小さな国だった物語~

よち

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【65.希望の眸】

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すっかり夜も更けた、トゥーラ城の最上階。
倒れているところを発見されて以来、意識の戻らぬ、王妃リアが眠る寝室――


「ロイズ様…」

丸椅子に腰掛けて王妃を見守っていたマルマが螺旋階段を静かに登って来る微かな気配に気付いて顔を向けると、星明かりによって生じる暗がりの向こうから、小さなランプを手にした国王ロイズが、浮かぶように姿を現した。

「マルマ、ありがとう。交代しよう」
「いえ…ロイズ様こそ…お休みになって下さい」

肌や声色、目の辺りを窺うに、お互い疲労の色は隠せない。
しかしながら、今の状況でそれらを問う事は、無駄に心身の疲れを高めるだけである。
二人とも、それを自覚するほどに憔悴していた――

「私の代わりは、誰にでも務まります…ですが、ロイズ様の代わりは、他におりません」

マルマの茶色い瞳が真っ直ぐにロイズのくすんだ瞳を捉えた。
話す彼女のふっくらとした普段の頬には凹みすら浮かんでいて、肉付きのよかった身体も、幾らか萎んだように感じる――

「……」

寝室へと足を踏み入れたロイズが、ベッドの上で上半身を白いシーツで隠し、仰向けになったままの状態で静かに眠るリアの傍らまで足を進めると、そっと沈むように片膝を落とした。

視線の先では、か細い息遣いが確かに認められ、いくらかの安堵を連れてくる…

「ありがとう」

夜を迎えて気温が下がった事もあり、他の女中の姿は消えていた。
視線はリアに向けたまま、ロイズが改めてマルマに感謝を述べると、3人だけの石壁の寝室に、掠れたような声音が反射した。

「いえ…」

隣に並ぶロイズの顔立ちには、疲れの中に暗澹が浮かんでいる。
普段は大きく見せる背中を小さく曲げて、いつもの毅然とした瞳の色は儚げで、今現在の、どうしようもない、見守る事しかできない状況を、自ら責めているようにも思えた――

「ロイズ様、ここは…」
「マルマ」

そんな横顔に向かって、改めて口を開いたマルマの発言をロイズが遮った。

「リアにとっては、俺しかいないんだ」
「……」

マルマの唇が思わず止まり、静寂がやってきた…

<な、なに言ってんの!>

マルマの脳裏には、頬を赤くした王妃様の焦りの言動が、思わず過ぎった――

しかしながらロイズが持つランプの灯りに浮かび上がった小さな肢体は、照れる事すら叶わない。

「…自惚れかな?」

姿勢はそのままで、眉毛をわずかに下げて、哀しげな微笑みを浮かべたロイズは、それでいて、諭すようにマルマに尋ねた。

「いえ…」

そうまで言われたら、出る幕は無い。
静かに瞼を閉じて認めると、マルマは温かな、羨ましいような、優しい気持ちを確かに心に留めるのだった――

「あ…」

静かに立ち上がり、背中を通り過ぎようとするマルマに、ロイズが一つの声を渡した。

「はい」
「1時間もしたら、戻ってきて良いから…」

憔悴を浮かべる横顔のまま、ロイズは続けてそんな言葉を伝えるのだった――



マルマの足音が暗がりに消えると、二人だけの寝室に再び静寂がやってきた。
普段なら時折り獣や鳥の鳴き声が聞こえてくるのだが、戦いの残痕が消えぬうちは、それらが戻ることは無いのだろう…

静謐の中、ロイズはベッドに横たわる、血の気の失せた小さな左手に、そっと右手を伸ばした。

「……」

アンジェにマルマを始め、女中達の必死の看病のおかげか、熱はずいぶんと引いている。
裸だった身体にも薄い絹のシーツが被せられ、見た目だけなら、静かに眠っているようにさえ思える――

それでも、目の前の小さな左手がロイズの指を掴み返す事は勿論なく、微かに動く気配すら感じられなかった――

「……」

マルマの腰掛けていた椅子の向こう側の棚には水差しと、スプーン一杯分のハチミツが盛られた器が置いてあった。

夜になって気温は下がったが、太陽が昇れば再び暑さがやってくる。そうなれば、小さな身体は持たないかもしれない…

つい、悪い方へと考えてしまう…

それでも、追加で為せる治療が思い浮かばない…

左右に分けられた、艶の消えた赤みを帯びた髪から覗く小さなおでこと、両の手首と足首にそれぞれ載せられた麻布は、熱を帯びる度に交換し、合間に扇を手に取って、緩やかな風を送ってやる。
布巾は水に浸して、絞って使う。水は女中が2時間ごとに、冷たい井戸水を桶に入れて運んでくる。

「……」

リアの唇が、微かに濡れている。
少しでも水分を摂ってくれたらと、木製のスプーンでほんの数滴、または布巾に含ませて与えてくれたのだろうか…

彼女の魅力の一つでもあった、ぷくっと膨れた感じがすっかり消えている唇に、ロイズはそっと人差し指を当てると、おもむろに口へと含んでみた。

「……」

ほのかなハチミツの甘さがやってくる。
少しでも栄養価の高いものを摂ってほしいという皆の想いが、胸に刺さる…

立ち上がったロイズはハチミツが盛られた器に手を伸ばし、スプーンの先でそっと掬うと、水差しから水を垂らして、それを薄めた。
そして愛する伴侶の唇へと、やさしく運んだ…

「……」

微かに、唇が動いた気がした――

気のせいかもしれないが、甘さに反応してくれたのかもしれない。
それは絶対に生還するという、彼女の確固たる意志と本能だろうか――

「……」

そうでなくてはならない。

また、一緒に笑って、悩んで…

困った顔を見せて…


もう一度、小さな身体を胸に抱く…

いつものように、重なった手を握り返して…

肩を、背中を、腕を…強く掴んで…

そうでなかったなら…


後悔しかなくなる――


意志に逆らってでも、居住区ここに留めなかったこと…

友の頼みだからと、トゥーラへと赴任した事…

誘われるままに、カルーガの村から離れたこと…


そしてあの日、手を差しのべたこと――


生きてくれ


それだけを願って…

小さな国の国王は、悲しみと悔しさに震える両手を、そっと小さな手の上に重ねた――



「あ…」

トゥーラの警戒態勢は、完全に解かれたわけではない。

夜勤を担当する仲間に起こすようにと頼んで、食堂で仮眠を取り、交換用の水桶を持って、言われた通りに1時間経って居住区へと戻ってきたマルマが、目の前の場景に思わず声を発した。

視線の先には、寝室の奥に置かれた小さなランプの灯りの中で、細くなった王妃様の左手に両手を添えたまま、床に両膝をつき、後頭部を覗かせて、ベッドに頬を添えて眠る国王様の姿があった――

(お二人は…ほんとに…)

視界に入った二人の姿が、浮かんだ涙で歪んでいく…


『この方は…こんなところで死なせちゃいけない!』

思わず足が止まったマルマは、涙をスッと指で拭いながら、アンジェの言葉を思い起こした。

(絶対に、助けますから…)

そして、改めて心に誓いを立てるのだった――



「あらあら…」

東の空が、微かな白を迎えに行く時刻――

目を覚ますなりに登城し、螺旋階段を駆け上がってきたアンジェが、目の前の光景に思わず声を発した。

寝室の奥の開いた窓から注ぐ微かな光の中で、ロイズとマルマが二人並んで床に両膝をつき、頭をこちらにして、ベッドに右の頬を添えて眠っていた。
奥で眠るロイズの肩から背中には、薄手のシーツが掛けられている。

そのまま寝室へと足を踏み入れると、アンジェは眠ったままのロイズの両の手が、王妃の小さな左手に触れているのに気が付いた。

「……」

自宅に二人を招き、夫であるグレンと食事を共にしたあの夜は、愉しい時間であった…

予想通りとはいえ、あれから半月も経たない内にスモレンスクの侵攻が始まり、そして今、勝利を飾った空気の中で、子供のような王妃が痛々しい姿を晒している…

目の前には、そんな彼女の姿を嘆くように寄り添う国王様…いや、あの日の青年が居る――

「……」

春先に起こった戦いから帰ってきた夫は、新任の若い城主は、優秀な方だと褒めちぎった…

加えて夜の会食を終えると、国王となった彼を支える若い王妃もまた、聡明な方だと嘆じた…

「……」

しかしながら、母であるアンジェには、あの時の二人の姿は、未来の時間を与えるべき若い生命いのちとしか映らなかった…

そしていま目の前にあるのは、純然たる恋人同士…

戦いに傷ついた想い人を、ひたすらに労わる、生命の慈愛の姿――

「……」

アンジェの瞳に、大粒の涙が浮かんだ。
それは難産の末に娘を産んだ時に流して以来、久しぶりの涙であった――



「アンジェ様、私がお持ちします」
「大丈夫よ」

一旦階下へと降り、水の入った木桶を手にしたアンジェが、声を掛けてきた女中を遮った。

そのまま一人で螺旋階段を登り、静かに寝室へと戻ると、先ずはリアの額を覆っていた布巾を剥がし、水に浸け、絞ってから再び小さな額の上へと戻した。

続いて木桶を手に持って、眠るロイズとマルマを起こさないように、ベッドの向こう側へと移動する。
続いて新たに持参した麻の布巾を水に浸すと、ぎゅっと絞り、小さな肢体に掛けられた絹のシーツを静かに剥がして、赤みの消えた白い柔肌を、丁寧に丁寧に拭いていった――

「……」
「あ…」

思わず、アンジェの瞳が希望を灯す――

目の前で眠る三人のうち、最初に薄目を開けたのは、誰もがそれを切に願う、小さな王妃であった――
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