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【35.開戦】
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東の空がほんのりと白を滲ませると、緑の大地に闇夜の終了が告げられてゆく――
攻める側と守る側、双方を緊張が包んでいた――
しかしながら、戦いの始まりは攻める側。
即ち、スモレンスクの軍勢が動いて始まるのだ――
「……」
東の空が白み始めても、兵士の目先は未だに闇であった。
緊張の時間が続き、ゴクリと鳴らしていた喉も、そろそろ次を鳴らすのが難しくなってくる。
今か今かと、スモレンスク側の兵士は号令を待ち、いつ動くのかと、トゥーラ側の兵士は焦りを募らせていた――
地平線に沿って光が滲むと、ようやくぼんやりと視界が開けてくる。
先ずは高い位置。
監視台や、都市城壁の上に布陣する兵士達が、ようやく侵略者の布陣を視認した。
「…予想以上ね」
小さな王妃、リアもその一人だ。
城の屋上で、敵に見つからないようにと膝立ちをして眺めた西の方角は、備えた防御柵の100メートル先から林まで。いや、ウパ川の手前まで、敵兵で埋め尽くされていた。
「南は当然として…東からも来る気ね」
腰を低くしたままササッと南へと移動して、次に東側を眺めると、ロイズからの報告通りに敵の布陣が視界に入った。
どうやら、包囲されているらしい。
「北側は…居ない?」
しかしながら、北を流れるウパ川の手前に、敵兵の姿は見当たらなかった――
「……」
明らかに怪しい。
姿が見えないからと言って、無視する訳にはいかない。
それでも見えない相手に備えるほど、手勢に余裕は無い。
どうするか…
北側の備えは文官のラッセルに命じたが、指揮権は副将のルーベンに移っている。
ラッセルに直接指示を送ったところで、意見具申はできても強制力は生まれない。
リアは指揮系統が混乱する可能性を考慮して、ひとまずルーベンにその場を任せる事にした――
正確には、彼を推挙した、将軍グレンを信じる事にした――
「いくぞ! 先ずは先陣。突撃ぃ!」
地表に夜明けが届くと、スモレンスクの大将バイリーの大声が戦場の南側で響いた――
闇夜を利用して移動。備えが整わぬうちに夜明けと共に突撃をする――
短期決戦を目論んだ、予め決められた作戦であった。
「こっちも行くぞ!」
「お前ら、俺に続け!」
南の動きに合わせて、西側を担当する童顔の副将カプス、東側を担当する長身の副将ベインズも、声の限りに突撃を叫んだ。
「来たぞ!」
「弓、放て!」
しかしながら、王妃の指示により、トゥーラの備えは万全であった。
都市城壁の四隅の見張り台には、強弩が二つ備わっている。
設置した防御柵に取り付いた時点で弓を放つ予定であるが、向かってくる相手をわざわざ傍観している事もない。
連射は不可能でも、威力と射程距離は随一だ。
動き始めた侵略者を狙って、同時に四隅から、合計8本の矢羽が放たれた――
強弩から放たれた矢羽は、向かってくる敵軍の中に飲み込まれた。
おそらくは、その殆どが地面に弾んだ。
しかしながら、それで良い。
何人かが足を止め、強弩もあるぞと士気を削ぐ事ができれば良いのだ。
やがて甘い餌に群がる蟻のような敵兵目掛けて、北側を除く都市城壁の三方から、一斉に矢羽が飛び出した。
加えて南側に備わる都市城門の外。左右に新設された防御壁の強弩部隊も戦闘態勢に入っていた。
防御壁には目線の高さと足元に、矢を射る為の木枠が幾つか嵌め込まれていて、先ずは足元。斜め上方へと放てるように傾斜が設けられた強弩8基から、柵の向こう側に居るであろう敵兵に向かって、食らいやがれと、次々に矢羽が飛び立っていった。
「怯むな! 進め!」
盾を前に翳して矢羽の雨を防ぎながら前進すれば、視界は塞がれて、どうしたって歩みは遅くなる。
だからといって盾を外せば、矢羽の餌食になる可能性が増す。
「先ずは、柵をぶっこわせ!」
前日の日没前、ギュースは先陣を務める兵士達を前にして、簡潔な命令を発していた。
防御柵を抜かなければ、城壁には辿り着けない。
先陣を務める兵士の中には、刀剣や槍ではなく、斧を手にする者もいた――
「う…」
「結構、深いな…」
100メートルの距離を、約3分。重装歩兵の先陣が、翳した盾の隙間から壕の中を覗くと、自然と足が止まった。2メートルは、想像以上に深い。
「ぐあっ」
その刹那、どずっという鈍い音色と共に、一人の兵士が倒れ込んだ。
矢羽の射程距離に入ったのだ。
一定の距離の射撃を、トゥーラの弓兵たちは練兵場で数か月にも渡って訓練済である。
「うっ」
「ぐおっ」
続いて一人、また一人と、スモレンスクの兵士が絶え間なく正確に降り注ぐ、射撃の餌食になっていった。
「甘くないか…」
南側の林の中。すんぐりとした身体の前で腕を組み、立ったままで戦況を眺めていたバイリーが、苦い表情で呟いた。
「様子見だからな…とはいえ、重装歩兵をいたずらに減らすのは、今後に支障が残るな…」
届いた発言に、ぼわっとした赤髪を無造作に生やし、100キロを超える体躯を椅子に預けたスモレンスクの総大将ギュースは、頭髪を綺麗に剃ったバイリーを見上げて一つの懸念を口にした。
ガーン
バイリーが右腕を掲げると、金属質の鈍い音色が戦場に大きく鳴り響いた――
ガーン ガーン
「退却だ! 退け!」
一定のリズムの中、怯んだスモレンスクの兵士が雪崩を打って背走をする。
どす。
ざす。
幾重にも、ヒュッヒュンと空気を切り裂く矢羽の唸り声。
鈍い音色が耳へと届くたび、呻き声を伴って誰かの膝が崩れていく――
(ひぃ…)
次に食らうのは、自分かもしれない…
敵兵の練度の高さは、既に感じるところだ。
装甲の薄い、或いは裸同然の背中を見せることは、恐怖でしかない。
それでも集団から取り残されては、狙われる危険性が増す。走るしかない。
「退け! 退け!」
緊張の中、一人の重装歩兵は壕までの距離を走った――
夏の曇天。鎧兜の中の湿度は、体力と気力を簡単に奪う。
訓練された兵士であるならいざ知らず、徴兵された民兵の逃げる足並みが、揃うはずもない。
足がもつれて倒れる者。被った兜で視界が狭くなり、倒れた仲間に気付かず足を取られる者。前を塞がれた若者が、老兵の肩を掴んで我先にと逃げる様相は、秩序の皆無を表していた――
「うう…」
助けてくれ…
太腿を撃たれた一人の兵士が、地面に腹部を預けながら、それでも前を向いた――
仲間は既に林へと消えている。
腕力だけで前に進もうとするも、重い甲冑を身に纏っていては、ままならない。
地面に晒された無抵抗の身体は、格好の標的であろう。
いまにも撃たれるのか…いや、たとえ撃たれなかったとしても、助けは来るのか…
(俺だったら、どうする?)
死線を感じながらも、一つの問いかけが漠然と頭を過ぎった――
考えたところで、何の変化も生じないというのに…
「ふ…」
絶望の中に生まれる、不安や焦りから逸脱する奇妙な思考…
どうにもならない状況下で、一人の兵士は、小さな微笑みすら見せるのだった――
「弓の撃ち方、止め!」
トゥーラの総大将、グレンの号令が南西の見張り台で響くと、すっかりと明るくなった雲の下に、一時の静寂が訪れた。
「やった…」
敗走する敵に次々と射撃を繰り出していた弓兵が、我に返って声を発した。
「やったぞ!」
「おおっ」
「おおー!」
防御柵の向こう側では、幾人もの敵兵が短い緑の草原に散らばって横たわっている――
そのどれもに、小さな動きが認められた。
初動の敵兵は、決して多くはない。
それでも勝利という結果が、安堵と達成感を含んだ興奮を呼び込んで、ついには勝ち鬨となって表れた――
「ふう…」
トゥーラの一番高い場所。
四方からの歓喜を耳に入れながら、小さな王妃が安堵の息を吐き出した。
それは各方面を担当するグレン、ライエル、ラッセルにルーベン、そしてロイズ。更にはウォレンやアンジェ、マルマリータも同様であった――
「壕の様子は、どうなっている?」
「は。深さは2メートル。幅は、それほどありません。ですが…」
「なんだ?」
「柵の向こう側にも、壕があります」
「なに?」
初動は退却という形になったが、情報収集という役目は果たした。
ぼわっとした赤髪を生やし、100キロを超える体躯を抱えたスモレンスクの総大将は、ひとまず兵に休息を与えると、強弩の射程距離から逃れるために、一旦、林の中にその身を隠した――
「さて、どうするか…」
壕と柵を越え、更に壕を越えなければ城壁には辿り着けない。
各自の私案を募ろうと、ギュースは諸将を集める事にした――
「一任下さるのであれば、案が無い訳でもありません」
カルーガの宿でマグを掲げた面々が、トゥーラの城外、南西方面で集まると、真っ先に北側を担当するブランヒルが声を発した。
中肉中背の武将であるが、丸太のように首は太く、纏った鎧の下には鍛え上げられた肉体が隠れているだろう事は、容易に想像がついた。
「言ってみろ」
総大将が促すと、ブランヒルが私案を述べる――
「……」
「むう…」
提案された内容に、カプスとベインズは思わず顔を見合わせて、ギュースと直属の上司であるバイリーは、少し難しい顔をした。
「私達に、時間はありません。他に策が無いのであれば、実行するのも致し方ないかと…」
彼らに残された時間は、トゥーラと同盟を結んでいるリャザン公国からの援軍が到着するまでだ――
恐らく、三日もない。
「…分かった。やってみろ」
「は!」
大きな傷痕を左頬に拵えた総大将が副将の案を認めると、右手を胸に当てながら、ブランヒルは弟分のカプスとベインズ、そして直属の上司であるバイリーの見つめる中、深く一礼をした――
それから一時間ほど経った頃、南側で、50人ほどで編成された二つの隊が作られた。
「お前らの任務は、柵の排除だ。先発隊は、決死の覚悟で突撃! 先ずは壕に飛び込め!」
ブランヒルが、先発隊に向かって指示をする。
速さを求めた結果だろうか、彼らの装備に兜は無く、胴体には帷子を、右手には木製の盾を備えただけという出で立ちであった。
特徴としては、全員が二本の鎌を左手に持ち、柄の部分から結んだ長い麻ひもを、手首から腕にかけて何重にも巻き付けていた。
一方の後発隊は武器すら持たず、左には盾を装備。胴体には甲冑だけを纏うという、防御に徹した部隊であった――
「出てきました。配置について下さい」
「は!」
南西の見張り台に足を置いたライエルから指令が飛ぶと、城壁に背中を預けていた者たちが一斉に立ち上がった。
初戦を飾った自信からか、誰もが自信に満ち溢れ、精悍な顔つきとなっていた――
「……」
自らが育てた部隊である――
約一週間前。ライエルは練兵場から戻った際に交わしたグレンとの会話を脳裏に浮かべた――
「基本の距離、120メートル。大丈夫か?」
「大丈夫です。もう、目を瞑っても撃てますよ」
風向きや風速。加えて湿度。その日の天候によって弾道は変化する。
また疲労や緊張によっても照準は変わるのだ。
初日は5名が100本撃っても揃わなかった弾道が、今では5本も撃てば揃うようになっている。
「わしは、基本と言った。できるようになるまでやらせるのは当然だ。できるようになってもやらせろ」
「……」
基本の距離は、相手を殺す距離――
鋭い眼光がライエルの緩慢を貫いて、彼の心は引き締まった――
どうやら敵の部隊も、準備を終えたらしい。
ライエルが自ら足元に備えられた強弩へと着座すると、狙いを定め、一本の矢羽を撃ち込んだ。
静かな怒りを込めた一本の矢羽は、垂れ込める灰色の雲をかすめるような高い弾道を描いて、姿を現した敵兵の集団の中へと消えていった――
屋外である。試射もなく、一発で400メートルを放つのだから、敵が安寧を確保する為には、林の奥へと退かざるを得ないだろう。
「お見事です」
見張り台の近衛兵が、正確無比な射撃を目にして感嘆の声を表した。
「ありがとうございます」
中年の部下の明るい声に、整った少年のような顔つきの美将軍は、爽やかな笑顔を浮かべるのだった――
攻める側と守る側、双方を緊張が包んでいた――
しかしながら、戦いの始まりは攻める側。
即ち、スモレンスクの軍勢が動いて始まるのだ――
「……」
東の空が白み始めても、兵士の目先は未だに闇であった。
緊張の時間が続き、ゴクリと鳴らしていた喉も、そろそろ次を鳴らすのが難しくなってくる。
今か今かと、スモレンスク側の兵士は号令を待ち、いつ動くのかと、トゥーラ側の兵士は焦りを募らせていた――
地平線に沿って光が滲むと、ようやくぼんやりと視界が開けてくる。
先ずは高い位置。
監視台や、都市城壁の上に布陣する兵士達が、ようやく侵略者の布陣を視認した。
「…予想以上ね」
小さな王妃、リアもその一人だ。
城の屋上で、敵に見つからないようにと膝立ちをして眺めた西の方角は、備えた防御柵の100メートル先から林まで。いや、ウパ川の手前まで、敵兵で埋め尽くされていた。
「南は当然として…東からも来る気ね」
腰を低くしたままササッと南へと移動して、次に東側を眺めると、ロイズからの報告通りに敵の布陣が視界に入った。
どうやら、包囲されているらしい。
「北側は…居ない?」
しかしながら、北を流れるウパ川の手前に、敵兵の姿は見当たらなかった――
「……」
明らかに怪しい。
姿が見えないからと言って、無視する訳にはいかない。
それでも見えない相手に備えるほど、手勢に余裕は無い。
どうするか…
北側の備えは文官のラッセルに命じたが、指揮権は副将のルーベンに移っている。
ラッセルに直接指示を送ったところで、意見具申はできても強制力は生まれない。
リアは指揮系統が混乱する可能性を考慮して、ひとまずルーベンにその場を任せる事にした――
正確には、彼を推挙した、将軍グレンを信じる事にした――
「いくぞ! 先ずは先陣。突撃ぃ!」
地表に夜明けが届くと、スモレンスクの大将バイリーの大声が戦場の南側で響いた――
闇夜を利用して移動。備えが整わぬうちに夜明けと共に突撃をする――
短期決戦を目論んだ、予め決められた作戦であった。
「こっちも行くぞ!」
「お前ら、俺に続け!」
南の動きに合わせて、西側を担当する童顔の副将カプス、東側を担当する長身の副将ベインズも、声の限りに突撃を叫んだ。
「来たぞ!」
「弓、放て!」
しかしながら、王妃の指示により、トゥーラの備えは万全であった。
都市城壁の四隅の見張り台には、強弩が二つ備わっている。
設置した防御柵に取り付いた時点で弓を放つ予定であるが、向かってくる相手をわざわざ傍観している事もない。
連射は不可能でも、威力と射程距離は随一だ。
動き始めた侵略者を狙って、同時に四隅から、合計8本の矢羽が放たれた――
強弩から放たれた矢羽は、向かってくる敵軍の中に飲み込まれた。
おそらくは、その殆どが地面に弾んだ。
しかしながら、それで良い。
何人かが足を止め、強弩もあるぞと士気を削ぐ事ができれば良いのだ。
やがて甘い餌に群がる蟻のような敵兵目掛けて、北側を除く都市城壁の三方から、一斉に矢羽が飛び出した。
加えて南側に備わる都市城門の外。左右に新設された防御壁の強弩部隊も戦闘態勢に入っていた。
防御壁には目線の高さと足元に、矢を射る為の木枠が幾つか嵌め込まれていて、先ずは足元。斜め上方へと放てるように傾斜が設けられた強弩8基から、柵の向こう側に居るであろう敵兵に向かって、食らいやがれと、次々に矢羽が飛び立っていった。
「怯むな! 進め!」
盾を前に翳して矢羽の雨を防ぎながら前進すれば、視界は塞がれて、どうしたって歩みは遅くなる。
だからといって盾を外せば、矢羽の餌食になる可能性が増す。
「先ずは、柵をぶっこわせ!」
前日の日没前、ギュースは先陣を務める兵士達を前にして、簡潔な命令を発していた。
防御柵を抜かなければ、城壁には辿り着けない。
先陣を務める兵士の中には、刀剣や槍ではなく、斧を手にする者もいた――
「う…」
「結構、深いな…」
100メートルの距離を、約3分。重装歩兵の先陣が、翳した盾の隙間から壕の中を覗くと、自然と足が止まった。2メートルは、想像以上に深い。
「ぐあっ」
その刹那、どずっという鈍い音色と共に、一人の兵士が倒れ込んだ。
矢羽の射程距離に入ったのだ。
一定の距離の射撃を、トゥーラの弓兵たちは練兵場で数か月にも渡って訓練済である。
「うっ」
「ぐおっ」
続いて一人、また一人と、スモレンスクの兵士が絶え間なく正確に降り注ぐ、射撃の餌食になっていった。
「甘くないか…」
南側の林の中。すんぐりとした身体の前で腕を組み、立ったままで戦況を眺めていたバイリーが、苦い表情で呟いた。
「様子見だからな…とはいえ、重装歩兵をいたずらに減らすのは、今後に支障が残るな…」
届いた発言に、ぼわっとした赤髪を無造作に生やし、100キロを超える体躯を椅子に預けたスモレンスクの総大将ギュースは、頭髪を綺麗に剃ったバイリーを見上げて一つの懸念を口にした。
ガーン
バイリーが右腕を掲げると、金属質の鈍い音色が戦場に大きく鳴り響いた――
ガーン ガーン
「退却だ! 退け!」
一定のリズムの中、怯んだスモレンスクの兵士が雪崩を打って背走をする。
どす。
ざす。
幾重にも、ヒュッヒュンと空気を切り裂く矢羽の唸り声。
鈍い音色が耳へと届くたび、呻き声を伴って誰かの膝が崩れていく――
(ひぃ…)
次に食らうのは、自分かもしれない…
敵兵の練度の高さは、既に感じるところだ。
装甲の薄い、或いは裸同然の背中を見せることは、恐怖でしかない。
それでも集団から取り残されては、狙われる危険性が増す。走るしかない。
「退け! 退け!」
緊張の中、一人の重装歩兵は壕までの距離を走った――
夏の曇天。鎧兜の中の湿度は、体力と気力を簡単に奪う。
訓練された兵士であるならいざ知らず、徴兵された民兵の逃げる足並みが、揃うはずもない。
足がもつれて倒れる者。被った兜で視界が狭くなり、倒れた仲間に気付かず足を取られる者。前を塞がれた若者が、老兵の肩を掴んで我先にと逃げる様相は、秩序の皆無を表していた――
「うう…」
助けてくれ…
太腿を撃たれた一人の兵士が、地面に腹部を預けながら、それでも前を向いた――
仲間は既に林へと消えている。
腕力だけで前に進もうとするも、重い甲冑を身に纏っていては、ままならない。
地面に晒された無抵抗の身体は、格好の標的であろう。
いまにも撃たれるのか…いや、たとえ撃たれなかったとしても、助けは来るのか…
(俺だったら、どうする?)
死線を感じながらも、一つの問いかけが漠然と頭を過ぎった――
考えたところで、何の変化も生じないというのに…
「ふ…」
絶望の中に生まれる、不安や焦りから逸脱する奇妙な思考…
どうにもならない状況下で、一人の兵士は、小さな微笑みすら見せるのだった――
「弓の撃ち方、止め!」
トゥーラの総大将、グレンの号令が南西の見張り台で響くと、すっかりと明るくなった雲の下に、一時の静寂が訪れた。
「やった…」
敗走する敵に次々と射撃を繰り出していた弓兵が、我に返って声を発した。
「やったぞ!」
「おおっ」
「おおー!」
防御柵の向こう側では、幾人もの敵兵が短い緑の草原に散らばって横たわっている――
そのどれもに、小さな動きが認められた。
初動の敵兵は、決して多くはない。
それでも勝利という結果が、安堵と達成感を含んだ興奮を呼び込んで、ついには勝ち鬨となって表れた――
「ふう…」
トゥーラの一番高い場所。
四方からの歓喜を耳に入れながら、小さな王妃が安堵の息を吐き出した。
それは各方面を担当するグレン、ライエル、ラッセルにルーベン、そしてロイズ。更にはウォレンやアンジェ、マルマリータも同様であった――
「壕の様子は、どうなっている?」
「は。深さは2メートル。幅は、それほどありません。ですが…」
「なんだ?」
「柵の向こう側にも、壕があります」
「なに?」
初動は退却という形になったが、情報収集という役目は果たした。
ぼわっとした赤髪を生やし、100キロを超える体躯を抱えたスモレンスクの総大将は、ひとまず兵に休息を与えると、強弩の射程距離から逃れるために、一旦、林の中にその身を隠した――
「さて、どうするか…」
壕と柵を越え、更に壕を越えなければ城壁には辿り着けない。
各自の私案を募ろうと、ギュースは諸将を集める事にした――
「一任下さるのであれば、案が無い訳でもありません」
カルーガの宿でマグを掲げた面々が、トゥーラの城外、南西方面で集まると、真っ先に北側を担当するブランヒルが声を発した。
中肉中背の武将であるが、丸太のように首は太く、纏った鎧の下には鍛え上げられた肉体が隠れているだろう事は、容易に想像がついた。
「言ってみろ」
総大将が促すと、ブランヒルが私案を述べる――
「……」
「むう…」
提案された内容に、カプスとベインズは思わず顔を見合わせて、ギュースと直属の上司であるバイリーは、少し難しい顔をした。
「私達に、時間はありません。他に策が無いのであれば、実行するのも致し方ないかと…」
彼らに残された時間は、トゥーラと同盟を結んでいるリャザン公国からの援軍が到着するまでだ――
恐らく、三日もない。
「…分かった。やってみろ」
「は!」
大きな傷痕を左頬に拵えた総大将が副将の案を認めると、右手を胸に当てながら、ブランヒルは弟分のカプスとベインズ、そして直属の上司であるバイリーの見つめる中、深く一礼をした――
それから一時間ほど経った頃、南側で、50人ほどで編成された二つの隊が作られた。
「お前らの任務は、柵の排除だ。先発隊は、決死の覚悟で突撃! 先ずは壕に飛び込め!」
ブランヒルが、先発隊に向かって指示をする。
速さを求めた結果だろうか、彼らの装備に兜は無く、胴体には帷子を、右手には木製の盾を備えただけという出で立ちであった。
特徴としては、全員が二本の鎌を左手に持ち、柄の部分から結んだ長い麻ひもを、手首から腕にかけて何重にも巻き付けていた。
一方の後発隊は武器すら持たず、左には盾を装備。胴体には甲冑だけを纏うという、防御に徹した部隊であった――
「出てきました。配置について下さい」
「は!」
南西の見張り台に足を置いたライエルから指令が飛ぶと、城壁に背中を預けていた者たちが一斉に立ち上がった。
初戦を飾った自信からか、誰もが自信に満ち溢れ、精悍な顔つきとなっていた――
「……」
自らが育てた部隊である――
約一週間前。ライエルは練兵場から戻った際に交わしたグレンとの会話を脳裏に浮かべた――
「基本の距離、120メートル。大丈夫か?」
「大丈夫です。もう、目を瞑っても撃てますよ」
風向きや風速。加えて湿度。その日の天候によって弾道は変化する。
また疲労や緊張によっても照準は変わるのだ。
初日は5名が100本撃っても揃わなかった弾道が、今では5本も撃てば揃うようになっている。
「わしは、基本と言った。できるようになるまでやらせるのは当然だ。できるようになってもやらせろ」
「……」
基本の距離は、相手を殺す距離――
鋭い眼光がライエルの緩慢を貫いて、彼の心は引き締まった――
どうやら敵の部隊も、準備を終えたらしい。
ライエルが自ら足元に備えられた強弩へと着座すると、狙いを定め、一本の矢羽を撃ち込んだ。
静かな怒りを込めた一本の矢羽は、垂れ込める灰色の雲をかすめるような高い弾道を描いて、姿を現した敵兵の集団の中へと消えていった――
屋外である。試射もなく、一発で400メートルを放つのだから、敵が安寧を確保する為には、林の奥へと退かざるを得ないだろう。
「お見事です」
見張り台の近衛兵が、正確無比な射撃を目にして感嘆の声を表した。
「ありがとうございます」
中年の部下の明るい声に、整った少年のような顔つきの美将軍は、爽やかな笑顔を浮かべるのだった――
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もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください!
※更新は不定期になると思います。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
鵺の哭く城
崎谷 和泉
歴史・時代
鵺に取り憑かれる竹田城主 赤松広秀は太刀 獅子王を継承し戦国の世に仁政を志していた。しかし時代は冷酷にその運命を翻弄していく。本作は竹田城下400年越しの悲願である赤松広秀公の名誉回復を目的に、その無二の友 儒学者 藤原惺窩の目を通して描く短編小説です。
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