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第一章 全てを失った魔王

第1話 たるんだ魔王

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 魔王アルラ=アル=スハイルは歴史上最強とうたわれた勇者ティンダルひきいる四人の勇者を相手に、単独で立ち向かい、勝利した。

 勇者を失った人間の軍は瓦解するとみられたが、魔王アルラは何を血迷ったのか、人間たちへ休戦を申し出る。
 余力を残す魔族の軍は不平を抱えながらも魔王に従い、一時休戦。

 以降、魔族と人間の間に大規模な戦闘はなく、小競り合いが続く日々。
 かつてのような大勢の死はなく、ここに仮初めの平和が訪れた。

 それから百年、勇者は不在で魔王の好敵手ライバルは消えた。


――とある森の中

 暖かな春の日差しが木の葉の隙間を通して降り注ぎ、光と影が交差するモザイク柄の道を浮かび上がらせる。
 その道を歩む、農夫の姿をした男。
 深緑しんりょくの長髪に、俵のような尻と胴を持つふとましい男が女性へ話しかけている。

「はぁ~、君は美しい。ベルベットのように緻密な体毛。誰からも愛されるチャーミングな白と黒の模様。黒くて大きなつぶらな瞳に、ピンと跳ねた長い睫毛まつげ。君は本当に美しい女性だ」

 歯が迷子になるほど浮いた賛美を唱えて、男は愛牛である貫太郎かんたろう(メス)の腹に頬を擦りつけた。
「あ~、温かい。頬を通して君の温もりを感じるよ。春とはいえ、森の中は肌寒いが、君が傍にいてくれるだけで体も心も温まる…………が、このままふらふらと彷徨さまようわけにはいかない」


 男は黒目に浮かぶ黄金の瞳を森奥へと向けて、先に続く濃密な樹冠に閉ざされた黒の森を見つめる。
「もはや、私に居場所などない。民に見限られた魔王……フ、フフ、フフフ。だが、それでいいい! 自由を得た! もう、他人のことなど考えなくていい!」
「ぶも~?」
「おっと、君のことはしっかり考えているぞ、貫太郎。君のためにもなく旅をするわけにもいかないな。ならば、あそこに向かうか。魔族も人間族も、あらゆる種族が訪れることのできない呪われた地――まほろば峡谷へ。あの時から百年放置しているので、そろそろ見ておきたいというのもあるしな」

「ぶもぶも」
「ああ、わかっている。その前に水や食料などの旅支度が必要だ。なにせ、何も持たず魔都から脱出してしまった。魔都の陥落……まさか、このようなことになろうとは――」
 
 男は魔王としてあった自分の情景を瞳に浮かべる……。


――半月ほど前、魔族側の首都『魔都ティーヴォ』の城中庭

「おお~、さやえんどうがこんなに育って。春キャベツもいい感じだな。そろそろ収穫時かな? やはりお師匠のアドバイスは素晴らしい。肥料の配合が完璧だ」
 私は丹精込めて作り上げた野菜たちを優しく手に取り、我が子を撫でるようにそっと触れる。
 春の柔らかな日差しの下、今日も一日、野菜かれらの面倒を見ようと思っていたのだが……。


「陛下! 陛下! 魔王アルラ陛下!!」
「なんだ、うるさいぞ立花」

 畑前で屈んでいた腰をよっこいしょと上げて後ろを振り返る。
 そこに居たのは、頭から緑のローブをすっぽり被り、目だけを光らせている背の低い男。
 我が腹心・立花。

 こいつはいつもローブを被っているため、本当の姿を知る者はいない。私もまた二百年近い付き合いになるが、ローブの中身を見たことがない。

 立花は大仰に泣く真似をして、どうでもいいことを訴えてくる。
「嘆かわしや、陛下。政務軍務をおろそかにして、毎日毎日菜園の世話ばかり。それ以外の時間は横になり、食っちゃ寝の毎日。そのせいでブクブクブクブク太って、あの百年前の凛々しいお姿はどこへお隠れになったのか!?」


 立花は魔法で巨大な鏡を生む。
 その鏡に映るのは、深緑しんりょくの長髪の上に雄々おおしい山羊の角を持ち、黒目に黄金の瞳を浮かべる私。
 上下薄茶色の農作業着に身を包み、その上から緑のジャケットを身に着け、首に白色タオルを巻き、角が飛び出る穴の空いた麦藁帽子を被っている。


 私は鏡に近づき、自身の顔をまじまじと見る。
「ふむふむ、頬がぽっちゃりして愛嬌が良いな」
「どこがですか! 脂肪のせいで二重顎になって、腹もタプタプ。高身長と相まって、まるで二足歩行の牛ですよ!」

「そう、怒るな。太るのは仕方がない話だ。私の作物の育て方が上手いのか、はたまた師匠のアドバイスである肥料の配合の賜物か? 野菜が美味しくてついつい食べ過ぎてな。それにしても、野菜でも太るものだな」
「野菜だけじゃないでしょう! 肉にお菓子も毎日召し上がって、そして動かない!」
「いや、毎日、菜園の世話を――」
「運動量とカロリーが見合ってないんですよ! そもそも、自室と中庭を行ったり来たりしてるだけでしょう! まったく、ううう……」


 立花は大声を張り上げたかと思いきや、急に涙声を漏らし始める。
「ああ~、魔族だけではなく、人間さえも瞳を止めて心奪われる美。流れる星のように美しい黄金の瞳に、命の輝きを内包した深緑しんりょくの髪。微笑みから零れる歯の光は水面みなもに反射し、月まで届くとうたわれた眉目秀麗たるお方だったのに」

「立花~、歯の光が反射して月の届くってのはどうかなぁ? すっごい眩しいし、化け物じゃないか。あははは」
「比喩ですよ、比喩! 美のたとえ!!」
「たとえでも今のは……」
「ええ、どうせ私にセンスはありませんよ! そんなことよりも、城外からまた苦情が来てますよ!」
「苦情? なんだそれは?」

「風の強い日に、家畜の匂いが街まで流れてきて臭いという苦情です」
「ああ、それかぁ。対策はしてるつもりなんだけどなぁ」


 私は中庭の右隅まで歩き、そこにある鶏さんや牛さんのおうちの前で止まる。
 そして、白黒模様が愛らしい愛牛である貫太郎の頭を撫でた。

「この子たちも生きているんだ。多少の匂いは仕方がないだろう。なぁ、貫太郎」
「モ~」
「ほら、貫太郎もそう言っている」

「そう言っている、じゃありません! そもそも、生きるとか仕方がないとかの話じゃないでしょ! なんで街のど真ん中の、しかも城内で家畜を飼っているんですか、って話なんです!」
「他に場所がなかったから」
「ここもそういう場所じゃないんです! 世界一の薔薇園と呼ばれた中庭が今では野菜畑に……もう~、本当に……あなたは、何をやっているんですかぁ~……」


 その場で立花はがくりと膝を落として、か細く声を漏らす。
 相当、心が参っているようだ。
 だが、こいつは我が腹心。放っておくのも忍びない。

「わかった、立花。匂い対策は追加でしっかり考えておく。だから、元気を出せ」
「そうじゃなくて、根本的な話、城内で家畜を飼うのはおかしいでしょ?」
「そう言うな。貫太郎のミルクはとても美味しいだろ。お前だって、美味しいと言ってたじゃないか。貫太郎に罪はない!」
「たしかに、美味しいですし、貫太郎に罪はありません」
「そうだろ!」
「あなたに罪があるんですよ、陛下」
「ええ~……」

「ええ~、じゃありませんよ。大体この問答はすでに九十年以上――ん?」


 立花は中庭の出入り口に顔を向けた。
 私もそれに釣られて、出入り口へ顔を向かる。
 その出入り口から、一人の兵士が息を切らせながら駆け込んできた。

「急報でございます! 人間族に勇者が誕生しました! 奴らはすでに兵を纏め上げ、南方領域に侵入とのことです!」
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