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大人への階段

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「こんにちは。おうちに上がるのは久しぶりねぇ」

 一学期の終業式を終え、小学校最後の夏休みが始まる金曜日。両親に急用ができて、夜まで帰らないという連絡があった。僕一人で夕食を作らせるのは不安だということで、近所に住む2歳年上のお姉さんに来てもらうことになったのだ。

「どうも、今日はよろしくお願いします」

 彼女は小さい頃はよく一緒に遊んでくれたり、学校に上がったばかりの頃は一緒に登校してくれたのだが、一人で学校に行けるようになってからは、あまり会わなくなっていった。ちょうど部活や委員会も始まったので、僕よりも早く学校に行くことが多くなったのだ。

 そういうわけで、直接話すのはずいぶんと久しぶりのような気がする。昔は気軽に、友達のような感じで話しかけていたのだが、中学生のお姉さんだと考えると丁寧語で喋らないといけない気がした。

「大した料理とか作れるわけじゃないから期待しないでね。本当はうちのお母さんが来ればよかったんだけど、うちも色々用事が入っていてね」

 夏祭りの準備などで、この時期は大人たちが忙しくなる。彼女の家は町内会長のようなことをやっていたので、なおさらだろう。

「いえいえ、来てくれただけでも嬉しいですよ」

 そうは言ったものの、正直言って複雑である。もう六年生、来年は中学生になるというのに、一人ではインスタント食品すらろくに作れないと親に思われているのだから。

 お姉さんに手伝ってもらうということ自体が恥ずかしく、「カレーを温めるくらいできるよ」と反論したのだが、聞き入れてくれなかった。

「それじゃ、さっそく台所借りるわね」
「はい。冷蔵庫とか戸棚にあるものはみんな使っちゃっていいみたいなので。あとご飯も6時に炊けるようにセットしてあります」

 母が米を研ぎ、炊飯器に予約セットしてある。本当なら家族3人で食べるはずだったので、当然彼女が食べる分もある。

「ふーん、ピーマンが少し古くなってるから食べちゃわないと。これにキャベツと人参と……あと豚バラ肉で、肉野菜炒めはどう?」

 冷蔵庫の野菜室を見ながら僕に話しかけてくる。ピーマンはあまり好きではない。だが、六年生にもなってピーマンが食べられませんと言うのはかっこ悪すぎる。

「はい、お願いします!」

 僕は、好き嫌いなんかないぞ、と言う気持ちを込めて堂々と答えた。

「使いかけのショウガもあるわね。味付けはショウガ焼き風でいい?」
「あ、ショウガ焼きなら大好きです!」

 豚のショウガ焼きは母の得意料理で、僕も父も大好きだ。
 ただし、ピーマンが入っていなければの話だが。

 *

「もう来年は君も中学生になるのよねぇ。私は三年生になるんだし」

 野菜を包丁で刻みながら話しかけてきた。そういえば、彼女のことを僕は今までなんと呼んでいただろうか。名字で? 名前で? それとも「お姉さん」?

 思い出せないので、今日から「先輩」でいいか。

「来年からは同じ中学なので、先輩って呼ばなきゃだめですね」
「あはは、確かにそうね」
「先輩の料理、楽しみです」
「だから大したことないってば」

 僕と会話しながらも、ほうれん草のおひたしを作るためのお湯を沸かし、野菜炒め用の人参は電子レンジにかける。そしてショウガをおろし、醤油やみりんと混ぜたタレに豚肉を漬け込む。

 料理のことがよくわからない僕から見てもとても手際がよい。そもそも冷蔵庫の中身を見てすぐにメニューを考えていたし、普段から料理には慣れているように見えた。

 *

「これで付け合せと下ごしらえは終わり。あとは焼くだけなんだけど、まだちょっと早いわねえ」

 茹でたほうれん草を絞って切りそろえ、おひたしが完成したところで先輩がつぶやく。時計を見ると、夕方の5時半を少し過ぎたところだ。

「ちょっと汗かいてるみたいだから、お風呂にでも入ってきたら」
「あ、そうですね。沸かしてきますよ」

 沸かすと言っても、僕は全自動のスイッチを押すだけだ。掃除は朝のうちに母が済ませているはずだ。国語の教科書で読んだのだが、昔は本当に火で沸かしていたという。今は便利な時代でよかったと思う。

 *

「これ、ぬか床かしら?」

 風呂場から戻ると、冷蔵庫のそばに置かれたプラスチックの桶を見て僕に聞いてきた。

「ですね。毎日の手入れは大変みたいですけど、やっぱり自分で漬けるのが一番って言ってました」
「ちょっと見てもいい?」
「はい、どうぞ」

 先輩は蓋を開けると、右手をひじのあたりまで洗って、ぬか床の中に突っ込んだ。

「ちょっと、先輩?」
「ぬかは毎日かき回さないと駄目なの。特に夏場はね。今日、おばさんが何時に帰ってくるのかわかんないでしょ?」
「確かにそうですけど……」

 先輩のきれいな手が、臭いぬか床をかき回すのを見ると、なんだか申し訳ないような気がした。しかし彼女は慣れた手付きで底まで大きくかき回すと、中からキュウリを取り出した。

「このキュウリ、朝に入れたやつでしょ?今の季節は半日もすれば十分漬かるから、もう出しておかないと」
「へえ、そういうもんなんですね」

 ぬか漬けは毎日食べているのだが、どうやって作るのか、どのくらいでできるのか、まるで知らない自分が恥ずかしくなった。

 彼女はぬか床から取り出したキュウリを洗ってまな板の上に並べると、刻んで小鉢に盛り、ラップを掛けて冷蔵庫にしまった。

「先輩、なんでもできますね」
「おばあちゃんから色々教わってるからね。やっぱり女は料理ができないとって。今は男の人もできなきゃ駄目だと思うけど」

 最後の言葉が料理を知らない自分に刺さった。家庭科の調理実習も、同じ班の女子にほとんど任せてしまっていたっけ。

「せっかくだから、キュウリの漬け方教えてあげるわ」

 そう言うと、野菜室を開いてキュウリを取り出した。

「こうやって塩をまぶして、よく擦り込むとね、トゲもとれて水分も出てくるのよ」
「あ、すごい。水が出てくるんですね」

 先輩が塩をまぶした手でキュウリをしごくと、表面から染み出した水分が塩と混ざり、白い泡のようになった。

「難しい言葉だけど、浸透圧っていうのよ」

 浸透圧。この前読んだ学習まんがの「体の秘密」だったかで見た覚えがある。確か、細胞の塩分濃度がどうのこうのという話だ。読んだ時はよくわからなかったけど、こんな身近なところに例があったんだな。

「こうやってよーく絞って。漬ける前によく水分を抜くのがコツね」

 先輩がキュウリを握ると、ぽたぽたと水分が染み出してくる。

「あとはこのままぬか床に入れるだけ」
「あれ、塩は洗わなくていいんですか?」
「ぬかには塩分が必要なの。特に夏場は腐りにくいように濃い目にしておいたほうがいいわね」

 そう言いながらキュウリを中まで入れ、最後にぬか床の表面を平らに均して蓋を閉じた。

 *

 ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ……
 風呂のお湯が張られたことを伝えるチャイムが鳴る。

「それじゃ、入ってきますね」
「ごゆっくり~」
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」

 調子に乗って、僕はとんでもないことを喋ってしまった。もちろんこの時は冗談のつもりだった。てっきり軽く流されるとばかり思っていた。

「あら、いいのかしら」

 え?  予想外の返事だった。まさか本当に一緒に入るつもりなのか?!

「ええ、私も汗かきっぱなしだし、それにぬかの臭いってお風呂に入らないとなかなか落ちないのよ」
「でも、一緒に入るのはさすがに……」
「別々に入ると6時に間に合わないでしょ。ご飯は炊きたてが一番おいしいんだから」

 うろたえている間に、彼女は洗面所に入ってしまった。今さら断ることもできず、仕方ないので僕も後を追う。

「昔はよく一緒に入ったんだから、今さら気にしなくてもいいのに」

 そうは言っても、まだ僕が小学校に上がるかどうかの頃の話だ。特に夏の暑い日、外で遊んで汗をかいて帰ってきたときなどは親にシャワーを浴びなさいと言われ、よく一緒に入ったものだ。確かにあの頃は、一緒に裸になっても特に何とも思わなかった。

 ただ、今は違う。お互い成長した体を見せ合うという行為は、なんだかしてはいけないことのように僕は思っていた。逆に言えば、先輩は今でも僕のことを子供だと思っているから、一緒に入っても問題ないと思っているのだろうか。

 確かに僕は背が低く、よく年下に見られてしまうが、先輩は僕の歳を知っている。ちょっと扱いがひどいんじゃないか?

 しかし、先輩は悩む僕の心の中を全く気にすることなく、目の前で服を脱ぎ始めた。

「わ、わわ……」

 僕は慌てて後ろを向く。この人は何を考えてるんだろう。いくら年下とはいえ、男に裸を見られても本当になんとも思わないのだろうか。うちのクラスの女子なんて、一年生にスカートをめくられただけでも大騒ぎしたのに。しかも見られたのは下着のパンツではなくスパッツだ。

「どうしたの?誘ってきたのは君のほうなのに」
「……い、いや、その、何と言いますか」
「まあいいわ。先に入ってるから」

 僕が慌てている間に、先輩は風呂場のドアを開けて中に入っていった。ドアのくもりガラスから見える先輩は、タオルすら巻いていない真っ裸である。このまま入っても大丈夫なんだろうか……。

 僕はまだ迷っている。子供扱いされるのは嫌だが、先輩の裸が見たいかどうかと聞かれたら、間違いなく見たい。うちの風呂場は、ドアを開けると縦に長い洗い場があり、突き当たりに鏡と蛇口が、左側に湯船があるという作りになっている。ドアのすりガラス越しに見ると、鏡の前に座って髪を洗っているようだ。

 今入れば正面から向き合うことはない。入るなら絶好のタイミングだ。先輩のほうは気にしている素振りはないんだから、僕も気にせず入ればいいじゃないか。

 僕は決心すると、急いで服を脱いで、ドアを開けた。

「あら、やっぱり一緒に入りたかったのね」

 中に入ると、バスチェアに腰掛けた先輩が背中を向けたまま話しかけてきた。

「いえ、ただ時間がもったいないと思いまして」

 僕は裸の背中を見ながら、心にもないことをつぶやいた。裸になったときに隠すのは胸と股間なんだから、背中くらい見てもどうってことないと、入るまでは思っていた。

 しかし、腰からお尻にかけての女性らしい体つきは、それだけで僕をドキドキさせた。

「そんなにじっくり背中見ちゃって、どうしたの?」

 先輩は壁の鏡越しに僕の反応を見ているようだ。

「……別に」

 僕は恥ずかしくて目をそらした。

「そうだ、背中洗ってくれない?真ん中あたりをゴシゴシこすってもらいたいんだけど」

 背中を洗うということは、つまり、先輩の体に触るということ。

「ほら、これ使って」

 先輩はボディーソープを含ませたスポンジを手渡してきた。

「それじゃ、失礼します」

 僕は緊張しながら彼女の後ろにしゃがみ込み、スポンジで背中を洗い始める。少し顔を上や横に動かせば鏡越しに胸が丸見えになるが、見たい気持ちを必死で抑えながら背中を磨く。

 先輩は見られても気にしないと思うが、「僕が胸を見ようとしている」と思われるのが嫌だった。

「ん、もう少し強くても大丈夫よ」

 余計なことを考えていたせいか、ろくに力が入っていなかったようだ。言われた通りに力を込めてみる。スポンジを通して背骨の感触が伝わる。

「先輩の背中、綺麗ですね」
「綺麗って、他の女の子の背中も見たことあるの?」
「もう、からかわないでくださいよ」
「ふふ、ごめんね。それじゃ、私は湯船に入るわ」

 先輩はシャワーで髪と体を洗い流すと立ち上がり、湯船に入った。

「ねえ、最近学校はどうなの?」
「今年で卒業って、まだ全然実感ないんですよねー」
「確かにそうよね。クラスメイトはほとんど同じ中学に上がるんだし」

 先輩は湯船に浸かりながら、僕の背中越しに話しかけてくる。僕からは鏡越しに先輩の顔が見える位置だ。つまり、目を合わせようとするとその下にある膨らみも目に入る。背中を洗っていたときとは逆で、今度は目をそらすほうが不自然になってしまう。

 僕が彼女と目を合わせながらも、目線を動かして胸を見ていること、きっと気づいているだろう。でも先輩はそれを指摘してからかったり、恥ずかしがって胸を隠すようなことはしない。僕のエッチな心を受け止めているのか、しょせんは子供だと思っているのか。

「それじゃ、私はそろそろ上がるからね」

 そう言うと、湯船から立ち上がる。曇った鏡越しに先輩のすべてが見える。先輩は、なぜか鏡の方を見ながら、絞ったタオルで体を拭き始めた。

 まるで、僕に見せるかのように。僕が振り返って直接裸を見られるのを待っているかのように。ここで振り向けば、先輩のすべてをこの目で見ることができる。

 逆に、僕のすべても見られてしまう。精通はまだなのにすっかり硬くなって勃ち上がったあそこも……。

 見られるのは恥ずかしい。でも、先輩は見せてくれたのに僕は見せないというのは不公平な気がする。先輩が体を拭き終わったあたりで、僕は思い切って立ち上がり、振り向いた。

 先輩はまず驚いた顔をし、次に恥ずかしそうに腰をくねらせ、一息ついてから僕の股間に目線を落とした。

「先輩、すごく……綺麗です」

 僕は、頭の先から足元まで、濃いピンク色の先端から茂みに覆われた秘密の場所まで、先輩の体を隅から隅まで見てからそう言った。もっと言葉を知っていれば少しは別の褒め方もあったのかも知れないが、今は「綺麗」としか言えなかった。

「ありがとう……それじゃ、私はご飯の支度もあるから、上がるわね」

 ずっと余裕だった先輩の声に、少しだけ照れが見えた気がした。堂々と振り返るという僕の行動が意外だったのだろうか。なぜか、先輩に勝った気がして嬉しくなった。

 それっきり、僕の体については何も言わずに振り向くと、形のいいお尻を揺らしながら風呂場を出ていった。

 僕は湯船に浸かりながら、洗面所の先輩をくもりガラスのドア越しに見ていた。バスタオルで体を拭く。横を向いているので胸の膨らみがわかる。正面から見た印象より少し小さいかも知れない。いや年齢的には普通なのかも?

 そのまま着替えも見る。最初に身につけるのは意外にもパンツではなくブラのほうだった。薄いピンクのタンクトップ型。スポーツブラというやつだろうか。クラスの女子のシャツから透けていたのを見たことがある。

 パンツを履く。色はグレーのボクサーパンツかな? 僕も似たようなのを持っている。意外と男子のパンツとあんまり変わらないんだな。

 結局、服を全部着て、ドライヤーでショートヘアを乾かすまで、僕は先輩の体に釘付けになっていた。

 *

「おかえり、もうじき焼けるわよ」

 風呂から上がり、着替えて台所に戻ると、先輩は肉野菜炒めの仕上げをしているようだった。

 テーブルには、ほうれん草のおひたしや、先ほど刻んだキュウリのぬか漬、瓶詰めから出した佃煮が入った小鉢が並べられていた。もちろん、メインディッシュのショウガ肉野菜炒めを待つ大皿もある。

「あ、おばさんのエプロン借りてるからね。油が跳ねちゃうといけないし」

 先輩はTシャツとハーフパンツの上にエプロンを着ていた。なんだか大人っぽく見える。同時に、先ほどまで見ていた裸とエプロン姿を重ね合わせる。

「新婚の奥さんは、よく裸にエプロンだけ付けて料理作ったりするんだぜ」

 そんなことを言っていたのはクラスの友達。早熟なやつで、エロ本を何冊も隠し持っているという噂だ。なんでだよ、と聞いたら、男はそういうのに喜ぶ生き物だと返された。

 あの時は意味がわからなかったが、今ならその良さがわかる気がする。もし僕が先輩と結婚したら、そんな格好を見せてくれるのかな、などと想像してしまった。

「はい、できあがり」

 僕が変なことを考えている間にちょうど焼き上がったようで、フライパンの中身を大皿に移した。

「お味噌汁のこと忘れてたわ。戸棚にあったインスタントで我慢してね」
「いえ、十分です!今日は本当にありがとうございました」

 僕は戸棚から、お客用のご飯茶碗と汁椀を取り出して先輩に手渡す。

「それじゃ、食べましょうか」
「いただきます!」

 僕はさっそく、ショウガ焼きの肉に箸を伸ばした。

「どう?味付けはこのくらいでいい?」
「はい、おいしいです」

 醤油がきいた少し濃いめの味付けで、母が作ってくれるやつよりも好みかもしれない。

「そう、良かった!」

 先輩が嬉しそうに笑う。僕の言葉で彼女が喜んでくれるのを見て、とても幸せな気分になった。

「ほらほら、野菜も食べなきゃだめよ」
「はーい……」

 僕は仕方なく、キャベツとピーマンを一緒に箸でつまんで、口に運んだ。

「……あ、おいしいです」
「ピーマン、昔は苦手だったよね?」
「よく覚えてますね……」

 こども会のバーベキューで作った焼きそばを食べるとき、ピーマンだけ脇に避けたのを笑われたのを思い出す。しかし、先輩が炒めてくれたピーマンは、思っていたより苦くなかった。

 これは味付けの工夫なのか、それとも僕の舌が昔より大人になったからなのか。今はまだわからない。もしかしたら先輩の笑顔のおかげ?「料理は愛情」とはよく聞くが、こういうことなのかも知れない。

「ごちそうさまでした!本当においしかったです!」

 ご飯を3杯もおかわりして、並べられた料理を食べきった僕は、心からお礼を言った。

「ありがとう。私も料理を褒められるなんて久しぶりで、なんだか嬉しいわ」
「また機会があったらよろしくお願いしますね」

 僕は図々しい本音を伝えた。しかし、先輩は気にする様子もなく笑ってくれた。

「それじゃ、私は帰るからね。おばさん達によろしく」
「今日は本当にお世話様でした」

 玄関先で先輩を見送り、両親が帰って来るのを待つ。

 **

「ただいま、ご飯はちゃんと食べた?」

 8時過ぎに母が帰ってきた。父は泊まりになるそうだ。

「おかえり、ショウガ焼き作ってくれたよ」

 僕は、先輩が作ってくれた料理がおいしかったことを報告した。
 もちろん一緒にお風呂に入ったことは内緒だ。

「……そう、ぬか床の手入れまでやってくれたのね。お礼の電話しなくっちゃ」
「あのさ、そのぬか床のことなんだけど、これからは僕がやるよ」
「あら、急にどうしたの?」
「やっぱり今は男でも料理できないとね。包丁や火を使うのはまだ難しそうだけど、このくらいなら今の僕でもできる」

 これは本音でもあるのだが、実は一つだけ隠していることがある。ぬかの感触を通じて、なんとなく先輩と繋がれるような気がしたのだ。

「助かるわあ。ぬかの手入れって、結構腰に来るのよね」
「もう来年からは中学生になるんだから、任せといて!」

 それから、朝起きた後と、夜に風呂に入る前のぬか床手入れが僕の仕事になった。朝の手入れのあとは臭いが残るのが嫌なのでシャワーも浴びるようになった。

 おかげで、爽やかな気分で朝を迎えられるようになり、早起きするのが楽しくなってきた。もちろん宿題も進むし、一通り片付けたあとは自主勉強まで始めてしまった。

 夏休みが終わる頃には、最初で最後の「ラジオ体操皆勤賞」までもらってしまった。規則正しい生活が良かったのか、9月の身体測定では春に測ったときから身長が3センチも伸びていた。

 この夏で僕は体も心も大きく成長した気がする。これもみんな、先輩が家に来てくれたおかげかも知れない。

 ***

 時は流れて翌年の4月。僕たちは無事に卒業し、地元の中学校に進学した。学年では何人か転校したり私立中に進んだりしたが、うちのクラスの男子は全員同じ公立中学に進んだ。

「会長、めっちゃ綺麗だったよね」
「だよな!決めた、俺も生徒会に入る!」
「あんたの頭じゃ無理でしょー、体ばっかりデカくなっちゃって」
「どうかな?成長期なのは体だけじゃないんだぜ」

 入学式を終えて教室に入った後、クラスの話題は美人の生徒会長でもちきりだった。
 そう、在校生代表で挨拶した生徒会長とは、僕の幼なじみの先輩だったのだ。これは入学するまで僕も知らなかったことだ。

 夏にはショートだった髪は肩まで伸び、より大人っぽく、女性らしくなっていた。見慣れた顔なのであまり意識したことはなかったが、言われてみるとかなりの美人だと思う。

 あの夏の日、先輩と一緒にお風呂に入ったことは、今ではまるで夢のようだ。あれ以来、先輩とは特に何もない。会話にしたって、道で会ったときに軽く挨拶をするくらいだ。

「……生徒会、目指してみようかな」
「お前も会長狙い?色気づいてきたな」

 半分ひとりごとのような形で僕はつぶやいたのだが、そばにいた友達が拾ってくれた。僕はどちらかといえば奥手のほうで、恋愛ごとには興味がないと思われていたようだ。

 憧れの生徒会長の手料理をいただいたり、ましてや裸になって一緒に入浴したことを知ったらどう思うだろうか。料理はともかく入浴のことは絶対に内緒だけれど。

「まあね、もう中学生だし、これからはライバルってことで!」
「お、いいなそういうの」

 周りの男子たちも集まってきた。知っている顔ばかりではなく、別の小学校出身のグループも輪に入ってくる。

「とりあえず、最初の勝負は5月の中間テストだ!」
「おー!負けねえぞ!」


 別に、この勝負で勝ったからといって先輩と付き合えるわけでもないのだが、そんなことはみんなわかっているだろう。それでも、一つの話題で盛り上がり、同じ目標のために競い合うというのはとても面白そうだ。

 中学校の3年間は、小学校の6年間の半分だが、体感的にはものすごく短いと聞いたことがある。僕はこの3年間もその先も、全力で楽しんでいきたい。

 ***

 物語はここで完結です。最後までお読みいただきありがとうございました。
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