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手放さない努力

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 リーディは席を立ち、台所の出口へと向かっていく。
 しかし、彼女は扉から出ていく手前で足を止め、こちらへ振り返った。


「なんだ、リーディ。まだ何か、ん?」
 私を見つめるリーディの視線は、先程までふざけた冗談を言っていた同一人物とは思えない鋭いものを見せている。

「ミラ、あんたが意地っ張りなのは知っている。でも、素直にならなきゃいけないときは、ちゃんと素直になりなよ」
「また、その話か。それはもう、」

「私はあなたじゃないから、本当の気持ちはわからない。でも、感じることはできる。私もさ、何度も何度も素直になれなくて、苦しい思いしたから」
「リーディ?」


 彼女は涙をうっすらと浮かべ、口元にはやるせない笑みを見せる。
 このような切なく儚げ雰囲気を身に纏うリーディを、私は知らない。
「魔女って辛いよ。色んな人から疎まれ憎まれ怖がられて……。そんな中で誰かに優しくしてもらったら、手放したくないもの。絶対に手放せないもんっ」
「あ……その。旅は……辛いのか?」


 そう問うと、リーディはパチンと軽く頬を叩いて、そのまま頬を数度むにむにと動かす。そして、無理やり口元を緩め、ぎこちない笑顔を交えながら答えを返してきた。

「まぁね。最近魔女狩り専用の騎士隊とかできてさ、大変なのよ。結構強いのもいて、手強くて。さらに、いろんな人たちからは、やることなすこと非難ばかり受けるし」
「そうなのか……」
「そっ。いろいろ手助けしてあげても、返ってくるのは罵詈雑言の石飛礫。やんなっちゃう」
「そんなに、ひどいのか……」
「うん……正直、長い旅の間で、九割九分九厘ろくなことにあってない。でも……ふふ」
 
 言葉の途中で、リーディは軽く笑い声を上げた。
 ぎこちなかった笑顔は消え去り、代わりに優しげな微笑みを見せて、言葉を続けた。

一欠ひとかけら、一欠ひとかけらの喜びが全部を吹き飛ばしてくれる。ちっぽけな欠片だけど、私のとって、何ものにも代えがたい大切なもの……例えるなら、ミラにとってユタカのような存在かな」
「リーディ、お前何を?」


 リーディの言葉に、心が疼く。
 彼女の表情からは微笑みが消え、代わりにどこまでも真っ直ぐな瞳を向けてくる。

「私は大切なものを手放したくない。だから、手放さないために最大限の努力をする。それでも、手放さなくてはならないとするなら、納得のいく形で手放す」

 視線が刃となり、心を貫いていく。
 私は不躾に心を穿うがえぐってくる痛みに、悔しさと腹立たしさを覚えた。

「私だってっ……でもユタカに、ユタカに言えるわけないだろっ。私が引き止めれば、優しい彼のことだ。苦しみ悩むことが目に見えている。だから、私は……」


 言葉を最後まで続けられずに言い淀む。
 なぜなら、すでにリーディは私の逃げ道を容赦なく奪っている。
 私は……納得のいく形で、ユタカと別れようとしていない。


(でも、自分を曝け出すのが怖い……)
 力いっぱい手を握り締める。爪が皮膚に食い込み、痛みが生じる。
 心に蓋をするには頼りない痛み……。
 それでも私は、小さなトゲ程度の痛みに縋り、大きく弾き出したい思いに辛うじて枷をする。


「もういい。もう、いいんだ……」
「本当にいいの? 自分の気持ちの全てを偽るのは間違ってるよ、ミラ」
「そんなこと、私が一番わかっている。でも、私は、こんな生き方しか知らない……」
「っそ、ならもう話はおしまい。そうね、お節介ついでに最後に一つ」

「なんだ?」
「時間は明日の朝までだから」
「……わかっている」
「じゃあ、おやすみ」
「リーディ」
「なに?」

「お前は変わったな」
「なによ、いきなり」
「いや、昔のお前からじゃ、想像もつかないことを言うから」
「そりゃそうでしょ。私は前に進んでいるもの。じゃ、お休み」


 リーディは扉を開けて、台所から出ていった。
 一人残された私の心の中に、彼女が最後に言い放った言葉がジワリと沁み込んでいく。
 前に進んでいる……飾り気のない言葉。


 しかし、先を行く者の言葉は、私の全てを恐ろしげな感情で包んでいく。
 焦燥、羨望、後悔、苦痛……。
 動かなければ、何も得るものはない。
 代わりに立ち止まっていれば、何も失わないでいられると思っていた。

 だけど、違った。違うのだっ。
 私は、立ち止まっている間に、一体どれほどのものを失ったのか!
 不安がせり上がり、心を握りつぶそうと。


(う、うう……くっ、うわ)
 いつものように不安を誤魔化すため、スッと息を瞬間的に吸い込み、声を吐き出そうとした――だがっ。

「ミラ、ちょっといい? 私の寝る場所なんだけど」
「うっ、うぐっぐほっごほごほごほっ」
 急にリーディが扉から顔を突き出して声をかけてきたため、私は慌てて声を収めようとして咳込んでしまった。


「ん、どうしたの? 風邪?」
「ごほごほっ、違うっ。なんでもない! で、何の用だ?」
「あのね、客間に行ったら荷物で埋まってて寝られないんだよ。なんで、普段から片付けてないかな~」
「そういえば、自分の部屋は片付けたけど、客間は手付かずだったな」

「んでさ、私、あんたの部屋で寝るからね。そんじゃ、そういうことで」
「はっ? じゃあ、私はどこで寝ればいいんだっ?」
「さぁ、台所で寝るかユタカと一緒に寝れば~、ハッハッハ」
「こら、待て!」


 私の止める声など完全に無視して、彼女は感情の籠らぬ棒のような笑い声と肩を組みながら去っていった。
「全く、あいつは。雰囲気というか間の悪さというか、そこは全然変わってない……でも、おかげで気は紛れたかも」

 私はテーブルの上に残る空となった二つのカップを流し台に持っていき、水につけた。そして、台所を出て、地下書庫へと足を向ける。
 今は気が紛れたとはいえ、目を瞑れば不安や別れの辛さに苛まれるのはわかっている。だから、朝が来るまで地下書庫で本に没頭することにした。
 没頭できるとは思えないけど……。
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