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 はあっ、はあっ、はあっ……。

 ――苦しいっ。

 闇雲に走り続けて完全に息が上がってしまった百合は山を下る坂道の途中で立ち止まり、大きく息を吸った。

 真っ暗な山道の途中で、耳に聞こえてくるのは草叢の虫たちのささやかな鳴き声とバクバクと音を立てる自分の心音だけだ。

 あの後、どうやって家を出たのか自分でもよく覚えていない。

 気が付いた時には、無我夢中で麓に向かう道路の脇をひたすら走り続けていた。

 夏の夜独特の湿気を含んだ重たい空気と草いきれのムンとした匂いが辺りに立ち込めている。

 田舎で育った百合にはどこか懐かしいその匂いに、幼い頃の思い出が突然、頭の中に蘇った。

 夏の夕暮れ、涼やかな虫の音。

 優しい祖母の昔語り――。

 祖母が繰り返し語ってくれた昔話の中に「鬼の嫁取」という物語があった。



 昔々……。

 時の都は京都、そしてここは都から遠く離れた国だった。

 草深いひなの地で人々は慎ましく田畑を守り命を繋いでいた。

 山々には人間とは異なる種族――あやかしたちが住んでいた。

 お互いの世界を無暗に侵さないための暗黙の了解のようなものがいくつもあって、それを守ることで二つの世界の間の『境界』が保たれていた。

 ある夏、この辺り一帯は一粒の雨にも恵まれなかった。

 田んぼが干上がり畑の作物がことごとく立ち枯れてゆくのを人々はただただ見守るしかなかった。

 このままでは秋に米を収穫できることなど出来そうもない。

 やがて厳しい冬と共に恐ろしい飢えが襲ってくることは間違いなかった。

 村人たちは戦慄し、少なくなった水田用の水の工面や食物の確保に奔走していた。

 そんな折、里の少女が僅かばかりの恵みを求めて山に分け入っては自生する山菜や木の実を探して歩いていた。

 山に入ると、必ず鳥や山鼠などの小さな動物が現れて少女を導くように先導した。

 小さな背中を追いかけるように山道を歩くと、決まってそこにはなにがしかの収穫……ヤマモモやフキなどの食べ物を見つけることができるのだった。

 ある日、山菜取りの合間に少女は山の中に小さな湧き水を見つけた。

 清らかな水が湧き出る水辺で一休みしながら、少女はぽつりとつぶやいた。

「ああ、水さえあれば……。田畑を潤す水さえあれば、みんなを飢えから救うことができるのに」

 尽きることなく湧き出る清水を見つめていると、ふと、小さな水たまりに大きな黒い影が差したことに気づいた。

 誰かいる……!?

「待て、そのままで聞け……」

 慌てて振り返ろうとした少女の動きを止めたのは、突然上から降ってきた深く艶のある男の声だった。
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