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番外編
番外編:花言葉 (3/4)
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そして俺は無事に宦官として採用され、宮廷で働き始めた。
後宮の下働きは少女ばかりだったし、様々な雑用や力仕事要員として重宝された。
紫苑様の元で働いていたからこそ、ある程度共通した仕事もあって、業務自体は滞りなく覚えていった。
これまでに培った対人能力もあってか、踏み込み過ぎない距離で周囲からの信頼を得ていくことも難なく出来た。
そうして自分が宮廷で宦官としての仕事に馴染んだ頃、紫苑様の輿入れの日が訪れた。
皇帝とも関わってきて、あの人はこの結婚に全然興味がなさそうなことが気にかかっていた。
色事好きの兄君とは対照的で、どうもそういうこと自体に関心が薄い印象を受けた。
政務か、あるいは趣味に忙しいのか、特にこの結婚については大臣達の言うままに任せていて、自分から何かを知ろうと言う気はなさそうだった。
それでも、その時になったら、隙を生じさせて貰わなければならない。
単に自分から女に働きかけることをしない、というだけで、目の前にすれば少しは何か変わるかもしれないと、僅かな期待にかけることにした。
花嫁道具と共に馬車で入ってきた彼女を迎え入れるのは、俺の役目となった。
馬車から降りようとした紫苑様は、以前よりも一層美しい姿で、そこにいた。
彼女が俺を見て口を開きかけたのを見て、目で制する。
荷物を運び込ませたあと人を払い、紫苑様を部屋まで案内する。
部屋には世話係の部屋子が待機しているから、彼女と話ができる機会はそのわずかな時間だけだった。
歩きながら、あくまで他人行儀に会話を交わす。
「本日は一旦お部屋に入った後、身を清めていただきます。その後夜になったら陛下のお部屋で一晩過ごしていただくことになっております」
「.........」
「お着替えが済んだ頃にまたお迎えに上がります」
この時の紫苑様は、泣きそうな顔をしていたが、何も言わなかった。
この任務が終わったら、彼女と共に宮廷を脱出する。
警備の手薄な場所も調べてあるし、あとは無事暗殺を遂行するだけだった。
「陛下、夫人をお連れ致しました」
扉を開ける前に、紫苑様と視線を交わす。
緊張しているのがありありとわかる程、震えていた。
これ以上見ていたら彼女を引き止めたくなってしまいそうで、部屋の中に案内した後で俺はすぐに庭へまわった。
予め武器庫から拝借してきた弓矢を隠しておいた場所へ、物音を立てないようにしながら、急ぐ。
弓矢を選んだのは、遠距離で狙えるからという点と、以前の客に教えられたことがあって少しは使えるからだった。
そして部屋の中を覗ける位置で、目を凝らす。
室内は行灯の明かりがあって、外から少し見ることができる一方、向こうから暗闇の庭は見えにくくなっているのは好都合だった。
ただ、満月が厄介だった。
俺は月の光の当たらない位置で待機した。
.....おかしい。
結構な時間が経っているはずだったが、二つの影は近づくことなく、一定の距離を保ったままだった。
もう少し様子を探ろうと考えていた時、紫苑様の懐から、光が揺れるのが見えた。
(早い、ダメだ!)
一向に近づいてこない相手に痺れを切らしたのだろう、紫苑様が胸元から短刀を取り出そうとしたのがわかった。
しかし、間合いがありすぎる。
短刀で、しかも非力な彼女が仕掛けるには、無謀としか言えない程に距離が開いている。
そう思った瞬間のことだった。
何か重いものがぶつかる音と、「ひぐっ」という悲鳴にならない呻き声のようなものが聞こえた。
(.....は?)
何が起こったのか、分からなかった。
呆然としていると、紫苑様のものではない女の声が聞こえてきた。
(皇帝と紫苑様の他に、誰かこの部屋にいたのか……?)
それからすぐに物音を聞きつけた人々が入ってくるのがわかり、俺は壁の裏に身を隠した。
「.....お妃様.....」
「.........亡くなっています.....」
「...この女が.....」
漏れ聞こえてくる会話の内容から、紫苑様が死んだのだということを察した。さっきの唸り声は紫苑様のもので、抜き出そうとした短刀が自分の胸に刺さったのだとわかった。
(紫苑様.....!)
本当は今すぐに彼女の元に飛びついて行きたい。
だが、多くの人間がそこにいる以上、それは出来なかった。
(紫苑様が出来なかったら、俺が討つ――あの時そう約束したんだ)
入ってきていた片付けの人達が捌ける際、建物から少し離れた池のそばの茂みに移動した。壁に張り付いていては危険だとの判断だった。移動してしまうと、こちらから中の声は聞こえなくなった。
茂みに隠れながら、先ほどの出来事をもう一度考えてみていた。
紫苑様が短刀を抜こうとした時、皇帝は少し離れた位置にいた。あの位置から、例えば紫苑様の腕を取って刺し返すのは、間合いを詰めなければ不可能だ。それに、あの、物音。影。何かが、紫苑様の上に落ちてきたーーそう、人のような。そして、少し聞こえた紫苑様のものではない、女の声。
その「女」が、紫苑様にのしかかり、殺したのか?
建物の方に目をやると、窓際に二つの影が見て取れた。
暗くて顔までは判別できないが、人が二人向き合って会話をしているらしきことだけはわかった。
(どういうことだ……? 一体いつから?)
それからしばらくすると、その二つの影が部屋の外へ出てくる気配がし、俺は身構えて、目を凝らした。
月明かりのお陰で、自分からはその姿ははっきりと見ることが出来た。
(.........誰、だ? )
皇帝の隣には、今まで宮殿内では見たことのない女が立っていた。
男物の服を羽織っているが、その下には見た事のない脚の見えるような服装をしている。髪の毛も結い上げずに下ろしっぱなしのような状態で、ひどく違和感があった。
(何者だ.....? いや、今はそれよりも、皇帝の方を討たないと)
俺は弓を引いて狙いを定めた。
そして放つ直前、その女がこちらに気付き、皇帝の前に飛び出し立ち塞がった。
矢が当たった瞬間のことは、今でもはっきり覚えている。
星屑が散らばるようにして姿が消え、羽織だけがその場にバサッと落ちた。
(!?!?!?)
俺は混乱する頭の中、皇帝がそちらに気を取られているうちにと、その場から慌てて退散した。
それから、紫苑様の一家は厳刑に処された。
家は取り壊され、使用人たちはめいめい故郷に帰ったり別の職場を求めたりしたらしい。
俺は使用人たちともそれほど関わりはなかったし、特段の関心はなかったが。
紫苑様の遺体は、斬首された家族と共に、野に捨て置かれたということだった。
皇帝暗殺を謀ったのだから、当然と言えば当然なのだろう。
不思議なことに、哀しいとか悔しいとか、そうした感情は浮かんでこなかった。
ただ、もうこの世から彼女がいなくなってしまったという事実が、俺の感情を凍結させた。
あの謎の女のことは、皇帝含め誰も話題にしなかった。
やはり、幻でも見ていたのだろうか。
ただただ無為に日々を過ごしていた頃、突然大臣から新しい後宮の部屋の手配を命じられた。
なんでも、あの皇帝が突然、后候補となる女を連れてきて、既にこの宮殿内にいるのだという。
嫁入り道具も何もないから、今あるものを使ってもらうように、とのことだった。
「そんな、当日いきなり現れるなんて、あり得るのですか」
普段命令には口は挟まず黙って従う自分も、さすがに気になって大臣に訊き返した。
「まぁ、ちょっと複雑な事情がありましてな」
答えてくれそうになかったので、仕方なく後宮に出向き、鈴と蘭を呼び部屋の掃除をした。
彼女たちは元々紫苑様の部屋子として入っていたが、あれ以来他の部屋の一番下っ端としてこき使われており、自分の主人ができるということを大層喜んだ。
部屋は、紫苑様の為の花嫁道具として持ち込んだものが手つかずで残されていた。
ほとんど新品だったが、その中に、彼女が実家で使っていた花瓶を見つけた。
いつも泉のほとりで綺麗な花を見つけては生けていた、それだった。
(紫苑様、紫苑様、紫苑様―――)
俺はそっと花瓶を手に取り、初めて涙を流した。
大臣に片付けを終えた旨を報告すると、今度は服を用意して部屋へ案内するように言われた。
そして大臣と共に、皇帝の執務室へ入る。
中へ入って、その"女"を目にした瞬間、息が止まった。
あの女だった。
紫苑様が嫁いできた日、突如降ってきて、そのために紫苑様が命を落とした、
その後俺の放った矢に討たれて星屑のように消えた、
あの女が、そこにいた。
あの時"消えた"と思ったのは実は勘違いだったのか?
いやしかし、あの日以来宮殿内で姿を見かけることもなく、何故今になっていきなり現れる?
そして大臣が呼んだ女の名に、さすがに耳を疑った。
「詩音殿、とお呼びします」
……シオン?
紫苑様と同じ発音の、しおん?
紫苑様を死に追いやった女が、"シオン"と名乗って現れるとは、どういう因果だ?
紫苑様の陰謀に事前に気付いていて、あえて仕掛けてくる時まで待って潰したのか?
しかし紫苑様に成り代わろうとするなら、期間が開いているのはどういうことだ?
わからないことばかりだった。
後宮へ送る道すがら、女から何か話しかけられた気がするが、どう答えたかあまりよく覚えていない。
ただ、こいつもあの時のことなどなかったかのように振る舞っていた。
俺はしばらく、女を観察していた。
単純に後宮にはあまり馴染めないようだったが、特に怪しい動きはなかった。
おかしい。
しかしあの夜に見た顔と同じであるし、あの日も後宮入りした日も膝下の見えるはしたない謎の服装をしていたことも共通していた。別人とは考えにくかった。
あの日、誰も入れないはずの皇帝の部屋に突然現れた。
矢に討たれる直前、いきなり消えた。
そして再び、外からでなく「宮殿内」にいきなり入っていた。
人外の、妖の類いではないのか、と思った。
俺は、妖なんかより、人間のほうがよっぽど醜いとーー妖なんてものは伝説上の生き物で、存在なんてしないと、そう思っていた。
だが、あの女の存在は、それ以外に説明のつけようがなかった。
だから、少し試してみることにした。
あの日のように、身に危険が及ぶことがあれば、また姿を消すかもしれない。あるいは、変化をといて、本当の姿を表すかもしれない。
皆が慌ただしく周囲に気を配らない時間帯、かつあの女が一人でいる時を狙って、上から物を落とした。
偶然にも避けられてしまい、その試みは失敗に終わった。当たらなかったせいなのかそうでないのか、女はそこで姿を消したり変えたりすることはなく、ただ怯えるだけだった。
それから、女は皇帝にどう取り入ったのか、日中後宮を出て本殿で過ごすことになり、その送り迎えの役目を俺が担うことになった。
間近で観察できる絶好の機会だったが、特に怪しい点はなく、皇帝との仲を茶化すと照れてみせるなど、ただの人間くさく、不気味だった。
ある時、女が泣きながら皇帝の部屋を飛び出してきた時があった。
俺は"何かの時に使えるかもしれない"と尖った石を集めて置いておいた霊廟に連れて行った。
この霊廟は基本的には行事の時しか人は近寄らないし、それで誰かが怪我をしたとしても"たまたま置いてあった"と言い逃れできるようなものだったから、使うのはいつでも良かった。
霊廟の中で会話をしていると、女が言った。
「名前で――詩音って、呼んで」
―――は?
何を言い出すんだ、この女。
周囲の人間が「詩音さま」と呼んでいることは知っていた。
それを俺に止める権利はないが、俺自身は絶対に呼ぶまいと決めていた。
こいつは、紫苑様を殺した上、名前までも奪おうというのか?
紫苑様の名前は、紫苑様だけのものだ。
どれだけ紫苑様を侮辱すれば気が済む?
しかも被害者面しやがって、自分が一人の人間を殺したということを忘れているのか。
この時、俺の腹の中は怒りでぐちゃぐちゃになっていたと思う。
廟を出る時、わざと尖った石のところを通るように誘導した。
本来なら身体を支えたりすべきところも、あえて離れて歩いたところ、奴はまんまと罠にかかった。
念のため、自分に疑いがかからないように、適当な目撃情報をでっち上げた。
そして、"誰かが悪意を抱いている"とわかるように、「わざと転ぶように石が置かれている」ということを伝えた。
この時の女の顔は、見ものだった。
青ざめ、唇を震わせ、何かに怯えている。
ざまあみろ。
それでも、随分な贅沢だ。
紫苑様は、あの時わけのわからないまま一瞬で亡くなって、もうそんな感情すら持つことは許されないのだから。
この女が現れてから、凍っていた俺の感情が、ある意味で動き出したことを感じていた。
怒り、苛立ち、憎しみ、哀しみ――今まで抑えていたものが一気に噴出したように、俺自身を取り巻いていた。
後宮の下働きは少女ばかりだったし、様々な雑用や力仕事要員として重宝された。
紫苑様の元で働いていたからこそ、ある程度共通した仕事もあって、業務自体は滞りなく覚えていった。
これまでに培った対人能力もあってか、踏み込み過ぎない距離で周囲からの信頼を得ていくことも難なく出来た。
そうして自分が宮廷で宦官としての仕事に馴染んだ頃、紫苑様の輿入れの日が訪れた。
皇帝とも関わってきて、あの人はこの結婚に全然興味がなさそうなことが気にかかっていた。
色事好きの兄君とは対照的で、どうもそういうこと自体に関心が薄い印象を受けた。
政務か、あるいは趣味に忙しいのか、特にこの結婚については大臣達の言うままに任せていて、自分から何かを知ろうと言う気はなさそうだった。
それでも、その時になったら、隙を生じさせて貰わなければならない。
単に自分から女に働きかけることをしない、というだけで、目の前にすれば少しは何か変わるかもしれないと、僅かな期待にかけることにした。
花嫁道具と共に馬車で入ってきた彼女を迎え入れるのは、俺の役目となった。
馬車から降りようとした紫苑様は、以前よりも一層美しい姿で、そこにいた。
彼女が俺を見て口を開きかけたのを見て、目で制する。
荷物を運び込ませたあと人を払い、紫苑様を部屋まで案内する。
部屋には世話係の部屋子が待機しているから、彼女と話ができる機会はそのわずかな時間だけだった。
歩きながら、あくまで他人行儀に会話を交わす。
「本日は一旦お部屋に入った後、身を清めていただきます。その後夜になったら陛下のお部屋で一晩過ごしていただくことになっております」
「.........」
「お着替えが済んだ頃にまたお迎えに上がります」
この時の紫苑様は、泣きそうな顔をしていたが、何も言わなかった。
この任務が終わったら、彼女と共に宮廷を脱出する。
警備の手薄な場所も調べてあるし、あとは無事暗殺を遂行するだけだった。
「陛下、夫人をお連れ致しました」
扉を開ける前に、紫苑様と視線を交わす。
緊張しているのがありありとわかる程、震えていた。
これ以上見ていたら彼女を引き止めたくなってしまいそうで、部屋の中に案内した後で俺はすぐに庭へまわった。
予め武器庫から拝借してきた弓矢を隠しておいた場所へ、物音を立てないようにしながら、急ぐ。
弓矢を選んだのは、遠距離で狙えるからという点と、以前の客に教えられたことがあって少しは使えるからだった。
そして部屋の中を覗ける位置で、目を凝らす。
室内は行灯の明かりがあって、外から少し見ることができる一方、向こうから暗闇の庭は見えにくくなっているのは好都合だった。
ただ、満月が厄介だった。
俺は月の光の当たらない位置で待機した。
.....おかしい。
結構な時間が経っているはずだったが、二つの影は近づくことなく、一定の距離を保ったままだった。
もう少し様子を探ろうと考えていた時、紫苑様の懐から、光が揺れるのが見えた。
(早い、ダメだ!)
一向に近づいてこない相手に痺れを切らしたのだろう、紫苑様が胸元から短刀を取り出そうとしたのがわかった。
しかし、間合いがありすぎる。
短刀で、しかも非力な彼女が仕掛けるには、無謀としか言えない程に距離が開いている。
そう思った瞬間のことだった。
何か重いものがぶつかる音と、「ひぐっ」という悲鳴にならない呻き声のようなものが聞こえた。
(.....は?)
何が起こったのか、分からなかった。
呆然としていると、紫苑様のものではない女の声が聞こえてきた。
(皇帝と紫苑様の他に、誰かこの部屋にいたのか……?)
それからすぐに物音を聞きつけた人々が入ってくるのがわかり、俺は壁の裏に身を隠した。
「.....お妃様.....」
「.........亡くなっています.....」
「...この女が.....」
漏れ聞こえてくる会話の内容から、紫苑様が死んだのだということを察した。さっきの唸り声は紫苑様のもので、抜き出そうとした短刀が自分の胸に刺さったのだとわかった。
(紫苑様.....!)
本当は今すぐに彼女の元に飛びついて行きたい。
だが、多くの人間がそこにいる以上、それは出来なかった。
(紫苑様が出来なかったら、俺が討つ――あの時そう約束したんだ)
入ってきていた片付けの人達が捌ける際、建物から少し離れた池のそばの茂みに移動した。壁に張り付いていては危険だとの判断だった。移動してしまうと、こちらから中の声は聞こえなくなった。
茂みに隠れながら、先ほどの出来事をもう一度考えてみていた。
紫苑様が短刀を抜こうとした時、皇帝は少し離れた位置にいた。あの位置から、例えば紫苑様の腕を取って刺し返すのは、間合いを詰めなければ不可能だ。それに、あの、物音。影。何かが、紫苑様の上に落ちてきたーーそう、人のような。そして、少し聞こえた紫苑様のものではない、女の声。
その「女」が、紫苑様にのしかかり、殺したのか?
建物の方に目をやると、窓際に二つの影が見て取れた。
暗くて顔までは判別できないが、人が二人向き合って会話をしているらしきことだけはわかった。
(どういうことだ……? 一体いつから?)
それからしばらくすると、その二つの影が部屋の外へ出てくる気配がし、俺は身構えて、目を凝らした。
月明かりのお陰で、自分からはその姿ははっきりと見ることが出来た。
(.........誰、だ? )
皇帝の隣には、今まで宮殿内では見たことのない女が立っていた。
男物の服を羽織っているが、その下には見た事のない脚の見えるような服装をしている。髪の毛も結い上げずに下ろしっぱなしのような状態で、ひどく違和感があった。
(何者だ.....? いや、今はそれよりも、皇帝の方を討たないと)
俺は弓を引いて狙いを定めた。
そして放つ直前、その女がこちらに気付き、皇帝の前に飛び出し立ち塞がった。
矢が当たった瞬間のことは、今でもはっきり覚えている。
星屑が散らばるようにして姿が消え、羽織だけがその場にバサッと落ちた。
(!?!?!?)
俺は混乱する頭の中、皇帝がそちらに気を取られているうちにと、その場から慌てて退散した。
それから、紫苑様の一家は厳刑に処された。
家は取り壊され、使用人たちはめいめい故郷に帰ったり別の職場を求めたりしたらしい。
俺は使用人たちともそれほど関わりはなかったし、特段の関心はなかったが。
紫苑様の遺体は、斬首された家族と共に、野に捨て置かれたということだった。
皇帝暗殺を謀ったのだから、当然と言えば当然なのだろう。
不思議なことに、哀しいとか悔しいとか、そうした感情は浮かんでこなかった。
ただ、もうこの世から彼女がいなくなってしまったという事実が、俺の感情を凍結させた。
あの謎の女のことは、皇帝含め誰も話題にしなかった。
やはり、幻でも見ていたのだろうか。
ただただ無為に日々を過ごしていた頃、突然大臣から新しい後宮の部屋の手配を命じられた。
なんでも、あの皇帝が突然、后候補となる女を連れてきて、既にこの宮殿内にいるのだという。
嫁入り道具も何もないから、今あるものを使ってもらうように、とのことだった。
「そんな、当日いきなり現れるなんて、あり得るのですか」
普段命令には口は挟まず黙って従う自分も、さすがに気になって大臣に訊き返した。
「まぁ、ちょっと複雑な事情がありましてな」
答えてくれそうになかったので、仕方なく後宮に出向き、鈴と蘭を呼び部屋の掃除をした。
彼女たちは元々紫苑様の部屋子として入っていたが、あれ以来他の部屋の一番下っ端としてこき使われており、自分の主人ができるということを大層喜んだ。
部屋は、紫苑様の為の花嫁道具として持ち込んだものが手つかずで残されていた。
ほとんど新品だったが、その中に、彼女が実家で使っていた花瓶を見つけた。
いつも泉のほとりで綺麗な花を見つけては生けていた、それだった。
(紫苑様、紫苑様、紫苑様―――)
俺はそっと花瓶を手に取り、初めて涙を流した。
大臣に片付けを終えた旨を報告すると、今度は服を用意して部屋へ案内するように言われた。
そして大臣と共に、皇帝の執務室へ入る。
中へ入って、その"女"を目にした瞬間、息が止まった。
あの女だった。
紫苑様が嫁いできた日、突如降ってきて、そのために紫苑様が命を落とした、
その後俺の放った矢に討たれて星屑のように消えた、
あの女が、そこにいた。
あの時"消えた"と思ったのは実は勘違いだったのか?
いやしかし、あの日以来宮殿内で姿を見かけることもなく、何故今になっていきなり現れる?
そして大臣が呼んだ女の名に、さすがに耳を疑った。
「詩音殿、とお呼びします」
……シオン?
紫苑様と同じ発音の、しおん?
紫苑様を死に追いやった女が、"シオン"と名乗って現れるとは、どういう因果だ?
紫苑様の陰謀に事前に気付いていて、あえて仕掛けてくる時まで待って潰したのか?
しかし紫苑様に成り代わろうとするなら、期間が開いているのはどういうことだ?
わからないことばかりだった。
後宮へ送る道すがら、女から何か話しかけられた気がするが、どう答えたかあまりよく覚えていない。
ただ、こいつもあの時のことなどなかったかのように振る舞っていた。
俺はしばらく、女を観察していた。
単純に後宮にはあまり馴染めないようだったが、特に怪しい動きはなかった。
おかしい。
しかしあの夜に見た顔と同じであるし、あの日も後宮入りした日も膝下の見えるはしたない謎の服装をしていたことも共通していた。別人とは考えにくかった。
あの日、誰も入れないはずの皇帝の部屋に突然現れた。
矢に討たれる直前、いきなり消えた。
そして再び、外からでなく「宮殿内」にいきなり入っていた。
人外の、妖の類いではないのか、と思った。
俺は、妖なんかより、人間のほうがよっぽど醜いとーー妖なんてものは伝説上の生き物で、存在なんてしないと、そう思っていた。
だが、あの女の存在は、それ以外に説明のつけようがなかった。
だから、少し試してみることにした。
あの日のように、身に危険が及ぶことがあれば、また姿を消すかもしれない。あるいは、変化をといて、本当の姿を表すかもしれない。
皆が慌ただしく周囲に気を配らない時間帯、かつあの女が一人でいる時を狙って、上から物を落とした。
偶然にも避けられてしまい、その試みは失敗に終わった。当たらなかったせいなのかそうでないのか、女はそこで姿を消したり変えたりすることはなく、ただ怯えるだけだった。
それから、女は皇帝にどう取り入ったのか、日中後宮を出て本殿で過ごすことになり、その送り迎えの役目を俺が担うことになった。
間近で観察できる絶好の機会だったが、特に怪しい点はなく、皇帝との仲を茶化すと照れてみせるなど、ただの人間くさく、不気味だった。
ある時、女が泣きながら皇帝の部屋を飛び出してきた時があった。
俺は"何かの時に使えるかもしれない"と尖った石を集めて置いておいた霊廟に連れて行った。
この霊廟は基本的には行事の時しか人は近寄らないし、それで誰かが怪我をしたとしても"たまたま置いてあった"と言い逃れできるようなものだったから、使うのはいつでも良かった。
霊廟の中で会話をしていると、女が言った。
「名前で――詩音って、呼んで」
―――は?
何を言い出すんだ、この女。
周囲の人間が「詩音さま」と呼んでいることは知っていた。
それを俺に止める権利はないが、俺自身は絶対に呼ぶまいと決めていた。
こいつは、紫苑様を殺した上、名前までも奪おうというのか?
紫苑様の名前は、紫苑様だけのものだ。
どれだけ紫苑様を侮辱すれば気が済む?
しかも被害者面しやがって、自分が一人の人間を殺したということを忘れているのか。
この時、俺の腹の中は怒りでぐちゃぐちゃになっていたと思う。
廟を出る時、わざと尖った石のところを通るように誘導した。
本来なら身体を支えたりすべきところも、あえて離れて歩いたところ、奴はまんまと罠にかかった。
念のため、自分に疑いがかからないように、適当な目撃情報をでっち上げた。
そして、"誰かが悪意を抱いている"とわかるように、「わざと転ぶように石が置かれている」ということを伝えた。
この時の女の顔は、見ものだった。
青ざめ、唇を震わせ、何かに怯えている。
ざまあみろ。
それでも、随分な贅沢だ。
紫苑様は、あの時わけのわからないまま一瞬で亡くなって、もうそんな感情すら持つことは許されないのだから。
この女が現れてから、凍っていた俺の感情が、ある意味で動き出したことを感じていた。
怒り、苛立ち、憎しみ、哀しみ――今まで抑えていたものが一気に噴出したように、俺自身を取り巻いていた。
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