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君の声(了)
しおりを挟む鈴木音楽教室に入ると、教室で、ドビュッシーのアラベスクの勉強を始めた。
少しづつ、丁寧に音楽を鈴木先生の指導に合わせて弾いていく。
指を一本、一本、動かしていると、昔の良い記憶がよみがえるようだった。
ねぇ、あたしのことずっと見ている?
そうだ、かれん。ずっと僕は君のことを見ていた。
君ほど僕が好きだった女性は、それから一度もいない。
ずっと中学校の音楽室でも、ゆうきと歩いた放課後の校庭でも、ずっと君だけのことを、考え続けていた。
二度と会えない君が、ひたすらにいとおしい。
かれん、今かれんは、何処にいるんだろう。
そろそろかれんのことは、忘れないといけないかもしれない。
そのことを許して欲しい――
「森さん、もう少しゆっくり丁寧に弾いてみてください」と、鈴木先生が言った。
「分かりました」と、僕が言った。
「じゃあ、もう一度、最初のフレーズから」と、鈴木先生が、続けて言った。
それから、僕も結婚して、子どもを育てるようになった。
大切な女の子が、生まれて、名前を秋子にした。
その日は、秋子の中学校のピアノ発表会の日で、その上初めてのピアノを人前で演奏する日だった。
ホールに時間通りに着くと、僕はスーツのまま席に着いた。
秋子が、スッと現れて、一礼をした。
パチパチと、拍手が起こる。
そのまま、壇上のピアノの前に座って、ショパンのノクターンを弾き始めた。
ホールの中に、秋子の弾く、ピアノの音が反響した。
一音、一音、涼しげな音が流れ出す。
ショパンのノクターンも、終わりに近づいていた。
その時――急に、かれんのことを、一瞬思い出した。
いつかゆうきと一緒に、高山かれんの家に行ったことがあった。
あれは何で行ったのだっけ?
僕はもう、様々なことを忘れかけていた。
壇上の、中学生の秋子の姿が、あの初めて会った日の、かれんの姿に重なった。
ノートに色々短歌を付けていたかれんも、僕とゆうきのために、玄関まで見送りに来てくれたかれんも、中学校の夕暮れの野球部の校庭も、もう一度全部思い出した。
僕の頬に、涙が伝った。
もう一度、秋の日のことを思い出すと、秋子の姿がもう見えなくなった。
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