熱帯魚

夢野とわ

文字の大きさ
上 下
12 / 12

君の声(了)

しおりを挟む
 
鈴木音楽教室に入ると、教室で、ドビュッシーのアラベスクの勉強を始めた。
少しづつ、丁寧に音楽を鈴木先生の指導に合わせて弾いていく。
指を一本、一本、動かしていると、昔の良い記憶がよみがえるようだった。

ねぇ、あたしのことずっと見ている?

そうだ、かれん。ずっと僕は君のことを見ていた。
君ほど僕が好きだった女性は、それから一度もいない。
ずっと中学校の音楽室でも、ゆうきと歩いた放課後の校庭でも、ずっと君だけのことを、考え続けていた。
二度と会えない君が、ひたすらにいとおしい。
かれん、今かれんは、何処にいるんだろう。
そろそろかれんのことは、忘れないといけないかもしれない。
そのことを許して欲しい――

「森さん、もう少しゆっくり丁寧に弾いてみてください」と、鈴木先生が言った。
「分かりました」と、僕が言った。
「じゃあ、もう一度、最初のフレーズから」と、鈴木先生が、続けて言った。

それから、僕も結婚して、子どもを育てるようになった。
大切な女の子が、生まれて、名前を秋子にした。
その日は、秋子の中学校のピアノ発表会の日で、その上初めてのピアノを人前で演奏する日だった。
ホールに時間通りに着くと、僕はスーツのまま席に着いた。
秋子が、スッと現れて、一礼をした。
パチパチと、拍手が起こる。
そのまま、壇上のピアノの前に座って、ショパンのノクターンを弾き始めた。
ホールの中に、秋子の弾く、ピアノの音が反響した。
一音、一音、涼しげな音が流れ出す。
ショパンのノクターンも、終わりに近づいていた。
その時――急に、かれんのことを、一瞬思い出した。
いつかゆうきと一緒に、高山かれんの家に行ったことがあった。
あれは何で行ったのだっけ?
僕はもう、様々なことを忘れかけていた。
壇上の、中学生の秋子の姿が、あの初めて会った日の、かれんの姿に重なった。
ノートに色々短歌を付けていたかれんも、僕とゆうきのために、玄関まで見送りに来てくれたかれんも、中学校の夕暮れの野球部の校庭も、もう一度全部思い出した。

僕の頬に、涙が伝った。
もう一度、秋の日のことを思い出すと、秋子の姿がもう見えなくなった。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...