピニッチと呼ぶくらいだからな」
まして、日本でも「からし菜」と呼ぶ品種をさらに改良したわさび菜はスパイスそのものかも知れない。
「敢えて鶏むねで作ったけど、パンチが足りないから粉チーズは多めに入れるか」
「チーズが入ったサグパニールカレーってのもありますからね」
「水切りヨーグルトを添えたりするのもありかもな」
パニールはインドのカッテージチーズで、酸で凝固させた牛乳を水切りして作る。硬めのヨーグルトでも代用できそうだ。
*
「今日もありがとうございました」
いつものように、多めに作ったカレーをタッパーに詰めて持たせてやる。そういえば一緒に暮らすようになったら、こうすることもなくなるのかと思いながら。
「ミキサー、せっかくのプレゼントなのに俺が持ってていいのか?」
「ええ、結構重たかったので持って帰るのも大変ですし。それにうちの妹も、先輩にそれで美味しいものを作ってほしいって言ってました」
引っ越しの時には妹さんも来るのだろう。それまでに美味しい料理を研究してほしいということか。
「それじゃ、また来ますね」
彼女を見送って、あらためて部屋を見る。来るたびに増えていく彼女の荷物を見るたびに、新生活が近づいていることを実感する。さわやかなわさび菜の香りとともに、新たな春に思いを馳せるのであった。
「おはようございます! 先輩、見てくださいよ!」
「お、ミキサーかぁ!」
「なんと妹がバイト代で買ってくれたんですよ。新生活のお祝いにって」
トートバッグからミキサーの箱を取り出して嬉しそうに教えてくれた。
「いいな、うちの弟たちはそういうのないからなぁ」
「前に先輩も欲しがってた話をしたんですよね。でも置き場所とか考えると微妙かもって言ったら、ちゃんと覚えててくれて。引っ越すなら大丈夫かなって」
確かに、引っ越しをきっかけに新しい家電を買おうかと思っていたところだ。本音を言えば自分で機種を選びたかったが、せっかくの好意なので口には出さないでおこう。
「で、さっそくこれでなにか作っても構わないんだな?」
「そりゃもう、そのために持ってきたんですから」
にこにこ顔で開封していく彼女を見て、ふと気づいた。
「爪のところ、ちょっとささくれてないか?」
「ええ、最近乾燥してるのでちょっと。大したことないんですけど、料理の前には新しい絆創膏を付けますね」
「雑菌が入ると治りが悪くなるし、逆に傷に溜まった雑菌が食中毒を起こすこともあるからな。うちの店では傷があるときは必ず手袋を付ける決まりになってる」
家庭ではそこまでする必要はないと思うが、商売では万が一があってはならない。バイト先の店長からも口酸っぱく言われている。
「そうなんですか、気をつけますね」
「せっかくだから今日は包丁を使わない料理にしてみようか」
俺は材料を取り出す。鶏むねのひき肉に、みじん切りして冷凍しておいた玉ねぎのジップ、そして……
「その野菜、初めてみるかも」
「わさび菜っていうんだ。例の八百屋で買ってきた」
新居の近くにある店をチェックするついでに、またあの店に寄って買ってきたのだ。細かくちぢれた葉っぱが特徴的である。
「わさび菜?」
「そう、からし菜の改良品種で、わさびの香りに近いみたいだな」
「確かに、わさびもからし菜もアブラナ科ですからね」
袋から開けて匂いを嗅ぐ。うっすらとわさびの香りがした。
「生でも食べられるって聞いたぞ」
「ちょっと一口。……思ったよりツンとしませんね」
「あくまで野菜だからな。これをミキサーにかけて、サグカレー風にしようと思うんだ」
今までサグカレーは小松菜などを包丁で刻んで作っていたが、これからはより本格的に楽しめそうだ。
「私、知ってますよ。サグカレーってほうれん草じゃないんですよね本当は」
「お、詳しいな」
「本来は菜の花とかのアブラナ科を使うのに、ほうれん草のパラクカレーのことをサグカレーと呼ぶ風潮が日本ではなぜか定着してしまったって聞きました」
からし菜や小松菜はアブラナ科の仲間だが、小松菜によく似たほうれん草はヒユ科で、分類的には大きく異なる植物である。
「本場ではからし菜や菜の花を使うみたいだから、わさび菜も近いかもな」
「ですね。それじゃさっそくはじめましょうか」
こうして、今日も二人の時間が流れる。
*
「玉ねぎは冷凍しておいたから、すぐに火が通るぞ」
オリーブオイルを引いたフライパンに、冷凍したみじん切りの玉ねぎをほぐしながら入れて、さらにチューブのにんにくとしょうがを加え、軽く塩を振りながら炒めていく。
「飴色にするんですか?」
「いや、そこまではしない。軽く透き通ってきたらひき肉を入れて、よくほぐしながら炒めていく。ちょっとフライパン頼んだ」
「はーい」
任せている間にスパイスの準備だ。ガラムマサラとクミンの小瓶を取り出す。
「あ、カレー粉じゃないんですね」
「カレー粉でもいいけど、ターメリックの色味が強すぎるからちょっとこだわってみた」
カレー粉なら大さじ2杯分のところを、ガラムマサラ小さじ4杯、クミン小さじ2杯を計って、フライパンの中に入れていく。
「ガラムマサラにもクミンは少し入っているけど、さらにクミンを加えると、だいぶカレーっぽくなる」
「先輩のオリジナルですか?」
「まあ2種類を混ぜただけだけどな。ホワイトカレーのレシピを参考にしてみたんだ」
ホワイトカレーとは、ホワイトシチューのような色をしているが味はカレーという不思議な食べ物である。スパイスを工夫して黄色っぽくならないようにしているそうで、ターメリックを抜くという発想はここから来た。
「匂いがカレーらしくなってきましたね。わさび菜のほうはどうします?」
「さっそくミキサーの出番だ。全部で150グラムくらいかな。これを適当にちぎったら半カップの水と一緒に……スイッチ・オン!」
すでに洗ってあるので準備はできている。山盛りのわさび菜をぎゅっと押し込んでスイッチを入れると、あっという間に細切れにされ鮮やかな緑色をしたスムージー状の液体となった。
「うーん、青汁みたい」
「そういえば粉末の青汁でサグカレーを作るという話も聞いたことあるな。これをフライパンに注いで……残りカスも水ですすいで入れるか」
「洗うの、結構大変そうですからね」
さらに50mlほどのミキサーに水を入れ、スイッチを入れる。まだ緑色をしているすすぎ水をフライパンに注ぎ入れた。
「仕上げに半カップのヨーグルトを入れて、っと。少し水分が多かったかな」
「パスタがまだですから、今から煮詰めるくらいでちょうどいいんじゃないですか?」
「だな」
味見をしながら塩と味の素を加えつつ、鮮やかな緑色に染まったカレーソースを弱火でぐつぐつと煮込んでいく。
*
「わさび菜のサグキーマカレー、完成!」
茹で上がったパスタにソースをたっぷりとかける。前回に引き続きリングイネだ。
「いただきます!……こんな鮮やかな緑なのに、味はしっかりカレーですね!」
「唐辛子を入れようかと思ったけど、これでも十分だな」
辛味成分はガラムマサラのみだが、中辛から辛口レベルの辛さはある。これ以上辛くすると、せっかくのわさび菜の風味が活かせない気がした。
「わさび菜の香りも独特で、なんというかちゃんとスパイスなんですね」
「前に小松菜でも作ったことがあるけど、英語ではマスタードスピニッチと呼ぶくらいだからな」
まして、日本でも「からし菜」と呼ぶ品種をさらに改良したわさび菜はスパイスそのものかも知れない。
「敢えて鶏むねで作ったけど、パンチが足りないから粉チーズは多めに入れるか」
「チーズが入ったサグパニールカレーってのもありますからね」
「水切りヨーグルトを添えたりするのもありかもな」
パニールはインドのカッテージチーズで、酸で凝固させた牛乳を水切りして作る。硬めのヨーグルトでも代用できそうだ。
*
「今日もありがとうございました」
いつものように、多めに作ったカレーをタッパーに詰めて持たせてやる。そういえば一緒に暮らすようになったら、こうすることもなくなるのかと思いながら。
「ミキサー、せっかくのプレゼントなのに俺が持ってていいのか?」
「ええ、結構重たかったので持って帰るのも大変ですし。それにうちの妹も、先輩にそれで美味しいものを作ってほしいって言ってました」
引っ越しの時には妹さんも来るのだろう。それまでに美味しい料理を研究してほしいということか。
「それじゃ、また来ますね」
彼女を見送って、あらためて部屋を見る。来るたびに増えていく彼女の荷物を見るたびに、新生活が近づいていることを実感する。さわやかなわさび菜の香りとともに、新たな春に思いを馳せるのであった。
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