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【74.責務】
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リャザン公国からの独立を果たしたトゥーラの地。
正確には、リャザン公国の重臣ワルフの思惑によって、戦略的な自治権と軍事権の分離を強いられた、トゥーラという自治政府。
そんな生まれたばかりの小さな国家で軍務を司るグレンと、城内の女中を束ねる立場のアンジェは、夫婦である。
久しぶりに二人だけの夕食を済ませた屋根の下、将軍グレンは妻から二日間に渡る戦闘中の王妃の行動を耳にして、言葉を無くしていた――
「ちょっと待ってくれ。二日目は、他の者が屋上におったぞ?」
「そういえば…」
アンジェも、届いた質問にはハッとした。
「王妃様が倒れたのは、初日です。国王様がお気付きになって、寝室へとお運びしました…その時は意識もあって、夜には食事も摂られた筈です」
「……」
「ですが、翌日になっても立てないままで、ずっとお休みになっていました…なのに戦いが終わった時には、屋上に…」
「そんな状態で、また屋上に行かれた?」
グレンは驚きと疑問を重ねるように問い掛けた。
「そう…なんでしょうか…」
腑に落ちない想いを抱きつつ、アンジェはテーブルに置かれた木製の丸椀を両手で支えると、伏し目になって呟いた。
状況だけを踏まえれば、語った通りなのだ。
しかも代役が居たというのだから、その者を排してまで、監視の任務に当たったということになる――
「……」
しかしながら、聡明な王妃様が、自らを危険に晒してまで前日と同じ愚行を犯すのだろうか…
アンジェには、どうしても納得のできない事跡であった――
「だいたい…」
丸椀を支えていたアンジェの両腕に力が入って、小刻みに震えはじめた。
「お、おい…」
妻の怒りの感情を、夫は素早く察知した。尤も、怒りの理由も矛先も、この時点では全く予想できるものではなかった。
「国王様は、最初から王妃様を監視役に充てたって事でしょう!?」
「……」
「あなた、知ってたんじゃないんですか!?」
「い…いや、知らんさ。全く聞いてない!」
妻の怒りの眼光が、鋭く突き刺さる――
幾多の者を屠ってきた左腕を眼前に掲げて視線を塞ぐと、タジタジとなった大将軍は、細かく首を振って否定の感情を表すのだった――
当初の予定通り、夫との夕食を済ませ、再び城へと戻ってきたアンジェは、か細いランプの灯りだけを頼りに、螺旋階段を登って3階の国王居住区へと向かった。
階段を登り切って一つ目の扉を開いたところで立ち止まり、一息をつくと、二つ目の扉をそっと開いた。
「……」
半分開けた隙間から静かに首を伸ばすと、視線の奥に見える寝室で、ベッドの方に身体を向けて、椅子に座って看病をしているマルマの姿を確認できた。
「……」
マルマの口は動いていない。黙って見守っているだけであった。王妃様は、幸い眠りに就いているようだ。
「マルマ」
静かに居住区へと足を踏み入れると、アンジェは寝室の手前で口元に手を当てて、彼女だけに声が届くように気遣いながら、名前を呼んだ。
「はい?」
人の気配と声に気付いてマルマが顔を向けると、上半身を前にしたアンジェが居住区の中ほどに立っていた。
手にする小さなランプと、数少ない窓から差し込む星明かりを頼りに浮かび上がる彼女の姿は、まるで墓場から舞い戻った亡者の類に映った。
「…なんでしょう?」
一瞬驚くも、マルマにとっては見慣れた光景である。むしろ寝室まで足を伸ばす事なく立ち止まっている姿に違和感を覚えて、彼女自身が立ち上がり、ささやかな疑問の声と共にアンジェの元へと足を進めた――
「ちょっと、聞きたいことがあるの」
「はい…」
静かな言葉遣いの内側に、どこか高圧的なものが孕んでいる…
叱られる前の緊張感みたいな空気を感じ取ったマルマは、眉をひそめて呟くと、背中を向けて歩き出したアンジェの後ろ姿を眺めながら、重い足取りで、居住区から螺旋階段の方へと移動した。
やがて扉の前で立ち止まったアンジェが促して、マルマを先に通した。
城内に設置されている扉の中で一番厚い、国王居住区とを隔てる境目が閉められると、アンジェが急くように口を開いた。
「昨日の事だけど…」
「はい…」
何か、指摘されるようなことをした?
自覚の無かったマルマは小言に怯えながら、俯き加減で声を返した。
「王妃様を見つけた時の状況を、教えてほしいの…」
「え?」
梯子の方へと一歩を進めてマルマとの距離を詰めると、アンジェが情報を求めた。
思いもよらない問い掛けに俯いていたマルマが顔を上げると、ランプを手にした上司の顔が、暗がりの中で浮かんでいた。
屋上へと続く梯子の先は、換気を促すために解放されていて、夏の夜の、少し湿った空気が、二人の頬を潤すようにやってきた。
「なに?」
「いや、怒られるのかな…と思って」
「あんたね…」
「だって、そんな感じがします」
「……」
一瞬の静寂が生まれた。この子は勘が鋭い…アンジェは、思わず感心を灯した。
尤も、それだけマルマを実子のように可愛がり、厳しく育てているという証左でもあった。
「怒っているけど、あなたに対してじゃないから大丈夫。たぶん…」
「たぶんって…」
「いいから、話しなさい」
時間が惜しい。苛立ちも手伝って、アンジェは話を遮って本題を求めた。
「はい…」
観念したマルマが、記憶を辿るように口を開いた。
「昨日は…アンジェさんに北へ行くように言われたあと、ライラとメイちゃんも一緒に、水袋を持って、家を回って水の補充をしていたんです。そこに、外から勝ったって声が聞こえてきて…」
「それで?」
「わたし…リア様に…王妃様に…勝ったよって伝えたくて…走ってきたんです。そうしたら…寝室の扉を開けたら…煙が凄くて…」
「煙…」
率直に昨日を語るマルマの言の葉に、アンジェの記憶が蘇る。
確かに寝室には煤のような付着物が点在し、悪臭は、他の場所よりも強く感じた――
「それで、屋上に行ったんです。嫌な予感がして…下へ行ったなら、みんなと一緒に居るだろうから…」
「……」
「そうしたら…」
俯いたマルマは、そこで一旦、言葉を止めた。
「わたし…」
「良くやったわ!」
アンジェは彼女の言葉を遮って大きく両腕を広げると、その胸にマルマを強く、強く抱き締めた。
「ありがとう…ありがとうね。マルマ…」
続いて涙ぐみながら、彼女の懸念を塞ぐように、感謝の言葉で埋めるのだった――
「……」
マルマと交代したアンジェは、丸椅子にふっくらとした身体を深く沈めて、冷静な視線をベッドで眠る王妃様、リアの安らかな寝顔へと注いでいた――
受け取った報告によると、昼間の暑さには苦しんでおられ、体温の上昇も見られたが、引き続きの看病により、意識を戻す時間もあったようだ。
その際にはハチミツを溶いた水分をいくらか含み、美味しいと口にしたらしい。
発汗による体温調整が機能不全に陥っており、容体は夜の方が安定するだろうとの事だった。
「……」
<ロイズ様は、ワシに言われたことがある。王妃様には、自由でいさせてやりたい…とな>
今しがた、城へと戻る前、夫が食卓から放ったセリフがアンジェの頭を過ぎった――
「王妃さま 私は…無茶はして欲しく…無いのです…」
懇願するようなアンジェの哀しい声が、静かに口から発せられた。
女性が戦場に身を置くだけでも信じられないというのに、担った役目が重責の監視役。しかも、単身で…
夫の話を引き合いに出せば、王妃様が自ら積極的な関与を願い出た可能性がある――
「……」
だからと言って、実際に任務を与える事は、別である。
結果は勝利で終わったが、一方で大事な命が危険に晒された――
階下に下りてきて一緒に小麦粉をこねたり、食事を共にしたり…
城で働く女中たちは皆、気さくで明るい、可愛らしい王妃様を慕っている…
そんな彼女たちに、いったいどう説明をしろと言うのか――
「……」
しかし一方で、アンジェには王妃様の心の内がぼんやりと理解できていた――
夫であるグレンと救護の場所や補給路を巡って、意見が衝突した事は何度もある。
その度に、前線に立つ労苦を盾に上から目線でモノを言われ、忸怩たる想いを心に宿した――
国王夫妻を招いた食事の席で、彼女の放った発言とその後のやりとりは、随分とアンジェの鬱憤を溶かしたのだ――
アンジェは勿論、夫のグレンすらも知らない。
二日間に渡る作戦どころか、ロイズが城主としてトゥーラに赴任して以来の政治判断や軍略の総てを、彼女が担っていた事を――
だからこそ、逃げる事は許されない。
どんな結果になろうとも、見届けなければならない。
女性であろうとも、小さな王妃は当然の責務として、総てを見渡せるあの場所に、自らの足で立とうとしたのである――
正確には、リャザン公国の重臣ワルフの思惑によって、戦略的な自治権と軍事権の分離を強いられた、トゥーラという自治政府。
そんな生まれたばかりの小さな国家で軍務を司るグレンと、城内の女中を束ねる立場のアンジェは、夫婦である。
久しぶりに二人だけの夕食を済ませた屋根の下、将軍グレンは妻から二日間に渡る戦闘中の王妃の行動を耳にして、言葉を無くしていた――
「ちょっと待ってくれ。二日目は、他の者が屋上におったぞ?」
「そういえば…」
アンジェも、届いた質問にはハッとした。
「王妃様が倒れたのは、初日です。国王様がお気付きになって、寝室へとお運びしました…その時は意識もあって、夜には食事も摂られた筈です」
「……」
「ですが、翌日になっても立てないままで、ずっとお休みになっていました…なのに戦いが終わった時には、屋上に…」
「そんな状態で、また屋上に行かれた?」
グレンは驚きと疑問を重ねるように問い掛けた。
「そう…なんでしょうか…」
腑に落ちない想いを抱きつつ、アンジェはテーブルに置かれた木製の丸椀を両手で支えると、伏し目になって呟いた。
状況だけを踏まえれば、語った通りなのだ。
しかも代役が居たというのだから、その者を排してまで、監視の任務に当たったということになる――
「……」
しかしながら、聡明な王妃様が、自らを危険に晒してまで前日と同じ愚行を犯すのだろうか…
アンジェには、どうしても納得のできない事跡であった――
「だいたい…」
丸椀を支えていたアンジェの両腕に力が入って、小刻みに震えはじめた。
「お、おい…」
妻の怒りの感情を、夫は素早く察知した。尤も、怒りの理由も矛先も、この時点では全く予想できるものではなかった。
「国王様は、最初から王妃様を監視役に充てたって事でしょう!?」
「……」
「あなた、知ってたんじゃないんですか!?」
「い…いや、知らんさ。全く聞いてない!」
妻の怒りの眼光が、鋭く突き刺さる――
幾多の者を屠ってきた左腕を眼前に掲げて視線を塞ぐと、タジタジとなった大将軍は、細かく首を振って否定の感情を表すのだった――
当初の予定通り、夫との夕食を済ませ、再び城へと戻ってきたアンジェは、か細いランプの灯りだけを頼りに、螺旋階段を登って3階の国王居住区へと向かった。
階段を登り切って一つ目の扉を開いたところで立ち止まり、一息をつくと、二つ目の扉をそっと開いた。
「……」
半分開けた隙間から静かに首を伸ばすと、視線の奥に見える寝室で、ベッドの方に身体を向けて、椅子に座って看病をしているマルマの姿を確認できた。
「……」
マルマの口は動いていない。黙って見守っているだけであった。王妃様は、幸い眠りに就いているようだ。
「マルマ」
静かに居住区へと足を踏み入れると、アンジェは寝室の手前で口元に手を当てて、彼女だけに声が届くように気遣いながら、名前を呼んだ。
「はい?」
人の気配と声に気付いてマルマが顔を向けると、上半身を前にしたアンジェが居住区の中ほどに立っていた。
手にする小さなランプと、数少ない窓から差し込む星明かりを頼りに浮かび上がる彼女の姿は、まるで墓場から舞い戻った亡者の類に映った。
「…なんでしょう?」
一瞬驚くも、マルマにとっては見慣れた光景である。むしろ寝室まで足を伸ばす事なく立ち止まっている姿に違和感を覚えて、彼女自身が立ち上がり、ささやかな疑問の声と共にアンジェの元へと足を進めた――
「ちょっと、聞きたいことがあるの」
「はい…」
静かな言葉遣いの内側に、どこか高圧的なものが孕んでいる…
叱られる前の緊張感みたいな空気を感じ取ったマルマは、眉をひそめて呟くと、背中を向けて歩き出したアンジェの後ろ姿を眺めながら、重い足取りで、居住区から螺旋階段の方へと移動した。
やがて扉の前で立ち止まったアンジェが促して、マルマを先に通した。
城内に設置されている扉の中で一番厚い、国王居住区とを隔てる境目が閉められると、アンジェが急くように口を開いた。
「昨日の事だけど…」
「はい…」
何か、指摘されるようなことをした?
自覚の無かったマルマは小言に怯えながら、俯き加減で声を返した。
「王妃様を見つけた時の状況を、教えてほしいの…」
「え?」
梯子の方へと一歩を進めてマルマとの距離を詰めると、アンジェが情報を求めた。
思いもよらない問い掛けに俯いていたマルマが顔を上げると、ランプを手にした上司の顔が、暗がりの中で浮かんでいた。
屋上へと続く梯子の先は、換気を促すために解放されていて、夏の夜の、少し湿った空気が、二人の頬を潤すようにやってきた。
「なに?」
「いや、怒られるのかな…と思って」
「あんたね…」
「だって、そんな感じがします」
「……」
一瞬の静寂が生まれた。この子は勘が鋭い…アンジェは、思わず感心を灯した。
尤も、それだけマルマを実子のように可愛がり、厳しく育てているという証左でもあった。
「怒っているけど、あなたに対してじゃないから大丈夫。たぶん…」
「たぶんって…」
「いいから、話しなさい」
時間が惜しい。苛立ちも手伝って、アンジェは話を遮って本題を求めた。
「はい…」
観念したマルマが、記憶を辿るように口を開いた。
「昨日は…アンジェさんに北へ行くように言われたあと、ライラとメイちゃんも一緒に、水袋を持って、家を回って水の補充をしていたんです。そこに、外から勝ったって声が聞こえてきて…」
「それで?」
「わたし…リア様に…王妃様に…勝ったよって伝えたくて…走ってきたんです。そうしたら…寝室の扉を開けたら…煙が凄くて…」
「煙…」
率直に昨日を語るマルマの言の葉に、アンジェの記憶が蘇る。
確かに寝室には煤のような付着物が点在し、悪臭は、他の場所よりも強く感じた――
「それで、屋上に行ったんです。嫌な予感がして…下へ行ったなら、みんなと一緒に居るだろうから…」
「……」
「そうしたら…」
俯いたマルマは、そこで一旦、言葉を止めた。
「わたし…」
「良くやったわ!」
アンジェは彼女の言葉を遮って大きく両腕を広げると、その胸にマルマを強く、強く抱き締めた。
「ありがとう…ありがとうね。マルマ…」
続いて涙ぐみながら、彼女の懸念を塞ぐように、感謝の言葉で埋めるのだった――
「……」
マルマと交代したアンジェは、丸椅子にふっくらとした身体を深く沈めて、冷静な視線をベッドで眠る王妃様、リアの安らかな寝顔へと注いでいた――
受け取った報告によると、昼間の暑さには苦しんでおられ、体温の上昇も見られたが、引き続きの看病により、意識を戻す時間もあったようだ。
その際にはハチミツを溶いた水分をいくらか含み、美味しいと口にしたらしい。
発汗による体温調整が機能不全に陥っており、容体は夜の方が安定するだろうとの事だった。
「……」
<ロイズ様は、ワシに言われたことがある。王妃様には、自由でいさせてやりたい…とな>
今しがた、城へと戻る前、夫が食卓から放ったセリフがアンジェの頭を過ぎった――
「王妃さま 私は…無茶はして欲しく…無いのです…」
懇願するようなアンジェの哀しい声が、静かに口から発せられた。
女性が戦場に身を置くだけでも信じられないというのに、担った役目が重責の監視役。しかも、単身で…
夫の話を引き合いに出せば、王妃様が自ら積極的な関与を願い出た可能性がある――
「……」
だからと言って、実際に任務を与える事は、別である。
結果は勝利で終わったが、一方で大事な命が危険に晒された――
階下に下りてきて一緒に小麦粉をこねたり、食事を共にしたり…
城で働く女中たちは皆、気さくで明るい、可愛らしい王妃様を慕っている…
そんな彼女たちに、いったいどう説明をしろと言うのか――
「……」
しかし一方で、アンジェには王妃様の心の内がぼんやりと理解できていた――
夫であるグレンと救護の場所や補給路を巡って、意見が衝突した事は何度もある。
その度に、前線に立つ労苦を盾に上から目線でモノを言われ、忸怩たる想いを心に宿した――
国王夫妻を招いた食事の席で、彼女の放った発言とその後のやりとりは、随分とアンジェの鬱憤を溶かしたのだ――
アンジェは勿論、夫のグレンすらも知らない。
二日間に渡る作戦どころか、ロイズが城主としてトゥーラに赴任して以来の政治判断や軍略の総てを、彼女が担っていた事を――
だからこそ、逃げる事は許されない。
どんな結果になろうとも、見届けなければならない。
女性であろうとも、小さな王妃は当然の責務として、総てを見渡せるあの場所に、自らの足で立とうとしたのである――
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