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21-3 伯爵家の御曹司
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まるで重大な秘密を告白するかのように、フィリップは小声で美鈴に告げた。
まさか、これほどの腕前の持ち主だったとは……。
端正に彫り上げられた中央部のバラも、蓋部分に入れられた透かし彫りも、熟練の職人の手によるものかと思うほど美しい仕上がりだった。
「フィリップ様が……ご自分で?」
美鈴の問いにピクンと肩を震わせると、フィリップはもう一度こっくりと頷いた。
「凄い……! フィリップ様には才能があるのですね。こんな見事な細工ができるなんて」
「いいえ! 尊敬する人に比べたら私など、まだまだです。それに……」
もじもじと身体を軽く左右に揺すりながら、フィリップは小さな声で呟いた。
「貴女に……こんなことをお話ししてよいのか……でも、本当のところ」
意を決したような表情でフィリップは美鈴を見つめた。
「早く……身を固めることを父は望んでいます。でも、本当は……リタリアに行きたいのです」
「リタリア……!」
絵画をはじめとした芸術家、著名な工芸家を多く抱える隣国のリタリア。
フランツ王国からも貴族の青年達が教育の最終過程として訪れることがあるというが――。
「リタリアに行って……私の作品を見てもらい……教えを乞いたい方がいるので、でも」
夢見るような瞳を上げて、フィリップは天を仰いだ。
「きっと……無理なんです。僕は一応長男だし。才能だって、大したものではないかもしれないし……」
淋しそうなフィリップの横顔を見つめていると、美鈴は胸の中にふつふつと何かがこみあげて来るのを感じた。
「フィリップ様……自分の気持ちに素直になってくださいませ」
驚いたようにフィリップが顔を上げて美鈴を見た。
「……せっかく、素晴らしい才能を持っていらっしゃるのに。諦めるなんて……!」
もったいなさすぎる……美鈴は心からそう思った。
こんなことを言って……いいのだろうか?
私は婚活をしているはずじゃ……フィリップの結婚する気が削がれてしまったら、どうするの?
頭の中にいるもう一人の冷静な自分がそう言っているのが聞こえる。
しかし、目の前のフィリップの誠実な人柄やひたむきな思いを知ってしまった今、自分の利益のために彼の心を婚活に向けようなどとは考えらえなくなっていた。
「ご両親には、『独身の内に見聞を深めるため』とおっしゃればいいことです。こんなチャンスは滅多にないと思いますわ」
婚活中の、令嬢――そして、目の前の相手はお見合いの相手……しかも伯爵家の御曹司。
自分の立場を忘れてしまったかのように、気づけば美鈴はリタリア行きを可能にする具体的な方法まで熱弁してしまっている。
「まずは教えを乞いたいというその方にお手紙を書いて……伯爵家の家名をもってすれば、それも叶うでしょう。もしリタリアでも有数の彫金師に認めていただけるようなら、きっとご両親も許してくださるのでは?」
美鈴の熱のこもった言葉に、驚いた様子でぼうぜんと彼女を眺めていたフィリップがふと我に返った。
「貴女の言う通りだ……!」
フィリップは真剣な顔で何度も頷いた。
「何もしないまま、終わるのは僕も嫌だ……。リタリアに、行ってみることにするよ」
さきほどとは打って変わり、自信と希望に満ちた顔つきでフィリップは颯爽と立ち上がった。
……ああ、むざむざ、伯爵家の御曹司との結婚のチャンスを……。
そう悔やむ気持ちがないわけでない、しかし、美鈴はなぜだか晴れ晴れとした気分だった。
「ミレイ殿……ありがとう! 君が、僕に勇気をくれたんだ」
そう言ってフィリップは美鈴の両手をキュッと握った。
「いいえ、わたしは何も……。フィリップ様のご活躍をお祈りしておりますわ」
にっこりと笑って美鈴はフィリップに答えた。
「君こそ、元気で……。リタリアから、手紙を書くよ」
そう言い残すと、何度もこちらを振り返りながらフィリップは伯爵家の召使いと共に、元来た小路を帰ってゆく。
フィリップの姿が完全に見えなくなったところで、美鈴は椅子に腰を下ろすと、ほうっと息を吐いた。
……やっぱり、向いていないのかしら。
駆け引きなんて、自分にはとてもできそうにない……。
夏空は蒼く澄み渡り、多少の暑さはあるものの、空気は乾燥して過ごしやすい……。
それにしても疲れたわ。……いっそここで眠ってしまいたい。
もちろんそんなことは叶わないと知りながら、眠気を感じてあくびをしながら、美鈴は椅子に上半身を横たえた。
そっと目を閉じると、小鳥のさえずりと遠くからかすかに聞こえてくる賑やかなメインストリートのざわめきだけが聞こえてくる。
そうして数分の間じっと微動だにせず横たわっていると、普段より研ぎ澄まされた耳がかすかな足音と衣擦れの音を捉えた。
……執事が呼びに来たのかしら?
うっすらと目を開けた美鈴の瞳に映ったのは、黒髪の長身――趣味の好い夏物のグレイの上衣、白のズボン、男らしい端正な顔立ち……。
「……! リオネル」
飛び起きるように身体を起こして居ずまいを正す。
「やぁ、奇遇だな」
にっこりと笑いかけながら軽く帽子を脱いで、リオネルは美鈴に会釈した。
なぜ、彼がここに……。
そう思ってからすぐに美鈴はそれが愚問だと思い直した。
ジャネットに子爵夫人、彼の情報源はいくらでも思い当たる。
ましてや、今日の装い――ドレスの準備という点で彼はこのお見合いに多大な貢献をしてくれた人物だ。
美鈴がいつどこでフィリップと会う手はずになっているか……知らない方がおかしいではないか。
「奇遇ね。お散歩かしら?」
「まあ、そんなところだ。隣、座っても?」
「ええ、どうぞ」
お見合いに失敗した今、気が抜けてリオネルに突っ張る気さえ失くしてしまったようだった。
「……お見合いは失敗よ。フィリップ様はリタリアに行くことになったわ」
「へえ……こんなにも魅力的な君を残して? 信じられないな」
わざとらしく眉を上げて、リオネルは意外だという表情を浮かべて見せる。
「……で、君の『気持ち』は?」
こころもち美鈴の方へ身を乗り出してリオネルは低い声で囁いた。
「よくわからないけど……。スッキリした気分よ。少し、残念な気もするけど……これで良かったんだって思える」
「世の中には、いろんな男がいるものだ。いろんな女がいるように」
神妙な顔でリオネルは頷くと、おもむろに立ち上がり美鈴に向かって片手を差し出した。
「もう少し、寄り道しないか。執事には、俺が話をつけるから……」
帰りの道すがら、リオネルは馬車をカフェの近くに停めさせ、召使いに二言三言言い聞かせた。
カフェへ使い走りに遣った召使いが持ち帰ったのは、冷たいアイスクリーム。
「さ、召し上がれ」
リオネルに勧められてそっと口をつけると、ひんやりとした感触とともに濃厚なヴァニラとほんのわずかなリキュールの香りが口の中に広がる。
「美味しい……!」
ちょうど喉が渇いていたこともあり、冷たいアイスクリームの上品な甘さはたちまちのうちに美鈴を虜にした。
「気に入ってもらえてよかった」
まるで子供のように無邪気にアイスに集中している彼女を、リオネルは目を細めて見つめている。
「……ミレイ、俺は少しの間旅に出る」
「……え?」
アイスクリームを食べ終え、馬車が再びルクリュ家へ向かって走り出した時、リオネルは美鈴に打ち明けた。
「ヴァカンスと商用旅行を兼ねて、数か国を巡ってくる。ひと月ほどは留守にするつもりだ」
「そう……、それは……」
この世界にやって来てから今までというもの、3日とリオネルと顔を合わせないことはなかった。
特にこのところは舞踏会やお見合いの衣装合わせでずっと彼の世話になりっぱなしだったことに、美鈴は改めて思い至った。
「リオネル……、あの」
こちらを見つめるヘーゼルグリーンの瞳がそっと優し気に細められる。
「色々と……ありがとう。舞踏会のことも、このドレスも……」
――素直に、心から感謝を伝えたいだけなのに。
たどたどしく言葉を紡ぎながら、美鈴は自分が歯がゆくて仕方なかった。
「…貴方がいなかったら、どうなっていたか分からないわ。感謝しています、本当に……」
リオネルの顔を見上げた美鈴の頬に、軽くリオネルの温かく大きな手が触れた。
「まるで、永の別れみたいだな。……俺はすぐに帰ってくる。君に会いに」
そこまで言ってリオネルは、おや、という風に少々驚いたような表情を浮かべた。
「クリームが、ついてるぞ」
「えっ、どこに??」
うっかりして、服にこぼしてしまったかと思った美鈴は、慌てて胸元を確認した。
「ちょっと待ってくれ、ちゃんと取ってやるから……」
懐からハンカチを取り出したリオネルが美鈴の傍ににじり寄る。
「動かないで……目を瞑って」
……なんで、目を??
そう思いながらも、美鈴は近づいてくるリオネルに気圧されて言われるままに目を閉じてしまう。
その瞬間
唇に弾力のある熱いものが触れた。
「……大丈夫、とれたぞ」
ぺろりと自分の唇を舐めてみせながら、いたずらっ子そのものの笑顔でリオネルが笑った。
まさか、これほどの腕前の持ち主だったとは……。
端正に彫り上げられた中央部のバラも、蓋部分に入れられた透かし彫りも、熟練の職人の手によるものかと思うほど美しい仕上がりだった。
「フィリップ様が……ご自分で?」
美鈴の問いにピクンと肩を震わせると、フィリップはもう一度こっくりと頷いた。
「凄い……! フィリップ様には才能があるのですね。こんな見事な細工ができるなんて」
「いいえ! 尊敬する人に比べたら私など、まだまだです。それに……」
もじもじと身体を軽く左右に揺すりながら、フィリップは小さな声で呟いた。
「貴女に……こんなことをお話ししてよいのか……でも、本当のところ」
意を決したような表情でフィリップは美鈴を見つめた。
「早く……身を固めることを父は望んでいます。でも、本当は……リタリアに行きたいのです」
「リタリア……!」
絵画をはじめとした芸術家、著名な工芸家を多く抱える隣国のリタリア。
フランツ王国からも貴族の青年達が教育の最終過程として訪れることがあるというが――。
「リタリアに行って……私の作品を見てもらい……教えを乞いたい方がいるので、でも」
夢見るような瞳を上げて、フィリップは天を仰いだ。
「きっと……無理なんです。僕は一応長男だし。才能だって、大したものではないかもしれないし……」
淋しそうなフィリップの横顔を見つめていると、美鈴は胸の中にふつふつと何かがこみあげて来るのを感じた。
「フィリップ様……自分の気持ちに素直になってくださいませ」
驚いたようにフィリップが顔を上げて美鈴を見た。
「……せっかく、素晴らしい才能を持っていらっしゃるのに。諦めるなんて……!」
もったいなさすぎる……美鈴は心からそう思った。
こんなことを言って……いいのだろうか?
私は婚活をしているはずじゃ……フィリップの結婚する気が削がれてしまったら、どうするの?
頭の中にいるもう一人の冷静な自分がそう言っているのが聞こえる。
しかし、目の前のフィリップの誠実な人柄やひたむきな思いを知ってしまった今、自分の利益のために彼の心を婚活に向けようなどとは考えらえなくなっていた。
「ご両親には、『独身の内に見聞を深めるため』とおっしゃればいいことです。こんなチャンスは滅多にないと思いますわ」
婚活中の、令嬢――そして、目の前の相手はお見合いの相手……しかも伯爵家の御曹司。
自分の立場を忘れてしまったかのように、気づけば美鈴はリタリア行きを可能にする具体的な方法まで熱弁してしまっている。
「まずは教えを乞いたいというその方にお手紙を書いて……伯爵家の家名をもってすれば、それも叶うでしょう。もしリタリアでも有数の彫金師に認めていただけるようなら、きっとご両親も許してくださるのでは?」
美鈴の熱のこもった言葉に、驚いた様子でぼうぜんと彼女を眺めていたフィリップがふと我に返った。
「貴女の言う通りだ……!」
フィリップは真剣な顔で何度も頷いた。
「何もしないまま、終わるのは僕も嫌だ……。リタリアに、行ってみることにするよ」
さきほどとは打って変わり、自信と希望に満ちた顔つきでフィリップは颯爽と立ち上がった。
……ああ、むざむざ、伯爵家の御曹司との結婚のチャンスを……。
そう悔やむ気持ちがないわけでない、しかし、美鈴はなぜだか晴れ晴れとした気分だった。
「ミレイ殿……ありがとう! 君が、僕に勇気をくれたんだ」
そう言ってフィリップは美鈴の両手をキュッと握った。
「いいえ、わたしは何も……。フィリップ様のご活躍をお祈りしておりますわ」
にっこりと笑って美鈴はフィリップに答えた。
「君こそ、元気で……。リタリアから、手紙を書くよ」
そう言い残すと、何度もこちらを振り返りながらフィリップは伯爵家の召使いと共に、元来た小路を帰ってゆく。
フィリップの姿が完全に見えなくなったところで、美鈴は椅子に腰を下ろすと、ほうっと息を吐いた。
……やっぱり、向いていないのかしら。
駆け引きなんて、自分にはとてもできそうにない……。
夏空は蒼く澄み渡り、多少の暑さはあるものの、空気は乾燥して過ごしやすい……。
それにしても疲れたわ。……いっそここで眠ってしまいたい。
もちろんそんなことは叶わないと知りながら、眠気を感じてあくびをしながら、美鈴は椅子に上半身を横たえた。
そっと目を閉じると、小鳥のさえずりと遠くからかすかに聞こえてくる賑やかなメインストリートのざわめきだけが聞こえてくる。
そうして数分の間じっと微動だにせず横たわっていると、普段より研ぎ澄まされた耳がかすかな足音と衣擦れの音を捉えた。
……執事が呼びに来たのかしら?
うっすらと目を開けた美鈴の瞳に映ったのは、黒髪の長身――趣味の好い夏物のグレイの上衣、白のズボン、男らしい端正な顔立ち……。
「……! リオネル」
飛び起きるように身体を起こして居ずまいを正す。
「やぁ、奇遇だな」
にっこりと笑いかけながら軽く帽子を脱いで、リオネルは美鈴に会釈した。
なぜ、彼がここに……。
そう思ってからすぐに美鈴はそれが愚問だと思い直した。
ジャネットに子爵夫人、彼の情報源はいくらでも思い当たる。
ましてや、今日の装い――ドレスの準備という点で彼はこのお見合いに多大な貢献をしてくれた人物だ。
美鈴がいつどこでフィリップと会う手はずになっているか……知らない方がおかしいではないか。
「奇遇ね。お散歩かしら?」
「まあ、そんなところだ。隣、座っても?」
「ええ、どうぞ」
お見合いに失敗した今、気が抜けてリオネルに突っ張る気さえ失くしてしまったようだった。
「……お見合いは失敗よ。フィリップ様はリタリアに行くことになったわ」
「へえ……こんなにも魅力的な君を残して? 信じられないな」
わざとらしく眉を上げて、リオネルは意外だという表情を浮かべて見せる。
「……で、君の『気持ち』は?」
こころもち美鈴の方へ身を乗り出してリオネルは低い声で囁いた。
「よくわからないけど……。スッキリした気分よ。少し、残念な気もするけど……これで良かったんだって思える」
「世の中には、いろんな男がいるものだ。いろんな女がいるように」
神妙な顔でリオネルは頷くと、おもむろに立ち上がり美鈴に向かって片手を差し出した。
「もう少し、寄り道しないか。執事には、俺が話をつけるから……」
帰りの道すがら、リオネルは馬車をカフェの近くに停めさせ、召使いに二言三言言い聞かせた。
カフェへ使い走りに遣った召使いが持ち帰ったのは、冷たいアイスクリーム。
「さ、召し上がれ」
リオネルに勧められてそっと口をつけると、ひんやりとした感触とともに濃厚なヴァニラとほんのわずかなリキュールの香りが口の中に広がる。
「美味しい……!」
ちょうど喉が渇いていたこともあり、冷たいアイスクリームの上品な甘さはたちまちのうちに美鈴を虜にした。
「気に入ってもらえてよかった」
まるで子供のように無邪気にアイスに集中している彼女を、リオネルは目を細めて見つめている。
「……ミレイ、俺は少しの間旅に出る」
「……え?」
アイスクリームを食べ終え、馬車が再びルクリュ家へ向かって走り出した時、リオネルは美鈴に打ち明けた。
「ヴァカンスと商用旅行を兼ねて、数か国を巡ってくる。ひと月ほどは留守にするつもりだ」
「そう……、それは……」
この世界にやって来てから今までというもの、3日とリオネルと顔を合わせないことはなかった。
特にこのところは舞踏会やお見合いの衣装合わせでずっと彼の世話になりっぱなしだったことに、美鈴は改めて思い至った。
「リオネル……、あの」
こちらを見つめるヘーゼルグリーンの瞳がそっと優し気に細められる。
「色々と……ありがとう。舞踏会のことも、このドレスも……」
――素直に、心から感謝を伝えたいだけなのに。
たどたどしく言葉を紡ぎながら、美鈴は自分が歯がゆくて仕方なかった。
「…貴方がいなかったら、どうなっていたか分からないわ。感謝しています、本当に……」
リオネルの顔を見上げた美鈴の頬に、軽くリオネルの温かく大きな手が触れた。
「まるで、永の別れみたいだな。……俺はすぐに帰ってくる。君に会いに」
そこまで言ってリオネルは、おや、という風に少々驚いたような表情を浮かべた。
「クリームが、ついてるぞ」
「えっ、どこに??」
うっかりして、服にこぼしてしまったかと思った美鈴は、慌てて胸元を確認した。
「ちょっと待ってくれ、ちゃんと取ってやるから……」
懐からハンカチを取り出したリオネルが美鈴の傍ににじり寄る。
「動かないで……目を瞑って」
……なんで、目を??
そう思いながらも、美鈴は近づいてくるリオネルに気圧されて言われるままに目を閉じてしまう。
その瞬間
唇に弾力のある熱いものが触れた。
「……大丈夫、とれたぞ」
ぺろりと自分の唇を舐めてみせながら、いたずらっ子そのものの笑顔でリオネルが笑った。
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