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第十七章 頂へ続く階段の一歩

世界を広げる少女

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 戸惑うエクアに画材道具を押しつけるサレート。
 彼の瞳に宿るは、狂気そのもの。
 新たな芸術を目にすることに興奮し、それだけしか見ていない。


 一つのことを極めようとする者にはこういった面があることを知っているが、さすがに行きすぎのような気もする。しかし、フィコンもエムトも驚いた様子を見せていない。
 彼は芸術が絡むと日頃からこのような姿になるのだろうか?
 それを差し引いてもやはり、瞳に秘められた理想に纏わりつく闇の姿は不安を誘う。


 その闇は容赦なくエクアに襲い掛かる。
 だがエクアは、詰め寄るサレートに対してとても冷静な対応を取り、何度も絵に絵を重ねることを断ろうとしていた。
 常人であれば、あっという間に心を飲まれそうな闇に対処できるとは……いつの間にやら、私が驚くほどの成長を遂げていたようだ。
 
 
 しかし、サレートは諦めずに、彼女の心を狂気と闇で飲み込もうと捲し立てる。
 その想いに終わりはない……仕方なくエクアは小さな呼吸を挟み、狂気が跋扈する場でありながらも闇に飲まれることなく、極めて冷静に瞳を絵に寄せて、こくんと頷いた。
 その頷きに狂喜乱舞するサレートをエクアは背に預かるが、彼女の瞳には目の前のカンバスしか映っていない。
 彼女は青い絵の具をパレットに取り出し、そして筆を……っ!?


 エクアは筆を取らず、大量に青い絵の具をパレットに塗りつけて水を入れた。
 そして、わずかにぬめり気を帯びた青色に四本の指先を差し入れ、弧を描くように一気に上へ振った!

 青は広がりを見せて、暗雲の隙間を青で埋める。
 私は暗雲を見上げる。

 暗く閉ざされれた空の下に輝く希望。それに群がる亡者のような人々。
 しかし、暗雲の先に青空が垣間見えることにより、閉ざされた希望の上に更なる続く場所を産み出した。
 これにより、押しつぶされそうな世界が、先に広がる世界へと生まれ変わる。

 エクアはドレスで手をぬぐい、少し顔を赤らめた。
 今のは癖だろうか?
 普段の彼女はエプロンを着用している。
 手についた絵の具をそのエプロンで拭う癖があるようで、つい出てしまったようだ。
 
 幸い、今は青のドレスなので、そこまで目立つことはない。


 エクアは一息漏らし、私たちに向き直る。
 そして、サレート=ケイキに軽く会釈を行う。

「大きな絵で背が足りませんでしたので、不作法を謝ります」
 そう、唱えるが、サレートは青の軌跡を目に映すばかりで声を纏わない。
 代わりにフィコンが場を声で包む。


「狭き世界を広げたか。見事だ」
「ですが、地に広がる人々は救えませんでした」

 空から一番遠い場所には人々が押しつぶされ折り重なっている。
 見せかけだけのちっぽけな希望は大空たいくうに繋がる可能性へと変化したが、闇の広がる世界を変えられたわけではない。
 だが、それでもっ――


「悲しきことだが、いかなることにも犠牲はつきものだ。しかし、その犠牲を無駄とせず、多くを頂へ導くことのできる世界は、必ずや多くを救える世界へと繋がる。未熟者にしては上出来だろう」
「は、はい、ありがとうございます」
「クスッ、違うぞ。エクアのことではない」
「え?」
「我々のことだ。人は未熟だが、頂へと繋がる可能性を失ってはおらん」
 フィコンはサレートの絵の下部に描かれた、もだえる人々に視線をぶつけた。
 彼女のその態度に、なぜかサレートは笑みに皺を混ぜ込む。


 彼女は絵画から視線を外し、なおも言葉を続ける。
「そのためには古い慣習を脱ぎ捨てねばならぬのだが……」

 フィコンは私たちが歩いてきた廊下の奥をちらりと見て、私に視線を振った。
 一連の態度は一体……?


「ふむ、つまらぬ話か。さて、サレートよ。不満に笑顔の仮面を被せるなどという不気味な真似をするな」
「そ、そんなつもりは……」
「して、エクアの仕上げをなんとする?」
「はぁ、お構いなしだね……彼女は僕が生み出した世界を大きく広げた。彼女ならば、僕の理想を世界に余すことなく届けられるかもしれない」
「ふん、下らん理想をか?」
「っ!?」


 サレートは一瞬、切っ先鋭い殺意の視線をフィコンへ向けるが、すぐにそれを消し去り、柔らかな笑顔を零す。


「あははは、フィコン様は厳しいお方だなぁ」
「フンッ」

 
 彼の笑顔を鼻息で吹き消して、フィコンは私に顔を向ける。
「ケントよ。二人で話をしたい。良いか?」
「ええ、構いませんが。エクアは?」
「それなら僕がお相手するよ。芸術性が真逆の彼女とじっくりと話をしてみたいからね」
「私は構わないが……エクア、どうする?」
「是非ともお願いします!」
「ふふ、そうか」


 憧れの画家、サレート=ケイキとの出会い。また、罪を許され、才を褒められ、エクアは熱に浮かされているようだ。
 だが少々、サレートの態度が気になる。
 一瞬とはいえ、フィコンに見せた殺意の気配が……。
 
 フィコンとサレート――主従の気配はなく、互いに嫌悪を抱いているような態度。
 あくまでも贋作探しのアドバイザーと、芸術・建築の依頼をした関係というだけで、個人的には馬が合わないように見える。

 二人の関係はもちろん、それ以上にサレートの心の闇について懸念を抱いていると、エムトが私の心の内を察したようで声を上げた。

「フィコン様とケント殿が会談されるというならば、私はこの場に残り、二人の護衛をするとしよう」
 この言葉にサレートは眉を折ったが、『そうですね』と快活な声を返した。


 私とフィコンは奥へ続く廊下へ向かい、真四角の広間にはエクアとサレートとエムトが残ることになった。

 その別れ際に、フィコンはエムトに何かを語り掛け、私を奥へと案内していった。



――フィコン・エムト

 フィコンはエムトの思いを安んじる。
「無用な心配だ。サレート如きにエクアという少女の心は奪えぬ」
「ですが、まだ幼い少女でございます。あの者の毒に耐えられますか?」
「エムト、お前の優しさは時に目を暗くする。それはこのフィコンに対してもだが……」
「なんと?」
「ふふ、なんでもない。エムトよ、エクアという少女を過小評価するではないぞ。エクアはこの場にいる誰よりも、心を強くある者だ。ケントやエムト。そして、フィコンよりもな」
「まさか、フィコン様と比類す――」

 フィコンは微笑む。それはエムトにしか見せない、優し気な微笑み。
 暖かな熱を放つ微笑みはエムトの心を優しく包み、彼は言葉を納めた。
 そして、フィコンを守護する敬虔なる臣下として、一言だけ漏らす。

「御意」
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