上 下
6 / 85

03 一生を、仕事に捧げてはダメですか?

しおりを挟む
 数か月前、まだ美鈴が東京の大手町にある外資系企業で働いていたときのことだ。

 定時を過ぎて人もまばらになったオフィスに、張りのある男性の声が響き渡った。

「ほんっっっとーに、ごめんっ!有坂さん」

 美鈴のデスクを囲むパーテーションに半ば頭をこすりつけるように、スーツ姿の同僚が深く頭を下げいる。

 その男性 ―― 美鈴と同期入社の柴田幸太は、175cm以上はありそうな長身をキッチリと折り曲げて精一杯の謝罪の意を表そうとしているらしかった。

 一方の美鈴 ―― 柴田から謝罪を受けている彼女は、チラリと柴田を一瞥いちべつしただけで、ひと言も発することなく視線をパソコンのモニターに戻した。

 その間も彼女の白い指は一瞬も止まることなく、恐ろしいスピードでキーボードを叩き続けている。

 ビジネス上必要最小限のメイク、ロングの黒髪をうなじの後ろでキッチリと一つに結んで、襟のピンと立った白いシャツ、濃いグレーのスーツに身を包んだ彼女は、まさに「絵にかいたようなキャリアウーマン」といういで立ちだった。

 PCメガネ越しに見える彼女の瞳は冷ややかで、多分に芝居がかった柴田の大げさな謝罪に心を動かされた様子はみじんもないようだ。

 柴田は柴田で、パーテーションに張り付いたまま動こうとしなかった。美鈴の、何らかのリアクションを待っているのは明らかだ。

 その姿には、飼い主の命令を待ち続ける忠犬を思い起こさせるような必死さがあった。

 カタカタカタカタ……

 美鈴の立てるキーボードの音だけが、静かなオフィスに響いている。

 きまずい空気が、時間にして5分ほど流れた後、軽くため息を吐いて、美鈴はキーボードの上の手を止めた。

「……レポートの期限やぶりは、これを最後にして頂きたいです。……後工程がつまっているので」

 月次のセールスレポート提出期限破りの常習犯、柴田は恐る恐るパーテーションのへりに押さえつけていた頭を上げて美鈴の顔色をうかがった。

 しかし、美鈴は柴田の顔を見るでもなく、さきほどからの無表情を崩すことなくパソコンのモニターをじっと見つめている。

 毎月、3日は期限を遅れて提出される柴田のレポートは、全営業社員からレポートを受け取り、それを集計して本社へ報告する業務を担う美鈴にとって頭痛のタネだった。

 レポートは英語で提出が義務付けられているのだが、柴田の報告には単純なスペルミスから文法の間違い、果ては100万単位の数字が間違っているということもザラではなかった。

 毎月毎月柴田の提出してくるレポートの内容をチェックし、間違いを一つ一つ修正し、売上データベースと突き合わせ、本人に指摘して確認を取り、最終報告書をアップデートする作業に美鈴は心底うんざりしていた。

 もちろん、他の営業担当だってミスをすることはある、でも、彼らはメールを打ちさえすれば遅くともその日のうちに訂正版を提出してくる。

 営業部門で、毎回毎回、一度の例外もなく、提出期限を遅れてくるのは彼くらいなものだった。

 それでいて、柴田の営業成績もレポートと同じく悲惨なものかというと、その逆なのだった。

 レポートのクオリティは最低中の最低でも、その数字は目をみはるものがあった。

 新規契約の獲得数、売上総額をみれば、若手の中でも、柴田がとびぬけて優秀な営業マンであることは間違いなかった。

 自分の方を見もしない、美鈴の冷ややかな対応に臆することなく、柴田は人好きのする笑顔でニコッと笑った。

 営業マンらしく、きっちりと額を出してはいるが、もともと少しクセがあるのだろうか、軽くウェーブのかかった、柔らかそうな髪。

 クリッとした目といつもやんわりと笑っているような口元の、いわゆる甘いマスクの彼は年齢問わず社内の女性陣に人気がある。

「いつも、有坂さんには助けてもらっちゃって……。ほんとに感謝してるんだよ」

 美鈴にしてみれば、柴田を「助けている」意識は毛頭ない。むしろ「迷惑をかけられている」というほうがよほどしっくりくる。

「……仕事ですから」

 仕方なく、あなたのしりぬぐいをしているんじゃないの、という嫌味をぐっと美鈴は飲み込んだ。

「それで、ほんのお礼にと思って……有坂さん、好きだといいんだけど」

 パソコンのモニターと美鈴の顔の間に、柴田の長い腕がにゅっと差し出された。幾何学模様の美しい装飾が施された、いかにも高級そうな紙箱に入ったチョコレートが、美鈴のデスクにそっと置かれる。

「フランスの新進ショコラティエの新作、日本に進出したばかりで、今、すごい人気なんだよ」

 新しい流行や話題のスイーツが、グラスに注いだばかりの炭酸水の泡のように無数に生まれては消える東京で、美鈴はそういったものに一切関心を持たずに生きている。
 
 彼女の一番の関心事は、いかに速く正確に仕事を処理するか、そのために必要な能力は何なのか。

 常にそんなことを考えていたし、彼女の休日はもっぱらスキルアップのための読書やセミナーに充てられていた。

 実際、入社して6年経った今、美鈴の活躍は上司はもちろん日本支部を統括する責任者、本社の役員レベルにまで認知されるほどになっていた。

 美鈴の望みは、周囲の期待に応え続けること、誰よりも自社に貢献できる存在でい続けることだった。

「あのさ、有坂さん」

 目の前に置かれたチョコレートの小箱を無表情に眺めている美鈴に、しびれを切らしたように柴田が呼びかけた。

「……有坂さんって、今週の金曜、何か予定ある?」

 特に親しくもない柴田がなぜ、そんなことを聞いてくるのか、理解できずに美鈴は困惑した視線を柴田に向けた。

「いや、イキナリで、ごめん……」

 指の長い、大きな手でわしゃわしゃと柔らかな髪をかき混ぜながら、柴田は言った。

「いつも、オレ、有坂さんにはお世話になってるから…。お礼に食事でもどうかなぁって……」

 仔犬が飼い主の反応をうかがっているようなあどけなく真剣な表情……濡れた仔犬の目を縁どる濃い睫毛を瞬かせて、柴田はじっと美鈴を見つめている。

 しかし、柴田のそんな表情に美鈴が心を動かされた様子はみじんもなかった。

「すみませんが、金曜は社外講習会に参加する予定なので……」

 さらりと事務的な調子でそう告げると、美鈴は再びパソコンのモニターに向き直ってキーボードを叩き始める。

 しっぽを垂らしてかなしげに去っていく仔犬のような柴田の後姿は、哀愁に満ちていたが、美鈴はそんな彼を気にもとめていない。

 自他共に認める仕事一筋のキャリアウーマン、彼女の辞書に「恋愛」という文字は、ない。

 それが美鈴という女だった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

女嫌いな騎士団長が味わう、苦くて甘い恋の上書き

待鳥園子
恋愛
「では、言い出したお前が犠牲になれ」 「嫌ですぅ!」 惚れ薬の効果上書きで、女嫌いな騎士団長が一時的に好きになる対象になる事になったローラ。 薬の効果が切れるまで一ヶ月だし、すぐだろうと思っていたけれど、久しぶりに会ったルドルフ団長の様子がどうやらおかしいようで!? ※来栖もよりーぬ先生に「30ぐらいの女性苦手なヒーロー」と誕生日プレゼントリクエストされたので書きました。

忘れられた妻

毛蟹葵葉
恋愛
結婚初夜、チネロは夫になったセインに抱かれることはなかった。 セインは彼女に積もり積もった怒りをぶつけた。 「浅ましいお前の母のわがままで、私は愛する者を伴侶にできなかった。それを止めなかったお前は罪人だ。顔を見るだけで吐き気がする」 セインは婚約者だった時とは別人のような冷たい目で、チネロを睨みつけて吐き捨てた。 「3年間、白い結婚が認められたらお前を自由にしてやる。私の妻になったのだから飢えない程度には生活の面倒は見てやるが、それ以上は求めるな」 セインはそれだけ言い残してチネロの前からいなくなった。 そして、チネロは、誰もいない別邸へと連れて行かれた。 三人称の練習で書いています。違和感があるかもしれません

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。

五月ふう
恋愛
 リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。 「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」  今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。 「そう……。」  マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。    明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。  リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。 「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」  ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。 「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」 「ちっ……」  ポールは顔をしかめて舌打ちをした。   「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」  ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。 だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。 二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。 「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

あの子を好きな旦那様

はるきりょう
恋愛
「クレアが好きなんだ」  目の前の男がそう言うのをただ、黙って聞いていた。目の奥に、熱い何かがあるようで、真剣な想いであることはすぐにわかった。きっと、嬉しかったはずだ。その名前が、自分の名前だったら。そう思いながらローラ・グレイは小さく頷く。 ※小説家になろうサイト様に掲載してあります。

私がいなくなった部屋を見て、あなた様はその心に何を思われるのでしょうね…?

新野乃花(大舟)
恋愛
貴族であるファーラ伯爵との婚約を結んでいたセイラ。しかし伯爵はセイラの事をほったらかしにして、幼馴染であるレリアの方にばかり愛情をかけていた。それは溺愛と呼んでもいいほどのもので、そんな行動の果てにファーラ伯爵は婚約破棄まで持ち出してしまう。しかしそれと時を同じくして、セイラはその姿を伯爵の前からこつぜんと消してしまう。弱気なセイラが自分に逆らう事など絶対に無いと思い上がっていた伯爵は、誰もいなくなってしまったセイラの部屋を見て…。 ※カクヨム、小説家になろうにも投稿しています!

「あなたのことはもう忘れることにします。 探さないでください」〜 お飾りの妻だなんてまっぴらごめんです!

友坂 悠
恋愛
あなたのことはもう忘れることにします。 探さないでください。 そう置き手紙を残して妻セリーヌは姿を消した。 政略結婚で結ばれた公爵令嬢セリーヌと、公爵であるパトリック。 しかし婚姻の初夜で語られたのは「私は君を愛することができない」という夫パトリックの言葉。 それでも、いつかは穏やかな夫婦になれるとそう信じてきたのに。 よりにもよって妹マリアンネとの浮気現場を目撃してしまったセリーヌは。 泣き崩れ寝て転生前の記憶を夢に見た拍子に自分が生前日本人であったという意識が蘇り。 もう何もかも捨てて家出をする決意をするのです。 全てを捨てて家を出て、まったり自由に生きようと頑張るセリーヌ。 そんな彼女が新しい恋を見つけて幸せになるまでの物語。

処理中です...