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Abenteuer für eine Nacht
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これは21世紀の初頭、僕が大学3年生だった夏の思い出である。偶然が重なって、ほとんど無料でドイツ旅行に行く機会に恵まれた。かいつまんで言えば、教授からお使いを頼まれたのだ。
大学入学後、第二外国語としてドイツ語を履修した。深い理由があってのものではなく、なんとなくカッコいいから、程度の浅い考えだった。当然、それほど真面目に授業を受けていたわけでもないし、教授とそれほど仲が良かったわけでもなかった。
*
「ドイツ行きですか? 僕が?」
「ああ、本当は私が行くつもりだったんだけど、どうしても都合がつかなくなってね」
少し遅れた課題を提出するために研究室に行ったところ、突然のドイツ行きを頼まれた。聞くところによると、教授の親友であるドイツのビール醸造家に、日本の酵母や資料などを持っていく必要があるのだという。
「往復の旅費は出すよ。宿と食事はそこの家にお世話になればいい。その代わり、娘さんに日本語を教えてほしいそうだ」
「娘さん?」
「ああ、ちょうど君と同じくらいの歳だよ。これ、少し古い写真だけどハウプトシューレを卒業したときのものだ。ちょうど6年前の夏だな」
そう言って机の引き出しから取り出した写真に写っている娘さんは少し癖のある赤毛で、メガネを掛けた大人しそうな子だった。ハウプトシューレといえば日本では中学校に相当するが、日本人よりは大人びて見える。今ならもっと女らしく成長していることだろう。
「どうだ、ちょっとは興味出てきたか?」
「……ええ。でも、どうして僕なんですか?」
「他にも色々当たってみたんだけどね、サークルとかバイトで忙しい子ばっかりなんだ。それに、娘さんに何かあると……ね」
「ああ……」
同じゼミのチャラそうな面々を思い浮かべて、思わず苦笑する。逆に、僕なら安牌だと思われたのはちょっと悔しいが。こう見えても彼女の一人や二人はいたんだぞ。
「こんな機会、めったにないぞ。どうだ、やってみないか?」
「……いいですね。やります!」
「お、返事が早いね!」
即断したのには理由がある。その彼女と失恋したばかりだったのだ。先月のデートのときにちょっとした喧嘩をしてしまい、それ以来電話にも出てくれず、大学内で会っても顔も合わせてくれない。要は振られたのだ。この傷心を慰めるには旅が一番のような気がした。
無謀にも、海外旅行に行くのは今回が初めてである。電子辞書は持っていたが、今のように音声入力でスムーズに翻訳してくれるほどの機能はない。あくまで僕自身のカタコトのドイツ語で勝負しなければならない。今思うと無茶をしたと思うが、当時は冒険心も盛んな年頃だったのだ。
とはいえ、さすがに人の助けは借りることにする。ちょうど友達に旅行好きの奴がいたので、準備を手伝ってもらうことにした。パスポートの申請やら、スーツケースの選び方などで世話になった。
「いいなぁ、タダでドイツ旅行なんて。俺もドイツ語履修しとけばよかったな」
「ドイツビールも好きだったよな? おみやげ買ってくるよ」
「本場のブルワリーなんだろ? 頼んだぞ!」
彼はビール好きである。飲み会でも珍しい外国製のビールがあると真っ先に注文したりするくらいだ。
「他に、なにか用意しておいたほうがいいものはあるかな」
「そうだな、フライトが長くて暇だからゲームとか。それとゴムは持っとけ」
「ん、輪ゴム?」
「違うよ、コンドーム! ステイ先には女の子もいるんだろ?」
「まさか、そんなこと!」
僕は絶句してしまった。
「そのまさかがあるのが海外なんだよ。お前のサイズは知らないけど、海外はデカいのが多そうだろ? それに、いざとなったら買いに行く余裕もないはずだ」
「実際、使ったことってあるの?」
「残念ながら旅先でのワンナイトはまだ無いけどな。でも感染症対策にもなるから必ず持ってろって、先輩からも教えられてる。いざとなったらケータイとかの防水カバーにもなって、本来の用途以外にもいろいろ便利だから旅の必需品だぜ」
考えたこともなかったが、確かに丈夫で水を通さない素材にはいろいろ使いでがあるとのことだ。この日はそんな旅の豆知識をたくさん教えてもらった。
**
当日は、わざわざ空港まで教授に送ってもらった。ついでに、ユーロや旧ドイツマルクの小銭までいただいてしまった。
「マルクって、今でも使えるんですか?」
「ユーロへの交換は永久保証だ。チップくらいにはなるだろう」
「何から何まですみません。では、行ってきます!」
出発からフライトは順調だった。だが、とにかく暇である。アドバイス通りに携帯ゲーム機を持ってきて正解だった(今とは違って携帯電話のアプリにはろくなゲームがなかった時代である)。せっかくなので最新機種と、小学生のころにハマっていたシリーズの最新作を用意した。これなら何時間でも遊んでいられる。
空港ではホストファミリーが迎えてくれた。あらかじめ今の服装(少し恥ずかしかったが、目立つように割と派手目な赤いズボンを穿いてきたのだ)を伝えておいたのですぐにわかったようだ。娘さんはすっかり成長し、身長は僕と変わらないくらいになっていた。とりあえず挨拶と自己紹介を済ませる。ちゃんと通じたのが嬉しい。
「日本からの長旅、お疲れさま! お腹減ってるでしょ。早くお家に帰りましょ」
ゆっくり喋ってくれたので、なんとか聞き取ることができた。娘さんに手を引かれて、お父さんの運転するワーゲンに乗る。家までは車で1時間ほどのようだ。後部座席に座った僕と娘さんは、その間にとにかく話をしてみることにした。たとえばお互いが好きな食べ物だとか、最近観た映画だとか。最初は聞き取れなかった単語が、次第に通じてくる感覚には驚かされた。
家についたら、さっそくビールで乾杯だ。飲みっぷりの良さには驚かされる。ドイツでは16歳からビールが飲めると聞いたので、娘さんも飲み慣れているわけだと思った。
「どうした、日本でもビールはよく飲むんじゃないのか?」
「お父さん、彼は私達ほど強くはないのよ。自分のペースで飲ませてあげて」
「それもそうだな、ハハハ!」
いかにも職人らしい豪快さにひやりとさせられながらも、僕は歓待を受けた。自家製のザワークラウト(発酵した塩漬けキャベツ)の上に大きなブルスト(ソーセージ)とじゃがいもにが盛り合わされた皿、豆と野菜がたっぷり入ったアイントプフ(直訳すると「一つの鍋」つまり寄せ鍋とかごった煮みたいな意味のスープだ)、プンパーニッケル(ライ麦の黒パン)など、これぞドイツ! といった感じのメニューが並んだ。
ともかく、その日は旅の疲れもあり、食後は軽くシャワーを浴びて、すぐに寝てしまった。
*
「朝です! 起きて!」
翌朝、ノックの音とともに日本語の声で起こされた。娘さんの声だ。
「お父さんとお母さんは?」
「もう仕事場に行っちゃったわ。ご飯食べてないの、君だけよ」
こんな感じの会話をカタコトのドイツ語で済ませつつ、着替えてリビングに向かう。パンとスープが用意してあった。
「今日は何しようかな」
「天気が良ければいろいろ連れて行ってあげたんだけど……」
食べながら話をする。あいにく今日は朝から雨が降っている。
「家で日本語を教えてくれる?」
「わかった、いいよ!」
僕はこの子と二人きりで個人授業するのが楽しみで、あっという間に朝食を片付けてしまった。
「さて、どこから始めようか……」
とりあえず趣味の話でもしようかと思い、先日買ったばかりのゲームソフトの名前を出した。世界的に有名なタイトルなので、きっと名前くらいは知っているだろう。
「これ、私も持ってる! 元は日本のゲームなのよね?」
僕がバッグからゲームを出すと、彼女は嬉しそうにそう言った。そして駆け足で自室まで行って、ゲーム機と通信ケーブルを取ってきた。さっそく電源を入れる。
「これ、同じゲームだから日本語とドイツ語で同じことが書いてあるってことよね?」
「確かに!」
言語は違うが、僕と彼女の持っているソフトは同じバージョンだった。つまり、画面を見比べながら同じようにプレイすれば、常に対訳が表示されるということになる。肩の触れ合う距離でお互いの画面を見ながら、日本語のレッスンが始まった。
「通信プレイにも対応してるなんて!」
「前に、友達が持ってる英語版と通信したことあるから。日本語版ともできるのね!」
お互いの名前をつけたキャラクターがケーブルを通じて行き来する。お互いのセーブデータが混じり合うと同時に、二人の距離が縮まっていくのを感じる。これはもしかしたら例のゴムの出番もあるだろうか、などと不埒なことを考えるのであった。
*
午後からは少し晴れたので近所を散歩することにした。彼女がお気に入りだという公園まで足を運び、屋台でカリーブルストを食べることにした。屋台のキッチンカーもワーゲンというのがいかにもドイツらしい。
「ねえ、食べたことある?」
「うーん、自分で適当に作ってみたことはあるんだけど……」
カリーブルストとは、大雑把に言えばブルスト(ソーセージ)にカレー粉とケチャップをかけただけの料理である。もちろん店によってはスパイスや付け合せなどの工夫もしていると思うのだが、本来はとても簡単な料理である。
「ここのはひと味違うんだから!」
そうは言うものの、僕には何が特別かはよくわからなかった。ただ、付け合せのポテトが妙に美味しい気がした。店主にチップとして旧マルク硬貨を渡すと、「100年ぶりに見たよ」などと笑いながら受け取ってくれた。
その日の夕食は、昨日とほとんど変わらないことに少しだけがっかりしたが、日本人ほど日々の食事のバリエーションが豊富な民族もいないと聞いていたので、こんなものかと思った。ともかく、昨日よりは余裕が出てきたのでビールの飲み比べをしてみる。
「教授もそうですが友達にもビールが好きなのがいて、おみやげを頼まれてるんです」
「そうか。うちで作ってるビールは全種類持っていくか?」
「量にもよりますけど、そうしたいですね。予算はこのくらいなんですが……」
「いいよいいよ、遠くから来てくれたんだからサービスだ!」
なんだか気に入られてしまったようだ。ちょっと嬉しい。
「私、うちの醸造所を継ぐために勉強してるの! 今は夏休みだけどね」
「すごい、もう進路決めてるんだ」
同い年なのに、未だに何をすべきか解りかねて就活すら始めていない僕にとって、将来への明確なビジョンがある彼女が少し羨ましかった。
*
「ねえ、私って雑誌に載ったことがあるんだよ」
その日の夜、寝る前に一緒にゲームをしていた時、ふと彼女が口にした。
「何が載ったの?」
「写真。見たい?」
「うん」
そう言うと彼女は、部屋に戻って1冊の雑誌を持ってきて、僕に渡す。
「へえ、音楽とか映画とか、いろいろ載ってるんだね」
いかにも若者向けの雑誌といった感じであった。読者層は男女ともに意識しているようで、扱う話題の内容は幅広い。
「ところで、どこに載ったの?」
「えっとね……ここ!」
「ええっ?!」
僕は目を疑った。そこに載っていたのはヌードの女性だった。真正面を向いて、胸もヘアも完全に写っている。
「なに、これ……」
写真の周りには、思春期の性に関する真面目なQ&Aが掲載されている。どうやらこれはポルノではなく、ごく真面目なティーン向けの情報誌らしい。
「どう、よく写ってるでしょ」
「……なんで裸なの?」
「もちろん、そういうコーナーだからよ」
彼女はページをめくると、どのページにも同じような全裸の男女が写っていた。
「日本でも、ヌード写真くらいは珍しくないでしょ?」
「そうだけど、そういうのは専門のモデルや女優がやるものであって、普通の人は裸にならないよ!」
彼女は、ヌードで写るのがごく当たり前であるかのような口ぶりだ。
「ドイツでは、友達同士なら男女でも一緒にサウナに入ったりする文化があるの。さすがに性に目覚め始める年頃になると恥ずかしくなってくるけれど、ビールが美味しく飲めるくらいの歳になればまた平気になってくるわ。もちろん、個人差もあるけれどね」
「ふ、ふうん……」
まだ僕の頭は混乱しているのだが、確かにサウナ文化というのは聞いたことがある。僕の身近なところで例えれば、大学の同級生の女の子と一緒に入るようなものだろうか。
「日本にもあるでしょ、混浴の温泉! 大学の友達と入ったりしないの?」
「ないない! 確かに混浴温泉は聞いたことはあるけど、今はめったにないと思うよ。あるとしても、暗い部屋だったり夜中だったりで、裸はほとんど見えないと思う」
「そう……」
彼女は少しがっかりそうな顔をした。典型的な日本文化だと思っていたのかも知れない。
「でも、ほら。たとえばガールフレンドとプライベートで入ったりはしないの?」
「そりゃ恋人と入ることはあるよ。でも、たとえ夫婦であってもお風呂は別がいいというか、体を見られること自体を嫌がる女性も多いんだ」
「信じられない!」
僕の元カノがまさにそれで、明るいところで裸を見せるのを嫌がるタイプだった。そうでなくとも、風呂というのはプライベートな時間として楽しみたいという人は、男女問わず少なくないだろう。そういえば家の両親が一緒に風呂に入っているのも見たことがない気がする。
「……でも、それも文化なのかも知れないわね。私のこんな写真見せられて、ショックだった?」
「もちろん最初は驚いたけど、そういう文化だと思っていれば普通に見られるかな」
嘘だ。彼女の裸の写真を見て、明らかに僕は性的に興奮している。
「こういう写真を撮ったこと、友達やご両親は知ってるの?」
「もちろん! ちゃんと両親の許可はとったし、友達には後から報告したけど、度胸のあるやつだって褒められたわ!」
「それは、ちょっと信じられないね。でも文化の違いってそういうものなんだろうなぁ」
結局この話はそこまでで、あとは普通の日本語レッスンになった。ただ隣にいる彼女のヌードは、ずっと頭から離れなかった。
*
「汗かいたね。サウナに入らない?」
家に帰るなり、彼女に提案された。そう、この家には普通の風呂とは別にサウナがあるのだ。
この日は天気が良かったので、朝から少し遠出して名所を案内された。教会を見学したり、戦争の痕跡を見せられたり、青空市場で食材を買ったり、相変わらず屋台でカリーブルストを食べたりした。ドイツの夏は日本ほど蒸し暑いわけではないが、それでもずっと外にいたので汗だくだ。
「いいね。一度はサウナに入ってみたかったんだ」
「ねえ、私も一緒に入っていい?」
「駄目だよ」
さすがに、若い女の子と二人きりで「裸の付き合い」をするのは良くないという分別はあった。本音としては彼女の裸を見たかったけれど、それだけで済むとは思わなかった。
「どうして?」
「日本では、男女が一緒に裸になったら、それはもうセックスをする前提なんだ。ドイツの文化は尊重するけど、君とは入れないよ」
僕が具体的な言葉を出してきっぱり否定すると、彼女は少し寂しそうな顔をして、しばし無言になった。そして言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。
「ねえ、あなたにガールフレンドはいる?」
「いないよ、今は」
「私も、今はボーイフレンドはいないの」
どちらからともなく二人は歩み寄り、口づけをする。
「僕は日本での生活があるし、君もドイツで醸造家にならなければいけない。つまり一緒には暮らせない。一夜限りの冒険になるけど、それでもいい?」
いわゆるワンナイトラブのことをドイツ語では「冒険」にたとえるという、どこかで読んだ話を思い出しながらそう言った。
「わかってるわ。こう見えて、私だって処女じゃないもの」
今度はお互いを強くハグする。僕の下半身の欲望を伝えるように。
「今夜、両親は泊まり込みだから帰ってこないの」
耳元で彼女が甘い声でささやく。
「だから僕を誘ったの?」
「日本の男の人って、そういう直接的な誘い方はお嫌い?」
「全然、嫌いじゃないよ」
僕は彼女のブラウスのボタンを外しながら言った。内心ではドキドキしている。出会ってからたった3日の女性とこんなことをするなんて、いままでの僕には考えられなかった。
「日本では女の方から誘うのはよくないって。日本の神話……古事記にもそう書いてあったわ」
「よく知ってるなぁ。でも、今はそんな時代じゃないよ」
苦笑しながら背中に手を回してブラのホックを外す。幸い、日本のブラと構造は同じだったのでスムーズに外せた。もう後戻りはできない。しかしブラが妙にくたびれていたのが印象的で、日本ほどには「勝負下着」をバッチリ決める文化がないのだろうかと思った。このあたりの素朴さがドイツ人らしさ、いや彼女らしさなのだろうかと考えながら肩紐を下ろし、見るからに柔らかそうな双丘に対峙する。
「まだ駄目。お風呂の後でね」
その柔らかさを堪能しようと手を伸ばしたら、笑いながらガードされてしまった。そして僕に背中を向けて、ジーンズをショーツごと無造作に脱ぎ捨ててサウナに向かう。ボリュームのある裸のお尻を追いかけるように、僕も裸になる。
二人でサウナで汗を流す間、何を話したのかはあまり覚えていない。ともかくシャワーで身を清めたあとは、ベッドの上で若さに身を任せるように彼女にむしゃぶりついた。
**
「侍の刀みたい」
一息ついたあと、僕の腕の中で彼女はそう呟いた。
「刀?」
「そう。細いのに硬くて鋭くて、何度も何度も突かれちゃったもの」
彼女は言いながら、その「刀」にそっと触れる。欧米人のペニスはサイズの割に柔らかいという話を思い出す。彼女の昔の彼氏と比べたのだろうか。それとも、一夜限りの恋人に対するお世辞なのだろうか。
「ねえ、セックスって日本語でなんていうの?」
「そのままセックス、かな?」
「それはヨーロッパの言葉じゃないの。日本古来の呼び方もあるでしょ?」
僕は少し考えてしまった。隠語のようなものはあっても、それ自体を指す日本語というのはちょっと思いつかない。
「性が交わると書いて『性交』、あるいは性の行為で『性行為』というけど、文章向けの硬い言葉だから会話では普通使われないかな。一般的には『抱く』とか『寝る』とか。あるいは『一夜を過ごす』とか」
僕は日本語そのままと、その直訳のドイツ語を交えながら説明した。
「これらは本来の意味でも使われるけど、文脈によってはセックスそのものを指すよ。もっとカジュアルには『エッチ』。これは『変態(Hentai)』の頭文字が由来なんだって」
「つまり、はっきりとは言わないのね。なんだかとっても日本らしい気がするわ」
彼女は上半身を擦り寄せながら言った。
「ねえ、私の体はどうだった?」
「そうだね。柔らかかったかな……例えるなら……洋梨みたいに」
僕は昼間の市場で買ってきた洋梨を思い出しながら言った。僕の感覚では少し熟れすぎて傷んでいたように思えたのだが、彼女に言わせれば食べ頃だという。
「私、聞いたことあるわ。アジアの梨って硬いんでしょ?」
「そう。なんというか、『シャリシャリ』してる。ドイツ語ではどう言うのかな……」
食感のニュアンスの伝え方に悩みながら、僕は彼女の体じゅうを愛撫した。彼女もまた、それに応えるように僕の体の感触を確かめる。硬いアジアの男体と、柔らかいヨーロッパの女体は、この夜なんども混じり合った。一夜限りの酸っぱい思い出となることを知りながら。僕が持つ、なけなしの逞しさを彼女の体に刻みつけるように。
**
帰国後、山ほど持ち込んだビールの関税の手続きをようやく終えて携帯の電源を入れると、別れたと思っていた彼女からメールが来ていることに気づいた。「着いたら電話して」とのことなので、さっそく電話をする。
「ただいま。無事に戻ってきましたよ」
「……おかえり。よかった」
「電話、出てくれたんだね」
「だって、話したかったし」
彼女は恥ずかしそうな声で、だがはっきりとそう言ってくれたのがとても嬉しい。
「ドイツみやげのビールあるんだけど、飲みに来る?」
「……うん」
「じゃあ、夜の7時ごろで」
「わかった。夕飯まだなら何か作ってきてあげようか? 日本食、食べたいでしょ?」
「うん、お願い」
電話を切ってほっと一息つく。どうやら、ちゃんと仲直りできたみたいだ。
*
「気のせいかも知れないけど、なんだかドイツから帰ってきて逞しくなったような気がする」
「そうかな?」
彼女の作ってくれた肉じゃがをつまみにビールを飲んでいると、唐突に彼女が切り出した。
「あっちでモテたりした?」
「さあ、どうだか」
適当にはぐらかすつもりだったが、彼女にはおそらくバレバレだっただろうと思う。
「先生から話は聞いてるわ。年頃の娘さんがいたんだってね」
「うん。可愛くていい子だったよ」
「そんなこと言って、私が妬くとでも思ってる?」
ああ、誰が見てもわかるほどにぷりぷりしてるよ。
「ここだけの話、娘さんと何かあった?」
「二人きりでサウナに入った」
「それだけ?」
「さあ、どうだろうね」
「この変態!」
彼女はテーブルの下から僕の足に軽くキックする。
「もしも僕がその子を抱いてたとしたら、軽蔑する?」
「別に。だって私とはもう別れたつもりだったんでしょ」
確かにそのとおりだ。いつもの喧嘩にしてはちょっと長引きすぎた。
「それに、私だって何もしてないわけじゃないかもね……んっ」
ちょうどビール瓶が空になったので、2本目を取りに行くために冷蔵庫に向かうところだった。彼女の横を通ったときに、思わせぶりな唇をキスで塞いで黙らせる。
「もう、そんなことさせるために来たんじゃないんだからね」
「本当に?」
彼女の手を取ってベッドにそっと押し倒す。さらにブラウスのボタンを外していく僕の手を止めるようなことはしない。全てのボタンを外してキャミソールをめくりあげると、真新しい水色のブラがあった。
「ずいぶん、かわいいの着けてるじゃん?」
「別にいいでしょ、なに着てたって」
ドイツ人のようにはっきりと言葉や行動で表したりはしないが、いわゆる「勝負下着」でそれとなく意思を伝える。そういう日本女性の奥ゆかしさが、たまらなく愛しくなった。
「ひゃっ、冷たい」
ビール瓶の結露で少し濡れた手で、引き締まった体を愛撫する。ブラ越しに感じる控えめな膨らみが、今はとても愛おしい。
「嫌?」
「別に?」
「もう一度、やり直してくれる?」
「しょうがないなぁ」
まんざらでもない顔でそんなことを言いながら、彼女は服を脱いで丁寧に畳む。そして真新しいブラとパンティだけの姿になった。
「また不機嫌になるかも知れないけど、これからもよろしくね」
彼女はそれだけ言って、部屋の明かりを消した。
***
あれから20年の時が流れた。あれ以来、僕は他の女性を抱くことすらなく、この彼女と結婚することになる。今では子供も生まれて、相変わらずの円満な夫婦生活を送っている。
ドイツ行きは良い意味で刺激になり、ドイツ語の授業にも熱が入るようになった。就活の際にもアピールポイントとなり、今では食品会社の貿易部門で働いている。ドイツを含むヨーロッパで酒類や調味料を販売するにあたり、ドイツ語のスキルは多少なりとも役に立っている。
*
「お父さん、これなんて書いてあるの?」
パソコンで仕事用の資料を整理していると、リビングのテレビでゲームをしている息子に呼ばれた。
「ああ、これはドイツ語か」
「なんでドイツ語なの?」
「昔、父さんがドイツに行ったときに友達からもらったんだよ。そうか、まだ残ってたかぁ」
少し前に家を片付けたら、あのときのソフトが出てきて、セーブデータもまだ残っていた。そしてゲームに詳しい友達に協力してもらいながらデータ移行を繰り返し、今では息子の遊ぶ最新機種の中にいる。
「昔、っていつのこと?」
「大学3年の頃だから、ちょうど20年前になるのかぁ」
口に出してみて、改めてスケールの大きさに驚かされる。僕が子供の頃は、20年前のデータでそのまま遊ぶなんて想像もできなかった。まったくもって科学の力というのはすごいものである。
「ねえ、これって女の人の名前でしょ? もしかして、昔の彼女?」
息子はスマホを見ながら尋ねてきた。ステータス欄に表示された名前をさっそく検索したのだろう。
「お母さんには内緒だぞ」
「えー、本当に彼女だったのぉ?」
息子が疑いの目で僕を見る。例の醸造所の子とは、あれ以来一度も会っていないどころか電話すらしていない。かろうじてSNSをフォローしている程度だ。あちらも仕事や家庭は順調らしく、お子さんも二人生まれている。近々会社でドイツビールを取り扱うという話があるため、取引先として久しぶりに関わる機会もあるかも知れない。
「そう、一緒に『冒険』したんだ」
しばし目を閉じて、あの夢のような一夜を振り返る。そして「冒険」の続きを一瞬だけ夢想して我に返る。お互いに守るべきものを失うわけにはいかない。
「冒険って、どんな冒険?」
「まあ、お前にもそのうちわかるさ」
息子の頭を撫でる。いつの日か彼も「冒険」に出るのだろう、それが男の子というものだ。大人ができることは、せめてその道を外さないための標になるくらいだ。
「その時になったら教えてあげるよ」
今は適当にはぐらかしつつも、近いうちに直面するであろう性教育の問題について、ちゃんと妻と話し合っておこうかと改めて考えるのであった。
大学入学後、第二外国語としてドイツ語を履修した。深い理由があってのものではなく、なんとなくカッコいいから、程度の浅い考えだった。当然、それほど真面目に授業を受けていたわけでもないし、教授とそれほど仲が良かったわけでもなかった。
*
「ドイツ行きですか? 僕が?」
「ああ、本当は私が行くつもりだったんだけど、どうしても都合がつかなくなってね」
少し遅れた課題を提出するために研究室に行ったところ、突然のドイツ行きを頼まれた。聞くところによると、教授の親友であるドイツのビール醸造家に、日本の酵母や資料などを持っていく必要があるのだという。
「往復の旅費は出すよ。宿と食事はそこの家にお世話になればいい。その代わり、娘さんに日本語を教えてほしいそうだ」
「娘さん?」
「ああ、ちょうど君と同じくらいの歳だよ。これ、少し古い写真だけどハウプトシューレを卒業したときのものだ。ちょうど6年前の夏だな」
そう言って机の引き出しから取り出した写真に写っている娘さんは少し癖のある赤毛で、メガネを掛けた大人しそうな子だった。ハウプトシューレといえば日本では中学校に相当するが、日本人よりは大人びて見える。今ならもっと女らしく成長していることだろう。
「どうだ、ちょっとは興味出てきたか?」
「……ええ。でも、どうして僕なんですか?」
「他にも色々当たってみたんだけどね、サークルとかバイトで忙しい子ばっかりなんだ。それに、娘さんに何かあると……ね」
「ああ……」
同じゼミのチャラそうな面々を思い浮かべて、思わず苦笑する。逆に、僕なら安牌だと思われたのはちょっと悔しいが。こう見えても彼女の一人や二人はいたんだぞ。
「こんな機会、めったにないぞ。どうだ、やってみないか?」
「……いいですね。やります!」
「お、返事が早いね!」
即断したのには理由がある。その彼女と失恋したばかりだったのだ。先月のデートのときにちょっとした喧嘩をしてしまい、それ以来電話にも出てくれず、大学内で会っても顔も合わせてくれない。要は振られたのだ。この傷心を慰めるには旅が一番のような気がした。
無謀にも、海外旅行に行くのは今回が初めてである。電子辞書は持っていたが、今のように音声入力でスムーズに翻訳してくれるほどの機能はない。あくまで僕自身のカタコトのドイツ語で勝負しなければならない。今思うと無茶をしたと思うが、当時は冒険心も盛んな年頃だったのだ。
とはいえ、さすがに人の助けは借りることにする。ちょうど友達に旅行好きの奴がいたので、準備を手伝ってもらうことにした。パスポートの申請やら、スーツケースの選び方などで世話になった。
「いいなぁ、タダでドイツ旅行なんて。俺もドイツ語履修しとけばよかったな」
「ドイツビールも好きだったよな? おみやげ買ってくるよ」
「本場のブルワリーなんだろ? 頼んだぞ!」
彼はビール好きである。飲み会でも珍しい外国製のビールがあると真っ先に注文したりするくらいだ。
「他に、なにか用意しておいたほうがいいものはあるかな」
「そうだな、フライトが長くて暇だからゲームとか。それとゴムは持っとけ」
「ん、輪ゴム?」
「違うよ、コンドーム! ステイ先には女の子もいるんだろ?」
「まさか、そんなこと!」
僕は絶句してしまった。
「そのまさかがあるのが海外なんだよ。お前のサイズは知らないけど、海外はデカいのが多そうだろ? それに、いざとなったら買いに行く余裕もないはずだ」
「実際、使ったことってあるの?」
「残念ながら旅先でのワンナイトはまだ無いけどな。でも感染症対策にもなるから必ず持ってろって、先輩からも教えられてる。いざとなったらケータイとかの防水カバーにもなって、本来の用途以外にもいろいろ便利だから旅の必需品だぜ」
考えたこともなかったが、確かに丈夫で水を通さない素材にはいろいろ使いでがあるとのことだ。この日はそんな旅の豆知識をたくさん教えてもらった。
**
当日は、わざわざ空港まで教授に送ってもらった。ついでに、ユーロや旧ドイツマルクの小銭までいただいてしまった。
「マルクって、今でも使えるんですか?」
「ユーロへの交換は永久保証だ。チップくらいにはなるだろう」
「何から何まですみません。では、行ってきます!」
出発からフライトは順調だった。だが、とにかく暇である。アドバイス通りに携帯ゲーム機を持ってきて正解だった(今とは違って携帯電話のアプリにはろくなゲームがなかった時代である)。せっかくなので最新機種と、小学生のころにハマっていたシリーズの最新作を用意した。これなら何時間でも遊んでいられる。
空港ではホストファミリーが迎えてくれた。あらかじめ今の服装(少し恥ずかしかったが、目立つように割と派手目な赤いズボンを穿いてきたのだ)を伝えておいたのですぐにわかったようだ。娘さんはすっかり成長し、身長は僕と変わらないくらいになっていた。とりあえず挨拶と自己紹介を済ませる。ちゃんと通じたのが嬉しい。
「日本からの長旅、お疲れさま! お腹減ってるでしょ。早くお家に帰りましょ」
ゆっくり喋ってくれたので、なんとか聞き取ることができた。娘さんに手を引かれて、お父さんの運転するワーゲンに乗る。家までは車で1時間ほどのようだ。後部座席に座った僕と娘さんは、その間にとにかく話をしてみることにした。たとえばお互いが好きな食べ物だとか、最近観た映画だとか。最初は聞き取れなかった単語が、次第に通じてくる感覚には驚かされた。
家についたら、さっそくビールで乾杯だ。飲みっぷりの良さには驚かされる。ドイツでは16歳からビールが飲めると聞いたので、娘さんも飲み慣れているわけだと思った。
「どうした、日本でもビールはよく飲むんじゃないのか?」
「お父さん、彼は私達ほど強くはないのよ。自分のペースで飲ませてあげて」
「それもそうだな、ハハハ!」
いかにも職人らしい豪快さにひやりとさせられながらも、僕は歓待を受けた。自家製のザワークラウト(発酵した塩漬けキャベツ)の上に大きなブルスト(ソーセージ)とじゃがいもにが盛り合わされた皿、豆と野菜がたっぷり入ったアイントプフ(直訳すると「一つの鍋」つまり寄せ鍋とかごった煮みたいな意味のスープだ)、プンパーニッケル(ライ麦の黒パン)など、これぞドイツ! といった感じのメニューが並んだ。
ともかく、その日は旅の疲れもあり、食後は軽くシャワーを浴びて、すぐに寝てしまった。
*
「朝です! 起きて!」
翌朝、ノックの音とともに日本語の声で起こされた。娘さんの声だ。
「お父さんとお母さんは?」
「もう仕事場に行っちゃったわ。ご飯食べてないの、君だけよ」
こんな感じの会話をカタコトのドイツ語で済ませつつ、着替えてリビングに向かう。パンとスープが用意してあった。
「今日は何しようかな」
「天気が良ければいろいろ連れて行ってあげたんだけど……」
食べながら話をする。あいにく今日は朝から雨が降っている。
「家で日本語を教えてくれる?」
「わかった、いいよ!」
僕はこの子と二人きりで個人授業するのが楽しみで、あっという間に朝食を片付けてしまった。
「さて、どこから始めようか……」
とりあえず趣味の話でもしようかと思い、先日買ったばかりのゲームソフトの名前を出した。世界的に有名なタイトルなので、きっと名前くらいは知っているだろう。
「これ、私も持ってる! 元は日本のゲームなのよね?」
僕がバッグからゲームを出すと、彼女は嬉しそうにそう言った。そして駆け足で自室まで行って、ゲーム機と通信ケーブルを取ってきた。さっそく電源を入れる。
「これ、同じゲームだから日本語とドイツ語で同じことが書いてあるってことよね?」
「確かに!」
言語は違うが、僕と彼女の持っているソフトは同じバージョンだった。つまり、画面を見比べながら同じようにプレイすれば、常に対訳が表示されるということになる。肩の触れ合う距離でお互いの画面を見ながら、日本語のレッスンが始まった。
「通信プレイにも対応してるなんて!」
「前に、友達が持ってる英語版と通信したことあるから。日本語版ともできるのね!」
お互いの名前をつけたキャラクターがケーブルを通じて行き来する。お互いのセーブデータが混じり合うと同時に、二人の距離が縮まっていくのを感じる。これはもしかしたら例のゴムの出番もあるだろうか、などと不埒なことを考えるのであった。
*
午後からは少し晴れたので近所を散歩することにした。彼女がお気に入りだという公園まで足を運び、屋台でカリーブルストを食べることにした。屋台のキッチンカーもワーゲンというのがいかにもドイツらしい。
「ねえ、食べたことある?」
「うーん、自分で適当に作ってみたことはあるんだけど……」
カリーブルストとは、大雑把に言えばブルスト(ソーセージ)にカレー粉とケチャップをかけただけの料理である。もちろん店によってはスパイスや付け合せなどの工夫もしていると思うのだが、本来はとても簡単な料理である。
「ここのはひと味違うんだから!」
そうは言うものの、僕には何が特別かはよくわからなかった。ただ、付け合せのポテトが妙に美味しい気がした。店主にチップとして旧マルク硬貨を渡すと、「100年ぶりに見たよ」などと笑いながら受け取ってくれた。
その日の夕食は、昨日とほとんど変わらないことに少しだけがっかりしたが、日本人ほど日々の食事のバリエーションが豊富な民族もいないと聞いていたので、こんなものかと思った。ともかく、昨日よりは余裕が出てきたのでビールの飲み比べをしてみる。
「教授もそうですが友達にもビールが好きなのがいて、おみやげを頼まれてるんです」
「そうか。うちで作ってるビールは全種類持っていくか?」
「量にもよりますけど、そうしたいですね。予算はこのくらいなんですが……」
「いいよいいよ、遠くから来てくれたんだからサービスだ!」
なんだか気に入られてしまったようだ。ちょっと嬉しい。
「私、うちの醸造所を継ぐために勉強してるの! 今は夏休みだけどね」
「すごい、もう進路決めてるんだ」
同い年なのに、未だに何をすべきか解りかねて就活すら始めていない僕にとって、将来への明確なビジョンがある彼女が少し羨ましかった。
*
「ねえ、私って雑誌に載ったことがあるんだよ」
その日の夜、寝る前に一緒にゲームをしていた時、ふと彼女が口にした。
「何が載ったの?」
「写真。見たい?」
「うん」
そう言うと彼女は、部屋に戻って1冊の雑誌を持ってきて、僕に渡す。
「へえ、音楽とか映画とか、いろいろ載ってるんだね」
いかにも若者向けの雑誌といった感じであった。読者層は男女ともに意識しているようで、扱う話題の内容は幅広い。
「ところで、どこに載ったの?」
「えっとね……ここ!」
「ええっ?!」
僕は目を疑った。そこに載っていたのはヌードの女性だった。真正面を向いて、胸もヘアも完全に写っている。
「なに、これ……」
写真の周りには、思春期の性に関する真面目なQ&Aが掲載されている。どうやらこれはポルノではなく、ごく真面目なティーン向けの情報誌らしい。
「どう、よく写ってるでしょ」
「……なんで裸なの?」
「もちろん、そういうコーナーだからよ」
彼女はページをめくると、どのページにも同じような全裸の男女が写っていた。
「日本でも、ヌード写真くらいは珍しくないでしょ?」
「そうだけど、そういうのは専門のモデルや女優がやるものであって、普通の人は裸にならないよ!」
彼女は、ヌードで写るのがごく当たり前であるかのような口ぶりだ。
「ドイツでは、友達同士なら男女でも一緒にサウナに入ったりする文化があるの。さすがに性に目覚め始める年頃になると恥ずかしくなってくるけれど、ビールが美味しく飲めるくらいの歳になればまた平気になってくるわ。もちろん、個人差もあるけれどね」
「ふ、ふうん……」
まだ僕の頭は混乱しているのだが、確かにサウナ文化というのは聞いたことがある。僕の身近なところで例えれば、大学の同級生の女の子と一緒に入るようなものだろうか。
「日本にもあるでしょ、混浴の温泉! 大学の友達と入ったりしないの?」
「ないない! 確かに混浴温泉は聞いたことはあるけど、今はめったにないと思うよ。あるとしても、暗い部屋だったり夜中だったりで、裸はほとんど見えないと思う」
「そう……」
彼女は少しがっかりそうな顔をした。典型的な日本文化だと思っていたのかも知れない。
「でも、ほら。たとえばガールフレンドとプライベートで入ったりはしないの?」
「そりゃ恋人と入ることはあるよ。でも、たとえ夫婦であってもお風呂は別がいいというか、体を見られること自体を嫌がる女性も多いんだ」
「信じられない!」
僕の元カノがまさにそれで、明るいところで裸を見せるのを嫌がるタイプだった。そうでなくとも、風呂というのはプライベートな時間として楽しみたいという人は、男女問わず少なくないだろう。そういえば家の両親が一緒に風呂に入っているのも見たことがない気がする。
「……でも、それも文化なのかも知れないわね。私のこんな写真見せられて、ショックだった?」
「もちろん最初は驚いたけど、そういう文化だと思っていれば普通に見られるかな」
嘘だ。彼女の裸の写真を見て、明らかに僕は性的に興奮している。
「こういう写真を撮ったこと、友達やご両親は知ってるの?」
「もちろん! ちゃんと両親の許可はとったし、友達には後から報告したけど、度胸のあるやつだって褒められたわ!」
「それは、ちょっと信じられないね。でも文化の違いってそういうものなんだろうなぁ」
結局この話はそこまでで、あとは普通の日本語レッスンになった。ただ隣にいる彼女のヌードは、ずっと頭から離れなかった。
*
「汗かいたね。サウナに入らない?」
家に帰るなり、彼女に提案された。そう、この家には普通の風呂とは別にサウナがあるのだ。
この日は天気が良かったので、朝から少し遠出して名所を案内された。教会を見学したり、戦争の痕跡を見せられたり、青空市場で食材を買ったり、相変わらず屋台でカリーブルストを食べたりした。ドイツの夏は日本ほど蒸し暑いわけではないが、それでもずっと外にいたので汗だくだ。
「いいね。一度はサウナに入ってみたかったんだ」
「ねえ、私も一緒に入っていい?」
「駄目だよ」
さすがに、若い女の子と二人きりで「裸の付き合い」をするのは良くないという分別はあった。本音としては彼女の裸を見たかったけれど、それだけで済むとは思わなかった。
「どうして?」
「日本では、男女が一緒に裸になったら、それはもうセックスをする前提なんだ。ドイツの文化は尊重するけど、君とは入れないよ」
僕が具体的な言葉を出してきっぱり否定すると、彼女は少し寂しそうな顔をして、しばし無言になった。そして言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。
「ねえ、あなたにガールフレンドはいる?」
「いないよ、今は」
「私も、今はボーイフレンドはいないの」
どちらからともなく二人は歩み寄り、口づけをする。
「僕は日本での生活があるし、君もドイツで醸造家にならなければいけない。つまり一緒には暮らせない。一夜限りの冒険になるけど、それでもいい?」
いわゆるワンナイトラブのことをドイツ語では「冒険」にたとえるという、どこかで読んだ話を思い出しながらそう言った。
「わかってるわ。こう見えて、私だって処女じゃないもの」
今度はお互いを強くハグする。僕の下半身の欲望を伝えるように。
「今夜、両親は泊まり込みだから帰ってこないの」
耳元で彼女が甘い声でささやく。
「だから僕を誘ったの?」
「日本の男の人って、そういう直接的な誘い方はお嫌い?」
「全然、嫌いじゃないよ」
僕は彼女のブラウスのボタンを外しながら言った。内心ではドキドキしている。出会ってからたった3日の女性とこんなことをするなんて、いままでの僕には考えられなかった。
「日本では女の方から誘うのはよくないって。日本の神話……古事記にもそう書いてあったわ」
「よく知ってるなぁ。でも、今はそんな時代じゃないよ」
苦笑しながら背中に手を回してブラのホックを外す。幸い、日本のブラと構造は同じだったのでスムーズに外せた。もう後戻りはできない。しかしブラが妙にくたびれていたのが印象的で、日本ほどには「勝負下着」をバッチリ決める文化がないのだろうかと思った。このあたりの素朴さがドイツ人らしさ、いや彼女らしさなのだろうかと考えながら肩紐を下ろし、見るからに柔らかそうな双丘に対峙する。
「まだ駄目。お風呂の後でね」
その柔らかさを堪能しようと手を伸ばしたら、笑いながらガードされてしまった。そして僕に背中を向けて、ジーンズをショーツごと無造作に脱ぎ捨ててサウナに向かう。ボリュームのある裸のお尻を追いかけるように、僕も裸になる。
二人でサウナで汗を流す間、何を話したのかはあまり覚えていない。ともかくシャワーで身を清めたあとは、ベッドの上で若さに身を任せるように彼女にむしゃぶりついた。
**
「侍の刀みたい」
一息ついたあと、僕の腕の中で彼女はそう呟いた。
「刀?」
「そう。細いのに硬くて鋭くて、何度も何度も突かれちゃったもの」
彼女は言いながら、その「刀」にそっと触れる。欧米人のペニスはサイズの割に柔らかいという話を思い出す。彼女の昔の彼氏と比べたのだろうか。それとも、一夜限りの恋人に対するお世辞なのだろうか。
「ねえ、セックスって日本語でなんていうの?」
「そのままセックス、かな?」
「それはヨーロッパの言葉じゃないの。日本古来の呼び方もあるでしょ?」
僕は少し考えてしまった。隠語のようなものはあっても、それ自体を指す日本語というのはちょっと思いつかない。
「性が交わると書いて『性交』、あるいは性の行為で『性行為』というけど、文章向けの硬い言葉だから会話では普通使われないかな。一般的には『抱く』とか『寝る』とか。あるいは『一夜を過ごす』とか」
僕は日本語そのままと、その直訳のドイツ語を交えながら説明した。
「これらは本来の意味でも使われるけど、文脈によってはセックスそのものを指すよ。もっとカジュアルには『エッチ』。これは『変態(Hentai)』の頭文字が由来なんだって」
「つまり、はっきりとは言わないのね。なんだかとっても日本らしい気がするわ」
彼女は上半身を擦り寄せながら言った。
「ねえ、私の体はどうだった?」
「そうだね。柔らかかったかな……例えるなら……洋梨みたいに」
僕は昼間の市場で買ってきた洋梨を思い出しながら言った。僕の感覚では少し熟れすぎて傷んでいたように思えたのだが、彼女に言わせれば食べ頃だという。
「私、聞いたことあるわ。アジアの梨って硬いんでしょ?」
「そう。なんというか、『シャリシャリ』してる。ドイツ語ではどう言うのかな……」
食感のニュアンスの伝え方に悩みながら、僕は彼女の体じゅうを愛撫した。彼女もまた、それに応えるように僕の体の感触を確かめる。硬いアジアの男体と、柔らかいヨーロッパの女体は、この夜なんども混じり合った。一夜限りの酸っぱい思い出となることを知りながら。僕が持つ、なけなしの逞しさを彼女の体に刻みつけるように。
**
帰国後、山ほど持ち込んだビールの関税の手続きをようやく終えて携帯の電源を入れると、別れたと思っていた彼女からメールが来ていることに気づいた。「着いたら電話して」とのことなので、さっそく電話をする。
「ただいま。無事に戻ってきましたよ」
「……おかえり。よかった」
「電話、出てくれたんだね」
「だって、話したかったし」
彼女は恥ずかしそうな声で、だがはっきりとそう言ってくれたのがとても嬉しい。
「ドイツみやげのビールあるんだけど、飲みに来る?」
「……うん」
「じゃあ、夜の7時ごろで」
「わかった。夕飯まだなら何か作ってきてあげようか? 日本食、食べたいでしょ?」
「うん、お願い」
電話を切ってほっと一息つく。どうやら、ちゃんと仲直りできたみたいだ。
*
「気のせいかも知れないけど、なんだかドイツから帰ってきて逞しくなったような気がする」
「そうかな?」
彼女の作ってくれた肉じゃがをつまみにビールを飲んでいると、唐突に彼女が切り出した。
「あっちでモテたりした?」
「さあ、どうだか」
適当にはぐらかすつもりだったが、彼女にはおそらくバレバレだっただろうと思う。
「先生から話は聞いてるわ。年頃の娘さんがいたんだってね」
「うん。可愛くていい子だったよ」
「そんなこと言って、私が妬くとでも思ってる?」
ああ、誰が見てもわかるほどにぷりぷりしてるよ。
「ここだけの話、娘さんと何かあった?」
「二人きりでサウナに入った」
「それだけ?」
「さあ、どうだろうね」
「この変態!」
彼女はテーブルの下から僕の足に軽くキックする。
「もしも僕がその子を抱いてたとしたら、軽蔑する?」
「別に。だって私とはもう別れたつもりだったんでしょ」
確かにそのとおりだ。いつもの喧嘩にしてはちょっと長引きすぎた。
「それに、私だって何もしてないわけじゃないかもね……んっ」
ちょうどビール瓶が空になったので、2本目を取りに行くために冷蔵庫に向かうところだった。彼女の横を通ったときに、思わせぶりな唇をキスで塞いで黙らせる。
「もう、そんなことさせるために来たんじゃないんだからね」
「本当に?」
彼女の手を取ってベッドにそっと押し倒す。さらにブラウスのボタンを外していく僕の手を止めるようなことはしない。全てのボタンを外してキャミソールをめくりあげると、真新しい水色のブラがあった。
「ずいぶん、かわいいの着けてるじゃん?」
「別にいいでしょ、なに着てたって」
ドイツ人のようにはっきりと言葉や行動で表したりはしないが、いわゆる「勝負下着」でそれとなく意思を伝える。そういう日本女性の奥ゆかしさが、たまらなく愛しくなった。
「ひゃっ、冷たい」
ビール瓶の結露で少し濡れた手で、引き締まった体を愛撫する。ブラ越しに感じる控えめな膨らみが、今はとても愛おしい。
「嫌?」
「別に?」
「もう一度、やり直してくれる?」
「しょうがないなぁ」
まんざらでもない顔でそんなことを言いながら、彼女は服を脱いで丁寧に畳む。そして真新しいブラとパンティだけの姿になった。
「また不機嫌になるかも知れないけど、これからもよろしくね」
彼女はそれだけ言って、部屋の明かりを消した。
***
あれから20年の時が流れた。あれ以来、僕は他の女性を抱くことすらなく、この彼女と結婚することになる。今では子供も生まれて、相変わらずの円満な夫婦生活を送っている。
ドイツ行きは良い意味で刺激になり、ドイツ語の授業にも熱が入るようになった。就活の際にもアピールポイントとなり、今では食品会社の貿易部門で働いている。ドイツを含むヨーロッパで酒類や調味料を販売するにあたり、ドイツ語のスキルは多少なりとも役に立っている。
*
「お父さん、これなんて書いてあるの?」
パソコンで仕事用の資料を整理していると、リビングのテレビでゲームをしている息子に呼ばれた。
「ああ、これはドイツ語か」
「なんでドイツ語なの?」
「昔、父さんがドイツに行ったときに友達からもらったんだよ。そうか、まだ残ってたかぁ」
少し前に家を片付けたら、あのときのソフトが出てきて、セーブデータもまだ残っていた。そしてゲームに詳しい友達に協力してもらいながらデータ移行を繰り返し、今では息子の遊ぶ最新機種の中にいる。
「昔、っていつのこと?」
「大学3年の頃だから、ちょうど20年前になるのかぁ」
口に出してみて、改めてスケールの大きさに驚かされる。僕が子供の頃は、20年前のデータでそのまま遊ぶなんて想像もできなかった。まったくもって科学の力というのはすごいものである。
「ねえ、これって女の人の名前でしょ? もしかして、昔の彼女?」
息子はスマホを見ながら尋ねてきた。ステータス欄に表示された名前をさっそく検索したのだろう。
「お母さんには内緒だぞ」
「えー、本当に彼女だったのぉ?」
息子が疑いの目で僕を見る。例の醸造所の子とは、あれ以来一度も会っていないどころか電話すらしていない。かろうじてSNSをフォローしている程度だ。あちらも仕事や家庭は順調らしく、お子さんも二人生まれている。近々会社でドイツビールを取り扱うという話があるため、取引先として久しぶりに関わる機会もあるかも知れない。
「そう、一緒に『冒険』したんだ」
しばし目を閉じて、あの夢のような一夜を振り返る。そして「冒険」の続きを一瞬だけ夢想して我に返る。お互いに守るべきものを失うわけにはいかない。
「冒険って、どんな冒険?」
「まあ、お前にもそのうちわかるさ」
息子の頭を撫でる。いつの日か彼も「冒険」に出るのだろう、それが男の子というものだ。大人ができることは、せめてその道を外さないための標になるくらいだ。
「その時になったら教えてあげるよ」
今は適当にはぐらかしつつも、近いうちに直面するであろう性教育の問題について、ちゃんと妻と話し合っておこうかと改めて考えるのであった。
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