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第三章〜Another end〜
どうやら狸寝入りが好きなようだ side トライオス
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「───…カリーム、愛しているよ」
「………」
「どうか安らかに…」
「………あの子を…私の身代わりにでもしたの?そのくせ愛してるだなんて…最低ね」
アストラス神聖国への公道を一直線に駆け抜ける四頭馬車の中には、私の隣に座る彼と…向かいの席で横たわる下着姿のアイリスしかいない。
「やっぱり目が覚めていたんだね…君はどうやら狸寝入りが好きなようだ」
アイリスは下着姿にも動じず、大人しく座席に横たわって私をじっと見ていた。
彼女の瞳に陰りは見受けられない。
「……その様子だと…やはり私の力が効かないようだね」
「………」
残念だ…本当に。
目の前で嗤うアイリスが憎らしく思えるほどに…
「アイリス、私を見なさい」
「………」
言葉通りに躊躇うことなく真っ直ぐ見つめてくるアイリス。
だが微かに瞳が揺れる程度で、やはり彼女の瞳孔に変化は見られないかった。
「アイリス・ペルージャン、君を愛してる。この想いに応えてくれるね?」
「………」
「……はぁ…」
「猊下、今は長時間の移動もあってお疲れなのでは?」
「……なるほど。確かにその可能性もあるのかな…?」
兄弟以外の前で交合ったことはないが…
彼には福音の書についても話してしまったし、このままムーランの代わりに傍に置いておくのも悪くないな。
力が使えるのか試すためとはいえ…
せっかくの機会だ。
何か特別な命令でもしてみようか…?
「………キーファ公子」
「なんですか?ペルージャン公女」
「……どうして…私に求婚書を?この馬車に乗られているということは、今回の計画を知っていたのですよね?」
「あぁ、安心してください。貴女に振られたから今回の誘拐に加担したというわけではありません。社交界を騒がせているペルージャン公女への求婚書が猊下おひとりだけだと可哀想かな?と思いまして」
「………ふざけないで…」
「ははっ、どうやら嫌われてしまったようですね。まぁ、初対面の時から好意的ではないと薄々勘づいてはいましたが…それでも、ペルージャン公爵なら猊下からの求婚書を断る理由付けのために、国内の貴族令息から届いた求婚書を選ぶ可能性が高いかと思っただけですよ」
「………」
「養女とはいえ元は平民孤児と聞いていたので、貴族からは相手にもされていないのだろうと思っていたのに…いざ帰国してみると王家主催のパーティーでは王太子とファーストダンスを踊るし、シリウス・マクレーガンと色を合わせたドレスは着ているし…」
「………」
「伺っていた話と違って猊下御本人も、ペルージャン公女からは随分と嫌われていたようですし…って、あれ?猊下、聞いてますか?」
「……理解出来ないわ。キーファ公子は私を娶りたかったわけではないのでしょう?」
「はい。仮に私が選ばれた時は、猊下との約束通り書面上の妻にするつもりでしたから」
「………」
「まぁ、結局どちらも選ばれなかったおかげで、こんな夜逃げみたいな強硬手段を取らされることになったわけなんですけど…猊下が嫁なんて言うからですよ?分かってます?」
隣のキーファに小突かれたことで現状を思い出す。
「ああ、もちろん分かっているさ。キーファ・バロルード、君は私に忠誠を誓ってくれるよね?」
「………ええ、もちろんです。至尊であるトライオス教皇にお仕え出来て光栄です」
山吹色の瞳から光が消え、事務的な笑顔を浮かべるキーファ。
断定的な命令は強制力が強いものの、任務完了と共に洗脳が解除されてしまう。
結局いつもと同じような命令にはなってしまったが…やはり私の力には問題ないようだ。
ならどうしてアイリスには効かないのだろうか…?
「………」
気を取り直して、目を見張っているアイリスに向き直る。
「…さぁ、アイリス。キーファばかり見てないで私のことを見てごらん?」
「………」
「ははっ…全く…悪い子だな」
何度言っても逸らされる瞳に久しぶりに愉快な気分になってくる。
命令すれば素直に聞く人形しかいなかったからか…
泣いて嫌がるアイリスを組み敷くのも新鮮で悪くないだろう。
唯一の懸念としては…
アイリスの言う通り、シリウスのお下がりの可能性が高いという事なのだが…
まぁ実際問題、乙女でなくても祝福は授けられるかもしれないしね…?
「アイリス…」
「………」
「キーファが目の前で自害すれば私を見てくれるのかな?」
「っ……」
「……アイリスは本当に優しい子だね。やはり君が福音書の乙女…《女神の愛し子》に違いない…!」
「福音書の乙女…?」
「君はアストラス神聖国の聖書を読んだことはあるかい?」
「………いいえ」
「まぁ、なかなか他国じゃ聞く機会もないだろうしね。特別にアイリスにも見せてあげよう…」
懐からシルクの布で包んでいた書物を取り出して見せる。
「これはアストラス神聖国の礎となっている聖典の原書とも呼ばれる世界に一冊しかない貴重な書物なんだ…初代教皇はこの《福音書》を肌身離さず持ち歩いていたらしい」
「………」
怪訝な表情で眉を上げるアイリス。
悲しいことに、この本がどれだけ貴重で素晴らしいものなのか彼女には伝わっていないようだ。
「……秘匿とされているこの書は…本来ならば君のような者が目にすることも叶わない尊いものなんだよ?アイリス。こんな機会をいただけた感謝の気持ちを忘れず…心して聞くように。いいね?」
「………」
《祈りを捧げよ
切なる願いは聞き届けられん
純白に抱かれし者よ
夢見の力で汝の禍福を採択せよ
女神の愛し子がために
朝焼けに空が染まりし時
刻の女神は祝福を授けるだろう》
読み終えてもアイリスの瞳に動揺は見られなかった。
ふむ…
キーファの言う通り、この一文はさほど重要ではないのかもしれない。
「…今の一文はラマルード公国の古語で書かれているのだが、初代教皇が書き加えたものなのかそれ以前の…歴代のラマルード公王が書き残したものなのかは分かっていない。誰が書いたのかどういった意味が込められているのか…気になるだろう?ちなみに、他のページはこの世界のどの国の言葉とも違う…複雑な文字で綴られていてね。読み方はもちろん、書かれている内容すらいまだ解読出来ていないんだ。つまり…」
「読めなくて意味もわかっていない本で…どうやって聖典が書けるのよ。デタラメじゃない」
どうやらアイリスは頭も良いらしい。
断然嬉しくなってくる。
「アストラス神聖国では《赤髪の乙女》を聖女として崇めているのは君も知ってるよね?」
「………」
「それは聖典第一章にある《赤き慈愛に平伏せよ かの御力によりこの大地は創造された》という一節から来ているものなんだけど…まぁ、あけすけなく言えば…地母神であるディアーナが赤髪の女神だと云われているからなんだ」
「………」
「信徒でもあるあまたのアストラス神聖国民が…心の拠り所として崇めている聖典…そして、その原書を唯一読み解ける能力を持った教皇…その権力がどれだけ素晴らしいものか、君ならわかるよね?」
「……つまり、そんな権力のためだけに…読めもしない本を福音書だなんて言いはって、こんなふざけたことまでやってのけたと言いたいの?人の思いを…尊厳を踏みにじってまで…あなた達は一体…!!」
「これは間違いなく福音書だよ。誰にも読めない言語が存在する時点で、この書がいかに貴重なものかは一目瞭然だ。私の…この目と同じく、平凡な人間には決して与えられることはない…奇跡の御力というものはこの世界に存在するんだ、アイリス」
「………」
「もう分かっているとは思うけど…歴代の教皇が長年白髪の乙女にこだわってきたのは、この福音書に書かれている《女神の愛し子》から刻の女神の祝福を授けてもらうためなんだ」
「………」
「全ての犠牲は…今この時…神の申し子である私が、君という特別な存在を手に入れて…失われた偉大なる女神の祝福を手に入れるためなんだ!私達は…選ばれた存在なんだよ、アイリス…!」
「…狂ってる」
「ははっ……そうだね。私も、心底そう思うよ…」
笑って同意するとアイリスは目を見開いてくれる。
「さぁ、アイリス。せっかくの機会だから君も直接見てみるかい?ここのページなんて祝福を授けてもらえそうでワクワクしないか?」
「……結構です。元より私は信仰心がありませんし、ラマルード公国の古語も存じ上げませんので」
視線を逸らしたまま目を閉じてしまうアイリス。
「ふぅ、可愛げがないな」
「…何故、私にそこまでこだわるの?私が白髪だから?他にも白髪の女性なんていくらでもいるじゃない…」
「そうだね。まぁそもちろんの髪色もあるんだけど、君にはこの目の力も効かないみたいだし…それに…君、ソドムの娘なんじゃない?」
「………ソドムとは?」
「はぁ…煩わしいなぁ、このやり取り…ソドムがここにいれば話も早かったのに…」
「………」
ラマルード公国の公妃はほとんど白髪だと聞いたから安直に髪色に囚われていたが、いい加減その見方自体を変えるべきだろうか?
たしかにモートン王国の初代女王は金髪だし…モートン一族から白髪の子が生まれたという記録もなかった。
ソドムの妻がモートンのアイリーシャ姫であること…白髪紫眼だったということも、目の力を使って聞き出した情報だから嘘では無いはずだが…
「う~ん、スッキリしないけど…まぁいっか、これからゆっくりこの身体に聞けば済む話だしね…?」
「……触らないで。穢らわしい…」
頬に触れただけで酷い言い草だ。
「君こそ。シリウスと交わるなんて…穢らわしいことを…」
「………ふふっ…」
「アイリス・ペルージャン、笑うんじゃない」
「………だって可笑しいじゃない。こんな大それたことをして、私をアストラスへ連れていったところで…あなたが望むものは手に入れられないのよ?」
「君を手に入れたじゃないか…」
「私の心は…シリウスと共にあるわ」
「………はぁ…」
たしか、ソドムの娘の名前は…
「アイリス…いや、イーリス。私を愛してると言ってごらん?」
「………」
「君がイーリスなんだね?モートン王家…いや、ラマルード公国の末裔であるアイリーシャの娘…私の魂の片割れ…」
驚いたように瞳孔を開くアイリスに心が震えてしまう。
やはり…名前が違ったために力が使えなかったのだ。
「イーリス、愛してる。さぁ、私を愛してると言うんだ」
「………トライオス猊下。私は……愛しています…」
「………!」
「シリウス・マクレーガン、ただ一人を…私は誰よりも愛してるわ」
ふふっ、と嗤うアイリス。
おちょくられたのだと気づくと同時に、込み上げる怒りにアイリスへ手を振り上げてしまう。
「───…いい加減にッ…!!」
先程のように殴られると思ったのか咄嗟に身を竦めるアイリスを見て溜飲が下がる。
「……相変わらずいちいち大仰ね…面白くない男」
「はぁ………君は本当に人の神経を逆撫でするのが得意なようだ…」
腰を浮かせた拍子に福音書を取り落としてしまっていた。
アイリスのペースに乗せられないよう心を落ち着かせながら福音書へ手を伸ばす。
「……あら?懐かしい…福音書ってこの文字で書かれているのね。これも日記なの?」
「………は?」
「…女神…フォルトゥーナ?初めて聞く名前ね?」
嫌な予感に手が震えてしまう。
「……ま、まさか…お前はこれが読めるの…────」
「?」
「なッ───!!」
アイリスの紫眼が…
しかも、左の瞳だけが何故か赤く染まっていた。
アイリスの赤い瞳を見た瞬間、目に痛みを覚えて目頭を押さえる。
ゴミでも入ったのか頬を伝う涙を拭うと…
「……は?はっ?!」
「猊下…?」
袖に付いた赤い液体に驚いてしまう。
「────…いッ!!痛いッ…!!なんでだッ?!キーファ!!」
「落ち着いてください!猊下っ!!」
余りの痛みに立ち上がってしまい、支えようとしてくれたキーファを殴って押し退ける。
尋常ではない痛みに全身が震えてしまう。
「……め…女神フォルトゥーナ様、どうか…どうか私をお助けください!」
「フォルトゥーナって…さっきも書いてたけど一体…」
「───黙れッ!!よくも女神様のご尊名を…!!」
「………なによ、名前くらい…」
ついカッとなって怒鳴りつけると、目を丸くしたアイリスが口を噤む。
のらりくらりと誤魔化してばかりのアイリスにはいい加減うんざりしてくる。
「いつまでも人を小馬鹿にして…!!」
────ガタンッ…ガガガガガガッ…!!
「───きゃあああっ!!」
「うわぁっ!!」
「ぐッ?!今度はなんなんだっ!!」
馬の嘶きと共に前のめりになるような衝撃に頭を打ち付けてしまう。
馬車は大きく傾き前輪が外れてしまったのか車体全体が激しく揺れている。
「「────!!」」
車体の底を地面に擦り付けながらもしばらく引きずられていた馬車は、ほどなく完全に停止してしまった。
「───…くそ…っ!!」
こんな状況で馬車の不備だと…?!
国境まではまだ四日の距離があるというのに…!!
いくら代わりの死体を用意していようと…
この馬車が国境を越えなければ意味が無い。
私もアイリスも一刻も早くこの国から出なければならないというのに…!
───ガンッ!ガンッ!バキッ!!
仕方なく歪んだドアを蹴破り外に出る。
「……はぁ…」
馬車の中で頭を打ち付けたせいで平衡感覚を失っているのか…
酷い頭痛と夜闇も相まってどうにも足元が覚束無い。
幸い目から出ていた血は止まったようだが…
「───猊下…!」
後ろから続いて出てきたキーファに再び呼び止められる。
「………なんだ…キーファ」
「猊下!!」
「……はぁ、一体…」
だが何時までも用件を言わないキーファに腹を据えかね振り向くと、自分の首元に剣が当てられていたことに気づく。
「───!!」
剣を携え、不遜にも馬上から私を見下ろしていたのは…
底冷えするような怒りを孕んだ青い瞳だった。
「………」
「どうか安らかに…」
「………あの子を…私の身代わりにでもしたの?そのくせ愛してるだなんて…最低ね」
アストラス神聖国への公道を一直線に駆け抜ける四頭馬車の中には、私の隣に座る彼と…向かいの席で横たわる下着姿のアイリスしかいない。
「やっぱり目が覚めていたんだね…君はどうやら狸寝入りが好きなようだ」
アイリスは下着姿にも動じず、大人しく座席に横たわって私をじっと見ていた。
彼女の瞳に陰りは見受けられない。
「……その様子だと…やはり私の力が効かないようだね」
「………」
残念だ…本当に。
目の前で嗤うアイリスが憎らしく思えるほどに…
「アイリス、私を見なさい」
「………」
言葉通りに躊躇うことなく真っ直ぐ見つめてくるアイリス。
だが微かに瞳が揺れる程度で、やはり彼女の瞳孔に変化は見られないかった。
「アイリス・ペルージャン、君を愛してる。この想いに応えてくれるね?」
「………」
「……はぁ…」
「猊下、今は長時間の移動もあってお疲れなのでは?」
「……なるほど。確かにその可能性もあるのかな…?」
兄弟以外の前で交合ったことはないが…
彼には福音の書についても話してしまったし、このままムーランの代わりに傍に置いておくのも悪くないな。
力が使えるのか試すためとはいえ…
せっかくの機会だ。
何か特別な命令でもしてみようか…?
「………キーファ公子」
「なんですか?ペルージャン公女」
「……どうして…私に求婚書を?この馬車に乗られているということは、今回の計画を知っていたのですよね?」
「あぁ、安心してください。貴女に振られたから今回の誘拐に加担したというわけではありません。社交界を騒がせているペルージャン公女への求婚書が猊下おひとりだけだと可哀想かな?と思いまして」
「………ふざけないで…」
「ははっ、どうやら嫌われてしまったようですね。まぁ、初対面の時から好意的ではないと薄々勘づいてはいましたが…それでも、ペルージャン公爵なら猊下からの求婚書を断る理由付けのために、国内の貴族令息から届いた求婚書を選ぶ可能性が高いかと思っただけですよ」
「………」
「養女とはいえ元は平民孤児と聞いていたので、貴族からは相手にもされていないのだろうと思っていたのに…いざ帰国してみると王家主催のパーティーでは王太子とファーストダンスを踊るし、シリウス・マクレーガンと色を合わせたドレスは着ているし…」
「………」
「伺っていた話と違って猊下御本人も、ペルージャン公女からは随分と嫌われていたようですし…って、あれ?猊下、聞いてますか?」
「……理解出来ないわ。キーファ公子は私を娶りたかったわけではないのでしょう?」
「はい。仮に私が選ばれた時は、猊下との約束通り書面上の妻にするつもりでしたから」
「………」
「まぁ、結局どちらも選ばれなかったおかげで、こんな夜逃げみたいな強硬手段を取らされることになったわけなんですけど…猊下が嫁なんて言うからですよ?分かってます?」
隣のキーファに小突かれたことで現状を思い出す。
「ああ、もちろん分かっているさ。キーファ・バロルード、君は私に忠誠を誓ってくれるよね?」
「………ええ、もちろんです。至尊であるトライオス教皇にお仕え出来て光栄です」
山吹色の瞳から光が消え、事務的な笑顔を浮かべるキーファ。
断定的な命令は強制力が強いものの、任務完了と共に洗脳が解除されてしまう。
結局いつもと同じような命令にはなってしまったが…やはり私の力には問題ないようだ。
ならどうしてアイリスには効かないのだろうか…?
「………」
気を取り直して、目を見張っているアイリスに向き直る。
「…さぁ、アイリス。キーファばかり見てないで私のことを見てごらん?」
「………」
「ははっ…全く…悪い子だな」
何度言っても逸らされる瞳に久しぶりに愉快な気分になってくる。
命令すれば素直に聞く人形しかいなかったからか…
泣いて嫌がるアイリスを組み敷くのも新鮮で悪くないだろう。
唯一の懸念としては…
アイリスの言う通り、シリウスのお下がりの可能性が高いという事なのだが…
まぁ実際問題、乙女でなくても祝福は授けられるかもしれないしね…?
「アイリス…」
「………」
「キーファが目の前で自害すれば私を見てくれるのかな?」
「っ……」
「……アイリスは本当に優しい子だね。やはり君が福音書の乙女…《女神の愛し子》に違いない…!」
「福音書の乙女…?」
「君はアストラス神聖国の聖書を読んだことはあるかい?」
「………いいえ」
「まぁ、なかなか他国じゃ聞く機会もないだろうしね。特別にアイリスにも見せてあげよう…」
懐からシルクの布で包んでいた書物を取り出して見せる。
「これはアストラス神聖国の礎となっている聖典の原書とも呼ばれる世界に一冊しかない貴重な書物なんだ…初代教皇はこの《福音書》を肌身離さず持ち歩いていたらしい」
「………」
怪訝な表情で眉を上げるアイリス。
悲しいことに、この本がどれだけ貴重で素晴らしいものなのか彼女には伝わっていないようだ。
「……秘匿とされているこの書は…本来ならば君のような者が目にすることも叶わない尊いものなんだよ?アイリス。こんな機会をいただけた感謝の気持ちを忘れず…心して聞くように。いいね?」
「………」
《祈りを捧げよ
切なる願いは聞き届けられん
純白に抱かれし者よ
夢見の力で汝の禍福を採択せよ
女神の愛し子がために
朝焼けに空が染まりし時
刻の女神は祝福を授けるだろう》
読み終えてもアイリスの瞳に動揺は見られなかった。
ふむ…
キーファの言う通り、この一文はさほど重要ではないのかもしれない。
「…今の一文はラマルード公国の古語で書かれているのだが、初代教皇が書き加えたものなのかそれ以前の…歴代のラマルード公王が書き残したものなのかは分かっていない。誰が書いたのかどういった意味が込められているのか…気になるだろう?ちなみに、他のページはこの世界のどの国の言葉とも違う…複雑な文字で綴られていてね。読み方はもちろん、書かれている内容すらいまだ解読出来ていないんだ。つまり…」
「読めなくて意味もわかっていない本で…どうやって聖典が書けるのよ。デタラメじゃない」
どうやらアイリスは頭も良いらしい。
断然嬉しくなってくる。
「アストラス神聖国では《赤髪の乙女》を聖女として崇めているのは君も知ってるよね?」
「………」
「それは聖典第一章にある《赤き慈愛に平伏せよ かの御力によりこの大地は創造された》という一節から来ているものなんだけど…まぁ、あけすけなく言えば…地母神であるディアーナが赤髪の女神だと云われているからなんだ」
「………」
「信徒でもあるあまたのアストラス神聖国民が…心の拠り所として崇めている聖典…そして、その原書を唯一読み解ける能力を持った教皇…その権力がどれだけ素晴らしいものか、君ならわかるよね?」
「……つまり、そんな権力のためだけに…読めもしない本を福音書だなんて言いはって、こんなふざけたことまでやってのけたと言いたいの?人の思いを…尊厳を踏みにじってまで…あなた達は一体…!!」
「これは間違いなく福音書だよ。誰にも読めない言語が存在する時点で、この書がいかに貴重なものかは一目瞭然だ。私の…この目と同じく、平凡な人間には決して与えられることはない…奇跡の御力というものはこの世界に存在するんだ、アイリス」
「………」
「もう分かっているとは思うけど…歴代の教皇が長年白髪の乙女にこだわってきたのは、この福音書に書かれている《女神の愛し子》から刻の女神の祝福を授けてもらうためなんだ」
「………」
「全ての犠牲は…今この時…神の申し子である私が、君という特別な存在を手に入れて…失われた偉大なる女神の祝福を手に入れるためなんだ!私達は…選ばれた存在なんだよ、アイリス…!」
「…狂ってる」
「ははっ……そうだね。私も、心底そう思うよ…」
笑って同意するとアイリスは目を見開いてくれる。
「さぁ、アイリス。せっかくの機会だから君も直接見てみるかい?ここのページなんて祝福を授けてもらえそうでワクワクしないか?」
「……結構です。元より私は信仰心がありませんし、ラマルード公国の古語も存じ上げませんので」
視線を逸らしたまま目を閉じてしまうアイリス。
「ふぅ、可愛げがないな」
「…何故、私にそこまでこだわるの?私が白髪だから?他にも白髪の女性なんていくらでもいるじゃない…」
「そうだね。まぁそもちろんの髪色もあるんだけど、君にはこの目の力も効かないみたいだし…それに…君、ソドムの娘なんじゃない?」
「………ソドムとは?」
「はぁ…煩わしいなぁ、このやり取り…ソドムがここにいれば話も早かったのに…」
「………」
ラマルード公国の公妃はほとんど白髪だと聞いたから安直に髪色に囚われていたが、いい加減その見方自体を変えるべきだろうか?
たしかにモートン王国の初代女王は金髪だし…モートン一族から白髪の子が生まれたという記録もなかった。
ソドムの妻がモートンのアイリーシャ姫であること…白髪紫眼だったということも、目の力を使って聞き出した情報だから嘘では無いはずだが…
「う~ん、スッキリしないけど…まぁいっか、これからゆっくりこの身体に聞けば済む話だしね…?」
「……触らないで。穢らわしい…」
頬に触れただけで酷い言い草だ。
「君こそ。シリウスと交わるなんて…穢らわしいことを…」
「………ふふっ…」
「アイリス・ペルージャン、笑うんじゃない」
「………だって可笑しいじゃない。こんな大それたことをして、私をアストラスへ連れていったところで…あなたが望むものは手に入れられないのよ?」
「君を手に入れたじゃないか…」
「私の心は…シリウスと共にあるわ」
「………はぁ…」
たしか、ソドムの娘の名前は…
「アイリス…いや、イーリス。私を愛してると言ってごらん?」
「………」
「君がイーリスなんだね?モートン王家…いや、ラマルード公国の末裔であるアイリーシャの娘…私の魂の片割れ…」
驚いたように瞳孔を開くアイリスに心が震えてしまう。
やはり…名前が違ったために力が使えなかったのだ。
「イーリス、愛してる。さぁ、私を愛してると言うんだ」
「………トライオス猊下。私は……愛しています…」
「………!」
「シリウス・マクレーガン、ただ一人を…私は誰よりも愛してるわ」
ふふっ、と嗤うアイリス。
おちょくられたのだと気づくと同時に、込み上げる怒りにアイリスへ手を振り上げてしまう。
「───…いい加減にッ…!!」
先程のように殴られると思ったのか咄嗟に身を竦めるアイリスを見て溜飲が下がる。
「……相変わらずいちいち大仰ね…面白くない男」
「はぁ………君は本当に人の神経を逆撫でするのが得意なようだ…」
腰を浮かせた拍子に福音書を取り落としてしまっていた。
アイリスのペースに乗せられないよう心を落ち着かせながら福音書へ手を伸ばす。
「……あら?懐かしい…福音書ってこの文字で書かれているのね。これも日記なの?」
「………は?」
「…女神…フォルトゥーナ?初めて聞く名前ね?」
嫌な予感に手が震えてしまう。
「……ま、まさか…お前はこれが読めるの…────」
「?」
「なッ───!!」
アイリスの紫眼が…
しかも、左の瞳だけが何故か赤く染まっていた。
アイリスの赤い瞳を見た瞬間、目に痛みを覚えて目頭を押さえる。
ゴミでも入ったのか頬を伝う涙を拭うと…
「……は?はっ?!」
「猊下…?」
袖に付いた赤い液体に驚いてしまう。
「────…いッ!!痛いッ…!!なんでだッ?!キーファ!!」
「落ち着いてください!猊下っ!!」
余りの痛みに立ち上がってしまい、支えようとしてくれたキーファを殴って押し退ける。
尋常ではない痛みに全身が震えてしまう。
「……め…女神フォルトゥーナ様、どうか…どうか私をお助けください!」
「フォルトゥーナって…さっきも書いてたけど一体…」
「───黙れッ!!よくも女神様のご尊名を…!!」
「………なによ、名前くらい…」
ついカッとなって怒鳴りつけると、目を丸くしたアイリスが口を噤む。
のらりくらりと誤魔化してばかりのアイリスにはいい加減うんざりしてくる。
「いつまでも人を小馬鹿にして…!!」
────ガタンッ…ガガガガガガッ…!!
「───きゃあああっ!!」
「うわぁっ!!」
「ぐッ?!今度はなんなんだっ!!」
馬の嘶きと共に前のめりになるような衝撃に頭を打ち付けてしまう。
馬車は大きく傾き前輪が外れてしまったのか車体全体が激しく揺れている。
「「────!!」」
車体の底を地面に擦り付けながらもしばらく引きずられていた馬車は、ほどなく完全に停止してしまった。
「───…くそ…っ!!」
こんな状況で馬車の不備だと…?!
国境まではまだ四日の距離があるというのに…!!
いくら代わりの死体を用意していようと…
この馬車が国境を越えなければ意味が無い。
私もアイリスも一刻も早くこの国から出なければならないというのに…!
───ガンッ!ガンッ!バキッ!!
仕方なく歪んだドアを蹴破り外に出る。
「……はぁ…」
馬車の中で頭を打ち付けたせいで平衡感覚を失っているのか…
酷い頭痛と夜闇も相まってどうにも足元が覚束無い。
幸い目から出ていた血は止まったようだが…
「───猊下…!」
後ろから続いて出てきたキーファに再び呼び止められる。
「………なんだ…キーファ」
「猊下!!」
「……はぁ、一体…」
だが何時までも用件を言わないキーファに腹を据えかね振り向くと、自分の首元に剣が当てられていたことに気づく。
「───!!」
剣を携え、不遜にも馬上から私を見下ろしていたのは…
底冷えするような怒りを孕んだ青い瞳だった。
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あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。
ご都合主義の多分ハッピーエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。
【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。
五月ふう
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今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。
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「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」
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