小さな国だった物語～

【60.称賛】

スモレンスクの撤退――

北の城壁で始まった歓喜の波は、西側を経て、やがてトゥーラの城内、最後に南側へと達していた――


「終わったか…」

南側の都市城門の内側で、トゥーラの総大将グレンが静かに呟いた。

同時に城門の外側から漂っていた侵略者の気配、或いは圧といったものが、スッと消えたのを感じ取る。

「撃ち方、止め。弓兵は、引き続き警戒を怠るな！」

それでも他の三方向とは違って、目の前にはトゥーラの四方を囲っている都市城壁に一つだけ備わる城門がある。
湧き上がる歓びの中であっても、士気が緩むことを恐れたグレンは、冷静さを促した。

「見張り台から、確認を」

続いた指示に、数名の近衛兵が地面に倒れた梯子を再び掛け直すと、敵の投石器によって飛ばされた岩石がゴロゴロと転がった状態の、南西の見張り台へと登りはじめた。

「……」

グレンが見上げる先で、一人の兵士が見張り台の上部に指を掛け、腰を上げ、足を乗せる。
西から聞こえていた喧噪はすっかり消えて、戦いの終焉は、どうしたって感じるところだ。

「グレン将軍！　敵が、退いていきます！」

その声に、保っていた緊張の空気が一気に緩む。

「城門前は！」
「誰も、おりません！」
「よ…よし！　城門を開けよ！」

さしものグレンも興奮を抑えきれず、四角い顔の表皮を思わず緩めながら指示を発すると、手にした武器を足元に落とした兵士達が、わっと城門へと群がった。
やがて城門手前に打ち込まれていた６本の図太い杭が抜かれると、次には城門の閂かんぬきが外された。

ギギギッと音が鳴る。
都市城壁に囲まれたトゥーラの街に新鮮な空気を取り込むように、ゆっくりと内側に向かって重い城門が開かれた。

「うっ…」

だが、やってきたのは新鮮な空気とは真逆の悪臭…いや、異臭であった。
落とし穴の底には乾いた排泄物が敷いてあり、炭とは行かぬまでも、炎が消えにくい工夫が施してあった。そこに、油と…

城壁によって阻まれていた悪臭が、逃げ場を見つけてなだれ込む。
上がっていた炎は殆ど認められなかったが、燻っている熱は落とし穴の底に確かに存在し、残された細胞を尚、余熱によって溶かそうとしていた――

「じょうもんを閉めよ！」

漂った異臭には慣れた筈の鼻腔が、更なる強大な異臭で上書きされる。
堪らず顔を背けたグレンは鼻をつまみながら、聞き取りにくい指令を叫ぶしかなかった――



「負けた…」

市中の一角で、薄い板にボロボロの麻布を被せただけの簡易な寝床で横たわる男が、小さく口を開いた。

「……」
「喜ばないのか？」

幾つもの痣と赤い裂傷を顔面に浮かべた男は、自身の左側、３メートル程で凛とした立ち姿を覗かせる、ふわっと短い紅茶色の髪を備えた女性に向かって尋ねた。

「勝っても、祖父は戻りません」

女性の名はカデイナ。
トゥーラに侵入を果たしたスモレンスクの副将ブランヒルの配下、ダイルを襲った老兵の娘で、横たわる男は、ダイル本人である。

カデイナの祖父は、市中で待ち伏せを図り、通り掛かったダイルを槍で一突きしたところを、後続のスモレンスクの副将、ベインズによって斬り殺された。
カデイナにとってダイルは祖父の直接の仇では無かったが、奥底に沸き立つ感情は、同様である。

「そうだな…」
「……」
「だが、俺もこうしている…」

左下からの発言に、目線を上にして虚しそうに歓喜の声を眺めていたカデイナが、サッと視線を下ろした。

「あなたは、生きているでしょう！」

激高して、訴える。

「動けるようになって、立ち上がって、国へ帰るんでしょ！」
「……」

カデイナの二つの握り拳が、腰の辺りで怒りに震えた――

「なんで…そんな事が言えるの…」

続いて乾いた大地に膝を落とすと、両手で顔を覆った――

「俺が、生かされた…それだけのことだ…」
「くっ！」

神の御心のままに――
平然とした表情で、ダイルが達観の心を吐き出した。

「殺してやる！」
「何してるの！」

叫声に気付いた近所の女性が何事かと飛び出すと、カデイナは路地の隅に転がっていた祖父の槍形見を手に取って、涙を溢し、怒り叫びながらダイルを睨み付けていた。

「カデイナ！　やめなさい！」

襲い掛かろうとするカデイナの腰に向かって、駆け寄った中年女性が必死に巻き付いた。

「叔母さん！　離して！」
「国王様が言ったこと、忘れたの！？」
「……」

真剣な叔母の訴えに、冷静な心が幾らか灌そそいで、カデイナは抵抗を諦めた――

乾いた大地の上で、カランと祖父の形見が転がった――

「うっ…うう…」

続いてやりきれない想いに膝を崩して、またもや彼女は両手で顔を覆った――

「俺は、どうすれば良かったんだ？」

悲しみに暮れる彼女の姿を眺めて、横たわったままのダイルが、途方に暮れたように呟いた――

「そんなの……来なきゃよかったんですよ…」

膝を落として顔を覆ったままのカデイナは、咽び泣く胸中から、一つの答えを絞り出すのだった――



その頃、トゥーラの東側では、トゥーラの同盟国、リャザンの重臣ワルフの指令を受けた総勢３０名からなる騎馬隊が、手にした松明から白い煙を生じさせながら、ひたすら西へと馬を駆っていた――


「ワルフ様！　トゥーラから、スモレンスク侵攻の知らせが届きました！」
「来たか！」

三日前。リャザン城の城内。
幅の広い石畳の廊下で、背後から息を切らしてやってきた衛兵からの報告に、ワルフが厳しい顔になって叫んだ。

「騎馬隊に連絡を！　手筈通り、急いで救援に向かえと伝えろ！」
「は！」

スモレンスクがトゥーラに対して侵攻を図るのは、当然ながら想定済だ。
不明だったのは、時期だけである。

ワルフの心づもりでは、当初から知らせを受けた際には騎馬隊が真っ先に動き、スモレンスクの牽制を図るという図式になっていた。

それ故に、トゥーラの王妃が送った二回目の早馬がリャザンに着いた頃には、既に援軍の騎馬隊は出発していたのだ――


尤も、リアの要請を目にしても、ワルフが騎馬隊の派遣を取り止めることは絶対に無かった。

国王付きのラッセルに、騎馬隊の援軍参加を拒む理由を問われた王妃は、同盟国の損害を理由に挙げた――

しかしながらワルフにしてみれば、そんなものは考えるに値しない些細なもので、何よりもトゥーラの大地、リアの命に関わる事態が起こっている事にこそ、我慢ができなかったのだ。
それほどに、次の戦いは厳しいものになると、彼自身が危機感を持っていた――

後に検証がなされた時、この判断はワルフの方が正しく、リアの誤りであったと断定されることになる――



「火の手が上がっているぞ！」
「急げ！」

空へと昇る黒煙に気付いたリャザンの騎馬隊が、トゥーラに向かって先を急いだ。
それぞれが握った白煙の上がる松明は、多勢に見せる為の工夫である。

「なんだ？　この臭い…」

やがて前方からの風に乗って異臭が届くと、松明を手にしたままで鼻を塞いだ馬上の兵士が、思わず呟いた。

「う…」

やがて林を抜けると、トゥーラの都市城壁、東側が視界に入った。
石積みの都市城壁には数本の梯子が掛けられて、侵略者の侵入を許したかのように思える。
手前には防御柵がぽつぽつと残されて、その配置から、トゥーラを囲うように設置されていた事が見て取れた。

「……」

呼吸を整えて、改めて左右を確認する。

北側には大きな変化は見られないが、南側には投石器と荷車に積まれた砲弾が認められ、その向こうから異臭を放つ灰色の混じった白煙が、低く広い範囲で湧き出して、この戦いの凄惨さを物語るように濃厚なる霞を生み出し続けていた――

「これは…落ちたのか？」
「いや…それにしては、スモレンスクの奴らの姿が見えん」

血の気を無くした呟きに、馬上で並び立ったもう一人の兵士が冷静になって答えた。
落城してスモレンスク兵が雪崩れ込んだにしては、気配が薄い。

「おい」

何かを右手に認めた兵士が、馬上から北東の見張り台を指差すと、積みあがった岩石の隙間から這い出るようにして頭が現れて、やがて全身が視界に入った。

「トゥーラの者か！？」

周囲を警戒しつつ、壕の手前まで馬を進めると、隊を率いる騎馬兵が、見張り台に向かって強い口調で確認をした。

「あ…リャザンからの援軍ですか？」
「そうだ！」
「ありがとうございます。おかげで、スモレンスクの奴等は、退いていきました！」
「おお…」

見上げる先からの報告に、騎馬集団の表情が明るいものとなっていく。

「急ぎ、報告を！」
「はっ」

二つの騎兵が馬を返すと、東側、リャザンの方へと駆け出した――

「トゥーラの方々の奮戦、称賛致します。我々は周囲の監視を行いたいと思いますが、許可を頂けますか？」
「ありがとうございます。どうぞ、そのようにお伝えします」
「ありがとう。では」

快い返答に、リャザンの騎馬隊長は馬を返し、南側へと視察に向かった――



「グレヴィ様、正面を」

トゥーラへと向かう、リャザンからの援軍本隊。
先頭で馬を進めるグレヴィ王子の右側から、併走する騎馬の近衛兵が正面に腕を掲げて声を発した。

「止まれ！」

続いて王子の左側で膨らんだ体躯を馬に乗せた重臣のワルフが、左手を頭上に掲げて隊列に停止を叫んだ。

「報告します。トゥーラは、スモレンスクに勝利！　スモレンスクの軍勢は、撤退しております！」

やってきた伝令兵の力強い報告に、ワルフは思わず瞳を見開いた。

「おお…」

背後から、感嘆の声が上がっていくと同時に、安堵の波が広がった。

「グレヴィ様…」
「なんだ？」

努めて冷静になったワルフの声が、紅潮したグレヴィ王子に向けられる。

「もう十分です。我々は、退くとしましょう」
「……そうだな」

落ち着き払った一声を耳にして、緊張を解いたグレヴィが、一息をついて同意した。

「騎馬隊は引き続き、トゥーラ周辺の監視と状況報告を。我々はこの場で野営して、明日には引き返す。トゥーラの方々にも、そうお伝えしろ」
「は！」

ワルフからの指令を受け取ると、伝令兵は再び西へと向かって馬を走らせた――


「アレッタ…やったな…やりやがったな…」

誇らしくも、悔しい。
ワルフは、思わず小さく呟いた――

しかしながら、その代償を、彼が知ることは無い。

林の向こう、沈む夕陽に向かって並走する騎馬の姿を眺めながら、ワルフは晴れやかな表情で、トゥーラの勝利を心から称えるのだった――