うたた寝日和

佐野川ゆず

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大瀬仁菜子

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涼ちゃんが後ろから追いかけて来る気配がする。私が一生懸命全速力で走っても直ぐに追いつかれてしまう事は目に見えている。けれども更に足に力を入れて大地を蹴る。
 だって、今涼ちゃんに私の顔を見られたら、絶対に何か言われる。「ほら、だから言ったじゃない。いつまでも兄ちゃんの事ばかりな仁菜子が悪いんだよ」って言われる。わかっている。わかっているんだよ。自分が一番そんな事わかっていたよ。だから、それを他の人に言われたくない。ましてやいつもずっと一番近くに居た涼ちゃんには絶対に……。

 と、そんな事を考えていると、何かに躓いて前におもいっきり転げそうになった。このスピードで顔から道路に突っ込んだらさぞかし痛いだろうな……、そんな事をスローモーションで流れて行く景色の中で考える余裕があった。もういいんだ。今転んでしまえば泣いていた理由が出来る。

「仁菜子!」

 身体が宙に浮いて、地面に叩きつけられる、と思った瞬間に聞き慣れた声が聞こえて、同時に私の腕を大きな掌で掴まれる。突然の事で今まで聞こえなかった周りの音が一斉に戻って来た。それと同時に背後から荒い息づかいが聞こえた。

「仁菜子、何してんの?危ないでしょ!?ちゃんと前見て走ってたワケ?!」
「…………」
「ねえ、何か言ったら?痛いの?大丈夫なの?」
「……」
「仁菜子!」

 涼ちゃんの言葉に何も返さず、そのまま黙っていたら、苛立った声と共に、両肩を掴まれる。そしてくるりと反対方向を向かされた。いきなり回転した景色に何が起こったかわからずにぼーっとしていると、目の前に居る涼ちゃんがもう一度私の名前を読んだ。「仁菜子」って。

「涼ちゃん」
「どうしたの?」
「……ありがとう」
「は?今頃?助けてあげた時に言ってよ」
「……うん。ありがとう。助かった」

 まだぼーっとした頭のまま、目の前に居る涼ちゃんに向かって言葉を紡げば、頭の中で何度も自分の声が反響した。私の声なのに、私が自分で喋っている言葉なのに、自分じゃないみたいだ。

「危ない事はしないでよ、バカ仁菜子。ほら、帰るよ」
「…………」

 涼ちゃんは私がどんな顔をしているとか、頬に涙の痕があるとか、そんな事には全然触れなかった、というか、そんなもの見ていないかのように自然に振る舞ってくれる。涼ちゃんはきっと事情を全部知っている。私が圭ちゃんを好きな事。大好きな圭ちゃんには彼女が居るって事。その事をきっと私よりもずっと前から知っていて、それでも私に気付かれないように隠してくれていたんだ。傷つかないように。私が泣いたりしないように……。

「涼ちゃん。ありがとう」
「何回もいいよ、そんな事」
「……でもね、帰りたくない」
「は?」
「家に帰りたくないの」

 私に背を向けて歩き出そうとしている涼ちゃんの服の裾を掴むと、小さな子供のように俯いたままその場で立ち止まる。だって、本当に帰りたくない。このまま涼ちゃんの家へ帰ると、心配した圭ちゃんが私たちを待っていてくれるのがわかる。そして、紹介されるのだ。圭ちゃんの自慢の彼女、瀬野川先生を。
 女の私から見ても瀬野川先生は明るくて、優しくて、美人というよりは可愛い系のとても素敵な女性だ。私もあんなに素敵な女性になれたらと思うし、あんなお姉さんが居ればいいな……と思っていたくらいだ。でも、それでも、あんなに素敵な人だけれど、圭ちゃんの彼女だと考えると会う気になれない。圭ちゃんは私の気持ちなんて知らないだろうし……。

「仁菜子、家に帰ったら瀬野川先生に会わなくちゃいけないからでしょ?」
「……うん。私、瀬野川先生の事、凄く好きだよ。けれど、圭ちゃんの彼女として紹介されるとしたら、普通に接する事が出来るかわからない。我が儘だってわかっているけれど、今は圭ちゃんにも先生にも会いたくない。このままどこか遠くに行きたい」

 出来もしない事をぶつぶつと呟く。だって、私たちはもう高校生なのだ。世間ではもう高校生という言葉を聞く事だって、言う事だって多い。けれど、本当はまだ高校生なのだ。まだまだ子供なのだ。特に圭ちゃんにとってはいつまで経っても7歳も年下の子供の仁菜子のままなのだ。それはきっと私が何歳になっても圭ちゃんや瀬野川先生と同じ歳になっても変わらない事実なのだ。

 それって……ずるい……。

 生まれた歳が違うだけで、私には圭ちゃんと恋愛をする権利は最初から
無くて、同じ歳で生まれた瀬野川先生にはちゃんとあったのだ。圭ちゃんの恋愛のパスポートを持っていたのだ。そう考えると、涙が出るほど悔しかった。




「ねえ、仁菜子。じゃ、このまま、どこかに行く?」
「どこへ?」
「わからない。けれど、遠くに」
「……うん。行く。」
「でもさ、僕、今手持ち、500円しかないよ」
「うーーん。大丈夫。仁菜子さんはなんと200円持っているから……」
「ってか、仁菜子の方が持ってないよね。全然さらに役に立たないよね」
「役に立たないとか言うなーー!ジュースくらい買えるよ!冷えた身体を暖められるよ!」
「はぁ、そうだね。うん」
「あっ!涼ちゃん、バカにしてるでしょ?」
「ちょっとね」

 それだけ言うと涼ちゃんは私の手を引くと、歩き出す。どこに行くかはわからない。ちょっとした私たちの反抗だ。期間限定の家出。少し格好良くて、なんだか格好悪い。

「山口くんにバレたらなんて言われるかな?」
「あーー。佐々木ね。たぶん、小坂かっこいい!!でしょ?」
「だよね?想像付くなー。佐々木くん、可愛いよね」
「それ、本人の前で言ってやりなよ。きっと僕はかっこいいって言われたい!って食らいついて来るからさ」
「そんなもの?」
「男ってそんなものだよ」

 そんな会話をしながら生まれ育った町を歩く。時折夜空を見上げながら立ち止まる。空には無数の星がちかちかと瞬いていて、小さな頃、おじいちゃんと一緒に見上げた空を思い出して胸の真ん中辺りが苦しくなった。 あの頃は皆とずっと一緒に居られると思っていて、全ては永遠だと思っていた。きらきらと何億個とある星一つにも私たちみたいな生命が居て同じように空を見上げて綺麗なんて思っているかもしれないと思っていた。そんな星空を見上げるのが大好きだった。

 そんな事を考えながらぼーっと星空を見上げていると、今まではっきりと輝いていた星が滲んで来る。あれ?どうしたんだろう?なんて思っていると、私の手に温かいものが触れた。

「仁菜子、何してんの?置いて行くよ。こんな所で迷子にならないでよ、頼むから」
「……迷子になんてならないよ!私の家まですぐじゃん。私、高校生だよ!」
「あ、そう。そうだよね。もう小学生じゃないよね?一度迷子になった事のある仁菜子さん?」
「うるさい。だから私、もう高校生。小学生じゃない」
「どうだか」

 私の言葉に涼ちゃんがやれやれと言うように息を大きく吐いている気配がした。私はそんなやりとりをしながらもずっと星の瞬きを見ていた。今までぼんやりと滲んでいた星が先程と同じようにはっきりとした輝きを取り戻した。と、その時だった。

「流れ星!涼ちゃん!流れ星だよ!」
「ああ、はいはい」
「願い事!何にしようかな」
「っていうか、もう流れたんでしょ?今更願っても叶わないでしょ?」
「大丈夫。多分。願うだけなら誰も文句言わないでしょ」
「そうだねー。そうすれば……」

 涼ちゃんはそれからだんまりを決め込んだ。私はそっと、叶わない事がわかっていながらも「みんながしあわせになれますように……」と、とても欲張りな願いを心の中で呟いた。

 涼ちゃんから伝わって来る手の温もりがとても嬉しくて、辛くて仕方が無いというのに、そんな想いがふと心に浮かんで来たんだ。



 ありがとう。涼ちゃん。





 私と涼ちゃんはそれから近くの児童公園に居た。小さな頃に一緒に遊んだ公園は、あの頃と違ってとても小さく見えた。一緒に二人乗りして、私だけぶっ飛んだブランコや、わざと立ったまま滑って危うく落ちそうになった滑り台。タコの形をした大きな遊具も大好きだった。

「わー。変わってないね。でもちっさい」

 私と涼ちゃんは鉄棒の前でそう言いながら笑う。

「ほんと、こんなに小さかったっけ?」
「だよね?涼ちゃん、足で跨げるじゃん」
「ここで逆上がりとかしてたのが信じられないんだけれど……」

 お互いに鉄棒にぶら下がってみる。すると思っていた通りに涼ちゃんはぶら下がる事など出来ずに、その場に座り込む形になってしまった。








「ほら、仁菜子。ココア」
「ありがとう」

 私と涼ちゃんは手持ちのお金でコーヒーとココアを買うと、児童公園内を一通り満喫した後に、ベンチに腰掛けた。私達が良く遊んでいた小学生の頃と違うのは、ペンキが塗り替えられている事だけど、置いてある場所とかはまったく変っていない。本当に懐かしい。

 あの頃は毎日が楽しくて、私と涼ちゃんは兄妹のように一緒に居る事が普通だった。そんな私達を高校生の圭ちゃんは、「おまえら本当に仲良しだよなー。うらやましい」なんて言いながら笑っていたっけ。
 圭ちゃんは何歳になっても私の事を妹扱いした。いつも「仁菜子が一番可愛い」って言ってくれた。その言葉は私にとって魔法の言葉だったのだ。お母さんに怒られて落ち込んだ時。涼ちゃんと喧嘩した時。大好きなおやつを食べる事が出来なかった時。圭ちゃんが私の頭を撫でて「仁菜子は最高に可愛い」と言ってくれるのが嬉しくて仕方がなかった。圭ちゃんの大きな掌が大好きだった……。

「仁菜子……」
「け、涼ちゃん。……私、これからどうすればいいのかな?……、圭ちゃんと今まで通りに出来るかな……」

 圭ちゃんとの思い出が次々と私の脳裏を駆けて行く。そんな事をずっと考えていると、凄く悲しくなって来て、自然と涙が溢れて来た。

「……辛いよ。涼ちゃん……」

 嗚咽を上げながらやっと言葉を紡ぐ。涙を止めようとしても、止まらない。必死で泣かないように唇を噛みしめると、息を止める。けれど、そんな事をしてもやっぱり涙は止まらなくて、泣くことをやめようとすると、嗚咽が漏れるから、何度も息を吸い込んだ。
 息を吸い込み過ぎて苦しくて、頭がぼーっとした。でも、涙と鼻水が出て来るからもういちど鼻をずずーっと啜りあげる。

「だから、兄ちゃんの事、好きなのやめれば良かったのにさ……」
「だって、本当に好きだったんだもん!そんなに簡単にやめる事なんて出来ない」
「ほんっとーにバカだよね。笑える」
「笑ってたの?!」
「笑ってたよ。何で絶対に叶う筈ないのに何で希望持ってんのさ、って」

 涼ちゃんが冷たい声で何の感情もこもってない風に言うから思わず腹が立って来る。わかってる。私だってわかってるよ。そんな事。何度も言うように。でも、そんなにはっきりと言う事ないじゃないか!

「涼ちゃんのバカ!」

 私は彼をみると、涙をいっぱい溜めたまま叫んだ。

「バカなのは仁菜子だって言ってるでしょ?本気で兄ちゃんのお嫁さんになれるとでも思ってたの?」

 その言葉に思わず私の表情が固まるのがわかった。

「……本気で思っているワケないじゃない……。知ってたよ。私は圭ちゃんに女の子として見てもらえてないって事」
「兄ちゃんは仁菜子の事を女の子としては見てたよ。でも、恋愛の対象じゃなかったってだけ……」
「恋愛対象じゃないって時点で女の子じゃないよ……」

 そう言った瞬間に私の瞳から少しの間止まっていたのに、また大粒の涙がこぼれ落ちた。今まで沢山泣いたから、もう涙なんて残っていないとばかり思っていた。けれども、涙は枯れることも無く出続ける。

「辛いよ……」

 静かな公園内に、私の鳴き声だけが響く。涼ちゃんはそれ以上何も言わずに私の隣に座って、ただただ私が落ち着くまでそっと頭を撫でてくれていた。

 いつか、圭ちゃんの事を良い思い出だったって思える日が来るのかな?今日の事を昔話として涼ちゃんと笑っていられる日が来るのかな……。

 そんな事を頬を伝う涙の温かさを感じながらぼーっとする頭で思った。
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