小さな国だった物語~

よち

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【53.最後の教え】

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トゥーラの南側に設けられた、唯一の都市城門。
その外側で上がった視界を奪うほどの黒煙は、南西からの穏やかな風に乗って、北東の方向へと流れていった――

「え? ちょっと…なにコレ…ごほっ」

吹き上がった煙は、トゥーラ城の3階。熱中症を患って休養を強いられた、王妃が横たわる寝室をも襲った。
開放している窓から勢いよく侵入してくる訳ではないが、黒い煙は何かが焦げる不気味な臭いを伴って、否が応でも大きな危険を彼女に知らせた。

咄嗟に飛び起きて、足からベッドを離れると、赤みの入った髪が揺れ動く。小さな王妃は倒れ込むように石壁に手を付いてフラつく足を支えながら、煙から逃がれる為に、寝室から北側の居住区へと弱った身体でなんとか移動した。

「どうなってるの…」

煙の侵入を防ぐため、真っ先に扉を閉める。
幸いなことに居住区まで足を移すと、煙の臭いは随分と和らいだ。

先ずは外の様子を確認したい。リアの右、東側には小さな窓が3つあり、西側には、いつも座るお気に入りのテーブルの横に、一つだけ小窓があった。
しかし東の窓は、背丈の低いリアが何の力も借りずに覗く事は無理である。ふらふらとした足取りで、それでもなんとかお気に入りの椅子へと倒れ込むように辿り着いた彼女は、虚ろな目をしたままで、やっとの思いで首を伸ばし、小窓から外の様子を確かめた。

「……」

視線の先では、都市城壁を巡る争いが続いている。
設けた足場は崩されて、敵の侵攻を許している事が見て取れる。
しかしながら、投石器の砲弾が双方から飛んでいて、トゥーラが陥落した訳ではない事も分かった。

最悪の事態は免れている――
一先ずは、そんな事実だけでも心が落ち着いた。

(行くしかない…)

体力の欠如と不快な状態を抱えつつも、石壁に寄り掛かって身体を支えた王妃は居住区から出ようと足を進めた。

血の気の失せた青白い顔の表皮は俯いて、浅い呼吸を繰り返しながら、それでも心だけはしっかりと保って、一歩一歩と小さな身体を前にする。

「マルマぁ…」

乾いた口からは、伴侶の名前を漏らしたい。
しかしながら、彼がこの場に居る事は許されない。その名前を発したら、心が折れそうな気さえした。

弱音を吐かぬ覚悟を刻むように、それでいて誰かに縋るように、小さな王妃は現実的な名前を口にするのだった――



その頃マルマは、ラッセルから預かった敵の動向を知らせる紙片を南で指揮する将軍グレンに手渡して、急いで城に戻ろうとしていた。

「しっかりしてください!」

都市城門から城へと続く大通り。一本目の路地を通り掛かったところに右から叱咤の声がやってきて、マルマは思わず視線を預けた。

「手伝うわ」

路地に足を向けると、投石器から飛んできた砲弾により左足を負傷した若い兵士と、彼に肩を貸し、なんとか救護所へと向かおうとする若い女性の姿があった。
マルマは二人の元へと駆け寄ると、先ずは肩を貸そうと、その場で少しふっくらとした体を屈めた。

「あ、ありがとうございます」
「…待って」

女性がほっとした表情を見せたのも束の間、マルマは一つに気付いて動きを止めた。

「ナイフ、持ってる?」
「いえ…」
「じゃあ、もらってきて」
「あ、はい」

マルマの指示に、同じ10代と思われる若い女性が、負傷兵をマルマに任せて救護所へと走った。兵士はくたっとしていて、既に意識を失っているようだった。
マルマがその場に兵士を寝かせると、若い女性は数十秒もしないうちに戻ってきて、小さなナイフを手渡した。

「多分、足は動かせないと思うの。防具は重いからね」

マルマは言いながら、動きの止まった兵士の左足、膝の裏にナイフを当てると、力任せに防具の紐を断ち切った。

「紐を切っていくから、あなたは防具を外して。身軽にしたら、担架で運ぶよ」
「あ、はい」

女性からしても、マルマは同年代の女の子だ。テキパキと指示を発しながら次々と紐を断ち切っていく姿に、尊敬の眼差しを送ると同時に、己のふがいなさをも自覚する――

「凄いですね…」
「え?」
「わたし、あまり役に立てなくて…」

掠れたような声を開くと、女性は突然涙ぐんだ。

「え? え?」

動揺するマルマ。思わず手を止めて、オロオロと彼女の方へと腕を伸ばす。

(いや、そうじゃないな…)

だが、マルマは思い止まった。今は、慰める場面ではない。
自分もそうだった…先輩の放つ能力の違い、己の無力を痛感して涙を流した。
他人と比較するような周囲の目…そんなものを、確かにいつも気にしていた――

「大丈夫。私も同じだったから…」

右の手首で目頭を隠した女性の前で、マルマは負傷した兵士に視線を落として声を渡した。

「……」
「力になりたいって思ってるんだよね? だから悔しいんだよ? だから、それでいいの」
「……」
「ほら、紐を切ったら、丁寧に外していくよ」

国家の一大事に、少しでも出来ることがあればと挙手をしたのだ。その心が折れた訳ではない。
自身の経験を思い返しながら、マルマは地面に横たわる兵士のすねあてを外すと、次には下に着ている麻の衣服を丁寧にナイフで切り割いた。

「え…」

衣服の中から覗いた兵士の左足は、原型を留めてはいなかった。
骨があるはずなのにぐちゃっと生肉のように潰されて、赤い濃淡の中には白いものが尖った破片となって、四方に向かって飛び出していた。

「……」

戦場に身を置いたがゆえに、瞳に映る、決して見る事の無かったものを認めた二人が、思わず動きを止める。

前線から20メートルと離れていない裏の路地。
どんな見立てをしようとも、その移動は困難に思えた――

それをこの若い兵士は助かりたい、或いは障害物と成り果てて足手まといになりたくないという一心で、動いてきたのだ。

「こんな状態で、ここまで…」

マルマは想いを受け取ると、悔しそうに呟いた。

「担架を借りてくる。あなたはこれで、防具を外してあげて」

言いながら立ち上がり、若い女性にナイフを手渡すと、マルマは救護所へと走った。

「担架を貸してください!」

救護所へと飛び込んで、伝えながら立て掛けてある担架に手を伸ばすと、踵を返してその場を走り去ろうとした。

「ちょっと、マルマじゃない! こんなところで何してるの!」

そこへ、マルマに気付いた女性が声を掛けてきた。
声を上げたのは、非常事態に南の救護所へと派遣されている、普段は一緒に働いている先輩女中であった。

「使いのついでです。放っておけなくて」

同僚からの発言に、マルマが誇らしそうに答えた。

「ちょっと待って。あんたはここに居ちゃダメでしょ。人をやるから、城へ戻りなさい!」

トゥーラの女性陣から信頼されている、女中頭のお気に入り。羨ましくもあり、中には妬む者だって存在する。
しかしながら、彼女はそれだけの働きをするし、少々の事なら許せる気心の良さを備えている。
だからこそ、非常時にはアンジェの側に居なくてはならないのだ――

黒髪ポニーテールの年上の女性は、自覚の無い後輩を叱るべく語気を強めた。

「じゃあ、人が来たら交代します!」
「あっ」

良かれと思っての行動だ。
突然降ってきた忠言に、半ばふて腐れるような物言いで声を返すと、マルマは負傷した兵士の元へと逃げるように足を戻した――


「さあ、担架に乗せるよ!」

いら立つ心を抑えたマルマは、兵士と平行になるように担架を地面に置くと、顔を上げ、若い女性に対して指示を発した。

「あ…」

目の前で、若い女性は瞳の色を無くして、消え入りそうな声をこぼした。
手渡したナイフは、だらんと地面に接している。

「どうしたの?」

動きが止まって、マルマが尋ねる。

「イヴォル君…息を、していないんです…」
「……」
「助けられると思ったのに…」

女性は涙を浮かべると、ところどころに付着している赤い血糊を気にする事もなく、両の手のひらで感情を塞ごうと、顔を覆った。

「泣いちゃダメ!」
「ひ…」

彼女が宿した感情に対して、マルマが厳しく言い放つ。

「あなたにはもう、やれる事があるの。そのナイフで、怪我人の防具を外してあげて。分かった? それはこの人が、教えてくれたんだよ!」
「……」

最期の教え。
マルマの教示に対して、5つの細い指が覆った無念の隙間から、女性の瞳が確かに覗いた。

「私はもう、行くからね。あなたは、救護所に向かいなさい」
「……」
「分かった?」
「はい…」

悲しみを共有している時間は無い。
先輩からの励ましを受け取った若い女性は、僅かにでも気を戻し、顔を覆っていた両手をゆっくりと外すと、赤い血糊の付着した顔をマルマに向けて、気丈に返事を返した。

「分かりました」
「よし。あ、あと、これあげる」

立ち直った彼女に対して、マルマは言いながら薄い茶褐色のエプロンに付いたポケットから焼き菓子を取り出すと、女性へと差し出した。

「あ…ありがとうございます」
「甘いものを食べたら、元気が出るから。じゃあね」

まるっこい顔に明るい笑顔を浮かべて立ち上がり、一声を掛けながら女性に向かって右手を軽く掲げると、マルマは大通りへと身体を進め、城へと向かって全速力で駆け戻っていくのだった――
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