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ユタカの日記

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「はぁ……」
 
 私は一つ、溜め息をついた。
 今、心の中に何も浮かぶことはない……空っぽ。
 空白を生み続ける思考は、何も考えられないのか、考えようとしていないだけなのか、わからない。
 ただ、ただ、ひたすらに何もない……。
 私は無言のままで立ち尽くす。
 そんな私にリーディが近づいてきて、何かを差し出してきた。


「ミラ、ゆたかからこれを」
「それは?」
 リーディが差し出してきたのは、別れ間際にユタカが鞄から取り出していたノートと紙切れ。

「彼からの伝言」
 私の胸に押し付けるように、ノートと紙切れを手渡す。
 私はノートを脇に抱え、紙切れを手に取り、広げた。

「これは……?」
 紙には、絵が描かれてあった。
 描かれてあったものは、私とユタカ。
 それは以前描いたデフォルメされた絵なのではなく、私たちを写実的に描いたもの。
 絵の中の私たちは、手を繋いで楽しそうに森の中を歩いている。


「ふふ、ちゃんとした絵も描けるんだな。でも、この絵は?」
「昨晩の内に書いたんですって……ノートは彼の日記帳」
「日記帳?」

 ノートをパラパラと捲ると、日記はユタカの使っている文字で書かれていた。
「読めない……」
「だよね。最後のページに彼からの伝言が書いてある」
「でも、それも」
「ええ、だから私に読み上げて欲しいって頼まれたの。貸して」

 リーディはノートをパシリッと受け取ってページを捲り、伝言が書かれてるページで指を止める。
 そこで一度、スーと大きく息を吸い込み、何かを覚悟した様子でユタカの伝言を読み始めた。

「何から書き出せばいいのか迷っています。そうだなぁ、ちゃんとした自己紹介から? 僕の名前は田原豊たはらゆたかといいます。いや、違うな。前置き無しで本題を、伝えたいことを書きます」



――ユタカの日記――伝言
 

 ミラ。
 あなたが何かを隠して苦しんでいることには、薄らと気づいていました。
 ずっと、あなたが背負っているものが何なのかわからなかったけれど、リーディさんの説明でこの世界の事情を知り、理解はしたつもりです。
 でも、そのことは問題ではないのです。

 事情を知る前に、僕は勇気を持つべきだった。
 僕はあなたという存在を恐れていました。
 同時に、あなたから突き放されることにも……。

 前触れもなく見知らぬ場所に放り出されて、気がつけば一人で森深くに住む、謎の少女との出会い。
 言葉も通じず、自分の伝えたいことも満足に伝わらないもどかしさ。
 恐怖と不安で押しつぶされそうな毎日。

 何か秘密を抱えた様子を見せるあなたに不審を抱き、僕は親しく接しながらも、あなたから距離を置いていた。
 だけど、時が経つにつれて、ミラが悪い人ではないことはわかっていった。

 信頼できる人だと。


 だから、あなたが抱える苦しみの秘密に触れたかった。少しでも、苦しみを支えられるように……でも、触れる勇気がなかった。

 踏み込めば、あなたに嫌われてしまうかもしれない。
 そうなれば、何もわからない場所に放り出されるのではないかという恐怖があった。
 あなたに恩を感じながら、利己的な理由で踏み込めずにいた。

 ミラの優しさと誠実さを知りながら、あなたの想いに近づくことを恐れた。
 そして僕は、時間の流れに逃げ込んだ。
 今はまだ、近づくことができない。しかし、それも時の経過とともに薄らいでいくはず。

 そう思い、僕は時間という不安定な癒しに頼ってしまった。
 たとえ、どんなに時を刻もうとも、僕自身が行動しなければ何も変わらないのに……。
 僕は情けなくも、後悔しています。

 もっと勇気があれば、と。

 心に勇気を宿していれば、毎日のように、あなたと一緒に森を散策して笑顔でいられたはずなのに……。

 ミラと一緒に過ごしてきた時間は楽しかった。今まで生きてきた、どんな時間よりも大切な時間だった。
 そうだというのに、ミラの優しさに甘えるだけで、何も返してあげられなかった。
 それが僕にとって、心残りです。


 最後に。
 大変な事情がありながらも、助けてくれてありがとう。
 ミラの温かさに、心より感謝しています。


――――

「と、こんな感じですが……ミラ、大丈夫? 私の声、聞こえてる?」
「……ああ」

 私は生返事をして、静かにユタカの絵を見た。
 絵の中の私たちは手を繋いで、楽しそうに森を散策している。
 この子たちが繋いでいる手は、私たちが手に入れることができなった、信頼の象徴のよう。
 この子たちは本当に幸せそうで、楽しそうで……とても、とてもうらやましいほどに……。


「リーディ……これを……」
 私は絵をゆっくりと丸めて、リーディに手渡した。絵を持つ手は小刻みに震えていたが、彼女は何も言わずに絵を受け取った。

 唇の先も小刻みに震え、言葉を出すのに何度も呼吸を繰り返す。
 それでも、壊れかけている感情の蓋を、なけなしの意地で抑え込んで、言葉を刻む。


「悪いが、これを持って、先に……しばらく……一人に、してくれ……」
 リーディーは静かに頷き、自分の真横に魔法で空間の穴を作り出す。
 揺らぐ穴の向こうには、私の家の玄関前広場が見えた。
 彼女は穴の中へと身を投じて、音も無く立ち去った。
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