小さな国だった物語~

よち

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【26.スモレンスク公国①】

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「トゥーラに、新しい城主が赴任したそうな」
「なんでも、名も無い若造らしい」

トゥーラの領主となったロイズが無傷の初陣を飾る前、スモレンスク公国の城内では、東への侵攻を阻む要塞都市、トゥーラの新しい城主の話題でもちきりであった。

春の訪れを祝うという、およそ名目など何でもよい国王を交えた酒宴の席で、各自が持ち寄った情報という名の噂話の交換が、広々とした会場の各所で行われていた。

冬は河川の氷結により商人たちの往来が無くなって、情報が乏しくなる。
ロイズのトゥーラへの着任が冬の訪れを待って行われたのは、スモレンスクに情報を与えないという意図もあったのだ。

これはリャザンの重臣ワルフが、幼馴染をトゥーラの城主に推した際に、併せて提案されたものである。

「誰が来ても一緒だ! 今年中に潰してやる!!」

蠅のように飛び回る噂話を蹴散らすように、酔いの回った、しかし太くて勇ましい男の声が、シャンデリアが幾つも吊るされた高い天井に向かって響き渡った。

「ギュース将軍、勇ましいですな」

大声に反応をした一人の文官が、ギュースの正面へと歩み寄り、なだめるような声を発した。

ギュースと同じ30代半ばの男であったが、体格は細身であり、たとえ彼が5人がかりで対峙したとしても、分が悪いと思われた。

「おう。ヤットか。当然だ。今日は国王様もおられる。どうだ? 今から出陣の直訴なんてものを、しに行かぬか?」

絹で覆われた横長のソファにふんぞり返ったギュースが、赤くなった頬にやいばの傷跡を覗かせて、冗談とも本気とも取れない提案をした。

「今からですか?」

酔いが醒めるほどの提言に、ヤットは呆れた声を返した。

「宴の余興としては面白いだろう? 冬も終わりだ。ちょいと震え上がらせに行くには、いい時期だ。挨拶代わりにな」

手にした赤い液体の入ったマグを回しながら、ギュースの口角がニヤリと上がった。

「まったく…トゥーラの奴らも可哀想ですね。休まる暇がない」

不気味に光る両のまなこは、どうやら本気らしい。

国王陛下の前だというのに、整えた様子の無い肩越しまで伸びた赤い髪。
100キロ近い体躯に、丸太のような太い腕。
スモレンスクで12を争う猛将に、宴の余興として春先から攻め込まれるとはたまったもんじゃない。

右の手のひらを上にして、ヤットはやれやれと同情の声を上げるのだった――

「陛下!」

ギュースはマグをテーブルに預けて勢いよく立ち上がり、殊更に大きな声を発した。
途端にざわっとした空気が会場を支配して、皆の視線が一点に集まった。

「兵、500をお与えください! その新しい城主とやらの顔、拝みに行って参ります!」
「ほう……500で良いのか?」

赤紫の幕を背景に、ワインの入ったマグを右手にして玉座に座る領主は、歩み寄る野太い声に視線を向けると、低い声で確認をした。

「十分です。先ずは今年の初戦。必ずや、良い報告をしてご覧に入れます!」

壇上からの返答に、ギュースは両の手指を胸の前でがっしりと組み合わせると、僅かに前屈みの姿勢となって、自信に満ちた声で言い放った。

「許す。いってこい」
「は」

領主の声が静かとなった会場に響くと、ようやく雪解けを迎える白い大地に、早速赤い血を与える事が決まった――



スモレンスクの公、ロマン・ロスチスラヴィチの年齢は30代半ばである。

父であるロスチスラフⅠ世と、従兄のムスチスラフⅡ世の勧めによってスモレンスクの所領を譲り受けた若者は、父に倣って国力増強を声高に叫び、瞬く間に周りの部落、小国を手中に収めていった――

ロマンの父親は、1146年のキエフ大公フセヴォロドの死去を発端にした大公を巡る争いに参加して、現在のロシアの首都モスクワの礎を築いたユーリー・ドルゴルーキーと争った。

争いを制したロスチスラフⅠ世は、晴れてキエフ大公の座を射止めたが、その後も何度かユーリー派に公位を奪われては奪還し、1167年3月14日、最期は北方にあるノヴゴロドの地へと調停に赴いた帰途、60歳を迎える前に本来の領地であるスモレンスク郊外にて息を引き取った――

父が大公を巡る争いを続ける中で、ロマンは従兄の力を借りながら国内を治めた。
やがて父の逝去を迎えると、名義上はスモレンスクの領主だった従兄のキエフ大公への道を支える形で、国力の増強を図ったのである。

地に足の着いた戦略は遠征を繰り返した父との違いが鮮明で、国内での彼の評価は高まるばかりであった――

しかしこれは父親が、キエフ大公フセヴォロドの死去を発端とする内乱によく耐えて、キエフ大公となって威光を広め、外敵を抑え込んだ結果とも言える。

名誉に目が眩んだと評価される声も多かったが、先代の功績を十分に評価している重臣も、幾らかは存在していた。
しかしながら現在では、政策の違いもあって、その多くは重く用いられてはいなかった――



「聞きましたか、フリュヒト様。トゥーラへの進攻が決まったそうです」

国王ロマンがギュースの余興を認めて数時間後。
城内の別室に一人の文官がやってきて、宴への参加を見送っていた白い顎ひげを蓄えた老臣に一つの事案を伝えた。

「そのようですな…まったく、これでは国が疲弊していく一方だ」

懇意にしている文官からの報告に、書類の積みあがった机の向こう側、木枠の椅子に座る老齢な男が、ため息交じりに吐き捨てた。

「大掛かりなものでは、無いそうですが…」
「ふん。ギュースの奴が直訴したそうじゃないか。傭兵上がりの奴にとっては準備運動のつもりだろうがな。馬に武器、兵糧の確保と、何かと時間も労力も掛かる。気軽に出陣などと叫ばれても、困るのだ」

将軍に対しても堂々と不満を漏らす文官の名は、フリュヒト。
齢70に届こうかという老臣で、前国王の側近を務めていたが、崩御によってロマンに代が替わると、その物怖じしない言動が仇となり、後方支援へと回されていた。

周囲からは降格と見なされる人事であったが、それでも彼は腐ることなく、与えられた任務を粛々とこなしていた――

「ただ、勝っているうちは、止めようが無いのも事実ですがな…」

後方支援を任される身としては、例え労力に見合う評価が得られなかったとしても、戦勝という結果には喜びが起こる。

白い顎髭を蓄えた老臣はやれやれと立ち上がり、背後に並ぶ背丈以上の本棚に手を伸ばすと、書類の一つを手に取ってパラパラッとページをめくった。

「先ずは、在庫確認ですな」

そして淡々と、しかし、前向きな表情で語るのだった――



準備に充てること二週間。出陣して5日後。
ギュース軍大敗の報告は、瞬く間にスモレンスクの隅々にまで広がった。

東側では連戦連勝。数年かかったトゥーラの攻略にもようやく明るい兆しが見えてきて、いよいよ今年こそはと鼻息も荒かった矢先の失態に、国王ロマンの怒りは頂点に達した。

「ギュース! 戦勝報告はどうした!」
「は…申し訳ありません」

普段から腰に帯びている刀剣は全て排除。
単色茶褐色の衣服を纏ったギュースは、広い背中を小さく丸め、石畳の床に片膝をついて頭を下げていた。

「お前の言う『良い報告』 ってのは、俺を怒らせるものなのか!」
「いえ、決してそのような事は、ございません」

どんな叱責が飛んだとしても、言い訳の仕様がない。
壇上にて椅子から立ち上がって罵る長身のロマンに、ギュースはひたすらに頭を下げるしかなかった――

「キエフ大公だった父上が必死に守ったスモレンスクの栄光を、俺は継いでいるのだ! 栄光に傷を付ける事は、断じて許さん!」
「ははっ!」

一歩を踏み出した頭上からの叱責に、ギュースの赤い髪が殊更に下がった。

「トゥーラの城主は、どんな奴だった? ああ? 城に着く前に戻ってきては、見れる訳がないだろうが!」
「……おっしゃる通りでございます」
「おい! こいつの処分方法を誰か考えろ! 八つ裂きでも火炙りでもいいが、そんなものでは、俺の怒りが収まらん!」

右腕を大きく横へと振りながら、国王ロマンが壇上にて叫んでいる。
その姿には、ギュースを笑いものにしようと広間に集まった、殆どの者が委縮した。


「陛下…」

引き締まった空気の中で、敢えて声を上げた者がいた。
皆の視線が集まる真ん中を、ロマンが怒り立つ、壇上の方へと静かに足を進めていく――

「フリュヒトか…何か、あるのか?」

表舞台から退くも、前国王である父の側近だったフリュヒトは、ロマンにとっても育ての親のような存在だ。
さすがの彼も冷静となって、怒りの矛を収めざるを得なかった。

「はい。畏れながら、ご意見を」

背筋を伸ばし、しっかりとした足取りで歩みを伸ばすフリュヒトが、小さく丸まったままのギュースの隣で足を止めると、片膝をついて頭を下げ、発言の許しを求めた。

「…申せ」

両肩を下ろすと、ロマンは不満を抱えながらも老臣の発言を許諾した。

「先ず、戦いには、相手というものがございます。必勝の戦いもあれば、そうではない戦いも、勿論あるのです」
「そんな事、分かっておるわ!」

苛立ちを隠せないロマンが口を尖らせて、フリュヒトの発言を右手で振り払った。

「いいえ、分かっておりませぬ」
「なに?」

目線をふっと上げて語った老臣の一声に、ロマンの視線が鋭くなった。

「此度の戦いは、敵も同数。これで必勝を求めるのは、酷な話です」
「だがな、そいつが500と言ったのだ。相手を軽んじたのは、いったいどこのどいつだ!」

壇上からの発言に、思わずギュースが瞼を閉じる。目尻には深い皺が刻まれた。

「おっしゃる通りです。ですが、彼には多大な功績があります。一度の過ちで、それらを無下になさると言うのなら、勇気ある行動を取る者がいなくなりましょう」
「……」
「……」

フリュヒトの発言は、広間に一時の静寂をもたらした。

ロマンは無能ではない。諫言にも耳を貸す。
だからこそ、父から譲り受けたスモレンスクの領地を、順調に拡大しているのだ。

フリュヒトもまた、話せば分かると信じているからこそ、進言をしている――

「…では、どうするのだ?」

会場の空気を察したか、ロマンが折れた。
決して許した訳ではないが、話は聞いてやろうといったところである。

「先ず、此度のギュース将軍ですが、一つ、大きく称える事がございます」
「……」

ギュースの瞳が大きくなった。
太い首を素早く捻って、白い顎髭を蓄えた老臣の横顔を見やった。

「ほう?」

続いて壇上の国王が、眼光鋭く、興味深そうに続きを促した。

「損失は50名にも届きません。兵糧の多くが残り、弓や油も、殆ど失ってはおりません。これは、早々に撤退を決断した、将軍の功績でありましょう」
「……」
「確かに将軍は、油断をしました。殆どが攻城戦となるトゥーラから、討って出てくるとは思いもしなかった事でしょう。ですが、冷静になって戦況を判断し、恥を承知で撤退を決めた。これを、勇気ある決断とは呼べないでしょうか?」
「……」
「それとも、将兵500を失い、経験に富んだ将軍までもを失った方が、良かったと言われるのですか?」
「…もうよい!」

畳み掛けるようなフリュヒトの弁舌に、壇上の国王は右腕を振り払って背中を覗かせた。

「……」

どうやら、明日の命は残ったらしい。
頭を下げ続ける中ではあったが、ギュースはほっと安堵の息を吐き出すのだった――


「しかしだ…何の咎めも無しでは、示しがつかん。どうするつもりだ?」

ロマンが壇上で振り向いた。簡単に引き下がるつもりはない。
鋭い目つきとなって、かつての教育係に問い掛けた。

「ここは今一度、将軍に機会を与えるのはいかがでしょうか?」
「……」

淡々としたフリュヒトの弁舌に、再びギュースの視線が右へと向かう。

「先ほども申しましたように、武器も兵糧も残っております。現在ここは一時撤退とお考え頂き、彼にもう一度、機会をお与えください」

壇上に向かって重ねて請うと、フリュヒトは伏し目になって頭を下げた。

「ふん。一時撤退とは、言い様だな」
「……」

吐き捨てるような言の葉に、敢えてフリュヒトは視線を上げなかった。

後の判断は委ねるという、彼なりの意思表示に他ならない。

「良いだろう。だが、負けは許さん。十分な兵も兵糧も与えてやる。必ず、トゥーラを獲ってこい」
「ありがとうございます! 必ずや、戦勝のご報告を致します!」

赤髪の将軍は下げていた視線を上げると、眼前で両手を絡め、感謝と喜びに溢れた表情で誓うのだった――



「……」

早足となったロマンが壇上を立ち去ると、並んで頭を下げていた二人のうち、老臣が先に膝を伸ばした。

「フリュヒト様…」

凛とした立ち姿に対して、顔だけを上に向けたギュースは思わず涙声を発した。

「なんでしょう?」

続くであろうギュースの発言は予想済。
その上で、老臣は敢えて普段と変わらぬ態度で促した。

「お助けいただき…ありがとうございます」
「私は思うところを伝えたに過ぎません。あなたはそんな姿でここにいますが、一旦退いただけ。敗れた訳ではない」

顎を上げたフリュヒトは、会場の四隅までを見渡した。

「私の任務は、後方支援。私だって戦っているのです。だからこそ、あなたにはお伝えしたい」

続いて視線を落とすと、ギュースの瞳に言い放った。

「未だ、終わっていない」
「……ありがとうございます」

再び、陣を出る――

両手を伸ばした将軍が皺だらけの左手を挟むと、一粒の涙が灰白色の石床を黒く濡らした――

「何でも言って下さい。共に、戦いましょう」

フリュヒトは、励ましの言葉を渡してから背中を向けた。

「……」

いつの間にか、忘れ去っていた…背負っていたもの…

戦場に在る者だけが、戦っているのではない。
各々が、それぞれの役割を担って戦っている――

(必ず、報いてみせます)

ギュースは静かに立ち上がると、右の拳を胸にして、丸い背中を敬仰の眼差しで見送るのだった――
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