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【54.勝利の条件】
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「なんだ、これは…」
トゥーラの南側。
スモレンスク軍が本陣を構える、緑の茂る林の際。
総大将ギュースは、目の前で起こっている目を覆うばかりの惨状に、小さく口を開き、100キロを超える大きな体躯から伸びる丸太のような二本の腕をだらりと下げて、呆然となって立ち尽くしていた――
小一時間前、残っていた兵力の殆どを割いて、南の都市城門を正面から落とすべく、バイリー将軍率いる主力の部隊が満を持して突撃を行った。
それが今や、炎と煙の充満する真っ只中にいる――
巨大な落とし穴。その薄暗い四辺の底で黒煙に視界を塞がれては、身動きの取りようがない。
加えて投石器からの油壺と砲弾、更には炎を纏った矢羽の雨が、断続的に降り注いでいるのが見て取れた。
最初に火の手が上がった時に聞こえてきた断末魔の悲鳴は、次第にか細いものとなり、今や殆ど聞こえなくなっている――
「どういたしますか…」
退却を指示するまでもなく、逃げられる兵の殆どは、既に自力で脱出を図っている。
「く…」
次なる指示を求める部下の声も弱々しい。
それでもギュースは、諦める訳にはいかなかった。
「ブランヒル達が城内に居る…城門が開けば…勝機はある」
開戦から常に眺めていた都市城壁に浮かぶトゥーラ城は、既に濛々と上がる黒煙の向こう側にその姿を消していた――
しかし、確かに存在する都市城壁の向こう側では、ブランヒル率いる遊撃隊が、更には東側と西側から侵入を果たした兵士達が、南の都市城門を内から開けようと奮闘しているに違いない。
彼らの働きに対して、これまで温存していた残りの部隊が、応じない訳にはいかないのだ。
「西側から攻める。隊の編成を!」
「はい」
南西から北東へ、風は穏やかながら一方向に変わることなく吹いていて、視界を奪う黒煙は東からの攻撃を難しくしている。
ギュースは残った二つの方面から、やむなく自身に近い西側からの攻撃を命じた――
「敵は、恐らく西からの攻撃を厚くしてくる。お前たちは、西へ向かえ」
「はい」
当然ながら、トゥーラの大将軍グレンは読んでいた。
南で配置に就く一隊を西へと回し、少ない兵力ながらも、その力を最大限に引き出そうとしていたのだ――
その頃、ギュースが一縷の望みを託していた、トゥーラの市中へと侵入を果たしたスモレンスクの副将ブランヒルは、目標としていた南の都市城門を前にして、トゥーラの若き美将軍ライエルによって進路を塞がれていた。
「ロイズ様、お逃げ下さい!」
しかしながら、撤退を決めたところへ、相手の棟梁がのこのこと姿を現したのだ。
降って湧いたようなチャンスを逃すまいと、ブランヒルはロイズに向かって猛然と駆け出した。
「わわっ」
殺気立った、見るからに屈強な兵士が向かってくる。
ロイズは咄嗟に足を止め、踵を返してブランヒルに背中を向けた。
「頼んだよっ」
「お任せください!」
棟梁を守ろうと、重装備を施した6名の近衛兵は、向かってくるブランヒルを迎え撃つべく両足を固め、二列に三名ずつの布陣で槍を中段に構えた。
「うおおっ!」
敵の目線を逸らす為、間合いを測ってブランヒルが跳び上がる。
そして槍の穂先に触れるか否かという、絶妙な位置に姿勢を低くして着地をすると、そのまま勢いを殺すことなく右前方、兵士と住居との隙間を目掛けて肩から飛び込んだ。
「うおっ」
「なに!」
彼の動きはトゥーラの兵士の頭にあったものの、想像以上の速さだった。
ブランヒルは最初から、槍の穂先を交えるつもりは全くなかったのだ。
勢い余って住居の壁に自らの身体を激突させると、その衝撃を伝えるドンという大きな重低音が響いた。
咄嗟にトゥーラの兵士が槍で追うも、間に合わない。
かくしてスモレンスクの特攻隊長は、単騎でトゥーラの国王、ロイズの背中を追う機会を得る事となった――
「ロイズ様!」
抜かれた近衛兵たちが、慌ててブランヒルの背中を追い掛けた。
近衛兵の背後からは、ブランヒルに遅れて駆け出した、童顔のカプスと長身のベインズを含むスモレンスクの8名が、数秒遅れで続いていた。
「くそっ。意外と速い…」
標的との距離はおよそ20メートル。縮まらない背中にブランヒルの心は焦りを浮かべた。
ロイズもまた、足の速さには自信があったのだ。おてんば娘と一緒に野山を駆け回っていた子供の頃に培った脚力は、伊達ではない。
そんなトゥーラの国王が、目先の十字路を右へと入った――
(城へ、逃げ込むつもりか?)
その前に追い付き、仕留める。いや、城だろうと、追いかける。
執念とも呼ぶべき決意を胸にして、十字路を鋭角に曲がる為にブランヒルは左足で踏ん張って、右へと跳ねた。
「なっ!」
その刹那、木製の連なりが待ち構えているのが目に入った。
しかしながら、跳ね跳んだ勢いを止める術はもはや無かった――
同時に視界の脇から数本の槍が伸びてきて、膝を柵によって刈られたブランヒルは、並ぶ穂先の下へと勢いよく頭から突っ込んだ――
(やられた…)
乾いた土煙がのぼる中、自らが薙ぎ倒した罠たちとブランヒルは同化した。
共に侵入を果たした仲間の一人、ダイルが住民に襲われて傷を負い、その確認をしようと背後を見やった時、10人ほどの人影が映った。
それが今しがた、挟撃の為に現れた兵数は6人で、つまりは誘われたのだ――
悟ったブランヒルは、届かなかった喪失感に奥歯を噛み締めると、無念の拳を大地の上で強く握った――
「やりましたか!?」
「よし!」
続いてブランヒルをわざと抜かせたトゥーラの6名が姿を現した。
首尾よく敵兵を捕らえているのを確認すると、サッと左右にそれぞれ3名が住居の影に身を潜めるようにして、後から続く侵略者の一団を待ち構えた。
「ブランヒルさん!」
居住区の十字路。スモレンスクの一団が異変に気付いて足を止めると、ブランヒルの弟分、カプスが童顔に焦りを浮かべて思わず声を発した。
「俺に構うな! 行け!」
捕らわれた自分に、もはや価値は無い。
ブランヒルは腹部を地面に預けるという無念な姿を晒しつつも、隊長としての意志だけは明確に伝えた。
「…わかりました」
ここで争っても、勝ち目は無い。
他の仲間が躊躇する中、カプスは真っ先に兄貴分の心を受け取ると、北の城壁を目指して駆け出した。
「お、おい!」
「いいから行け!」
長身のベインズが、カプスの判断に思わず声を発すると、耳にしたブランヒルが再び鋭い声を張り上げた。
「くっ」
選択肢は無い。ベインズもまた、カプスに続いて駆け出した――
「行ったか。薄情な奴らだ…」
「いえ、賢明な判断だと思いますよ」
乾いた地面から頬に伝わる、遠ざかってゆく足音を認めてブランヒルが呟くと、彼に近付いた棟梁が、立ったまま、労うような声を渡した。
「お前が、親玉か?」
近衛兵によって、両腕を背中で縛り上げられたブランヒルが、近付いてきた鎧姿の、端正な顔つきをした若い男を鋭い目つきで見やると、吐き捨てるように尋ねた。
「親玉は、他に居るんですけどね…」
首の後ろに右手を添え、苦笑いを浮かべながら答えると、ロイズは左後方に見える四角い箱を重ねたような簡易な造りのトゥーラ城を見上げた――
その時、南から昇っている黒い煙を視界に入れたが、ロイズの位置からでは居住区の辺りを覆っている訳でもなく、何を思うでもなかった――
「お前らの、勝ちだ」
両腕を後ろに縛られた状態で身体を起こされて、臀部を地面に付けたブランヒルが、観念したように口を開いた。
「そう言われましてもね。貴方たちにとっては敗北でも、私たちの勝利とは…簡単に言えませんよ?」
称えるような発言に、ロイズが意味深な言葉を返した。
「どういう事だ?」
「そうですね…事後処理次第って事です」
「…なるほどな」
些末な争いを制しても、大局を変えなければ成果とはならない。
小さな国家、トゥーラの立場を思いやったブランヒルは、ふっと鼻を鳴らすと、続けてロイズに尋ねた。
「それで、どうするつもりだ?」
「うーん…」
敵将からの追加の問い掛けに対して、ロイズは答えようがないといった感じで首を傾けた。
「親玉次第ですね」
続いて彼は両腕を広げると、手のひらをブランヒルに向けながら、呆れたような表情でうそぶいてみせるのだった――
捕えられたブランヒルを残して駆け出した一団は、退路を確保しつつ味方の反撃を待つという、隊長が描いた案を実行すべく、ひたすらに北の城壁を目指して走った――
「……」
表情は、一様に暗かった。
無理もない。途中でダイルを失ったばかりか、隊長であるブランヒルまでもが戦列を離れたのだ。
「どうする?」
最後尾を走る長身のベインズが、無念を抱いて先頭を走る同僚、カプスの短い黒髪に向かって尋ねた。
「…先ずは、進入路の確保だ」
退路と口にしないのが、せめてもの意地だろうか。
背中からの問いかけに、ブランヒルを一回り小さくしたようなカプスは後方を確認するために少しだけ視線を預けると、自身にも言い聞かせるように短く答えて、再び視線を前にした。
「……」
追手の数は、思った以上に少なかった。
意味するところは、北の城壁までは見逃してやる。もっと言うなら、そのまま逃げ帰れという意思表示だろうか。
カプスは後ろ髪を引かれながらも前へと足を進めつつ、冷静な分析を行うのだった――
トゥーラの市中を抜けて、真っすぐに目指した北の城壁の前では、相変わらずの乱戦模様が繰り広げられていた。
しかしながら実際のところ、彼らに続いて守備線を突破し、市中への侵入を果たした者は皆無で、状況は明らかに守るトゥーラ側に分があった。
「使える梯子は、どこだ!?」
都市城壁上部の足場は崩落したが、梯子の殆どはその外観を残していた。
しかしながら、足を乗せる部分、踏ざんまでもが無事かどうかは分からない。
大きな声を発して劣勢の仲間たちに自身の存在を伝えると、カプスは恐らくは生きている、自身が侵入を果たす為に使った梯子を背中にして、仲間の進路を確保した。
「う…」
「これは…」
南側が視界に入ると、黒煙が空を覆うほどに立ち昇っているのが飛び込んできた。
「完全に、仕切り直しだな…」
「ああ…」
北の城壁を背後にしながら、南の城壁の向こう側に危惧を抱く。
仮に足を留めたら、全滅は免れなかった。隊長の撤退命令は正解だ――
しかしながら、苦労して侵攻を果たした末の撤退という決断は、精神的な負荷がとてつもなく大きい。
結果を語るカプスとベインズの全身を、たちまちに徒労感が襲った――
「お前、足…」
並び立った事により、ベインズの負傷した左足に、カプスが気付く。
心なしか、カタカタと震えているように見受けられた。
「かすり傷や」
「……」
「俺は…ここを守る。お前は、敵を削れ」
「…分かった」
梯子の位置は動かせない。
味方の兵士が姿を現す場所が同じでは、投石兵や弓兵に狙われるのは当然だ。
それを少しでも回避する為には、危険を承知で切り込んで、敵の狙いを分散する必要があった。
「もう一つ、確認だ」
長身のベインズが、続けて口を開いた。
「なんだよ」
「攻めるのはお前、守るのは俺の役目だ。撤退する時は、お前が先だ」
「…なんでだよ」
「この足じゃあ、梯子は厳しいからな。それに、お前にはニーナちゃんが居るだろ?」
「はあ? お前なあ」
思いもよらない名前が飛び出して、童顔のカプスが怒りを灯す。
行きつけのお店の、初恋の少女の面影を残す小さな女の子…
「そうじゃねえよ。俺が、そんな報告をあの娘にしたくないってだけだ!」
「……」
「お前は、絶対に生き残れ!」
「元から、そのつもりだよ!」
丸顔に厳しい表情を作って吐き捨てるように言い放つと、カプスは前へと飛び出した。
「カプスに続ける者は、続け!」
援護の声を、ベインズが飛ばす。
相当の力量が無ければ単騎で突っ込む事など出来ないが、そこは城内に侵攻しようという部隊である。
カプスに続けと、ブランヒル隊の生き残りが中心となって足を踏み出すと、乱戦模様を拡げる為に、意図的に分散して戦うよう努めた。
「弓兵は、壁の上を狙ぅように!」
トゥーラの大将軍グレンから、北側の守りを任されたルーベンの指示が飛ぶ。
兵士としては細身で見劣りするが、そこは鑑識眼に優れたグレンが託す人物だけに、他者に比べて視野が広く、機転が利いた。
戸惑う事が無いように、弓兵に対しては加勢に現れた上方の敵のみを対処させ、槍兵に対しては、目の前の敵だけを相手にするよう、役割分担を明確にしたのだ。
彼の指示により、スモレンスクの副将カプスやベインズの合流で変化が生まれそうだった戦場の空気は再び引き締まり、またもや膠着状態を生み出すのだった――
「マルマ、戻りました」
南の救護所付近から快足を飛ばし、城門に掛けられた石橋を渡って城へと戻り、石畳の廊下を走り抜け、息を切らしながら大広間へと戻ったマルマは、左手を石壁に添えて少し肥えた身体を支えながら、先ずは一声を発した。
「どこ行ってたの!」
たちまちに、苛立ちを隠せないアンジェの厳しい声が飛んできた。
「え…」
「ライラが、北の給水所に行ってる。あなたも行って!」
「は、はい!」
事態が呑み込めない。
しかし、反射的にアンジェの指示には身体が動く。
今度は西の門から飛び出して、マルマは残る体力を振り絞って、北へと急いだ――
「来ないかぁ…」
一方で、トゥーラ城の三階。
螺旋階段と居住区との間に設けられた屋上へと続く梯子の下で、生気の失せた青白い顔を浮かべた王妃はぺたんと腰を落として赤みの入った髪と小さな背中を石壁に預けると、丸い輪の中に描かれた薄曇りの空を見上げてから、戻る事の無い親鳥を待つひな鳥のように、か細い嘆きの声を放つのだった――
---------
【抜粋ですが、各話の描写箇所になります】
トゥーラの南側。
スモレンスク軍が本陣を構える、緑の茂る林の際。
総大将ギュースは、目の前で起こっている目を覆うばかりの惨状に、小さく口を開き、100キロを超える大きな体躯から伸びる丸太のような二本の腕をだらりと下げて、呆然となって立ち尽くしていた――
小一時間前、残っていた兵力の殆どを割いて、南の都市城門を正面から落とすべく、バイリー将軍率いる主力の部隊が満を持して突撃を行った。
それが今や、炎と煙の充満する真っ只中にいる――
巨大な落とし穴。その薄暗い四辺の底で黒煙に視界を塞がれては、身動きの取りようがない。
加えて投石器からの油壺と砲弾、更には炎を纏った矢羽の雨が、断続的に降り注いでいるのが見て取れた。
最初に火の手が上がった時に聞こえてきた断末魔の悲鳴は、次第にか細いものとなり、今や殆ど聞こえなくなっている――
「どういたしますか…」
退却を指示するまでもなく、逃げられる兵の殆どは、既に自力で脱出を図っている。
「く…」
次なる指示を求める部下の声も弱々しい。
それでもギュースは、諦める訳にはいかなかった。
「ブランヒル達が城内に居る…城門が開けば…勝機はある」
開戦から常に眺めていた都市城壁に浮かぶトゥーラ城は、既に濛々と上がる黒煙の向こう側にその姿を消していた――
しかし、確かに存在する都市城壁の向こう側では、ブランヒル率いる遊撃隊が、更には東側と西側から侵入を果たした兵士達が、南の都市城門を内から開けようと奮闘しているに違いない。
彼らの働きに対して、これまで温存していた残りの部隊が、応じない訳にはいかないのだ。
「西側から攻める。隊の編成を!」
「はい」
南西から北東へ、風は穏やかながら一方向に変わることなく吹いていて、視界を奪う黒煙は東からの攻撃を難しくしている。
ギュースは残った二つの方面から、やむなく自身に近い西側からの攻撃を命じた――
「敵は、恐らく西からの攻撃を厚くしてくる。お前たちは、西へ向かえ」
「はい」
当然ながら、トゥーラの大将軍グレンは読んでいた。
南で配置に就く一隊を西へと回し、少ない兵力ながらも、その力を最大限に引き出そうとしていたのだ――
その頃、ギュースが一縷の望みを託していた、トゥーラの市中へと侵入を果たしたスモレンスクの副将ブランヒルは、目標としていた南の都市城門を前にして、トゥーラの若き美将軍ライエルによって進路を塞がれていた。
「ロイズ様、お逃げ下さい!」
しかしながら、撤退を決めたところへ、相手の棟梁がのこのこと姿を現したのだ。
降って湧いたようなチャンスを逃すまいと、ブランヒルはロイズに向かって猛然と駆け出した。
「わわっ」
殺気立った、見るからに屈強な兵士が向かってくる。
ロイズは咄嗟に足を止め、踵を返してブランヒルに背中を向けた。
「頼んだよっ」
「お任せください!」
棟梁を守ろうと、重装備を施した6名の近衛兵は、向かってくるブランヒルを迎え撃つべく両足を固め、二列に三名ずつの布陣で槍を中段に構えた。
「うおおっ!」
敵の目線を逸らす為、間合いを測ってブランヒルが跳び上がる。
そして槍の穂先に触れるか否かという、絶妙な位置に姿勢を低くして着地をすると、そのまま勢いを殺すことなく右前方、兵士と住居との隙間を目掛けて肩から飛び込んだ。
「うおっ」
「なに!」
彼の動きはトゥーラの兵士の頭にあったものの、想像以上の速さだった。
ブランヒルは最初から、槍の穂先を交えるつもりは全くなかったのだ。
勢い余って住居の壁に自らの身体を激突させると、その衝撃を伝えるドンという大きな重低音が響いた。
咄嗟にトゥーラの兵士が槍で追うも、間に合わない。
かくしてスモレンスクの特攻隊長は、単騎でトゥーラの国王、ロイズの背中を追う機会を得る事となった――
「ロイズ様!」
抜かれた近衛兵たちが、慌ててブランヒルの背中を追い掛けた。
近衛兵の背後からは、ブランヒルに遅れて駆け出した、童顔のカプスと長身のベインズを含むスモレンスクの8名が、数秒遅れで続いていた。
「くそっ。意外と速い…」
標的との距離はおよそ20メートル。縮まらない背中にブランヒルの心は焦りを浮かべた。
ロイズもまた、足の速さには自信があったのだ。おてんば娘と一緒に野山を駆け回っていた子供の頃に培った脚力は、伊達ではない。
そんなトゥーラの国王が、目先の十字路を右へと入った――
(城へ、逃げ込むつもりか?)
その前に追い付き、仕留める。いや、城だろうと、追いかける。
執念とも呼ぶべき決意を胸にして、十字路を鋭角に曲がる為にブランヒルは左足で踏ん張って、右へと跳ねた。
「なっ!」
その刹那、木製の連なりが待ち構えているのが目に入った。
しかしながら、跳ね跳んだ勢いを止める術はもはや無かった――
同時に視界の脇から数本の槍が伸びてきて、膝を柵によって刈られたブランヒルは、並ぶ穂先の下へと勢いよく頭から突っ込んだ――
(やられた…)
乾いた土煙がのぼる中、自らが薙ぎ倒した罠たちとブランヒルは同化した。
共に侵入を果たした仲間の一人、ダイルが住民に襲われて傷を負い、その確認をしようと背後を見やった時、10人ほどの人影が映った。
それが今しがた、挟撃の為に現れた兵数は6人で、つまりは誘われたのだ――
悟ったブランヒルは、届かなかった喪失感に奥歯を噛み締めると、無念の拳を大地の上で強く握った――
「やりましたか!?」
「よし!」
続いてブランヒルをわざと抜かせたトゥーラの6名が姿を現した。
首尾よく敵兵を捕らえているのを確認すると、サッと左右にそれぞれ3名が住居の影に身を潜めるようにして、後から続く侵略者の一団を待ち構えた。
「ブランヒルさん!」
居住区の十字路。スモレンスクの一団が異変に気付いて足を止めると、ブランヒルの弟分、カプスが童顔に焦りを浮かべて思わず声を発した。
「俺に構うな! 行け!」
捕らわれた自分に、もはや価値は無い。
ブランヒルは腹部を地面に預けるという無念な姿を晒しつつも、隊長としての意志だけは明確に伝えた。
「…わかりました」
ここで争っても、勝ち目は無い。
他の仲間が躊躇する中、カプスは真っ先に兄貴分の心を受け取ると、北の城壁を目指して駆け出した。
「お、おい!」
「いいから行け!」
長身のベインズが、カプスの判断に思わず声を発すると、耳にしたブランヒルが再び鋭い声を張り上げた。
「くっ」
選択肢は無い。ベインズもまた、カプスに続いて駆け出した――
「行ったか。薄情な奴らだ…」
「いえ、賢明な判断だと思いますよ」
乾いた地面から頬に伝わる、遠ざかってゆく足音を認めてブランヒルが呟くと、彼に近付いた棟梁が、立ったまま、労うような声を渡した。
「お前が、親玉か?」
近衛兵によって、両腕を背中で縛り上げられたブランヒルが、近付いてきた鎧姿の、端正な顔つきをした若い男を鋭い目つきで見やると、吐き捨てるように尋ねた。
「親玉は、他に居るんですけどね…」
首の後ろに右手を添え、苦笑いを浮かべながら答えると、ロイズは左後方に見える四角い箱を重ねたような簡易な造りのトゥーラ城を見上げた――
その時、南から昇っている黒い煙を視界に入れたが、ロイズの位置からでは居住区の辺りを覆っている訳でもなく、何を思うでもなかった――
「お前らの、勝ちだ」
両腕を後ろに縛られた状態で身体を起こされて、臀部を地面に付けたブランヒルが、観念したように口を開いた。
「そう言われましてもね。貴方たちにとっては敗北でも、私たちの勝利とは…簡単に言えませんよ?」
称えるような発言に、ロイズが意味深な言葉を返した。
「どういう事だ?」
「そうですね…事後処理次第って事です」
「…なるほどな」
些末な争いを制しても、大局を変えなければ成果とはならない。
小さな国家、トゥーラの立場を思いやったブランヒルは、ふっと鼻を鳴らすと、続けてロイズに尋ねた。
「それで、どうするつもりだ?」
「うーん…」
敵将からの追加の問い掛けに対して、ロイズは答えようがないといった感じで首を傾けた。
「親玉次第ですね」
続いて彼は両腕を広げると、手のひらをブランヒルに向けながら、呆れたような表情でうそぶいてみせるのだった――
捕えられたブランヒルを残して駆け出した一団は、退路を確保しつつ味方の反撃を待つという、隊長が描いた案を実行すべく、ひたすらに北の城壁を目指して走った――
「……」
表情は、一様に暗かった。
無理もない。途中でダイルを失ったばかりか、隊長であるブランヒルまでもが戦列を離れたのだ。
「どうする?」
最後尾を走る長身のベインズが、無念を抱いて先頭を走る同僚、カプスの短い黒髪に向かって尋ねた。
「…先ずは、進入路の確保だ」
退路と口にしないのが、せめてもの意地だろうか。
背中からの問いかけに、ブランヒルを一回り小さくしたようなカプスは後方を確認するために少しだけ視線を預けると、自身にも言い聞かせるように短く答えて、再び視線を前にした。
「……」
追手の数は、思った以上に少なかった。
意味するところは、北の城壁までは見逃してやる。もっと言うなら、そのまま逃げ帰れという意思表示だろうか。
カプスは後ろ髪を引かれながらも前へと足を進めつつ、冷静な分析を行うのだった――
トゥーラの市中を抜けて、真っすぐに目指した北の城壁の前では、相変わらずの乱戦模様が繰り広げられていた。
しかしながら実際のところ、彼らに続いて守備線を突破し、市中への侵入を果たした者は皆無で、状況は明らかに守るトゥーラ側に分があった。
「使える梯子は、どこだ!?」
都市城壁上部の足場は崩落したが、梯子の殆どはその外観を残していた。
しかしながら、足を乗せる部分、踏ざんまでもが無事かどうかは分からない。
大きな声を発して劣勢の仲間たちに自身の存在を伝えると、カプスは恐らくは生きている、自身が侵入を果たす為に使った梯子を背中にして、仲間の進路を確保した。
「う…」
「これは…」
南側が視界に入ると、黒煙が空を覆うほどに立ち昇っているのが飛び込んできた。
「完全に、仕切り直しだな…」
「ああ…」
北の城壁を背後にしながら、南の城壁の向こう側に危惧を抱く。
仮に足を留めたら、全滅は免れなかった。隊長の撤退命令は正解だ――
しかしながら、苦労して侵攻を果たした末の撤退という決断は、精神的な負荷がとてつもなく大きい。
結果を語るカプスとベインズの全身を、たちまちに徒労感が襲った――
「お前、足…」
並び立った事により、ベインズの負傷した左足に、カプスが気付く。
心なしか、カタカタと震えているように見受けられた。
「かすり傷や」
「……」
「俺は…ここを守る。お前は、敵を削れ」
「…分かった」
梯子の位置は動かせない。
味方の兵士が姿を現す場所が同じでは、投石兵や弓兵に狙われるのは当然だ。
それを少しでも回避する為には、危険を承知で切り込んで、敵の狙いを分散する必要があった。
「もう一つ、確認だ」
長身のベインズが、続けて口を開いた。
「なんだよ」
「攻めるのはお前、守るのは俺の役目だ。撤退する時は、お前が先だ」
「…なんでだよ」
「この足じゃあ、梯子は厳しいからな。それに、お前にはニーナちゃんが居るだろ?」
「はあ? お前なあ」
思いもよらない名前が飛び出して、童顔のカプスが怒りを灯す。
行きつけのお店の、初恋の少女の面影を残す小さな女の子…
「そうじゃねえよ。俺が、そんな報告をあの娘にしたくないってだけだ!」
「……」
「お前は、絶対に生き残れ!」
「元から、そのつもりだよ!」
丸顔に厳しい表情を作って吐き捨てるように言い放つと、カプスは前へと飛び出した。
「カプスに続ける者は、続け!」
援護の声を、ベインズが飛ばす。
相当の力量が無ければ単騎で突っ込む事など出来ないが、そこは城内に侵攻しようという部隊である。
カプスに続けと、ブランヒル隊の生き残りが中心となって足を踏み出すと、乱戦模様を拡げる為に、意図的に分散して戦うよう努めた。
「弓兵は、壁の上を狙ぅように!」
トゥーラの大将軍グレンから、北側の守りを任されたルーベンの指示が飛ぶ。
兵士としては細身で見劣りするが、そこは鑑識眼に優れたグレンが託す人物だけに、他者に比べて視野が広く、機転が利いた。
戸惑う事が無いように、弓兵に対しては加勢に現れた上方の敵のみを対処させ、槍兵に対しては、目の前の敵だけを相手にするよう、役割分担を明確にしたのだ。
彼の指示により、スモレンスクの副将カプスやベインズの合流で変化が生まれそうだった戦場の空気は再び引き締まり、またもや膠着状態を生み出すのだった――
「マルマ、戻りました」
南の救護所付近から快足を飛ばし、城門に掛けられた石橋を渡って城へと戻り、石畳の廊下を走り抜け、息を切らしながら大広間へと戻ったマルマは、左手を石壁に添えて少し肥えた身体を支えながら、先ずは一声を発した。
「どこ行ってたの!」
たちまちに、苛立ちを隠せないアンジェの厳しい声が飛んできた。
「え…」
「ライラが、北の給水所に行ってる。あなたも行って!」
「は、はい!」
事態が呑み込めない。
しかし、反射的にアンジェの指示には身体が動く。
今度は西の門から飛び出して、マルマは残る体力を振り絞って、北へと急いだ――
「来ないかぁ…」
一方で、トゥーラ城の三階。
螺旋階段と居住区との間に設けられた屋上へと続く梯子の下で、生気の失せた青白い顔を浮かべた王妃はぺたんと腰を落として赤みの入った髪と小さな背中を石壁に預けると、丸い輪の中に描かれた薄曇りの空を見上げてから、戻る事の無い親鳥を待つひな鳥のように、か細い嘆きの声を放つのだった――
---------
【抜粋ですが、各話の描写箇所になります】
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備考 井上雄彦氏の「バガボンド」や司馬遼太郎氏の「真説 宮本武蔵」では、武蔵の父を無二斎としていますが、無二の説もあるため、本作では無二としています。また、通説では、武蔵の父は幼少時に他界している事になっていますが、関ヶ原の合戦の時、黒田如水の元で九州での戦に親子で参戦した。との説もあります。また、佐々木小次郎との決闘の時にも記述があるそうです。
その他、諸説あり、作品をフィクションとして楽しんでいただけたら幸いです。物語を鵜呑みにしてはいけません。
宮本武蔵が弁助と呼ばれ、野山を駆け回る小僧だった頃、有馬喜兵衛と言う旅の武芸者を見物する。新当流の達人である喜兵衛は、派手な格好で神社の境内に現れ、門弟や村人に稽古をつけていた。弁助の父、新免無二も武芸者だった為、その盛況ぶりを比較し、弁助は嫉妬していた。とは言え、まだ子供の身、大人の武芸者に太刀打ちできる筈もなく、お通との掛け合いで憂さを晴らす。
だが、運命は弁助を有馬喜兵衛との対決へ導く。とある事情から仕合を受ける事になり、弁助は有馬喜兵衛を観察する。当然だが、心技体、全てに於いて喜兵衛が優っている。圧倒的に不利な中、弁助は幼馴染みのお通や又八に励まされながら仕合の準備を進めていた。果たして、弁助は勝利する事ができるのか? 宮本武蔵の初死闘を描く!
備考
宮本武蔵(幼名 弁助、弁之助)
父 新免無二(斎)、武蔵が幼い頃に他界説、親子で関ヶ原に参戦した説、巌流島の決闘まで存命説、など、諸説あり。
本作は歴史の検証を目的としたものではなく、脚色されたフィクションです。
蒼穹(そら)に紅~天翔る無敵皇女の冒険~ 四の巻
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日本がイギリスの位置にある、そんな架空戦記的な小説です。
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鵺に取り憑かれる竹田城主 赤松広秀は太刀 獅子王を継承し戦国の世に仁政を志していた。しかし時代は冷酷にその運命を翻弄していく。本作は竹田城下400年越しの悲願である赤松広秀公の名誉回復を目的に、その無二の友 儒学者 藤原惺窩の目を通して描く短編小説です。
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※更新は不定期になると思います。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
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主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
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※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
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御庭番のくノ一ちゃん ~華のお江戸で花より団子~
裏耕記
歴史・時代
御庭番衆には有能なくノ一がいた。
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なぜか甘味巡りをすると事件に巡り合う?
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忍術の無駄遣いで興味を満たすうちに事件が解決してしまう。
いつの間にやら江戸の闇を暴く捕物帳?が開幕する。
※※
将軍となった徳川吉宗と共に江戸へと出てきた御庭番衆の宮地家。
その長女 日向は女の子ながらに忍びの技術を修めていた。
日向は家事をそっちのけで江戸の街を探索する日々。
面白そうなことを見つけると本来の目的であるお団子屋さん巡りすら忘れて事件に首を突っ込んでしまう。
天真爛漫な彼女が首を突っ込むことで、事件はより複雑に?
周囲が思わず手を貸してしまいたくなる愛嬌を武器に事件を解決?
次第に吉宗の失脚を狙う陰謀に巻き込まれていく日向。
くノ一ちゃんは、恩人の吉宗を守る事が出来るのでしょうか。
そんなお話です。
一つ目のエピソード「風邪と豆腐」は12話で完結します。27,000字くらいです。
エピソードが終わるとネタバレ含む登場人物紹介を挟む予定です。
ミステリー成分は薄めにしております。
作品は、第9回歴史・時代小説大賞の参加作です。
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