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「え…?」
トゥーラ城。3階に設けられた国王居住区。
寝室へと続く扉を開けた途端に黒煙がやってきて、背後へと抜けてゆく。
石壁に囲まれた寝室にリアの名前を叫びながら足を踏み入れたマルマは、視界の戻った目の前の光景に、思わず声を無くした。
ベッドの上。
横になっている筈の、小さな王妃の姿が無い――
勝利に沸き上がる、トゥーラの市民の発する歓声が、開放された南の窓からやってくる。
それでも頭が真っ白になったマルマの鼓膜に、それらが届く事は一切なかった。
「くっ…」
マルマのまるっこい顔が青くなる。王妃の行き先が、一つだけ浮かんだ――
しかしながら、戦いは終わったのだ。
姿が見えない状況に、悪い予感だけが脳裏を襲った――
「あっ」
踵を返し、居住区に足を踏み入れたところで、限界に近い両脚がもつれて、身体が浮いた。
前のめりに倒れ込む。それでも両腕に力を入れて身体を起こし、膝を立て、よろめきながらも立ち上がって、足の痛みを抱えながら、前へと進んだ…
(ご無事で…)
それだけを願いながら、屋上へと繋がる梯子に右手を掛けた。
腕には力が宿る。丸く浮かぶ先、夕陽の紅を拭ったように照らし出す空は、夜を迎える準備をしていた――
一度だけ視界に入れて、一つ、もう一つと、激しく痛む脚を交互に上げて、垂直に掛けられた梯子を登ってゆく…
やがて、屋上に手が触れる。より、力が入る。
新鮮な空気を額に感じると、目線が黒に変わりゆく茜色の空を捉えた――
「……」
見えているのは、南の空だ。
疲れの中で視線を落とすと、敷かれた藁の上に、ぽつんと水色の大きな帽子が浮かんでいた。
帽子から伸びるのは、背中を見せて横たわる、細身の身体――
「リア様!」
思わず瞳を見開いたマルマが、叫びながら彼女の元へと駆け寄った。
驚くほどに軽くなった両肩を掴んで、藁に沈んだ身体を引き起こすと、帽子の外れた頭部が力なく、だらりと垂れた。
そのまま腰を落としたマルマは股の間に彼女の背中を預けると、胸の膨らみで小さな頭を支えた――
「……」
一息つく間もなく、赤みの入った髪に隠された細い首が、カクッと折れた。
だらりと腕も下がったままだ。
マルマは咄嗟に肩を支えて藁の上にリアの身体を横たえると、哭きそうな表情になりながら、彼女の呼吸を確かめた――
(神様!)
願いながら、頬を寄せる。微かに、息がある…
「誰か!!」
扉のある居住区とは違って、屋上から地階は遮るものが無い。
螺旋階段の石壁を伝って、声は階下へと届く筈――
「アンジェさん! 誰か来て!」
哭きながら、梯子の下を覗き込む。
堕ちる涙の粒を、必死の叫び声が追い越していった――
「リアさまぁ…」
もう、耐えられない…
意識の無い、生気を失った状態で横たわるリアの傍らで、ガクッと膝を落としたマルマは両腕をだらりと下げて瞼を閉じると、暗くなった空を見上げるようにして涙を零すのだった――
マルマの声に気付いた女中が螺旋階段を駆け上がり、事態を認めると、振り向いてアンジェの名前を叫んだ。
大広間で戦勝報告に笑顔を浮かべていたアンジェだったが、危急の知らせに血の気が引くと、脱兎のごとく走り出した。
「みんな来て!」
同時に叫ぶ。アンジェに続いて、何事かと女中達が後に続いた――
「リア様!」
屋上へと顔を出し、仰向けになっている小さな身体を認めると、アンジェが必死の形相で駆け寄った。
口元へと頬を寄せて息を確かめて、次に胸元へと耳を当て、鼓動を確かめる…
「マルマ、しっかりしなさい!」
アンジェの姿がやってきて、気持ちが緩んだ彼女を見透かすように、叱咤が飛んだ。
「は、はい!」
「下に降ろします。ロープと、担架を!」
アンジェに続いた女中が屋上に顔を出した状態で指示を受け、階下に向かって復唱すると、声の伝達が続いた。
「マルマ、泣くのは後! 看病は、任せるわよ!」
「あ、はい!」
ハッとする。確かに、泣いている場合ではない。誰が、その役目を担うのだ?
マルマは向けられた期待に応えるべく涙を拭うと、沈み込んだ心を引き上げて、瞳の光をなんとか戻して、改めて強い決意を灯すのだった――
ゆりかごのように厚手の毛布に包まれて、麻紐によって吊り下げられた小さな身体は、慌ただしく寝室へと運ばれた。
上司の指示を受けた女中がお盆の上に食塩、ハチミツを入れたそれぞれの器と水差しを持って入室すると、椅子に座ったアンジェはお盆ごと受け取って膝に置き、先ずは木製のスプーンに水を注ぐと、ゆっくりとリアの口元へと近付けた。
「……」
反応が無い。
「マルマ、ナイフで服を裂いて。水をもっと、あとは扇と、水袋、布を」
「はい」
『は、はい!』
指示を受け、多くの女中が階下へと向かうと、マルマはナイフを手にしてリアの薄い衣服を胸元から引き裂いた。白い筈の柔肌には赤みが差し、小さく膨らむ胸の呼吸が、少し早くなっている気がした。
「熱い…」
マルマが呟くと、アンジェが水差しに入った水を、零れ落ちない程度に胸へと注いだ。
「先ずは、身体を冷やすよ」
いま現在、寝室に残っているのはマルマとアンジェの二人だけ。
アンジェは続けて、悲痛な想いをマルマに伝えた。
「この子は…この方は…こんなところで、絶対に死なせちゃいけない!」
「はい!」
尊敬する上司の発言に、ふたたび涙を浮かべたマルマは、リアの胸元に手のひらを当てると、アンジェの指示する通りに、掛けられた命の水を、薄く、身体を撫でるようにして、やさしく伸ばしてやるのだった――
やがて木桶に入った水が届けられると、アンジェの指示を受けたマルマが麻布を水に浸して絞ってから、リアの濡れた身体を丹念に拭き取りはじめた。
アンジェは水で膨らんだ水袋を脇の下、首の後ろ、手首、足首や膝の後ろといった皮膚の薄い部分にあてがうと、二人の女中に指示を渡して、足元と側面から、扇で風を起こさせた。
「熱が、引いてくれれば…」
重い空気の中、アンジェが呟いた。
水を絞って額にあてた麻布は、すぐに温かなものへと変わってしまう。マルマはそれを頻繁に交換し、更には水袋も新しいものへと、順次交換していった――
「リア!」
突然に、ロイズの声が居住区の方から轟いた。少しでも風通しを良くする為に、全ての扉は開放しているのだ。
「マルマ、任すわ」
それを受けたアンジェがサッと立ち上がりながらマルマに一つを伝えると、二本の足を居住区の方へと進めた。
「ロイズ様」
努めて冷静な声を掛け、アンジェがロイズの歩みを遮った。
「リアの様子は!?」
「今は、安静に願います…」
寝室へと続く扉を塞ぐ形で足を止めたアンジェが、小さく頭を下げて、願い出た。
「…そんなに、悪いのか?」
「……」
ロイズの呟きが、アンジェの耳元を通り過ぎてマルマに届く。
目の前には、呼吸を僅かに戻したとはいえ、弱り切った小さな裸体が横たわっていた――
「大丈夫です」
続いたアンジェの声色に、沈んでいたマルマの瞳が見開いた。
「絶対に、助けます」
上司の声は、自信に満ちていた――
その場を取り繕うような口調ではなく、純然な、確固たる意志が表現されていた――
「姿を…見ても?」
「…はい」
静かに放ったロイズの問いかけに、落ち着きを認めたアンジェが同意した。
元より、国王を止めるような権限は無い。
それでもこの場においては、将軍グレンを妻として支え、トゥーラの女性陣から頼りにされている、アンジェの人生経験の豊富さが、ロイズの弱った感情を凌駕していた――
「……」
寝室に一歩を踏み入れたロイズが、ゆっくりと足を進める――
視界の先には水の入った木桶が二つ並び、その向こうでは、マルマが丸椅子に座って不安そうにこちらを眺めていた。
ベッドの奥と右側では、扇を持った二人の女中が、今は静かに頭を下げている――
「……」
右下、リアの姿を認めると、ロイズの歩みが止まった。
普段なら、陽が落ちて夜空の星明かりが小さな柔肌を照らしたなら、薄暗い石壁に透き通るような白が浮かび上がって、儚げな姿に愛おしさを感じて、腕をそっと伸ばすのだ。
やがて両腕の中に、柔らかな身体が包まれる――
しかし今現在は、薄暗い中でも分かるほどの火照った肌が、小さな身体の異常を訴えていた――
「…容態は?」
出来る事は、恐らく無い――
理解を飲み込んだ上で、ロイズが虚ろになって尋ねた。
「…はい。今はご覧の通り、熱を除くことに努めております。夜になって、だいぶ落ち着いてきました」
「そうか…」
「はい。後は、水分を摂れるようになれば…」
マルマの発言に、改めてリアを見やる。
赤く火照った両の頬。その先には、普段は魅惑的な紅い唇が、暗く色を落として艶を無くし、細くなった息遣いを動くことなく傍観していた――
「よろしく頼む」
一言だけを残して、ロイズは背中を向けた。無力感や寂寥感といったものを抱えながらも、己の役割というものに向き合う事で、それらを埋めようというのか…
「はい」
気丈に振る舞っているのだ――
無念を浮かべる背中に向かってマルマは短い一声を発すると、椅子に座ったままではあったが、深く、静かな一礼を捧げるのだった――
「後は、お願いします」
ロイズは寝室を出たところで黙したまま屹立していたアンジェに短い言葉で後を託すと、小さく頭を下げた。
「はい」
アンジェの意志を背中で受け取ったロイズは、振り向くことなく重い足取りで居住区を抜けると、階下へと続く暗闇の螺旋階段を一歩、また一歩と足を落としていくのだった――
「……」
ロイズの足が、歩みを止めた。
階下と居住区からこぼれる僅かな光は、蛍の発光現象ほどに微々たるもので、とても何かを視認できる程ではない。
ロイズは右手を石壁に添えると、昼過ぎに寝室へと戻ってきた時の事を思い起こした。
あの時でさえ、とても起き上がれる状態には見えなかった。それなのに……
「……」
いや、動けないと思っていた筈なのに、屋上の旗の色が変わっているのを見るや、彼女が戦線に戻ってきたのだと安堵した。
更には戻るだろうと想定をして、いや、むしろ期待して、水筒と帽子を屋上へと運んだ――
それが、誤りだったとは思わない。
長年一緒に過ごしてきたこそ分かる。目を覚ましたら、どうしたって同じ行動を取ったに違いない。
「……」
しかしながら、結果として、小さな身体は生死の境を彷徨っている――
であれば、ベッドに縛り付けてでも拘束すれば良かったのだろうか?
いや、絶対に怒り狂ったに違いない。
そもそも、勝敗がどう転ぶのか、分からなかったのだ。彼女の能力は、絶対に必要であった――
「……」
起きてしまったことを悔やむより、今できる最善を尽くす以外にない。
表に立たねばならない国王という立場なら、絶対に前を向かなければならない。
彼女に意識があったなら、当然促す事であろう。
「……」
ふと、愛しき女性が眠る階上を見上げると、ロイズは想った――
倒れたのが自分なら、彼女はベッドに縋り付き、泣いてくれたのだろうか――
「……」
そうだな…
恐らくは、ラッセルに指示だけを送って、看病してくれたに違いない。
「……」
心が折れそうだ…
そうでも思わなければ、前へと進めない…
そんな架空の拠り所くらいしか、彼の心を支える存在は無かったのだ――
自惚れつつも正解を導き出した国王は、沈んだ顔の表皮に少しだけ口角を上げると、王妃の代理を務めるべく、ふたたび螺旋階段を静かに降りてゆくのだった――
トゥーラ城。3階に設けられた国王居住区。
寝室へと続く扉を開けた途端に黒煙がやってきて、背後へと抜けてゆく。
石壁に囲まれた寝室にリアの名前を叫びながら足を踏み入れたマルマは、視界の戻った目の前の光景に、思わず声を無くした。
ベッドの上。
横になっている筈の、小さな王妃の姿が無い――
勝利に沸き上がる、トゥーラの市民の発する歓声が、開放された南の窓からやってくる。
それでも頭が真っ白になったマルマの鼓膜に、それらが届く事は一切なかった。
「くっ…」
マルマのまるっこい顔が青くなる。王妃の行き先が、一つだけ浮かんだ――
しかしながら、戦いは終わったのだ。
姿が見えない状況に、悪い予感だけが脳裏を襲った――
「あっ」
踵を返し、居住区に足を踏み入れたところで、限界に近い両脚がもつれて、身体が浮いた。
前のめりに倒れ込む。それでも両腕に力を入れて身体を起こし、膝を立て、よろめきながらも立ち上がって、足の痛みを抱えながら、前へと進んだ…
(ご無事で…)
それだけを願いながら、屋上へと繋がる梯子に右手を掛けた。
腕には力が宿る。丸く浮かぶ先、夕陽の紅を拭ったように照らし出す空は、夜を迎える準備をしていた――
一度だけ視界に入れて、一つ、もう一つと、激しく痛む脚を交互に上げて、垂直に掛けられた梯子を登ってゆく…
やがて、屋上に手が触れる。より、力が入る。
新鮮な空気を額に感じると、目線が黒に変わりゆく茜色の空を捉えた――
「……」
見えているのは、南の空だ。
疲れの中で視線を落とすと、敷かれた藁の上に、ぽつんと水色の大きな帽子が浮かんでいた。
帽子から伸びるのは、背中を見せて横たわる、細身の身体――
「リア様!」
思わず瞳を見開いたマルマが、叫びながら彼女の元へと駆け寄った。
驚くほどに軽くなった両肩を掴んで、藁に沈んだ身体を引き起こすと、帽子の外れた頭部が力なく、だらりと垂れた。
そのまま腰を落としたマルマは股の間に彼女の背中を預けると、胸の膨らみで小さな頭を支えた――
「……」
一息つく間もなく、赤みの入った髪に隠された細い首が、カクッと折れた。
だらりと腕も下がったままだ。
マルマは咄嗟に肩を支えて藁の上にリアの身体を横たえると、哭きそうな表情になりながら、彼女の呼吸を確かめた――
(神様!)
願いながら、頬を寄せる。微かに、息がある…
「誰か!!」
扉のある居住区とは違って、屋上から地階は遮るものが無い。
螺旋階段の石壁を伝って、声は階下へと届く筈――
「アンジェさん! 誰か来て!」
哭きながら、梯子の下を覗き込む。
堕ちる涙の粒を、必死の叫び声が追い越していった――
「リアさまぁ…」
もう、耐えられない…
意識の無い、生気を失った状態で横たわるリアの傍らで、ガクッと膝を落としたマルマは両腕をだらりと下げて瞼を閉じると、暗くなった空を見上げるようにして涙を零すのだった――
マルマの声に気付いた女中が螺旋階段を駆け上がり、事態を認めると、振り向いてアンジェの名前を叫んだ。
大広間で戦勝報告に笑顔を浮かべていたアンジェだったが、危急の知らせに血の気が引くと、脱兎のごとく走り出した。
「みんな来て!」
同時に叫ぶ。アンジェに続いて、何事かと女中達が後に続いた――
「リア様!」
屋上へと顔を出し、仰向けになっている小さな身体を認めると、アンジェが必死の形相で駆け寄った。
口元へと頬を寄せて息を確かめて、次に胸元へと耳を当て、鼓動を確かめる…
「マルマ、しっかりしなさい!」
アンジェの姿がやってきて、気持ちが緩んだ彼女を見透かすように、叱咤が飛んだ。
「は、はい!」
「下に降ろします。ロープと、担架を!」
アンジェに続いた女中が屋上に顔を出した状態で指示を受け、階下に向かって復唱すると、声の伝達が続いた。
「マルマ、泣くのは後! 看病は、任せるわよ!」
「あ、はい!」
ハッとする。確かに、泣いている場合ではない。誰が、その役目を担うのだ?
マルマは向けられた期待に応えるべく涙を拭うと、沈み込んだ心を引き上げて、瞳の光をなんとか戻して、改めて強い決意を灯すのだった――
ゆりかごのように厚手の毛布に包まれて、麻紐によって吊り下げられた小さな身体は、慌ただしく寝室へと運ばれた。
上司の指示を受けた女中がお盆の上に食塩、ハチミツを入れたそれぞれの器と水差しを持って入室すると、椅子に座ったアンジェはお盆ごと受け取って膝に置き、先ずは木製のスプーンに水を注ぐと、ゆっくりとリアの口元へと近付けた。
「……」
反応が無い。
「マルマ、ナイフで服を裂いて。水をもっと、あとは扇と、水袋、布を」
「はい」
『は、はい!』
指示を受け、多くの女中が階下へと向かうと、マルマはナイフを手にしてリアの薄い衣服を胸元から引き裂いた。白い筈の柔肌には赤みが差し、小さく膨らむ胸の呼吸が、少し早くなっている気がした。
「熱い…」
マルマが呟くと、アンジェが水差しに入った水を、零れ落ちない程度に胸へと注いだ。
「先ずは、身体を冷やすよ」
いま現在、寝室に残っているのはマルマとアンジェの二人だけ。
アンジェは続けて、悲痛な想いをマルマに伝えた。
「この子は…この方は…こんなところで、絶対に死なせちゃいけない!」
「はい!」
尊敬する上司の発言に、ふたたび涙を浮かべたマルマは、リアの胸元に手のひらを当てると、アンジェの指示する通りに、掛けられた命の水を、薄く、身体を撫でるようにして、やさしく伸ばしてやるのだった――
やがて木桶に入った水が届けられると、アンジェの指示を受けたマルマが麻布を水に浸して絞ってから、リアの濡れた身体を丹念に拭き取りはじめた。
アンジェは水で膨らんだ水袋を脇の下、首の後ろ、手首、足首や膝の後ろといった皮膚の薄い部分にあてがうと、二人の女中に指示を渡して、足元と側面から、扇で風を起こさせた。
「熱が、引いてくれれば…」
重い空気の中、アンジェが呟いた。
水を絞って額にあてた麻布は、すぐに温かなものへと変わってしまう。マルマはそれを頻繁に交換し、更には水袋も新しいものへと、順次交換していった――
「リア!」
突然に、ロイズの声が居住区の方から轟いた。少しでも風通しを良くする為に、全ての扉は開放しているのだ。
「マルマ、任すわ」
それを受けたアンジェがサッと立ち上がりながらマルマに一つを伝えると、二本の足を居住区の方へと進めた。
「ロイズ様」
努めて冷静な声を掛け、アンジェがロイズの歩みを遮った。
「リアの様子は!?」
「今は、安静に願います…」
寝室へと続く扉を塞ぐ形で足を止めたアンジェが、小さく頭を下げて、願い出た。
「…そんなに、悪いのか?」
「……」
ロイズの呟きが、アンジェの耳元を通り過ぎてマルマに届く。
目の前には、呼吸を僅かに戻したとはいえ、弱り切った小さな裸体が横たわっていた――
「大丈夫です」
続いたアンジェの声色に、沈んでいたマルマの瞳が見開いた。
「絶対に、助けます」
上司の声は、自信に満ちていた――
その場を取り繕うような口調ではなく、純然な、確固たる意志が表現されていた――
「姿を…見ても?」
「…はい」
静かに放ったロイズの問いかけに、落ち着きを認めたアンジェが同意した。
元より、国王を止めるような権限は無い。
それでもこの場においては、将軍グレンを妻として支え、トゥーラの女性陣から頼りにされている、アンジェの人生経験の豊富さが、ロイズの弱った感情を凌駕していた――
「……」
寝室に一歩を踏み入れたロイズが、ゆっくりと足を進める――
視界の先には水の入った木桶が二つ並び、その向こうでは、マルマが丸椅子に座って不安そうにこちらを眺めていた。
ベッドの奥と右側では、扇を持った二人の女中が、今は静かに頭を下げている――
「……」
右下、リアの姿を認めると、ロイズの歩みが止まった。
普段なら、陽が落ちて夜空の星明かりが小さな柔肌を照らしたなら、薄暗い石壁に透き通るような白が浮かび上がって、儚げな姿に愛おしさを感じて、腕をそっと伸ばすのだ。
やがて両腕の中に、柔らかな身体が包まれる――
しかし今現在は、薄暗い中でも分かるほどの火照った肌が、小さな身体の異常を訴えていた――
「…容態は?」
出来る事は、恐らく無い――
理解を飲み込んだ上で、ロイズが虚ろになって尋ねた。
「…はい。今はご覧の通り、熱を除くことに努めております。夜になって、だいぶ落ち着いてきました」
「そうか…」
「はい。後は、水分を摂れるようになれば…」
マルマの発言に、改めてリアを見やる。
赤く火照った両の頬。その先には、普段は魅惑的な紅い唇が、暗く色を落として艶を無くし、細くなった息遣いを動くことなく傍観していた――
「よろしく頼む」
一言だけを残して、ロイズは背中を向けた。無力感や寂寥感といったものを抱えながらも、己の役割というものに向き合う事で、それらを埋めようというのか…
「はい」
気丈に振る舞っているのだ――
無念を浮かべる背中に向かってマルマは短い一声を発すると、椅子に座ったままではあったが、深く、静かな一礼を捧げるのだった――
「後は、お願いします」
ロイズは寝室を出たところで黙したまま屹立していたアンジェに短い言葉で後を託すと、小さく頭を下げた。
「はい」
アンジェの意志を背中で受け取ったロイズは、振り向くことなく重い足取りで居住区を抜けると、階下へと続く暗闇の螺旋階段を一歩、また一歩と足を落としていくのだった――
「……」
ロイズの足が、歩みを止めた。
階下と居住区からこぼれる僅かな光は、蛍の発光現象ほどに微々たるもので、とても何かを視認できる程ではない。
ロイズは右手を石壁に添えると、昼過ぎに寝室へと戻ってきた時の事を思い起こした。
あの時でさえ、とても起き上がれる状態には見えなかった。それなのに……
「……」
いや、動けないと思っていた筈なのに、屋上の旗の色が変わっているのを見るや、彼女が戦線に戻ってきたのだと安堵した。
更には戻るだろうと想定をして、いや、むしろ期待して、水筒と帽子を屋上へと運んだ――
それが、誤りだったとは思わない。
長年一緒に過ごしてきたこそ分かる。目を覚ましたら、どうしたって同じ行動を取ったに違いない。
「……」
しかしながら、結果として、小さな身体は生死の境を彷徨っている――
であれば、ベッドに縛り付けてでも拘束すれば良かったのだろうか?
いや、絶対に怒り狂ったに違いない。
そもそも、勝敗がどう転ぶのか、分からなかったのだ。彼女の能力は、絶対に必要であった――
「……」
起きてしまったことを悔やむより、今できる最善を尽くす以外にない。
表に立たねばならない国王という立場なら、絶対に前を向かなければならない。
彼女に意識があったなら、当然促す事であろう。
「……」
ふと、愛しき女性が眠る階上を見上げると、ロイズは想った――
倒れたのが自分なら、彼女はベッドに縋り付き、泣いてくれたのだろうか――
「……」
そうだな…
恐らくは、ラッセルに指示だけを送って、看病してくれたに違いない。
「……」
心が折れそうだ…
そうでも思わなければ、前へと進めない…
そんな架空の拠り所くらいしか、彼の心を支える存在は無かったのだ――
自惚れつつも正解を導き出した国王は、沈んだ顔の表皮に少しだけ口角を上げると、王妃の代理を務めるべく、ふたたび螺旋階段を静かに降りてゆくのだった――
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